【拾六ノ花】 解けぬ呪い
けたたましい携帯電話の音に、慶一は布団の中で丸まったまま目を覚ました。
電話から鳴り響く音は、セットしたアラームのそれではない。メールの着信音でもなく、誰かから電話がかかってきたことを伝えるためのそれだ。
「うぅ……。まったく、朝っぱらからなんなんだよ……」
耳障りな携帯電話の音を頼りに手を伸ばす。二つに折られたそれを開いて耳に当てると、次の瞬間、聞き覚えのある声が慶一の耳に飛び込んできた。
「ちょっと、慶一! あんた、今何時だと思ってんのよ!!」
声の主は、雨音だった。昨日の帰りに見せたしおらしい態度はどこへやら。開口一番、電話の向こう側から一方的に怒鳴られた。
「なんだよ、雨音か……。そう、怒鳴らなくったって、聞こえてるぜ」
「なにぼけたこと言ってんのよ! あんた、昨日の喫茶店で約束したこと、忘れたの!?」
「喫茶店って……あっ!!」
だんだんと目が覚めてくる内に、慶一の頭の中に昨日の記憶が徐々に蘇ってきた。
昨日、亮に言われて入った喫茶店で、慶一たちは一冊のノートを見せられた。その内容は、一連の事件の犯人が、堀井有紗という少女の怨念であることを仄めかすものだった。
相手が怨念であれば、こちら側には戦う術がない。そう判断した慶一たちは、とりあえず堀井有紗の怨念が宿っていそうなものを持ち寄って、それを神社でお祓いしてもらうことにした。
問題なのは、現在手元にない脚本の原本と黒衣の女が映り込んだ映像のディスク。これを、どう手に入れるかということだった。なにしろ、脚本もディスクも、その持ち主が既に殺されてしまっているのだ。恐らくは家に保管してあるのだろうが、まさか忍び込んで盗み出すわけにもいかない。
結局、その場で決まったのは、手分けして亡くなった先輩たちの家を訪れ、目的の物を譲ってもらおうということだった。無論、本当のことを言っても譲ってはもらえないだろうから、あくまで何か方便を使って手に入れることになる。
正仁の家は亮が、敢の家は雨音と慶一が行って、それぞれ目的の物を手に入れることで話がまとまった。一年生の瑞希と秀彰は、この仕事からは外れてもらっている。ただでさえ敢の死体を見て気が滅入っているところに、そんな仕事にまでつき合わせるのは酷だという判断からだった。
「ちょっと、慶一。あんた、ちゃんと聞いてるの? まさかと思うけど……まだ、寝ていたなんてことはないでしょうね?」
「げっ……そ、それは……」
「はぁ……。やっぱり思った通りね。言っておくけど、もう待ち合わせの時間を十分も過ぎているんだからね! さっさと顔洗って、仕度して来なさいよ!!」
待ち合わせの時間。その言葉に、慶一は自分の傍らに転がっていた目覚まし時計に目をやった。見ると、時計の短針は、十二時を少し過ぎたところを指している。自分でも気がつかなかったが、かなりの時間に渡って爆睡していたようだ。
「悪ぃ、雨音! 今から行くから、もうちょっとだけ待っててくれ!!」
それだけ言って、慶一は慌てて電話を切った。まずい。このまま待たせていては、雨音の機嫌が悪くなる一方だ。
適当に引っ張り出した洋服を着て、慶一は一階への階段を駆け降りた。既に父も母も仕事に出てしまったのか、今は家の中には誰もいない。
顔を洗っている余裕などない。寝癖を直している余裕もない。自分の格好を気にするよりも、今は一刻も早く雨音の待っている場所まで行くのが先決だ。
外に出ると、やはりというか、今日も雨だった。傘立てに残された自分の新しい傘を取り出し、慶一は雨の街へと繰り出した。
(そう言えば、俺の傘……もう、二回もパクられてんだよな……)
買って間もない傘を握りながら、慶一はふと、そんなことを考えた。今月に入ってから、自分は傘を既に二回も盗まれている。偶然もあるのだろうが、よくよく考えれば酷い話だ。そもそも、ここ最近はずっと雨が続いているのだから、傘くらいちゃんと持って来いと言いたい。
そんな他愛もないことを思いながら、駅前の通りを抜けて広場に出る。辺りを探すと、そこには赤い傘を差した雨音が待っていた。
「遅い!! あんた、結局三十分近くも遅刻してんじゃない!!」
「だから、悪ぃって言っただろ。それにしても、今日は随分と人が少ないんだな。昼間の駅前って、もっと混んでた気がしたけど……」
「たぶん、あんな事件が立て続けに起こったから、街の人もピリピリしてるのよ。こんな日に遊びに出掛ける気分にもならないだろうし、私たちだって、余程の用が無い限りは外に出ないようにって、学校から釘を刺されているじゃない」
