【拾壱ノ花】 人形探し
慶一が教室の前に辿りついたとき、外では雨が降り出したところだった。大粒の雨が窓ガラスを濡らし、水滴が下に流れてゆく。
「ったく、また雨かよ。まあ、今日は傘を持って来てるから、濡れる心配はないけど……」
そう言いながら、自分の教室の扉を開ける。授業はとっくに終わっているので、この時間、教室には誰もいないはずだ。雨も降りだしてしまったことだし、さっさとレポートを回収して帰ることにしよう。
そう思い、教室の扉を開けた慶一の目に、見慣れた少女の姿が飛び込んできた。教室には誰もいないと思っていただけに、これには少々意表を突かれた。
「なんだ、雨音か。お前……こんなところで、何やってんだ?」
「何ってことはないでしょう? それよりも、あんたこそ、こんな時間まで何やってんのよ。映研の活動、今日はとっくに終わったんじゃないの?」
そこにいたのは雨音だった。どうやら何かを探しているようで、先ほどから教室の中をあちこち見て回っている。
「まあな。先輩二人が亡くなった後だったから、大した話もできなかったけどさ。それとは別に、化学のレポートを教室に忘れたから、ちょっと取りに来ただけだ」
適当に話を合わせながら、慶一はさっさと自分の席に向かうと、机の中に手を突っ込んでまさぐった。
(おっ、あった……)
数枚の紙の束が指に触れ、慶一はそれを机の中から引き抜いた。出て来たのは、自分の名前が書かれた未完成の化学のレポート。やはり、ここに置き忘れていたのだ。
鞄の中からクリアファイルを取り出して、レポートをその中に放り込む。ふと、横を見ると、雨音は未だに何かを探しているようだった。
「おい、雨音。お前、さっきから何探してんだ? なんだったら、俺も手伝うぜ?」
このまま自分だけ帰ってもよかったのだが、なにしろ、今は何かと身の回りが物騒だ。別れ際に亮や秀彰と交わしていた会話の内容を思い出し、慶一は珍しく自分から雨音に声をかけた。
「へえ、どういう風の吹きまわし? あんたが私のこと、気遣うなんてさ?」
「別に、大した意味はねえよ。ただ、最近はこの辺も物騒だろ。あんな事件が立て続けにあった後だし……いくら俺でも、放課後の学校に女の子を一人で置いて帰るわけにはいかないだろ?」
「なっ……!? 何なのよ、急に! いつもは人のこと、男友達みたいに扱ってる癖に!!」
「なんだよ。嫌なら俺は、このまま帰るぜ。もう、自分の忘れ物は見つけたしな」
「う……。ま、まあ、あんたがそんなに言うなら、手伝ってくれても構わないけどね。でも、探すからには、ちゃんと真面目に探しなさいよ!!」
「へいへい、わかってますよ。それじゃ、暗くならない内に、さっさと失くしたもん見つけて帰るとしますか」
半ば投げやりな言い方だったが、いい加減なことをするつもりはなかった。適当なことをして雨音から睨まれるのも嫌だったが、それ以上に、あまり遅くまで学校にいたくないというのもあった。
一年の中でも最も日が長い季節だというのに、外はそんなことを感じさせない程に薄暗い。灰色の雨雲が、太陽を完全に覆い隠してしまっているからだろう。こんなときに、美幸と正仁を殺した犯人が未だ街中をうろついていることを考えると、それだけで一刻も早く家に帰りたいという気持ちが出てしまう。
とりあえず、今は雨音の探し物を見つけ、さっさと学校を後にしよう。慶一は大きく腕を天井に向けて伸ばすと、未だ教室のあちこちを探しまわっている雨音と一緒に、彼女の失くした物を探し始めた。
雨音の話では、彼女が失くしたというのは、鞄についている小さな人形だった。何かのアニメのキャラクターなのか、服を着たウサギだったように思われる。
最近の女子高生は、通学用の鞄に何やらゴテゴテとした物をぶら下げているのが普通らしい。慶一のクラスでも、それは極ありふれた光景だ。雨音はウサギ以外にぶら下げている物もなかったが、中には信じられないくらいのマスコットを鞄にくっつけて、明らかに鞄を使いにくくしているであろう女子もいた。
ああいうものの、一体何がいいのだろう。女の子の考えることというものは、時として慶一の頭では理解できないものがある。
だいたい、いい歳してぬいぐるみ同然のマスコットを鞄にくっつけているなど、恥ずかしいとは思わないのだろうか。恐らく、当事者たちからしてみれば、「可愛いからいいじゃない」ということなのだろう。
