白日夢のような冷たい手
ケイトは壁に身をもたれかかりながら考えていた。
――なんだかこんなこと、前にもあったような……
ぼんやりと薄暗い牢屋を見渡すがこの光景に覚えがあるわけではない。
今は何時頃だろうか。時間の感覚がわからなくなってきた。ろうそくはいつの間にか長さが変わっていたり補充されていたりして余計にわからなくなる。
いつの間にか声は聞こえなくなっていたがまた聞こえてきそうな気がする。どこか聞き覚えのある、低い声。
手首を動かすがキツく擦れるだけで成果はない。手首が熱を持っているようで意識も朦朧としてきた。
先ほど食事と言って男が硬いパンと水を持ってきたが食べる気になれなかった。この状況でおとなしく口にするほど俺も馬鹿ではないのだが結局無理やり詰め込まれ気持ち悪い。頭が割れるように痛く、やっぱり何か薬盛られたんじゃないかと思うがこの衛生もよろしくない環境だから薬じゃなくてもこうなるのかもしれない。
苦しい。
熱い。
渇く。
飢えが、止まらない。
突然の飢餓感はあっという間に体中を支配し、それ以外のことを考えられなくなる。
「はぁっ……はぁ……」
乱れる呼吸とともに聞こえるのは誰かの足音。
「…………」
声は聞こえない。おそらくこちらをじっと見ているのだろう。
しかし視界が歪んで誰がいるのかもよくわからない。ぼやけた世界は俺を拒絶する。
声も出ないほど喉が渇き、掠れた息しか出なかった。
「……なるほどね」
「だ……れ……」
ようやく絞り出せた声は相手に聞こえているのかはわからない。ゆっくりと、牢の鉄格子に近づいて、鍵を開ける素振りを見せず中に入ってみせた。
「薬、結構盛られてるね。命に別状はないだろうけど……もう一人の『君』が今にも出てきそうだ。悪いけど、僕は君をここから連れ出せるほどの余裕がなくてね」
何を言っているのだろう、この人は。考えられない。そもそも俺は、なんだっけ。
「もう一人負担してる分飢餓感と……薬のせいでただでさえガタガタな封印がボロボロになってる、か……これは体も苦しくなるわけだ」
誰かはしゃがみこんで俺の顔を覗き込んでくる。辛うじて、相手が男だということくらいしかわからない。
「正気を失わないで。しっかり意識を保って。僕はこれくらいしか手助けできないけど、大丈夫。君を助けてくれる人がもうすぐ来るから」
声は穏やかで優しく、どこか悲しげだ。しかし相変わらず視界がぼやけてどんな表情かはわかりやしない。
すると、肩のあたりにひんやりとした手が置かれる。この人の手だろうか。死人のように冷たい。
「『彼』の存在が詳しく分からないけど……とりあえず、飢餓感だけは抑えておくから、もう二、三日耐えて。どうしてもきつそうなら『彼』の声を聞いてみたほうがいいと思うよ」
――まあ、頼った結果どうなるかは、保証しないけど。
目が覚めると自分以外誰もいない牢の中。
なぜか先程まで誰かに話しかけられていたような気がする。
「……苦しくなくなった?」
飢餓感で苦しんでいたはずなのにそれが収まっている。不思議なこともあるものだ。
夢だったのだろうか。妙に現実味がない。けれど食事のあとからの苦しさは間違いないはずなのでおそらく、薬を盛られたのは間違いないはずなのだが……。
「考えてもわかるわけないか……」
助けが来たとしたらこの牢から出れているはずなのだから。
そう自己完結すると、急激な眠気に襲われ、ケイトはゆっくりと目を閉じた。
アニムスの幹部であるルーストはケイトを捕らえている奴隷商会の建物のどこかの廊下を歩いていた。目的地は特にない。いわゆる散歩だ。
この建物は奴隷市場でも大きな商会の利用する施設で、奴隷の管理などもこの施設の地下や特別室で行っている。好き者の貴族などと交渉や相談をしてのぞみの奴隷を売買する。そんな商会と繋がりを持つのはアニムスであるからこそでありルースト自身は偉いわけではない。幹部といってもただ強いだけだからだ。
強い、と自己主張するのもどうかとルーストは思うが事実アニムスの中ではそうなのだから仕方ない。もちろん、彼の一応相棒であるジェシカはルーストより遥かに強い。
ジェシカはあんななりで性格も苛烈だが実年齢はそれこそ英雄たちと同じ千歳を超える。しかし、頭が少し……アレなのだ。
もちろん好きでコンビを組んでいるわけではない。上司の命令に逆らえないのはどこだって同じだ。
彼ら、アグニとクァイほどではないがルーストとジェシカは仲が悪い。というよりジェシカがルーストを嫌っている。理由はいくつかあるが大きなものはジェシカが心酔している上司のような存在――エヴェンに対してルーストは到底部下とは思えない応対をするからだ。敬語は使わない、呼び捨ては当然、謝罪は上っ面……ジェシカでなくても怒るのは当然である。
しかしルーストにとってはエヴェンなんて敬語を使うに値しない相手だと心の底から思っているだけだ。それをエヴェン本人に伝えたところ「別に私は気にしないけどな」と返された。つまりジェシカだけがいちいち気にしすぎなのである。
ちなみにクァイも「不敬極まりない!!」と怒っていたがエヴェンが許可して以来特に何も言ってこない。アグニはそのことに興味はないらしく会話もそんなにない。
とにかく、ルーストはアニムスの中でも異質な存在なのだ。