「だよな。ってことは、こんなところ歩き回ってんのが学校の先生に見つかったら、結構ヤバいってことか……」
「そういうこと。私だって、待っている間に学校の誰かに見つかったらどうしようかと思って、気が気じゃなかったんだからね!!」
「そっか……。いや、ホント、マジで悪いことしたな。神社でのお祓いが終わったら、今日は俺がなんか驕るぜ」
「へぇ、いつになく気が利くじゃない。でも、外出を控えるように言われてるのに、どこかでお茶するのもマズイわよね……。しょうがないから、今日はあんたの、その気持ちだけ貰って許してあげるわよ」
雨音の指が、慶一の額を軽くはじいた。一瞬、馬鹿にされているような気になって顔をしかめた慶一だったが、すぐに気を取り直して顔を戻した。
なにしろ、今回ばかりは非が完全に自分の方にある。いつぞやのときのように、尻を蹴られないだけマシと考えた方が良さそうだ。
昨日の話では、まずは神社に持って行くものを集めるため、自分と雨音は敢の家に向かわねばならない。そこで、なんとかうまく理由をつけて、敢の家にある脚本の原本を持ち出さねばならないのだ。
敢の家の場所は、慶一も雨音も知っている。以前、映研の用事で何度か集まったこともあり、知らないのは今年入ったばかりの一年生二人組だけだ。
これから先、自分たちはどうなってしまうのか。一連の事件の犯人は、本当に堀井有紗の怨念なのか。そして、それは果たして、神社のお祓い程度でいなくなるようなものなのか。
何もかもわからない、不安なことだらけだった。だが、慶一も雨音も、このまま何もせずに殺されるのを待つ気は毛頭ない。ただ、何をすれば確実に助かると言いきれないだけに、どこか心の中に煮え切らないものが残っていた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
敢の家は、学校から少しばかり離れた公園の傍の集合住宅の一つだった。
慶一と雨音が家を訪れたとき、二人の前に現れたのは、眼鏡をかけた中年の女性だった。以前、敢の家に来たときに会ったことがある。他でもない、敢の母親だ。
息子を失って気落ちしているところに、予約も入れずに訪問する。きっと、迷惑がられるだろうと思った慶一だったが、敢の母親は意外とすんなり家に通してくれた。
「すいません……。先輩が、あんなことになったばっかりだってのに……急にお邪魔して……」
「いえ、いいのよ。あの子は昔っから、面倒見のいい子だったからね。こうやって、亡くなった翌日には後輩さんが来てくれるんですもの。それを無下に追い出すようなことしたら、空の向こうにいるあの子に嫌われてしまうわ」
「そうですか。それじゃあ、失礼します」
色々な意味で申し訳なさそうにしながら、慶一は勧められるままに靴を脱いで上がった。雨音もそれに続く。互いに何も言いだせぬまま、慶一は敢の母親に促されてリビングへと向かった。
「とりあえず、その辺に座ってちょうだい。高須君と、皆口さん……だったわよね。二人とも、コーヒーでいいかしら?」
「あっ……俺は別に、どっちでも大丈夫です。雨音も、それで平気だよな」
本当は、直ぐにでも脚本の原本を探しだして家を去りたい。しかし、本当のことを言うわけにもいかず、時間だけが過ぎて行く。
敢の母に迷惑をかけているという罪悪感と、隠し事をしているという気まずさ。それに、一刻も早く脚本を見つけたいという焦りが入り混じって、慶一は妙にそわそわしている自分がいることに気が付いた。
ふと、雨音の方を見ると、やはり同じように落ち着かない様子だ。先ほどからあまり喋っていない雨音だが、考えていることは同じということだろうか。
出されたコーヒーの味さえわからないままに、慶一はそれをできるだけ早く飲み干した。自分は他人に比べて猫舌だと思っていたが、今はそんなことを言っている場合ではない。
敢の母親に合わせる形で他愛もない思い出話をしながら、慶一はなんとかして敢の部屋に入る口実を作ろうと頑張ってみた。自分は別に、敢の母親と世間話をしに来たわけではない。傷心の人間相手に申し訳ないとは思うが、本来の目的は、呪われた脚本の原本を探しだすことなのだ。
「あの……ところで、ちょっといいですか」
先ほどから状況が好転していないところを見て、たまらず雨音が口を挟んだ。
「あら、何かしら? コーヒー、もう一杯お代わりする?」
「いえ、そうじゃないんです。ただ、瀧川先輩の……敢さんの部屋を、見せてもらうことができないかと思いまして……」
「敢の部屋を……? まあ、別に構わないけど……急に、どうしたの?」