だが、その一方で、男がいつまでも変身ヒーローだのロボットだのといった類の物に興味を持っていると、殆どの女子は嫌悪感を露わにした軽蔑の眼差しを向けてくる。慶一自身、高校生にもなってヒーローだのロボットだのといった物で盛り上がろうとは思わなかったが、ふと考えてみると、これはおかしな話だ。
女の子は、いつまでも小さい頃と同じようにぬいぐるみを持っていても責められず、その一方で、怪獣やロボットにはまっている男は、それだけでオタクというレッテルを貼られて嫌われる。お互いに幼い子どもの頃と同じ気持ちを持ち続けているだけだというのに、どうして男ばかりがキモイと言われなければならないのか。
(これって、ちょっとした男女差別だよなぁ……)
ウサギのマスコットを探しながら、慶一は心の中で、そんなことを呟いた。もっとも、今の自分の考えを雨音に話したところで、理解されそうにないので黙っておくが。
机の中、教室の隅、果ては掃除用具入れの棚の中。ありとあらゆる場所をひっくり返し、慶一と雨音はウサギのマスコットを探しまわった。その間にも、外の雨はますます強さを増して、完全な本降りとなっていた。
「おい、雨音……。お前、本当にこの教室で、ウサギの人形落としたのかよ」
一通り、めぼしい場所を探しつくして、慶一は少々うんざりした顔をしながら雨音に言った。あれから数十分に渡って人形を探したものの、結局のところ、お目当ての物を見つけることはできなかった。
「うーん……。実は、私もよく覚えていないのよね。五限と六限が体育だったから、その時間までは鞄にくっついていたはずなんだけど……」
「じゃあ、その体育の授業の間に失くしたってことじゃねえの?」
「やっぱり、そういうことなのかなぁ……。教室で落としたとばっかり思ってたんだけど、もしかすると、違ったのかもね」
散々人に手伝わせておいて、オチはそれか。思わず全身脱力しそうになった慶一だったが、ここで雨音を責めるのは筋違いだ。それに、ほんの気まぐれのようなものとはいえ、彼女を手伝うと言ったのもまた、慶一自身なのだから。
「やれやれ……。それじゃあ、今日のところはこの辺で帰るか? いくら日が長いっていっても、さすがに暗くなって来そうだし……」
「えぇっ!? それじゃあ、私のウサギはどうなるのよ!! 慶一……あんた、真面目に探してくれるって言ったの、嘘だったわけ!?」
「いや、そんなこと言われても……。教室にないんだったら、俺だって探しようがないぜ」
「なに言ってんのよ。教室になくても、まだ心当たりはあるわ。どうせ暇なんだから、あんたも最後まで付き合いなさいよね」
相変わらずの、強気な態度。言うことだけ言って、雨音はさっさと教室を出る。その後を、慌てて追いかける慶一。このまま帰ってもよかったが、手伝うと言った以上、この程度のことでへそを曲げて帰ってしまうのも、なんだか格好がつかない気がした。
階段を下り、長い廊下を抜けて、雨音と慶一は夕暮れ時の校舎の中を進んで行く。最後は渡り廊下のような場所を通り、辿りついた場所は更衣室の前だった。
「さて、と……。体育の時間の間に失くしたっていうなら、最後の可能性は更衣室よね。もしかすると、着替えの時に落としたのかもしれないわね」
扉の前で自分の考えを述べながら、雨音は一人で納得したような表情を浮かべている。そして、そのまま慶一の手を取ると、躊躇うことなく女子更衣室の扉を開けた。
「お、おい、雨音! お前、なに考えてんだよ!!」
「何って……あんたにも、私のウサギを探すのを手伝って貰おうってだけよ。それともまさか、一人先に帰るって言うんじゃないでしょうね?」
「いや、そんなんじゃねえよ。でも……さすがに俺も、女子更衣室に入るってのは……」
「普段はスケベな癖に、今さら何言ってんのよ。どうせ今の時間、運動部の人達は練習も終わって、とっくに帰ってるわ。他に使う人だっていないだろうし、私が一緒なら平気でしょ?」
「い、いや……でも……」
「もう、じれったいわね! 手伝うって言ったんだから、最後まで手伝いなさいよ!! 男に二言はないって、昔から言うでしょ!?」
雨音の手が、乱暴に慶一の腕をつかんで引っ張った。あまりに急なことに、慶一は自分の意志とは関係なく、そのまま女子更衣室の扉をくぐった。
普段、男は決して入ることなどできない場所に足を踏み入れることは、それだけでなんとなく後ろめたい気分にさせられる。恐る恐る、そっと覗きこむようにして中に入ると、果たしてそこは慶一の想像していた以上に殺風景な場所だった。
