記憶の歪み
長居なんてできるはずもなく、すぐに風呂から上がって受付に戻ると受付の男性と仲裁してくれた女性、そして脱衣所で遭遇した女性がいた。
「いやー、ごめんごめん。そういえば案内板外れてたんだった」
「モニカちゃんが清掃直前に今仕事終わってどうにか入りたいって言うから特別に少しだけ許可したんだけどまさか大浴場の方に来ちゃうなんてねー」
受付の男性と女性が笑いながら俺たちに言う。脱衣所で遭遇した女性――モニカさんは今にも人を殺せそうな目で受付の二人と俺を睨む。
「僕も時間ギリギリで頼んだのは悪かったとは思うけど、案内板外れてるならちゃんとコレ案内くらいしてよ」
「いやほんっとごめん。お詫びに売店のドリンク無料券あげるから許して?」
男性に小さなチケットを渡され、モニカさんはつまらなさそうに受け取る。あの、二枚とも貰うんですか……? それ一枚俺のなんじゃ。
「何?」
「あ、いえ……」
睨まれたので目をそらす。怖い。
「ほら、行くよ」
「え、あの」
「お前売店どこにあるかわからないだろ。案内してやるから」
「あ、えっと、ありがとうございます」
やや無理やり連行されたのはホールのような広い休憩所。
その端に協会売店第5支部と書かれた場所がある。
「何飲むの」
「えっと……じゃあ」
何があるかよくわからないが目に入った牛乳を指差し、「ふん」と返された。モニカさんはオレンジジュースを無料券で注文し、どちらも瓶に入った飲み物をそれぞれ受け取った。
「ゴミ箱そこ」
それだけ言うと、モニカさんはその場から去ろうと背を向ける。
「あの、えっと……すいませんでした」
案内してもらったこともそうだが、知らなかったとは言え脱衣所で風呂あがり直後に遭遇してしまったのでさすがに申し訳ない。裸ではなくてもやっぱり男がそんなところにいたら驚くのは当然だ。
「……何謝ってんの」
「いや、その、見てしまったので……」
「……別に」
いやでもさっきマジギレしてたじゃないですか、と言いそうになるが火に油だ。やめておこう。
「もういい? 僕帰るから」
「あ、えっと……!」
つい引き止めてしまい、「あ?」と睨まれる。辛い。
「いや……あの時はありがとうございました」
オークションのとき、よくわからず別れたが色々手伝ってくれたらしいモニカさんとほかの協会員の人。また会えたし、これも何かの縁というやつかもしれない。
「俺、しばらくここでお世話になるのでまたよろしくお願いします」
「……ああ、お前らくっだらない試合するんだっけ? 僕には関係ないしお前と積極的に関わるつもりないから」
だいぶ嫌われているらしい。これは退いた方がいいのかもしれない。
帰り道はきたところをそのまま戻ればいいだろうから迷うこともないだろうと踵を返すと、モニカさんが聞こえるかどうかくらいの小さな声で呟いた。
「――お前はあの時のことを覚えてないのか?」
あの時、って――なんだ。
『ほら君! 逃げ――』
『誰だよお前』
――あれ?
脳裏に浮かんだ光景は自分の手でモニカさんの胸ぐらを掴み上げている。
『知らねぇうちにごちゃごちゃと増えやがって……なんだ、この状況。どれが敵かなんてわかりっこねぇな』
――いつこんなことあった?