「すいません、変なこと言って……。実は、私たち、今年の学校の文化祭で、敢さんの書いた脚本を使って映画を撮る予定だったんです。こんな事件が起きて、映画の撮影そのものはできなくなっちゃいましたけど……せめて、先輩の残した脚本だけでも、後の人達のために完成させたいんです」
「お、おい、雨音……」
これはまた、随分と大胆に出たものだ。そう思った慶一は、気がつくと雨音を止める側に回っていた。
確かに自分たちの目的は、敢の持っていた脚本の原本を手に入れることだ。しかし、こうも露骨に伝えれば、返って相手に警戒心を抱かれてしまうかもしれない。まあ、自分が話をするよりは信用もされるのかもしれないが、それにしても大丈夫なのだろうか。
「そう……。あの子、相変わらず作家稼業を続けていたのね。昔は小説家になるなんて言っていて、その次は映画の脚本家になるって言って……最後まで、夢を追っていたのね……」
「すいません、辛いことを思い出させて……。でも、私たち、どうしても先輩の書いた脚本を映研に残したいんです。供養とか、そんな大それたものじゃないかもしれないですけど……このまま全部を封印してなかったことにしてしまったら、先輩だって浮かばれないと思うんです」
「浮かばれない、か……。確かに、そうかもしれないわね。いいわ。あの子の部屋へ案内してあげる」
どうやら自分の心配は、単なる取り越し苦労だったようだ。敢の母親から許可が出たことで、慶一はほっと胸を撫で下ろした。
昨日、亮が慶一に雨音と一緒に敢の家へ行けと言った理由。今になって、それがわかったような気がする。
亮はきっと、慶一だけでは旨い具合に事を運べないだろうと考えていたのだ。だからこそ、お目付役の意味も含め、雨音と一緒に行くように言った。なんだか信用されていないようで心外だったが、それでもやはり、自分には雨音のような真似ができそうにない。この辺りは、純粋に亮の采配とやらを認めるしかないようだ。
敢の母親に案内される形で、二人は階段を昇って二階に上がった。廊下を曲がったその先が、以前にも何度か来たことのある敢の部屋だ。
自分の部屋とは違い、随分ときれいに片付けられていると慶一は思った。敢が亡くなって、母親が彼の身の回りの物を整理したのだろうか。いや、恐らくは、そんなことは関係無しに、敢は日頃から身の回りの片付けくらいはしていたのだろう。
以前、敢に呼ばれて来たときには、そんなことなど気にも留めなかった。しかし、こうして改めて見ると、やはり敢は出来た先輩だったのだと痛感させられる。そんな敢を失ってしまったことが、今更になって悔やまれた。
「あの子はいつも、自分で自分の物を片付けていたからね。ちょっと探してみないと、あなたたちの言っている脚本がどこにあるのか、私もわからないのよ」
部屋の押し入れを開け、その中の箱を引っ張り出しながら、敢の母親が言った。慶一と雨音は互いに顔を見合わせると、無言のまま頷いてそれぞれに散った。
敢が≪魔窟≫から発見した脚本は、確かに原本として重要なものだ。だが、いくら重要とはいえど、撮影途中の映画の脚本を押し入れに仕舞いこむはずがないだろう。
恐らくは、机の中か鞄の中。そう考えて机の引き出しを開けて行くと、思いの他簡単に、慶一はそれを見つけることができた。
「あった……!!」
昂奮のあまり、思わず手と声が震えていた。別に、そこまで舞い上がるほどのことでもないだろうに、なぜか鼓動が早くなっていた。
「あら、それがあの子の書いた脚本なの? なんだか、随分と古そうに見えるけど……」
「えっ……いえ、これでいいんです! 今日は、どうもすいませんでした。なんか、急に押しかけて、コーヒーまで御馳走になっちゃって……」
このまま長居しては、今にこちらの本心を悟られるのではないか。そんな不安から、慶一と雨音は脚本を手に、そそくさと敢の部屋を後にした。帰り際にもう一度敢の母親に礼を言って、それから先は、逃げるようにして家を出た。
表紙が破れ、題名さえもわからない謎の脚本。もしも、本当に堀井有紗の怨霊が今回の事件の黒幕だというのであれば……この脚本こそが、その根源だというのであれば、全てはこれから始まったと言っても過言ではない。
この脚本を神社に持って行くことで、果たして全てが終わるのか。それは、慶一と雨音にもわからない。
未だ信じられない部分も残っていたが、とりあえずの目的は果たすことができた。薄汚れた脚本を鞄の中に押し込めると、二人は亮と後輩たちの末、街外れの神社へと向かって行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
昼下がりの雨に、赤い鳥居が濡れていた。鳥居の奥には二頭の独楽犬と、拝殿と思しき社の姿が見える。
