【拾ノ花】 魔窟
学校と言う場所は、時間帯によって様々な顔を持つ場所でもある。昼間は生徒で賑わっていても、夜が近づくにつれ、その賑わいは徐々に影を潜めてゆく。
深夜の学校に至っては、これはもう昼間のそれとは別物だろう。およそ、人の生活している空気を感じさせない巨大な建物の存在は、見る者に言い様のない不安感をかき立てる。数々の怪談話の舞台にされることからも、それは間違いない。
そんな学校において、夕暮れ時という時間帯は、まさに場所が顔を変えるための狭間の時間とも言うことがきた。
逢魔ヶ時、夜とも昼ともつかない中途半端な時間は、古来より魔物に遭遇しやすい時間とも言われている。そんな時間の学校もまた、一種の不思議な空気に包まれた場所となる。
六月の湿った空気の漂う校内を、誰かが歩く音がする。もっとも、それだけならば、別に不思議なことはない。生徒や教師の数が少なくなっているとはいえ、未だ部活に精を出しているような者達もいるのだから。
ところが、そんな日常の空気を避けるようにして、足音は徐々に人気のない方へと向かって行った。長い廊下を抜け、さらには下駄箱で靴を履き替えて、校舎の裏にある細い道へと入る。道はプールの裏手に沿って続いており、その先には小さな倉庫が見える。足音は、そんな古びた倉庫の前まで来ると、ピタリと止まって動かなくなった。
「やれやれ……。まさか、こうも早くこの場所を漁ることになるなんて、思ってもいなかったな」
足音の主が、自嘲気味に呟いた。手にした鍵を弄ぶようにしながら、その人物、瀧川敢はゆっくりと目の前の建物に近づいた。
今、敢が来ている場所は、他でもない映研の倉庫の前だ。同好会の設立以来、実に十数年以上も使われているものだが、中は整理がつかずに色々とごった返している。それ故に、代々のメンバー達から≪魔窟≫と言われて揶揄されてきた場所でもあった。
赤銅色に変色した南京錠に、敢は持っていた鍵を挿し込んだ。くすんだ黄土色の鍵が鍵穴に吸い込まれるようにして入ると、カチッという音がして錠前が外れた。
南京錠を取り外し、敢は倉庫の扉をゆっくりと開ける。古い倉庫ではあったものの、今でもそれなりに使われている場所だ。立ち腐れの小屋などとは違い、見た目に反して扉は簡単に開けることができた。
薄暗く、湿った空気の充満する倉庫の奥から、ツンとカビ臭い匂いがした。以前、合宿の前に正仁と一緒に来たときもそうだったが、さすがに≪魔窟≫と呼ばれるだけはある。手前の方に置かれている小道具や備品は比較的整理が行き届いていたが、奥の方にあるガラクタは、敢にもよくわからないものばかりだった。
映研の会長を務める身でありながら、敢はこの倉庫の中に何が入っているのかを完全に把握しているわけではない。否、彼だけでなく、今の映研のメンバーの中に、この≪魔窟≫の中身を全て把握している者など皆無だろう。
映研ができた当初、この倉庫はまだ映研の物としては使われていなかったと聞く。ただ、十年ほど前から備品や小道具、大道具、更には過去の作品のフィルムを置く場所に困るようになり、とうとう学校側から物置小屋代わりに使っていた倉庫を借り受けたというのだ。
いくら歴史の長い同好会とはいえ、所詮は部活動よりも格下の扱い。そんな団体に学校の倉庫を丸ごと貸し出すなど、よくよく考えれば不思議な話である。道具の置き場に困っている部活同など、他にもたくさんありそうなものなのに、なぜ映研だけが――――決して立派とはいえないが――――こんな大きな倉庫を与えられているのだろう。
「まあ、考えていても仕方ないな。それよりも、今は例のものに関する手掛かりを、少しでも見つけないと……」
他でもない自分自身に言い聞かせるようにして、敢はカビと埃の匂いに支配された倉庫の中へと足を踏み入れた。そして、近くにあった壁のスイッチに手を伸ばすと、それを軽く押して明かりを灯す。
橙色のぼんやりとした光が、倉庫全体に広がった。とはいえ、それでも所詮は裸電球が一つ点いただけのこと。倉庫の中を全て照らし出すには光が足りず、隅の方は未だに薄暗い。奥の方に至っては、山積みにされた道具に邪魔されて、光がまったく届いていないような場所さえもある。