「なによ。女子更衣室の中が、そんなに珍しい?」
入口近くで立ち尽くしたままの慶一を、雨音が急かした。その声に、慶一もハッとした顔をして正気を取り戻した。
「いや、別に……。むしろ、俺たちの使っている更衣室と変わりなかったから、なんか不思議で……」
「そんなの当たり前じゃない。男用と女用ってだけで、着替えをする場所ってことには変わりないんだから」
未だにどこか慣れない感じの慶一とは違い、雨音は実にさらっと言ってのける。それじゃあ、お前は男子更衣室を覗いたことがあるのかと聞きたくなったが、藪蛇になりそうなので止めておいた。
建物の外から聞こえてくる雨の音を横に、慶一と雨音は更衣室の中を探しまわる。体育の授業の間に失くしたのであれば、更衣室で落とした可能性が一番高い。そう考えて探してはみたものの、なかなかどうしてウサギのマスコットは見つからない。
部屋の中に設置されたロッカーの中はもとより、果てはロッカーの上やネズミでもなければ入り込めそうにない隙間まで。徹底的に探したものの、どこに隠れてしまったのか、やはり雨音のウサギは出てこない。
いつしか日は完全に落ちて、辺りは暗くなっていた。さすがに、これ以上は探しても無駄だろう。それに、例の殺人犯も捕まっていない以上、あまり遅くまで学校に残っているというのも考えものだ。
「なあ、雨音。もう、いいかげんに諦めようぜ。こんなに探しても見つかんないんじゃ、やっぱりどこか別のとこで落としたんじゃないか?」
「なに言ってんのよ。そっちのロッカー、まだ探してないでしょ? 最後に、そこの列のロッカーだけ、ちゃんと探してから言ってよね」
「へいへい、わかりましたよ。それにしても……たかだかウサギの人形一つ、どうしてそこまでこだわるかねぇ……」
最後の方は雨音に聞こえないよう、小声で呟いた。鞄につける人形など、他に変わりがいくらでもあるだろうに、どうしてここまで固執するのか。きっと、他人には理解できない雨音なりのこだわりがあるのだろうが、慶一にはどうしても理解できそうにない。
半ば投げやりな態度になりながら、慶一は最後の列のロッカーを開けて手を突っ込んだ。もっとも、探すといっても適当にやっているだけなので、中まで覗きこんで見たりはしない。顔は雨音の方へと向けたまま、適当に中を弄るだけだ。
生徒はもとより、一部の職員でさえ帰っているであろう時間帯。誰もいない更衣室のロッカーに、何かが入っていることなどありえない。
否、それ以前に、そもそも雨音の使っていたロッカーでなければ、ウサギの人形が入っている可能性などゼロに等しい。それなのに、自分はいったい、なんで更衣室にある全てのロッカーの中を探しているのだろう。そう考えると、今までの行動が途端に虚しいものに思えてきた。
(なんか、雨音の無茶に付き合わされて、妙なことになっちまったな。まあ、あいつが諦めきれないってんなら、学校中を探すのもわかるけどさ……)
探し漏れがあって、後で後悔はしたくない。その気持ちはわからないでもないが、それでも少し、諦めが悪過ぎるのではないか。そんなことを考えながら、慶一はロッカーの奥に手を突っ込む。すると、今までとは違う、何かに手がぶつかる感じがして顔をしかめた。
「どうしたの、慶一? もしかして、私のウサギ、見つかった?」
「えっ……いや……」
ロッカーの中をちゃんと見ていなかったので、自分でも何をつかんでいたのかわからない。感触からして布のようだが、どう考えても人形の類ではない。
とりあえず、引っ張り出して確かめるか。そんな安易な考えのまま、慶一はロッカーの中にある何かを握ったまま手を引き抜いた。だが、いざロッカーから手を抜いた次の瞬間、慶一は自分の手に握られているものが何かを悟り、完全に雨音の前で硬直した。
「あ……」
慶一の手に握られていたもの。それは紛れもない、女性用の下着だった。誰が、いったいなぜ置き忘れたのかは知らないが、どうやらとんでもない忘れ物を見つけてしまったらしい。
「け、慶一!? 私はウサギを探して欲しいって言ったのに、あんたって男は……」
「い、いや、違うんだ、雨音! 別に俺は、おまえの人形探しをサボってたわけじゃなくて……」
「うるさい、この下着泥棒!! 人の手伝いするふりして、女の子のパンツ漁ってるなんて最低よ!!」
「よ、よせ、雨音……。これは不慮の事故だ、事故なんだぁぁぁぁっ!!」