鎮守の森などと言える、大層な物はない。境内の中には、明らかに後から植樹されたと思しき、数本の木が立っているのみ。もっとも、都会の街中にある神社としては、これでも随分と立派な方だ。
氷山神社。鳥居に備え付けられた板には、辛うじてそう読めるだけの文字が書かれていた。この時間は参拝客などもおらず、神社の中は閑散としている。今は雨が降っているということもあり、神主や巫女の姿も見当たらない。
境内に置かれた絵馬を吊るす場所の近くで、亮は慶一と雨音の二人を待っていた。隣には、既に瑞希と秀彰も到着している。
「悪ぃ、亮! ちょっと、遅くなった!!」
鳥居をくぐり、慶一と雨音が亮の前に姿を現した。遅刻の原因は、あえて訊かない。大方、慶一が寝坊でもして、雨音との約束の時間に遅れたりしたのだろう。
「遅いぞ、慶一。で、例の物は手に入ったか?」
「ああ、なんとかな。雨音が気を利かせてくれたお陰で、なんとかボロを出さずに済んだぜ」
「まあ、瀧川先輩の家だったら、たぶん問題ないだろうとは思ってたさ。こっちは久瀬先輩の家に行ったけど……正直、かなり色々と文句を言われて、それなりに手こずったぜ」
できれば、そのときのことは思い出したくない。そんな口調で、亮は自分の鞄から一枚のディスクを取り出して見せた。
黒衣の女の姿を収めた、合宿で撮影したビデオの記録ディスク。以前、慶一が瑞希と一緒に女の正体を確かめようとして、最後は正仁に預けたものだ。
思えば、あのとき正仁にディスクを渡したりしなければ、今回の悲劇は防げたのではないか。一瞬、慶一の頭をそんな考えがよぎったが、直ぐに頭を振ってそれを打ち消した。
あの女が悪霊の類だというのであれば、神社でお祓いをすれば消滅するはずだ。かなり遠回りになってしまったが、少なくとも、これで自分たちは黒衣の女の影におびえなくて済む。
「それじゃあ、さっさとこいつらを神主に預けてお終いにしようぜ。これ以上、呪いだの祟りだのって話に振り回されて、要らねえ心配しながら暮らしたくないからな」
脚本原本と、それからディスク。堀井有紗の怨念が籠っていると思しき物をその手に持ち、亮は社務所の受付へと足を急がせた。
「すいません! ちょっと、いいでしょうか?」
「はい、どちらさまで……」
亮の声に答える形で、社務所の奥から初老の男性が姿を現した。服装からして、彼がこの神社を管理している神主らしい。以前、祭りか何かの行事で神社を訪れた際、慶一も彼の姿を見たことがあった。
「お電話で約束させていただいていた、宮川です。すいませんけど……これの供養っていうか、お祓いをお願いできますか?」
「ああ、これね。これが、君の話にあった、怨念の籠った演劇の脚本かい?」
「演劇じゃなくて、映画です。まあ、今となってはどっちでもいいんですけど……とにかく、お願いしますね」
「ええ、任せておきなさい。どのような御霊がこの世に未練を残して憑いているのかは知らないが、これは私の方で、しっかりと祓いの儀を取り行わせていただこう」
脚本とディスクを神主に手渡し、亮は最後に自分の財布から数枚の千円札を取り出した。祈祷料ということらしい。
「ほら。お前達もぼんやりしてないで、さっさと金を払えよ。言っとくけど……まさか、俺だけに払わせようなんて思ってたんじゃないだろうな?」
「そんなわけないだろ……って、あれ!? しまった!! 財布、家に忘れて来た!!」
亮に言われてポケットをまさぐったとき、慶一は自分が財布を忘れたことに初めて気がついた。雨音に叩き起こされて、着の身着のままで飛び出して来たために、財布のことまで頭がまわっていなかったのだ。
「すまん、雨音! この借りは、必ず帰すから……今日だけ、俺に貸してくれ!!」
「もう……。相変わらず、あんたってそういうところあるのね……。まあ、いいわ。これでお祓いしてもらえなかったら困るし、今日は特別に貸してあげる」
目の前で手を合わせて頼み込む慶一を、雨音は横目でにらみながら言った。別に、財布の中身に余裕がないわけではなかったが、さすがに二人分の祈祷料を払うと少々切ない気持ちにさせられてしまう。
(はぁ……。これじゃあ当分の間、節約生活続けなくちゃ駄目そうね……)
自分の財布が途端に軽くなったことで、雨音はこれからのことを考え、少しばかり憂鬱になった。もっとも、それでも自分の命には代えられない。呪いを解いてもらうためならば、この程度の出費も已む無しと言ったところではある。
なにはともあれ、こうして慶一たちは、呪われし脚本とビデオの二つを神社に預けることに成功した。なんだか呆気ない幕引きだと思ったが、これで全てが終わるのであれば、それに越したことはない。