こんなことなら、懐中電灯の一つでも持ってくればよかったか。そんなことを考えながら、敢はゆっくりと倉庫の奥に歩を進めて行った。
一歩、また一歩と歩く度に、床に積もった埃が舞い上がる。正仁と簡単な掃除をしてから一カ月と経っていないはずなのに、なぜこうも簡単に汚れてしまうのか。埃というのはこれほどまでに溜まるのが早いものなのかと、首を傾げずにはいられない。
「しっかし、それにしても、相変わらず酷い場所だな。奥の方に入るには、やっぱりこいつを退けなきゃだめか……」
程なくして、ガラクタの山に突き当たった敢は、半ばうんざりしたような顔をして呟いた。目の前に山積みにされているのは、過去の映研の活動で使われた大道具の類だろうか。作られた当初は美しく飾られた物もあったようだが、今となっては、全てただのガラクタにしか見えない。
山を崩さないように注意しながら、敢は目の前を塞ぐガラクタ達を、一つずつ丁寧に退かしていった。その動きは、初めて道具の山を触ったにしては、やけに手際が良い。
実は、以前に正仁と一緒にこの倉庫へ入ったとき、二人でこの山を退かしたことがある。名目は掃除だったが、なんということはない。このガラクタの山の奥にあると言われていた、昔の映研の人間が作った映像テープ。それを見たくなって、≪魔窟≫の中をひっかきまわしたのだ。
例の脚本も、そのときに見つけた。倉庫の奥の奥に、ガラクタの山に隠されるようにして置かれた桐の箱。その中に封印されるようにして、あの脚本は入っていた。
あの脚本は、いったい誰が、何の目的で書いたものなのだろうか。今更になって、敢はそんなことが機になって仕方がなかった。それは一重に、先ほど会室で慶一に聞かされた話の影響もある。
合宿を終えてから映研の関係者を巻き込んで起きた、不審な事件。ビデオに謎の女が映り込んだことから始まり、最後はメンバーの内、とうとう二人もが殺されてしまった。
一連の事件が全て繋がっている。そんな安易な発想をするほど、敢は子どもではない。しかし、映画という物、果ては舞台芸術という物に携わる人間として、この世界には禁忌という物もまた存在することを知っていた。
映画や演劇に関する禁忌には、いったいどのような物があるか。最も有名なところでいえば、やはり四谷怪談だろうか。愛した夫に裏切られ、毒を盛られて非業の死を遂げた女が、生前の醜い顔のままに、夫に復讐をするという話である。
この話を演じる際は、どれが映像作品か否かに関係なく、必ず神社に祈祷に行くのが慣例となっているという話を聞いたことがある。そうしなければ、役者、裏方の違いを問わず、舞台に携わった者に、漏れなくお岩さんの祟りが降りかかるというのだ。
科学の発達した現代において、心霊現象など馬鹿馬鹿しいお伽話だ。そう、敢も思っていた。しかし、その一方で、未だに自分たちの知らないところでは、様々な禁忌が今もなお受け継がれている。
建築関係者が容易に井戸を埋められず、演劇関係者がお岩さんの祟りを恐れるように、今回の映研を襲った一連の騒動も、何らかの禁忌が関係していたのではないか。だとすれば、あの脚本の出所を知ることで、その答えに近づくことができるのではないだろうか。
ふと、そこまで考えて、敢はガラクタを退かす手を止めた。
自分はいったい、ここで何をしているのだろうか。後輩の言っていたことを真に受けて、本当に呪いや祟りがあると思っているのか。それとも、脚本に込められた答えを知ることで、やはり霊などこの世にはいないと、はっきり証明させたいのだろうか。
結局のところ、その両方なのだろうな、と敢は思った。普段は後輩達の手前、冷静に振る舞っているものの、それでも自分だって常に完璧な人間を演じられるわけではない。不安な物は不安だし、気になるものは気になる。それが敢の考える、人間らしさというものだ。
ガタッ、という音がして、最後のガラクタが取り除かれた。行く手を塞ぐものを全て退かすと、その向こう側から濃い色の闇が姿を現す。倉庫の中に置かれた背の高い棚と、未だ片付けられていない様々な道具。その二つに阻まれて、裸電球の光が十分に届いていないようだった。