「問答無用!! 外の雨に当たって、少しは頭を冷やして来い!!」
雨音の叫びと共に、乾いた音と慶一の情けない悲鳴が更衣室にこだまする。しかし、その音も声も、すぐに外の激しい雨の音にかき消され、何事もなかったかのように静寂が訪れた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
慶一と雨音が靴置き場のある玄関口まで来たとき、そこには既に誰もいなかった。部活帰りの生徒たちの姿も、帰宅指導をしている教師の姿も見当たらない。
(しっかしなぁ……。いったいなんで、ロッカーにパンツなんて置き忘れられてたんだよ……)
雨音に叩かれた頬をさすりながら、慶一は先ほど女子更衣室で自分がつかんでしまった物のことについて考えた。
今日、他のクラスで水泳の授業があったかどうかは知らないが、いくらなんでも学校で下着を脱ぐ機会など滅多にない。しかも、一度脱いだ下着を更衣室のロッカーに忘れるなど、普通の神経では考えられない。
それではなぜ、あの場所にあんなものが転がっていたのか。もしかすると、この学校の生徒の中に、下着を穿かないことをモットーとして生活している痴女でもいるのだろうか。
考えれば考えるほど謎は深まるばかりだったが、慶一はあえて自分の考えを口に出すことはしなかった。先ほど雨音に叩かれたばかりだというのに、これ以上余計なことを言って、更なる平手打ちを食らうのはごめんだった。
「それにしても、随分と遅くなっちまったな。雨音……お前、家の人に心配されたりしないのか?」
「うん……。あんな事件があった後だし、実はちょっとヤバいかもね。一応、お母さんの携帯電話にメールだけは送っておいたけど……」
「そっか……。まあ、それでも、帰るのが遅くなっちまったのは仕方ねえもんな。ところで、いったい今は何時くらいなんだ?」
ふと、左腕にしている時計を見ると、既に時刻は午後七時を指していた。どうやら、探し物をしている間に、思った以上に時間を食ってしまったらしい。
夏至が近くなり、一年の中でも最も日が長い時期であるとはいえ、さすがにこれは少々まずい。あの、牧原と名乗った刑事の話によれば、美幸と正仁の死因は殺人。つまり、今もこの街のどこかに、二人を殺した殺人鬼がうろついているということだ。
そんなときに、もう時期日も暮れようという時間まで学校に残る。常識的に考えて、これはかなり危険なことなのではないか。もしも、下校時に二人を殺した殺人鬼に襲われでもしたら……。そう考えると、慶一は途端に自分の背中を冷たい物が走ったような気がして肩を震わせた。
外を見ると、未だに強い雨が大地を叩くようにして降り続いている。亮や秀彰と一緒に話をしていたときには降っていなかったが、雨音の探し物につき合っている間に、随分と酷い降りになってしまったようだ。
こんな日は、傘を差しても身体が濡れる。これから土砂降りの中を帰ることを考えて、慶一は憂鬱そうに傘立てへと手を伸ばす。
だが、いざ自分の傘を取ろうと伸ばしたはずの手は、次の瞬間には止まっていた。その様子に、扉の前で待っていた雨音が、不思議そうな顔をして慶一を見た。
「ちょっと、どうしたのよ。いつまでもそんなところにいないで、早く帰るわよ」
「いや……それが……どうやら、帰りたくても帰れない事態が発生した……」
「帰りたくても帰れない? なんなのよ、それ?」
「傘が……俺の傘が、またねえ……」
最後の方は、少しばかり泣きの入った声になった。
外の雨の具合を考えると、ここで濡れて帰るという選択肢は選びたくない。しかし、傘がなければ帰るに帰れず、慶一にはどうしてよいかわからない。
雨音に頼んで一緒の傘に入れてもらうか。いや、それは駄目だろう。以前にも傘を誰かに盗まれたことがあったが、そのときも雨音は自分の傘に慶一を入れるようなことはしなかった。
知り合いとはいえ、男と一緒の傘に入って帰るというのが恥ずかしいというのもあるだろう。だが、それ以前に、雨音と慶一では帰る方向が違う。途中までは一緒に帰れても、最後は別々に帰らねばならなくなる。どちらにしろ、雨音と一緒の傘に入って帰ることはできそうにない。
用務員室にでも駆け込んで、傘を借りることも考えた。しかし、そもそも用務員室に予備の傘がなければ話にならないし、できればこれ以上は学校に残りたくもない。