「やれやれ……。とりあえずは、これで一安心ってところかな」
帰り際、亮が大きく腕を伸ばして口にした。
「はい……。でも……本当に、これで呪いから解放されたんっすかね?」
「どういう意味だよ、秀」
「いや……。別に、深い意味はないんっすけど……。ただ、僕はまだちょっと怖くって……」
亮とは対照的に、秀彰の方は未だ不安そうな顔をして辺りの様子を窺っている。確かに、相手は正体不明の怨霊なのかもしれないが、それにしても少し怖がり過ぎだろう。そう、慶一は思った。
「おいおい、怖がりだな、秀は。あの脚本も、映像の入ったディスクも、全部神主さんに預けただろ? 後はあの人が、全部うまくやってくれるって」
「で、でも……。脚本って言ったら、僕達が使ってるコピー版はどうなるんっすか? あれだって、もしかしたらその……堀井有紗って人の怨念が残ってるかもしれないのに……」
「あっ……!!」
そこまで聞いたとき、その場にいた全員が足を止めた。
確かに、秀彰の言う通り、脚本の原本は神社に預けた。しかし、脚本はなにも、その一つだけではない。
自分たちが映画の撮影に使うため、その内容を改変して作った新しい脚本。≪アジサイの咲く頃≫というタイトルで新たに作りなおされたそれは、当然のことながら、各人の家に残っている。
まさか、自分たちは、とんでもない失敗をしてしまったのではあるまいか。自分たちが作った脚本が残っている限り、呪いはまだ解けたとはいえないのではないか。
ところが、そんな考えに支配された場の空気を一変させたのは、やはり言い出しっぺの亮だった。
「おい、秀。いくらなんでも、それは考え過ぎだろ。だいたい、今回の事件が堀井有紗の怨念のせいだとしたら……俺は逆に、新しく作った脚本なんて、何の効力もない気がするけどな」
「何の効力もない? で、でも……どうして、そんなことが言えるんっすか?」
「考えてもみろよ。あの、ノートに書いてあったことを信じるなら、堀井ってやつは自分の彼氏だった男が書いた脚本が、変な形に歪められるのを嫌って、化けて出て来たみたいじゃないか。だとしたら、俺たちが改造した脚本なんて、堀井からしてみれば破壊する対象以外の何物でもないさ」
「そ、そんなもんっすかね……」
「ああ。そこまで言うなら、ちょっと堀井の立場に立って考えてみろよ」
自分たちを呪い殺そうとした怨霊の立場に立って考えろ。そんな無茶苦茶なことを、亮は平気な顔をして言ってのけた。この辺り、普段の人を食ったような性格も災いしてか、どうにも冗談を言っているようにしか聞こえない。
「なあ、慶一。お前だったら、どう思う?」
「えっ……! お、俺か!?」
突然、前触れもなく話を振られ、慶一はしばし表情を固まらせて言葉を詰まらせた。
いきなりそんなことを言われても、急に思いつくものか。そう反論してやりたかったが、ここは仕方がない。「わかんねえ」と言って流すのも格好がつかないと思い、適当に考えて流すことにした。
「そうだなぁ……。俺だったら、やっぱり亮の言う通りにすると思うぜ。俺たちが改造した脚本なんて、本人からしてみれば偽物だろ? 本物を大切にしているんだったら、そんな偽物、少しでも早く失くしちまいたいって思うけどな」
「で、でも……その、偽物の脚本を使って作った映画の中に、あの黒い服を着た女が映っていたじゃないっすか!! 先輩は、あれのことはどう思うんっすか?」
「うっ……。そ、それはだな……」
いつになく、今日の秀彰は鋭いところを突いてくる。いつもは弱気で自分から主張することなど殆どないのに、今日に限って悉く反論を述べてくる。
正直、鬱陶しいとまでは思わなかったが、少々考え過ぎではないかと慶一は思った。それだけ不安なのだろうが、それは他の皆も同じことだ。祈祷を依頼して、その不安も少しだけ解消されたと思った矢先に、こうまでして話を蒸し返して欲しくない。
「相変わらず、秀はビビりだな。まあ、確かにビデオのことは気になるけどさ……。あれだって、俺は別に、不自然なことだとは思ってないぜ」
追い詰められた慶一に助け船を出したのは、またしても亮だった。こういうとき、やはり彼の博識かつ頭の切れる面は役に立つ。単に無駄知識を詰め込んでいるだけでなく、ちゃんと物事を筋道立てて考えられる辺り、慶一自身、どうしても亮には敵わないと認めている部分もある。
「あのビデオに映っていた女が堀井有紗だとしたら、あれはたぶん、麻生先輩に対する嫉妬みたいなもんじゃないか?」
「嫉妬……ですか?」