闇の奥から、先ほどにも増してカビ臭い匂いが漂ってきた。あの日、自分はこの奥に入らなかったが、正仁は気にせず中へと入った。そして、そんな彼が見つけて来たのが、脚本の入っていた桐の箱だった。
正仁がどうやってあれを引っ張り出して来たのか、今となっては知る由もない。だが、あの脚本に関する手掛かりを手に入れるためには、自分もこの奥に入る他にない。
胸の奥に何かひっかかる物を感じながらも、敢は闇の中へと静かに足を踏み入れた。手前のガラクタは退かしたが、それでも奥には未だ手つかずのガラクタが山のように眠っている。下手に触れると崩れてきそうなものもあるために、迂闊に足を運んで道具の下敷きにでもなったら大変だ。
「やれやれ……。やっぱり、懐中電灯を持ってくればよかったな。これじゃあ、どこに何があるんだか、間近で見なけりゃわからないか」
足元にあるガラクタを拾っては、敢は自分の顔の前に近づけて、それが何なのかを確かめながら呟いた。手に取る物の殆どは、壊れた小道具や破れたノートなどばかり。とてもではないが、使い物になるとは言い難い。
邪魔なガラクタを掻き分けながら、敢は徐々に倉庫の奥へと進んで行った。以前、正仁が入ったときに、酷く荒らされたのだろうか。本来であれば棚に収まっていて良さそうな物までも、かなりの数が床に散乱していた。
このままでは、本当に必要な物がなんなのかさえもわからない。それ以前に、この≪魔窟≫の中に、果たしてあの脚本が書かれた経緯がわかるものなどあるのだろうか。
目の前に広がるガラクタの山を見て、敢は自分の中で気持ちが急速に萎えて行くのを感じていた。本当は一刻も早く不安を取り除きたかったが、その一方で、やはり呪いや祟りといったものに懐疑的な自分もいる。その二つの感情がせめぎ合って、敢に次の行動を取らせることを躊躇わせていた。
やはり、独りで来たのは間違いだった。こんなことなら、後輩の連中も一緒に連れて、みんなで倉庫の整理でもすればよかった。そう思って引き返そうとした矢先、敢の目に、闇の中に佇む一冊のノートが飛び込んできた。棚の隅で、ファイルとファイルの間に挟まるようにしてあったそれは、明らかに今までのガラクタとは違う何かを発していた。
「なんだ、あのノートは……」
裸電球の明かりでさえ僅かにしか届かない場所だというのに、今はやけに周りの様子が鮮明に見える。まるで、ノート自身が呼んでいるように、敢はいつしか誘われるようにしてノートに手を伸ばしていた。ファイルの間からノートを引き抜いて中を開くと、その中身は思ったよりも白かった。
周りはボロボロなのに、どうして中身は綺麗なのだろう。ずっと閉じられたままだったから、経年劣化からも守られたということだろうか。
訝しげに思いながら、敢はノートのページを一枚、また一枚とめくってゆく。どうやら昔の映研メンバーが書いたものらしく、そこには映研で起きた他愛もない事件や、活動の記録が残されていた。
文化祭に向けて、春から映画の作製を始めたこと。夏休みに、みんなで泊まりの合宿をして楽しんだこと。文化祭で制作した映画を発表し、予想以上の好評を得たこと。読んでいるだけで、まるで当時の様子を自分が見て来たように思えるのは、一重にこれを書いた人間に文才があったからだろうと敢は思った。これだけの物を書けるのであれば、脚本家としても、さぞ優秀な人物だったに違いない。
自分がこの学校に入る前に、自分と同じように、映画の脚本に携わった人間がいたかもしれない事実。しかも、それが極めて優秀な人間であったとなれば、一度でいいから会ってみたかったと思うのは人間の性だ。
自分たちが≪魔窟≫で見つけた脚本の正体を探るという目的も忘れ、敢はいつしかノートの中身を読みふけっていた。が、しばらくして、ノートのページもいよいよ最後に近づいたとき、敢の顔に変化が現れた。
「あれ……? これは、いったい……」
突然、ノートに書かれている文字が変わったことに、敢は表情を曇らせた。否、変わったのは、実はノートの文字だけではない。そこに書かれている内容もまた、先ほどの書き手が書いたものとは似ても似つかないくらい拙い表現を用いたものに変わっている。前のページと今のページで書き手が異なっているということは、誰の目から見ても明白だ。