結局、今日は諦めて濡れながら帰るしかないのか。化学のレポートを教室に忘れ、それを取りに行ったら雨音の探し物につき合う羽目になり、最後は傘まで盗まれるとは。
まさに踏んだり蹴ったりだ。そう思い、慶一の口から大きなため息がこぼれた。今日はきっと、自分にとっての厄日なのだろう。ここまで不幸なことが立て続けに起こるとは、これもあの、黒衣の女の呪いということなのだろうか。
これ以上は、雨音を待たせておくわけにもいかない。仕方なく、慶一は仮初の雨除けとして、頭に鞄を自分の頭に乗せた。こんなもので雨を防げるとは思っていなかったが、都会の雨は大なり小なり酸性雨になっているとも言われている。酸性雨に当たると髪の毛が抜けるという話も聞いたことがあったので、できれば頭だけは死守したい。
頭に乗せた鞄を片手で押え、慶一は雨の降る外へと顔を向けた。こうなったら、もう濡れることは仕方がない。そんな覚悟を決めて、半ばやけくそに外への一歩を踏み出したときだった。
「先輩! 今から帰るんですかぁ!?」
聞き覚えのある声に、慶一だけでなく雨音も振り向いた。声のした方へ目をやると、そこには高校生にしては小柄な一人の少女が立っていた。
少年のように短く切り揃えられた髪と、屈託のない明るい笑顔。その身長には少々不釣り合いな大きさの傘を持ち、呆気に取られたままの慶一に駆け寄ってくる。
「瑞希……。お前……こんな時間まで、学校に残ってたのか!?」
二人の前に現れたのは、同じ映研の後輩である瑞希だった。今日は雨音と同じく活動への参加を自粛させられていたはずだが、こんな時間まで何をしていたのだろうか。まさか、自分や雨音と同じように、何か探し物でもして遅くなったのだろうか。
「ちょっと、小鳥遊さん。あなた、こんな遅くまで学校に残って大丈夫なの?」
慶一だけでなく、今回は雨音も瑞希のことを心配しているようだった。なにしろ、美幸と正仁が殺された犯人が、未だにつかまっていないのだ。そんなときに、女の子が一人で学校に残って何かするなど、普通の神経であれば考えられない。
ところが、そんな慶一や雨音の心配を余所に、瑞希は慶一の横に並んで彼の顔を見た。その身長差から、瑞希が慶一と話すときは、おのずと見上げるような姿勢になる。普段は意識していなかったが、こうしてみると、少年のような顔の中にも、なんだか小動物的な可愛らしさを感じてしまう。
「先輩、今日も傘を忘れたんですかぁ? よかったら、またボクの傘に入って行きます?」
「いや、それは助かるけど……。でも、お前はいいのかよ? それに、今日は映研の活動もないってのに、こんな時間まで何やってたんだ?」
「ああ、それですか。ちょっと、先生に野暮用を頼まれちゃいまして。なんか、色々やってたら、こんなに遅くなっちゃったんですよぉ」
「色々やってたって……。いくらなんでも、後先考え無さ過ぎだろ。先輩たちのことだってあったんだし……。何か、妙な事件に巻き込まれたら、どうするつもりだったんだよ……」
「どうするつもりって言われても……。あっ、もしかして、先輩、ボクのこと心配してくれてるんですかぁ? 嬉しいですぅ!!」
本気で心配する慶一を他所に、瑞希は小刻みに飛び跳ねながら喜んでいる。なんというか、見た目と同じく、中身まで子どもなのだろうか。一つしか歳が違わないのに、こういうときの瑞希は、どうしても歳の離れた妹のように思えてしまう。
「ちょっと、何やってんの? さっさと帰らないと、今に真っ暗になっちゃうわよ!!」
雨の中、傘を片手に待たされている雨音が、少しばかり語気を強めて叫んだ。それに気づいた慶一は、慌てて鞄を頭に乗せ直して振り返る。
「ああ、今行くさ。こいつも一緒に帰るだろうから、ちょっと待っててくれ!!」
そう、口では言ってみたものの、慶一は外の雨の様子を見て思わず踏みとどまってしまった。濡れる覚悟はできていたものの、いざ雨に当たってみると、思いの他に降りが激しい。このまま帰ったら、家に着く頃には全身ずぶ濡れだ。頭が禿げることを気にして髪の毛だけは守ろうかとも思ったが、こうも強く雨に降られては、鞄程度では防ぎきれないかもしれない。
「あれ、先輩? もしかして……本当に傘、忘れたんですかぁ?」
鞄を頭に乗せたまま躊躇っている慶一を見て、瑞希が自分の傘を広げながら言った。小柄な瑞希の使う物としては、その傘はやけに大きい。大人の男が使ってもおかしくない程の大きさで、色も黒一色の地味なものだ。およそ、女の子が使うとは思えない、やけに不釣り合いなデザインだった。