「そうだよ。麻生先輩が演じていたヒロインは、ノートにもあった、本来ならば堀井有紗が演じるはずのヒロインだったんだろうな。だから、そのヒロインを他の女が演じるのが、堀井有紗は我慢できなかったんだろ。だからこそ、あえて他の場面には登場しないで、麻生先輩だけが映っているところに現れたんじゃないか?」
「た、確かに……。言われてみれば、そうっすね……」
「そういうことだ。怨霊って言ったって、元は人間なんだしさ。こっちも人間なんだから、相手の考えていることくらい、ちょっと考えれば予想はつくだろ?」
「は、はぁ……」
最後の方は、半ば亮が秀彰を押し切るような形になった。多少、強引に解釈しているような部分もあったが、亮の言葉に、さすがの秀彰も従う他になさそうだった。
六月は、一年の内でも最も日が長い季節である。太陽が西の空に沈むまでには、まだかなりの時間がある。それは、雨が降っている日でも同じことだ。
これから先のことを考えると、不安な材料は少しでも減らしておいた方がいい。そう考えた慶一たちは、各々家を改めて回り、脚本を回収することにした。わざわざ全員の家を回るのは面倒だとも思ったが、時間には余裕もある。
穏やかな雨の音を背に、慶一たちは濡れた街の中へと消えて行った。その後ろでは、紫陽花の葉の上から見つめるように、一匹の蝸牛が顔を出している。蝸牛は、まるで慶一たちの背中を見つめるよにして角を伸ばしていたが、しばらくして彼らの姿が見えなくなると、そそくさと葉の裏側に戻って行った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
昼時から降り始めた雨は、夕刻には再び激しさを増していた。
滝のように雨が降る、などという喩えがあるが、今日の雨はまさにその言葉が相応しい。今までも激しい雨が降ることはあったが、今日のそれは格別だ。早朝、一時的とはいえ青空を覗かせていたことが嘘のように、雨は大地を激しく抉り、幾本もの濁流を生み出して河へと流れ込む。
氷山神社の社務所にて、神主の男は憎々しげに空を見上げながら、今日の出来事を思い出していた。
明け方、まだ社務所が開いて間もない時間に、突然掛かってきた一本の電話。何事かと思って出てみると、相手は近所の高校に通う生徒だった。どうも、何やら曰くつきの物を手にしてしまったらしく、そのお祓いを頼みたいとのことだった。
久しぶりに清々しい朝だったというのに、あれでは全てが台無しだ。そう、喉まで言葉が出かかったが、そのときはなんとか堪えて我慢した。
自分がこの社の管理を務めるようになって、もうかなりの時が経つ。祭りのときは忙しいが、それ以外の季節は暇を持て余すことも多い。全国に名の知られた大きな神社ならいざ知らず、こんな小さな街の外れにある神社では、参拝客もそういない。
ただ、極稀に殊勝なお年寄りなどが、人形供養を頼みに来るようなことは少なからずあった。自分の孫が持っていた人形を、捨てることになったので供養して欲しい。そんな他愛もない年寄りの願いを聞き入れて、形ばかりの供養をしたことは何度がある。
しかし、それに比べて、今日の高校生たちは明らかに異質だった。映画の脚本とビデオカメラに使う記録ディスク。それらが呪われていると言って断固譲らず、呪いを払って欲しいと祈祷を頼み込んで来たのだから。
まったくもって、馬鹿馬鹿しいと神主の男は思った。確かに、古来より呪いという物は存在し、人々の間で恐れられてきた。だが、それはあくまで人が人の力を持って行う、一種の催眠術のような物だ。
例えば、呪いの藁人形。あれとて、別に人形に釘を刺したからといって、本当に人が呪われるわけではない。
呪いの藁人形の儀式を行う際には、相手の名前を書いた紙ごと人形を神社の御神木に打ち付ける。一見して呪いたい相手に自分の恨みつらみをぶつけているように思われるが、実は重要なのは、釘を打つという行為そのものではない。
人形と共に打ちつけられた紙は、当然のことながら、朝方に境内の掃除をする神社の関係者に発見される。そして、これまた当然のことながら、誰かが紙に書かれた名前の人物を呪ったのだということが、人々の間に知れ渡る。
人間と言う生き物は、基本的に噂好きな生き物だ。そして、時としてそれは、他人の精神さえも蝕み蹂躙する最大の武器ともなる。
あいつは、どうも誰かに呪われているらしい。そういった類の話が人づてに、やがて呪われた当人の耳へと届けられる。人間、そういった類の話には弱いらしく、そういう噂を耳にしたことで、今までなんともなかったような些細なことでさえ、「まさか、これも呪いでは……」という疑心暗鬼の念にかられることになる。