ちなみに建物内を散歩しているのに理由はあるようなないような。
「ちょっと!」
後ろから声が聞こえる。が、ルーストは無視をした。
「ちょっと! 待ちなさいちょっと!!」
再び無視。そして声の主から離れるように早足になる。
「ちょっと! ねえちょっと待ち、ちょ、待っ――」
なんだか気の強かった声色がだんだん不安げになっていく。その変化を気にしつつもルーストは再び無視。
「待って! ちょっと待ってよぉ! ねーぇー! 待ち……待ちなさいってばぁ! 待って……ふぇぇ……」
半分泣き声が混じってきた。もう少し様子をみようと更に無視しつつ廊下を進む。
「待ってよぉ……ううっ……聞いてってばぁ……ひっく……待ちなさいよぉ……ぐすっ……ふぇぇん……」
よし、泣いた。
ルーストはようやく足を止めて振り返り、涙でぐしゃぐしゃになった彼女――ジェシカを見た。
「何?」
「ひっく……うぅ……エヴェン様に……ひっく……ご報告したら……ぐすっ……」
「わかったから一度落ち着いて」
これが千年生きている魔女にも等しい女の哀れな姿である。
ルーストはジェシカが案外泣き虫なのを知って以来こういう機会に泣かせて楽しんでいた。決して日頃のストレス発散ではない。
ジェシカは目をごしごしと服の袖で拭いて鼻元を抑えながらくぐもった声で続ける。
「オークション当日、どうせフィアンマの小僧の仲間が救出にくるだろうし、私たちはその混乱に乗じてフィアンマの小僧持ち出せって。買い取っても構わないけど、自腹切れって……」
エヴェンは本当にこういうことに関しては甘い気がする。そもそも別にどう転ぼうが気にしないのではないだろうか。エヴェンからしてみればこの商会との繋がりもなくなれば所詮それで終わり、程度の認識なのかもしれない。
「ってことは、ミラ・エルヴィスが来るってことだけど」
その瞬間、泣いていたジェシカの瞳に仄暗い光が灯るのをルーストは確かに見た。
「ええ……その時が楽しみよ……あいつを……ミラを殺すのは私なんだから……」
泣きはらしていた少女から一転、狂気を孕んだ女の顔へ。
そのギャップをルーストは嫌いではなかった。虐めがいのあるジェシカがはっきりと憎しみで表情が黒く染まる瞬間が一番可憐だからだ。
「オークションまでにミラたちはわざわざ待つのかしら」
「待つだろうね。いくら急いでいたとしても協会の介入もろくにできないこの国で暴れるわけにもいかないだろうし……何より協会が止めに入る」
「……明日、すぐに狂鳥を送ったほうがいいかしら。あいつも――」
「正直今すぐ、といいたいけど……確かに明日の朝じゃないと難しいね」
エヴェンからの命令である場所に行った二人はその際に転移水晶を使っており、狂鳥ことカルラをアニムス本部に送るためのエネルギーが残っていない。計画性がないと言われればそれまでなのだがエヴェンも「牢で多少でも弱らせて、早くて明日でいいよ」と言っていたためカルラを送ることをそこまで重要視していなかったのだ。
現在、転移水晶を使うためのエネルギーを充填しているため、明日の朝――どちらかといえば昼に近い時間には使えるようになる。
エヴェンはこの件に関しては「成功したなら運がいい」程度の認識らしく、そこまで急かしたりはしてこない。むしろ「へーすごいじゃないか。頑張れ」という感じだ。二人に直接行かせた任務のほうが重要だったらしい。
そもそも、協会の若手最強、もしくは英雄たちすら凌駕する戦闘能力を持つカルラを捕らえられたことがそもそも奇跡だとアニムス側も思っているらしく、今回、ルーストとジェシカがどこかで失敗して逃げられても「まあ、そうだよな」くらいにしか考えないだろう。
だからこそジェシカはカルラをエヴェンに献上して喜んでもらおうとしている。
「そういえば協会のあの操ってるやつ……今どうしてるの?」
「あれは今フィアンマのやつの地下牢の入口で監視させてる。まあ、正気じゃないからどれだけ効果はあるか微妙だけど食事以外で近づくやつは多分追い払うよ。さっき様子見てみたけど僕には無反応だし、洗脳はちゃんと効いてるみたいだね」
ケイトを見張るというよりケイトに近づく人間を監視しているようだ。
「あれも一緒に送る?」
「どうかしら。エヴェン様は好きに使っていいと仰っていたけど……正直、私あいつ嫌いだわ」
得体の知れないというか、今にも寝首をかきそうな雰囲気が恐ろしいのだろうとルーストは思う。確かに、と考えながらルーストは言う。
「とりあえず、フィアンマ強奪するまで持ってたほうがいいかもしれないね。戦力になるし」
「そう、ね」
少し不満げだが無理やり納得してジェシカは少しそっぽを向く。
落ち着いているときは本当に普通だな、とルーストは思うが口にはしない。不機嫌の火種になるからだ。
「ていうか、君。報告書目を通してないだろ」
「……」
そっと、目をそらすジェシカ。横顔は面倒の文字が浮かんで見える。
「ほら、行くよ」
報告書が待っている二人が借りた部屋へと向かうためにルーストはジェシカの手を取る。そのさりげない行動にジェシカは驚き、目を丸くした。
「……何?」
「あんたって……手が冷たいのね。死人みたい」
しみじみとルーストの手を見ながら言うジェシカに彼は適当に答えた。
「俺は心優しいからね」
ちなみにルーストは実年齢も若いです。