自分の傘を持っておらず、父親の傘でも借りてきたのか。慶一がそんなことを考えたとき、唐突に横から傘が差し出された。横に目をやると、慶一の身体を隠すようにして、瑞希が傘を持ち上げていた。
「先輩。やっぱり、今日もボクの傘に入って行って下さいよぉ。このまま帰ったら、家に着く前に風邪ひいちゃうかもしれませんし……」
「おっ、悪いな瑞希。でも、お前はいいのかよ。いくら大きな傘だって、二人して入ったら肩が濡れるぞ?」
「それは平気ですよぉ。ボクは先輩と違って小さいから、そんなに濡れたりしませんし」
その顔に満面の笑みを湛えながら、瑞希が傘を慶一に押し付けてくる。そういえば、以前にも傘を誰かに盗られたとき、こんな会話をしていたような気がする。どうやら瑞希は自分にとって、雨の日の助け舟になってくれるような存在なのかもしれない。
このまま雨に濡れて帰るのも嫌だし、これ以上は雨音を待たせておくわけにもいかない。なにより、せっかくの後輩からの好意なのに、それを無下にしてしまうのも気が引ける。
慶一は差し出された傘を手に取ると、頭から鞄を降ろして歩き出した。その横では、やはり鞄を片手に持った瑞希が、少し足早に歩いている。慶一と違って背丈が低いため、なんとか歩幅を合わせて置いて行かれないようにしているようだった。
降りしきる雨の中、慶一と雨音、それに瑞希の三人は、普段よりも速めに歩いて家を目指した。途中、他愛もない会話を挟んだりもしたが、それでも口数は少なかった。先輩二人を殺した犯人が今も街をうろついているかもしれないと考えると、そんな余裕などなかったのだ。
程なくして、慶一たちは住宅街の一角にある十字路へとやってきた。これから先は、慶一と雨音は互いに反対の方角へ帰ることになる。瑞希とは途中まで帰り道が一緒だが、雨音とはここでお別れだ。
だが、そんな慶一の予想に反し、雨音は二人に最後までついて来るように要求した。なんでも、ここから一人で帰る間に、変質者にでも襲われたらたまらないとのことである。普段であれば適当な理由をつけて逃げ帰る慶一だったが、今回ばかりは雨音に従うことにした。
雨音の家は、ここからしばらく歩いたところにある一軒家だ。建てられたのは随分と古いらしく、改築を重ねて今に至る。外見は現代風の造りをしているが、雨音曰く、中身は昔のままのボロ屋らしい。
もっとも、雨音の家の近くには、この他にもそういった家がたくさん存在していた。中には裏手に竹林などがある家もあり、夜は少々横を通るのが怖く感じる。そんな場所だけに、殺人事件が起きた後で、一人で家に帰りたくないという雨音の気持ちもわかるような気がした。
生垣に囲まれた数件の家を通り過ぎ、慶一たちはブロック塀に囲まれた比較的大きな家の前に辿り着いた。表札を見ると、そこには≪皆口≫の二文字がある。どうやらここが、雨音の家らしい。
家の造りを改めて見ると、なるほど、確かに見た目だけは新しい。未だ木造の旧家のような家が多い中で、どことなく現代風の造りになっているのが見て取れる。雨音はボロ屋だと言っていたが、外見からは、そんな様子はまったくわからない。
「ふう、ようやく帰ってこれたわね。送ってくれて、助かったわ」
玄関先で傘を閉じながら、雨音が慶一に言った。彼女の方から礼を言うなど、珍しいこともあるものだ。探し物を手伝わせて帰宅が遅くなってしまっただけに、雨音の方にも多少の罪悪感があったのだろうか。
「それじゃあ、私はここでお別れね。でも、あんたは最後まで、小鳥遊さんを送って行きなさいよ。傘に入れてもらったんだから、そのくらいのことはしても当然よね?」
「ああ、わかってるよ。俺だって、こんなときに女の子を一人で帰らせるほど馬鹿じゃねえっての」
「そう? あんた、意外とその辺の空気読めないから不安だったけど……どうやら、余計な心配だったみたいね」
「空気読めないって……大きなお世話だ!!」
前言撤回。
人を散々に振り回した挙句、果ては見送りまでしてやったのに、この言い様。やはり雨音は、いつもの雨音のままだった。図々しいことを口にしながらも、要所で正論を言ってくるので、反論できなくなるのが腹立たしい。
これ以上は、雨音に期待しても無駄だろう。まあ、こちらとしても彼女の機嫌を損ねるようなことは――――例のパンツ事件を除いてだが――――特にやっていない。下手なことを言って口論になるのも嫌だったし、なにより今は、さっさと瑞希を送って自分も家に帰りたかった。