また、誰が自分を呪っているかわからない不安から、呪いをかけられた人間は、やがて周囲の誰も彼もに疑惑の念を抱き始める。
――――もしかして、今は仲良く話をしているこの人が、本当は自分を呪っていたのかもしれない
そんな風に思わせることで、やがて呪いの対象者を精神的に追い込んで、鬱状態にさせてしまう。最後は鬱病から本当の病気を併発してしまったり、自ら命を断たせたりすることで、呪いは完結するのである。
科学が未開だった昔ならば、それらは全て怨霊の仕業とされたことだろう。しかし、この現代において、怨霊による呪いなど馬鹿げている。呪いとは、人間の思い込みを巧みに利用して他者を陥れる、陰湿極まりない間接的犯罪だ。それ以上でも、それ以下でもない。
「呪いねぇ……。今時の高校生ってやつは、そんなもんでも簡単に信じてしまうものかね。まあ、私が祈祷を行うことで、彼らが思っている妙な考えを打ち消せればいいか……」
社務所の窓を伝って下に落ちる水滴を眺めながら、神主の男は独り呟いた。
自分は別に、心理学者でもなければカウンセラーでもない。ただ、祭事を執り行うだけの、お飾りのような宮司に過ぎない。
そんな自分が祈祷を行ったところで、果たして効果などあるだろうか。ふと、そんな考えも頭をよぎったが、すぐに気を取り直して拝殿の方へと向かった。
自分が呪いを解くための祈祷をし、渡された脚本とディスクを焚き上げてしまうことで、彼らの思い込みを打ち破る。そうすれば、彼らが信じる呪いなど、立ちどころに消えてなくなるだろう。
呪いのメカニズムを考えた場合、重要なのはより強力な自己暗示だ。こちらが祈祷を行ったことで、「呪いはすっかり解けましたよ」とでも言ってやれば、人間は安心して疑心暗鬼から解放される。そうなれば、呪いのような迷信などは怖くもなんともない。
「それにしても、今日は冷えるな。まるで、夏から冬に逆戻りしたみたいだ……」
床下から迫って来る冷気に足を震わせながら、男は拝殿へと続く廊下を急いだ。カッ、という音がして、一瞬だけ辺りが眩い光に包まれる。
「雷か……。こりゃ、近くに落ちたな」
ゴロゴロという不気味な音を立て、灰色の空が鳴いていた。普通、雷というものは、梅雨時にはあまり現れないものだ。あれは真夏の入道雲がもたらすもので、夕立と合わせてやって来るのが普通である。梅雨の長雨をもたらす雲とは、本質的に雲の種類が違うのだ。
ところが、そんな季節の都合などお構いなしに、外では再び雷鳴が轟いていた。雨はますます激しくなり、これでは日本の梅雨というよりも、南国の雨季のような様相を示している。
これは、いよいよ日本でも、環境の破壊による異常気象が始まったか。そう、男が思ったところで、再び激しい雷の音が鳴り響いた。
「――――っ!? 停電か……」
バチッ、という何かが弾けるような音がして、社務所の電気が一斉に落ちた。廊下も、拝殿も、およそ電気の通っていた場所が、一瞬にして闇に包まれた。
先ほどの雷が、近くの送電線にでも落ちたのだろうか。仕方なく、男が非常用の懐中電灯を取りに行こうとしたそのとき、暗闇に支配された廊下を一筋の稲光が照らし出した。
「おい! そこにいるのは誰だ!!」
明かりの向こう、一瞬だけ見えたその先に人の気配を感じ、男は思わず怒鳴りつけていた。
雨の音が、耳障りなほどに激しく聞こえた。遠くでは、雲の切れ間から雷の鳴る音がする。先ほど廊下の奥に見えた影は、男の声に答える様子はない。
また、廊下に光が走った。今度は見間違えなどではなく、はっきりとその姿を見ることができた。
全身を古ぼけた雨合羽に包み、そのフードの奥で薄笑いを浮かべている謎の人間。男なのか、それとも女なのか、その服装からはわからない。目元まで覆い隠すようにして被せられたフードのせいで、どのような顔をしているかさえも窺い知ることはできない。
ピチャ、ピチャ、という水の滴る音がして、それがゆっくりと男の方に近づいてきた。ここまで歩いてきたときに着いたのだろう。それの足跡と思しき水たまりが、廊下に点々と染みを作っている。
目の前の人間は、いったい何者か。いつの間に社務所の中に侵入し、その目的はいったい何なのか。
「な、なんだ、お前は……。さては、泥棒か!?」
こんな社務所に、盗む物などありはしない。だが、相手が泥棒でないのであれば、なぜ黙って社務所に入って来たのだろう。否、それ以前に、あれはどうやって鍵のかかった社務所の中に入れたのか。
(ま、まさか……。これが、あの高校生たちの言っていた呪いの正体なのか!? いや、そんなはずはない!!)