モニカさんを床に叩きつけ、蹴り飛ばす自分。手には彼女が身につけていたチェーンとそれに通された指輪。それを自分のポケットにしまい――
『ま、全員殺せばいいだけか』
――これは、誰だ。
「おい」
気が付くとモニカさんが目の前にいてじっとこちらを睨んでいた。フラッシュバックじゃない、現実の光景に戸惑いながら自分の汗と呼吸が乱れていることに気づき唖然とする。
「急に黙ってどうした」
「あ、いや……ちょっと頭がクラっとして……」
「ふーん……」
それほど関心がないのかそれだけ言うとモニカさんは背を向けて俺が戻るべき道とは反対に進む。
「ま、次なんてないことを願うよ」
そうしてモニカさんの背を見送り、頭を抑えながら帰路につく。
あの記憶はなんだ。
思い、出せ。
俺は何をした――。
『「吠えろ、喚け、嘆け。血を求めるならば我が敵から奪え。煮えたぎる其の血は貴様の餌だ」。喰らい尽くせ! ベスティア・ディ・フィアンマ!!』
『さあ? 「俺様は“可能性”であって俺自身だ」』
『さあ、来いよ! 全員まとめて――』
『ケイト、くんっ……お願い、そんなケイト君、見たくない……!』
『――……セーズ』
「俺、誰?」
自分の声、自分の姿。記憶にはないけどたしかに脳裏に浮かぶ“実際に起こった出来事”。
顔に触れると自分の顔が引き攣ってるのがわかる。自分を見失いそうな恐怖と、フラッシュバックする自分の意識がなかったはずの時の記憶が溢れ出てくる脳の混乱。
いつの間にか持っていたチェーンの指輪ペンダントはモニカさんのものだった。モニカさんが自分を嫌うのはあのことが原因だとしたら納得がいく。
自分はなんだ。何者だ。
半ば朦朧としながらフラフラと外に出る。戻るべき部屋ではなく、夜空が見える中庭らしき場所。
澄んだ夜空は星が瞬き、雲一つない。
誰もいないその場所で、突き動かされるように手を空中にかざす。
「……『吠えろ、喚け、嘆け。血を求めるならば我が敵から奪え。煮えたぎる其の血は貴様の餌だ』。 ベスティア・ディ・フィアンマ」
バチッと火花の弾けるような音と空間の軋む感覚。
魔法詠唱は意味を持たない言葉であれば何も起こらない。意味はあるが何らかの要因が欠けてしまっている場合、暴発か不発に終わる。
バチッバチと弾ける音から次第にガラスにヒビが入っていくようなものへと変わり、体が悲鳴をあげ始める。
止めようと思っても止めることなどできない。
「あ……ぐっ……」
喉が焼けそうな苦しみと体が空間ごと捩じ切られそうな痛み。
『ごめんなさい。ごめんなさい……もうゆるして』
全部、焼かないと。
消し炭になるまで――
『馬鹿野郎が』
誰かが嘲るように笑う。それと同時に体への負荷が消え、空間の異常も消失する。
『俺様の詠唱使ったところでうまくいくわけねぇだろ。たかが記憶が混ざった程度で錯乱しやがって』
痛みは消えたが立っていることができず、そのまま柔らかい芝生に倒れこむ。
『変わりたいなら、そのままじゃ無理だ』
声が遠のいていく。
誰かの声は消え、静かな中庭で他に聞こえるものは自分の息だけになり、動かない体を地に預けてぼんやりと先程までのことを思い出す。
――俺、なんで、ここにいるんだろう。
――何も力のない俺に、価値なんてあるのだろうか。
――強く、なりたいなぁ。
協会宿舎の廊下をウェルスは歩く。
「……」
協会内で嫌な気配がしたので中庭に出てみればとても見覚えのある人影が見えた。
ミラの弟子の一人の、ケイト・フィアンマ。
フィアンマ最後の生き残り。それ以外に価値はない少年。能力も才能も最底辺だ。
意識を失っている理由まではわからないがこのまま放置するわけにも行かず、肩に担ごうとケイトの体を掴む。
瞬間、ウェルスは強烈な頭痛に襲われ、咄嗟に頭を押さえた。
「今、のは……」
ケイトにずっと抱いていた違和感。呪いと封印で雁字搦めになったボロボロの身体は少年の身には過ぎたもので、成長が阻害されているのもこれだとウェルスは思っている。頭痛の原因は封印が解けかけているせいで異常を知らせるアラームのような魔力の波動がウェルスに届いたのだろう。恐らくミラも気づいているはずだ。
しかし、この封印を下手にいじる方が悪手だ。術者が恐らくあの二人ならば余計に。
「……だからミラのそばに置いておきたくないんだよ」
いつか必ず災禍をもたらすこの少年。協会で飼っていればそうそう問題は起こらないはずだ。
ミラと引き離し、飼い殺しにしてしまえば丸く収まる。しかし、彼らは決してそんな選択をしない。
「必ず、お前たち弟子を負かせてやるよ。俺の選んだやつらがな」
――そして協会という居心地のいい籠で飼ってやる。
既に候補はあらかた決まった。あとは本人からの返答待ち。
ウェルスはケイトを抱え、送り届けるためにミラたちが使っている部屋へと向かった。
ちなみに例の指輪はモニカがナツキ経由で取り戻してます。