雨音と別れ、慶一は瑞希を横に従えるような形で、再び一緒の傘を差して歩き出す。雨音の家と慶一たちの家は反対方向にあるために、ちょうど、今来た道を戻るような形になった。
生垣に囲まれた住宅街を抜けるようにして、慶一と瑞希は互いに何を話すわけでもなく歩き続ける。気がつくと、あたりはすっかり暗くなり、街灯の明かりに頼らねば先が見えないほどになっていた。
これはいよいよ、まずいことになってきたか。美幸と正仁を殺した犯人が外をうろついていることを考えると、一刻も早く家に帰った方がいい。こんな時間に、こんな人気のない場所で殺人鬼に遭遇したら……そう考えただけで、ぞっとする。
「あの、先輩……」
突然、傍らにいた瑞希が慶一に向って訪ねた。今まで何も言ってこなかっただけに、慶一は思わず驚いて肩を震わせた。
「な、なんだよ、瑞希。もしかして……なんか、変なもんでもいたか?」
「あっ、いや、そんなんじゃないです。ただ……先輩と皆口先輩が、なんでこんな時間まで学校に残っていたのか……それが、ちょっと気になって……」
「なんだ、そんなことか。それなら簡単な話だよ。俺がレポートを取りに教室に戻ったとき、なんか、あいつが探し物しててさ。成り行きから手伝うことになったんだけど、結局見つからなくて……気がついたら、下校の時間をとっくに過ぎていたってわけ」
「へぇ、そうだったんですかぁ? ボク、てっきり、二人が放課後の学校で、らぶらぶな関係になってるのかって思っちゃいましたよぉ?」
「なっ……!? ば、馬鹿なこと言うなよ!! だいたい、なんで俺が、あいつとそんな関係に……っていうか、お前もらぶらぶなんて言葉使うんだな。今、初めて知ったぜ……」
「むぅ、酷いなあ。ボクだって、一応は女の子なんですからねぇ! そういう言葉だって、ちゃんと使います!!」
陸に上げられたフグのように、瑞希が顔を膨らませて慶一を睨んだ。もっとも、怒っていても、どこか妹のように見えてしまう瑞希のこと。雨音とは違い、厳しさのようなものはまるでない。
「ああ、はいはい、わかったよ。お前だって、女の子だもんな。そりゃ、そういう言葉だって使うよな」
「先輩、本気で思ってますぅ? なんかボク、適当にはぐらかされている気がするんですけどぉ……」
「そんなことないって。だいたい、お前のことを女の子だと思ってなきゃ、こうやって家まで送ったりしねえよ。俺だって、そのぐらいはわかってるさ」
本当は、瑞希の言っていたことの方が半分当たっている。慶一は瑞希を女の子として扱ってはいたが、同時に女としては見ていない。なんというか、彼女の場合、可愛い後輩という域を出ないのだ。
大人の雰囲気を持っている女性というならば、映研の顧問である明恵や、今は亡き美幸が当てはまる。雨音にしても、少々口煩いところがあるものの、慶一の同年代の少女としては普通な方だ。多少、性格に難もあるが、黙っていれば普通に男子から人気が出そうな気はする。
そこへ行くと、やはり瑞希は慶一から見ても子どもだった。男勝りで飾り気のない部分も影響しているとは思うが、なにより瑞希自身の背恰好や喋り方も関係しているとは思う。
瑞希からの追及を適当にごまかしたところで、慶一はそんなことを考えながら帰路を急いだ。二人の会話はそこで途切れてしまい、なんとも言えぬ微妙な空気だけが流れて行く。雨の音と、濡れた道路を歩く音。その二つが入り混じった、肌に張り付くような水音だけが聞こえてくる。
「あの……ところで、先輩」
早くも沈黙に耐えられなくなったのだろうか。また、瑞希の方から慶一に話を振ってきた。慶一も仕方なく、それに答えるようにして瑞希に歩調を合わせる。知らない内に、自分が随分と早足になっていたことに気づいたからだ。
「なんだ、瑞希。ちょっと、歩くのが早かったか?」
「あっ、それは大丈夫ですぅ。ただ、さっき先輩が言っていた、皆口先輩の探し物なんですけど……ちょっと、何を探していたのか気になって……」
「ああ、あれか。なんか、雨音のやつ、ウサギの人形失くしたとか言っててさ。ほら、あいつがいつも、鞄につけてたやつ」
「そういえば、皆口先輩の鞄には、ウサギさんがついていましたよね。あれ、失くしちゃったんですかぁ?」
「そうだよ。体育の時間中に失くしたとかで、女子更衣室の中を探すのまでつき合わされたんだぜ。あいつが一緒だったからいいものの……あんなとこ、誰かに見られたら、それだけで変態扱いされるかもしれないってのにさ……」