ここにきて、いったいなぜ、ノートの書き手が変わってしまったのだろう。不思議に思いながらも、敢はノートのページを次々とめくり、そこに書かれた内容に目を通していった。
一枚、二枚とページをめくるたびに、敢の額にじっとりと脂汗が浮き出してきた。いや、そればかりではない。ノートのページをめくる手は震え、背中にも嫌な感じの汗がじっとりと滲み出てきているのがわかる。言葉を発することも忘れ、いつしか息さえも飲みこんで、敢はそこに書かれていた内容に釘付けとなっていた。
「なんてことだ……。こいつは……僕達は、こんなとんでもないものを……」
最後のページを読み終えたとき、敢は静かにノートを閉じながら呟いた。
自分が求めて止まなかった、あの脚本に関する真実。その全てが、この一冊のノートに収まっている。中には容易に信じがたい内容も多く書かれていたが、それでも一連の怪異を説明するのに、これほどしっくり来るものはない。
やはり、あの脚本を≪魔窟≫から掘り起こしたのは間違いだったのだ。ビデオに奇妙な女が映り込んだのも、別に撮影場所が心霊スポットの類だったからではない。
諸悪の根源は、あの脚本。自分と正仁が≪魔窟≫の奥から引っ張り出し、≪アジサイの咲く頃≫というタイトルをつけて加筆と修正を行った、あの脚本そのものだ。
もう、これ以上は犠牲を出してはいけない。美幸と、それに正仁まで失った今、映研のメンバーをまとめ上げて守り抜けるのは自分だけだ。そう思い、敢がノートを脇に抱えようとしたときだった。
バチッ、という音がして、倉庫の電気が唐突に消えた。途端に闇が辺りを包み、敢は自分を取り巻いている空気が急に重たくなったのを感じていた。
梅雨時特有の、どんよりとした湿気を含む嫌な空気。それに加え、今はなにやら肩にのしかかるような、なんとも言えぬ重圧まで感じる。まるで、自分が急に深海の奥深くに放り込まれたような気がして、敢は気を張り詰めながら辺りの様子を窺った。
――――ピチャッ……。
どこかで、水の垂れるような音がした。誰もいない暗闇の中、その音は妙に鮮明に敢の耳へと届いた。
この倉庫は古い。それ故に、どこかで雨漏りが起きても不思議ではない。が、それにしても、今の音はなんだろう。こんな埃だらけの密閉された倉庫で、あそこまで大きな水音がするものだろうか。
――――ピチャッ……。
また、音がした。今度はもっと近く、自分の後ろの方から聞こえてきた。
間違いない。この倉庫には、自分の他に、誰かがいる。その誰かが何者なのかは知らないが、少なくともこちらに友好的な存在でないのは確からしい。もしも学校の誰かであれば、一声くらいかけてきてもおかしくないからだ。
暗闇の中、敢は手探りでノートを元の場所に戻すと、代わりに足元に転がっていた棒のような物を拾い上げた。恐らく、角材か何かなのだろうが、こう暗くては判別のしようがない。
もっとも、自分が手にしている物がなんであるかなど、今の敢にはさしたる問題ではなかった。重要なのは、これが自分の身を守る武器になってくれるか否か。ただ、それだけである。
――――ピチャッ……ピチャッ……。
音はゆっくりと、しかし確実に、こちらへ近づいてくる。元より狭い倉庫の中。相手との距離が目と鼻の先になるのも、そう時間はかからないはずだ。
この闇の向こう側にいるのは、果たしていったい何者か。美幸や正仁を殺した犯人か、はたまたまったく別の未知なる存在か。
今は、そのどちらでも構わない。相手が何であれ、それが映研の仲間の命を奪った者だというのであれば……なにより、自分の命を奪おうとしている者だというのであれば、こちらも手加減をするつもりはない。この闇の中、声もかけずにこちらに近づいて来る者など、まともな人間ではないはずだ。
そう思い、敢が棒を握り締めたとき、今まで近づいて来ていた水音が急に止まった。出鼻をくじかれ、思わず辺りを見回す敢。が、当然のことながら、一寸先も見通せないようなこの状況下では、相手がどこにいるのかなどわかるはずもない。