呪い。先ほど自分で否定したばかりの、単なる噂話を利用した一種の催眠術。あれはあくまで自己暗示の類であり、怨霊などは決してこの世に存在しない。
では、今、自分の目の前にいる、あの雨合羽を着た人間は何者だろうか。なんとか頭で合理的な説明をつけようとした男だったが、その答えが出るよりも先に、新たな稲光が社務所の廊下を照らした。
「消させないよ……。あの人の書いた物語は……」
雷の音とは別に、その声は確かに男の頭の中に響いて聞こえた。耳で聞くのとは違い、脳内に直接声が語りかけてくるような感じだ。それも、どう考えてもこの世の者とは思えない、地獄の亡者が呻くような低く重たい声で。
「う、うわぁぁぁぁっ!!」
次の瞬間には、男は一目散に廊下を駈けだして、拝殿の方に逃げ込んでいた。
敵わない。あれは自分の知る人間ではない。古来より人に災いをもたらす物の怪の類か、それとも自分が否定したばかりの怨霊なる存在か。
その、どちらでも、男にとっては関係なかった。拝殿へ滑り込むと同時に、腰の部分に冷たい何かが刺さるのを感じ、次いで恐ろしい程の傷みが背中を駆け抜けた。
「あっ……ぎゃぁぁぁぁっ!!」
腰を刺された。悲鳴を上げながら床を転げ回り、男は血にまみれた自分の手を目にして震え上がった。
「や、やめろ……やめろぉぉぉぉっ!!」
もう、既にまともな理性など残されてはいない。男は拝殿の床に腰を落とし、そのままずるずると後ろに下がる。目の前にいるのは、雨合羽を着た先ほどの奇妙な人間。いや、人間ですらないのかもしれない、正体不明の怪物だ。
雨合羽の裾から覗くそれの手に、血の付いた鋏が握られていた。それは男を拝殿の壁際まで追い詰めると、満足そうに顔を歪め、にぃっと歯を出して笑って見せた。
風船のはじけ飛ぶような音がして、拝殿の中を血飛沫が舞う。男は喉を鋏で一突きにされ、その目は完全に生者の光を失っていた。
抵抗すれば、少しでも生き長らえることができたかもしれない。そう思っても、男の身体は喉元を鋏で刺されるまで、まったく動くことができなかった。まるで、金縛りにでも遭ったかのように、完全に恐怖と痛みによって硬直してしまっていたのだ。
獲物を始末し、それが鋏をゆっくりと雨合羽のポケットにしまう。ふと、拝殿の方へ顔を向けると、それはこの社に祀られているであろう神に向かい、軽蔑するような眼差しを向けながら鼻で笑い飛ばした。
「ふん……。神なんて、とっくにいなくなっているのに、神社が聞いて呆れるよ。お飾りの神主と神無しの社で、私を祓えるとでも思うなんて……つくづく、おめでたい連中ね……」
何も言わぬ拝殿の神に向かい、それは侮蔑するような口調で吐き捨てた。神罰が降りかかる恐怖など、初めから持ち合わせていない。形だけの神社など、こちらの足止めにもなりはしないことを知っている。
「あの人の物語は消させないよ……。消そうとする者は、その誰もが報いを受けることになる……」
拝殿に置かれた鏡に、それの顔が映し出されていた。フードの奥で黄色く光る眼と、三日月のように歪んだ唇。姿形は人でありながら、その全身から放たれる気は魔物と呼ぶに相応しい。
「あの人の物語は私だけのものよ……。私だけが、あの人の物語を守る権利があるの! あの人の想いは、誰にも渡さないわ!!」
だんだんと、それの放つ声が大きくなってきた。辺りに誰もいないのをいいことに、自分の中から沸き上がる感情を、全て口に出して吐き出しているようだった。
「あはっ……あははははっ……! ははっ……あはは……ははっ……」
外の雨に合わせるようにして、拝殿の中にそれの狂笑が響き渡る。稲光によって照らし出された拝殿の鏡には、それが肩を震わせて笑う様が、しっかりと映し出されている。
やがて、ひとしきり笑い終えたそれは、拝殿に置かれた二つの物を手に取った。一つは古ぼけた映画の脚本。もう一つは、何かの映像を収めたと思しき一枚のディスク。
自分の念が込められたものは、なんとか回収することに成功した。さすがにこれを焚き上げられでもしたら、いくらなんでも敵わない。
こちらの邪魔をするからだ。そう、言わんばかりの視線を先ほどまで神主であった物に向け、それは音もなく神社の拝殿を立ち去った。外では相変わらず激しい雨が降り続いており、その雨に打たれるようにして、神社の脇の生垣に咲いた紫陽花が、血のような赤色に染まっていた。