「ふぅん……。先輩も、今日は大変だったんですねぇ……。ボク、自分の鞄にそういうの付けたことないから、皆口先輩の気持ちはよくわからないですけどぉ……」
瑞希の口調が、少しばかり寂しげなものに変わっていた。一瞬、何かまずいことでも言ったかと思った慶一だったが、特に思い当たる節はない。しいて言えば、瑞希は自分の鞄に雨音のようなマスコットをつけていなかったので、それを寂しいと感じたのかもしれない。
そう言えば、先ほどの会話で、瑞希は自分のことを女の子として見て欲しいというような主張をしてきた。慶一からすれば、瑞希だって十分に女の子なのだが、やはり必要以上に気にしているということだろうか。あれだけ言っておきながら、いざ自分の格好や持ち物を見返してみたとき、あまり女の子らしい雰囲気がないことに気づいて落ち込んでしまったのかもしれない。
「なあ、瑞希。お前は自分の鞄に、あいつみたいな人形ぶら下げたりしないのか?」
「人形ですかぁ……。うぅん……つけてみたい気持ちもあるんですけどぉ……。ボクが鞄に人形なんかぶら下げて、変に思われたりしませんかねぇ……」
「別に、そんなの関係ないだろ? ああいうのって、自分が気に入った物をくっつけとくもんじゃねえの? 他の誰かが何か言ってきたところで、自分が好きなんだったら関係ないだろ?」
「うぅ……確かに、それはそうですけど……。でも、ボク、そういうのはあまり詳しくないし……」
「なんだよ、それ。だったら、試しにコイツでもくっつけてみたらいいんじゃねえのか? そこまで大きいもんじゃないし、大して邪魔にもならないだろ」
そう言いながら、慶一は自分の鞄の持ち手に腕を通して手を空けると、その手でポケットから携帯電話を取り出した。黒を基調としたシンプルな物で、取り立てて目立った飾りもない。唯一、その脇についている、ネコのキャラクターを模したストラップを除いてはだが。
「悪い、瑞希。ちょっとだけ、傘を持っててくれないか?」
何事かわからず呆然としていた瑞希に、慶一は傘を強引に押し付けた。完全に両手が自由になると、その指先を器用に使ってストラップを外す。最後に、瑞希から再び傘を受け取ると、そのお返しと言わんばかりに先ほどのストラップを手渡した。
「ほら。これ、やるよ。携帯のストラップにしてはデカ過ぎたから、本当は鞄か何かにつけた方が調度いいかもしれないしさ」
「えっ……!! ほ、本当に貰っていいんですかぁ!?」
「当たり前だろ。俺だって、こんなことで嘘つくほどガキじゃねえよ。まあ、雨音のウサギなんかと違って、顔はブサイクだけどな」
「あっ、本当ですねぇ。けど、ボクはこういうのも好きですよ。なんか、愛嬌がある顔で、癒されますぅ」
「癒される? お前、マジで言ってんのかよ……」
片手に鞄、片手に傘を持ったまま、慶一は自分の渡したストラップの顔を改めて見た。
慶一の渡したストラップは、招き猫を模した姿をしたものだ。手に大判を持っているところまでは同じだが、なんというか、顔の形が悪い。垂れ目に間の抜けた口と、妙に横に伸びた頭。その表情は時に間抜けに、時にいやらしく見えるものの、可愛いとは言い難いものである。
ところが、そんなストラップでさえ、瑞希は喜んで自分の鞄に取り付けた。巷では時に、少女たちの間で男子には理解し難い物が流行るときがある。ブサカワイイとかキモカワイイなどと言われているキャラクターたちだが、瑞希もそういった類のものが好きだったのだろうか。
なにはともあれ、そんな他愛もない会話を交わしている内に、瑞希の家に到着した。黒い大きな傘は借りたままに、慶一は瑞希を玄関先まで送り届けた。
「よし。ここまで送れば大丈夫だな。あと……悪いけど、この傘は俺が家に帰るまで貸してもらうぜ」
「はい。先輩も、気をつけて帰ってくださいね」
「ああ。それじゃあ、また明日、学校でな」
そう言いながら、借り物の傘を広げると、慶一は再び雨の降る中へと足を踏み出した。今日はなんだか色々あって、とても疲れてしまった気がする。こんな日は、早く帰って寝るに限るだろう。
雨音だけが聞こえる街の中を、慶一は独り自分の家に向かって歩いてゆく。途中、誰かとすれ違うこともなく、ただ真っ直ぐに家への道を急ぐ。そんな自分の背中をこっそり見つめている者がいることに、このときも慶一はまったく気づいていなかった。