こちらの動きに気づかれたか。ならば、うかつな行動を取ることはできない。下手に動いて位置を晒せば、それだけで危険が何倍にも増す。
じっとりとした汗が背中を濡らし、シャツが身体に張り付いてくるのがわかった。相手が今、この倉庫のどの辺りにいるのか。決して広い場所ではないだけに、向こうの位置がわからないのがもどかしくて仕方がない。
外では既に雨が降りだしたようで、壁越しに微かな雨音が聞こえてきた。途端に部屋の湿度が上がったような気がして、敢は手にした棒が滑らないよう、改めて握り直した。
いったい、自分はどれくらいの間、この倉庫の中にいるのだろうか。先ほど、明かりが消えてから、それほど時間は経っていないはずだ。それなのに、まるで数時間もの長い時間、闇の中に閉じ込められていると感じているのはなぜだろう。
自分は焦っている。今、目の前にある状況に飲まれそうになって、自分自身を見失いつつある。
(落ちつけ、瀧川敢……。いつも通り、クールにやれば、それでいい。それでいいんだ……)
自分自身に言い聞かせつつ、敢は棒を握り締めたまま前へと踏み出した。もう、これ以上は我慢の限界だ。向こうから動いてこないのであれば、こちらから出向いてやる。
靴と床が擦れるような音がして、舞い上がった埃の匂いが敢の鼻を刺激した。口の中が異常なほどに渇き、唾液は粘性の高い塊となって喉に絡みつく。そして、敢が更に脚を踏み出したその瞬間、彼の後ろで何かの落ちる音がした。
(後ろに回られた!?)
いきなり思いもよらぬ方向で音がして、敢はすぐさま後ろを振り返って棒を構えた。だが、そこには誰の姿もなく、真っ暗な闇が広がっているだけだ。
いったい、今の音はなんだったのだろうか。何か、それなりに重さのある物が動いたのは間違いない。何かが上から落ちてくる、そんな音だ。
そう思い、敢はそっと床の方に指を伸ばす。棒を片手に持ったまま、だんだんと闇に慣れてきた目を凝らして、床の上で蠢く物の姿を確かめた。
「なんだ、これは……」
小声ではあるものの、そう呟かずにはいられなかった。敢の指先に触れた物。それは、柔らかい肉と固い殻を持った、およそこの場に似つかわしくない生き物。こんな埃だらけの倉庫には、決していることのない一匹の蝸牛。
いったい、なぜこのような場所に、こんな蝸牛が紛れ込んできたのだろう。不思議に思い、更に腰を屈めて手を伸ばす敢。だが、その行動は、彼を黄泉路へと導く決定打に他ならなかった。
「がっ……!!」
突然、首筋に激しい痛みを感じ、敢は声にならない声を漏らして床に倒れ込んだ。固く、鋭い何かが、自分の首を後ろから刺し貫いたのがわかる。
相手がいつ、自分の後ろに回り込んだのか。それでさえ、敢には見当もつかなかった。今はただ、この全身を襲う激しい傷みと苦しみから解放されたい。カビ臭い空気を鼻に吸い込みながら、敢の目がだんだんと光りを失ってきた。
(くそっ……。このまま死んで……死んで、なるものか……)
既に神経さえ断裂されてしまったのか、身体が思うように動かせない。意識だけは残っているが、今や指先の感覚さえも感じられない。自分の身体が自分の物ではないと思えてしまうくらい、頭と身体が繋がっている感じがしない。
全身を襲う激しい傷み。それに辛うじて耐えながら、敢は震える手で目の前の棚を指差した。既に、脳が身体に命令を送ることはできないはずだったが、それでも敢の指は、微かに震えながらも確かに動いていた。
これでいい。自分はここで終わるかも知れないが、少なくとも、真実に最も近いところまでは辿りつけた。願わくば、その続きを自分の意思を継ぐ者達、即ち映研の後輩たちに託したい。
そこまで考えたところで、敢の意識は完全に闇の淵へと沈んだ。痙攣を続けていた指も動きを止め、後にはかつて人だったものの残骸だけが、静かに横たわっているだけだ。
「これで三人……。あの人の物語は、誰にも渡さない……」
闇の中、未だ血の滴る凶器の鋏を持った人物が、口元に笑みを浮かべながら呟いた。外の雨はますます激しさを増し、誰もいない校庭のグラウンドを叩いている。そして、その雨を全身に受けながら、校舎わきに咲いている紫陽花の花が、いつしか血を思わせる赤色に姿を変えていた。