幽霊VSアホ強盗
「あんたが悪いんだからね!」
包丁をキツく握りしめている女がヒステリックに叫んでいる。
「あんたが…あんな女と結婚するなんて言うから!」
ずっと付き合っていた男が、突然、妊娠した自分より年下の女と結婚すると言い出したため、この包丁女は激怒している。
男は額に変な汗を滲ませながら、わなわなとしている。
まぁ確かに浮気は悪いと思うわ。
しかも妊娠させてもうてるし。
でも、殺されるほどの非ではないんちゃう?
経験したことないからわからんけど。
浮気した女と結婚するという理由のみで殺されかけているこの男は、今何を考えてるんやろか。
包丁女、たぶんあんたがそんなんやから浮気されたんやと思うで。
もっと、なんて言うか、ほら。
なぁ?
あたしは今、エンマから報告を受けた未来の殺人事件を阻止しようとしている。
場所は、とあるマンションの一室。
厳重なセキュリティーのマンションにも関わらず、あたしは難なく侵入した。
だって、壁とか通り抜けられるんやもん。
でも、宙に浮くことは出来ひんから、住人と一緒に大人しくエレベーターに乗って参りました。
だって1人やったら、エレベーターに乗り込めても、ボタン押せへんから動かんねんもん。
幽霊が出るという話はたまに聞くけど、もしかしたらあたしみたいに宙に浮けへんからエレベーターを使ってるだけなんかもしれへんと思った。
自分を怖がっている人間を見た幽霊は、申し訳ない気持ちになってるんかも。
あ、ごめん。
ビビらすつもりはなかったんやけど。
的なノリで。
殺人を食い止めるんは結構な事やけど、こういう痴話ゲンカの延長みたいなんはちょっとイヤやねんなぁ。
なんか…
こういう女を見ると、胃にもたれる。
あたしも気ィつけよう。
って、もう死んでるし痴話ゲンカもくそもないか。
「やめろ!俺が悪かった!でもやっぱり…俺は彼女の事が好きなんだ!」
あ〜ぁ。
どう考えても最後のいらんやろ。
逆なでするだけやで。
「殺す…あんたを殺してあたしも死ぬー!!」
ほら、みてみぃ。
包丁女が浮気男に猛烈な勢いで突進していく。
男は恐怖のせいで足が動かんようになったんか、その場で固まっている。
情けない男や。
元々は自分で蒔いた種のくせに。
あたしは、包丁女の手元に、洋服だんすの上に置いてあった写真立てを飛ばした。
写真立ては女の手に命中し、女の手から包丁が放れた。
今度はその包丁を部屋の隅に追いやった。
拾われたらアカンからな。
銀行強盗の時とおんなじやり方。
包丁女は、包丁が吹っ飛んだ事には気付かず、床に放り出された写真立てに目を奪われている。
そこには、包丁女と浮気男が仲良く手をつないで写っていた。
2人とも表情は明るい。
幸せそうに笑っている。
そんな大事なもの、ふっ飛ばして悪かったかな…
ちょっとだけ反省した。
包丁女の目にはいっぱい涙が溜まっていた。
女の手から包丁を放すためだけに投げつけた写真立てが、意外な効力を発揮してくれている。
もう殺意は感じひん。
「ごめん…なさい…」
包丁女が泣き崩れた。
「もういいんだよ」
浮気男が包丁女の肩に手を置いて言った。
この男、腹立つ。
自分は全面的に善やと思っとる。
自分は一切悪くないと思っとる。
包丁女の押し付けがましい愛も確かに悪い。
でも、包丁女と付き合ったまま浮気に走ったんは完全に浮気男が悪い。
包丁女がいやなら、キッパリ別れてから他の女と付き合うべきやったんや。
……あたしはなんでこんな事考えてるんやろ。
コイツらの恋愛事情なんかどうでもええやん。
「ルイ」
エンマの声がやけに真剣。
イヤな予感がした。
「はい」
「コイツらはもう大丈夫だから、次の仕事だ」
「次はどこに行ったらいいの?」
「俺が連れてってやる。目つむれ」
あたしは素直に、エンマの言うとおり目をつむった。
すると、すぐに温かい光のようなものに包まれた。
…ような気がした。
だって目つむってるからわからんねんもん。
「目、開けていいぞ」
それは一瞬やった。
宙に浮いた感じもなかったのに、もう着いたらしい。
閻魔ってやっぱすげぇな。
ゆっくり目を開けると、そこは知らん場所ではなかった。
この間の銀行のすぐ近くの住宅街。
と言っても高級住宅街では絶対にないから、真新しい家が建ち並んでるわけではなく、耐震強度なんて最低ランクやろうと思われるような古い家が並んでいる。
年寄りがいっぱい住んでそうな雰囲気。
「ここ?」
「そうだ」
「何が起きるんか、教えてもらっていいですかね」
エンマは少しの間沈黙した。
「銀行に、お前の事が見えたばあさんがいただろ?」
「うん」
「あの人が襲われる」
「え…誰に…?」
あたしは、ちょっとしゃべっただけのあのばあちゃんが結構好きやった。
だから、あの人が襲われるって聞いて動揺した。
もう会う事はないやろうって思ってたし。
「強盗」
「また?」
死ぬ予定やった日にせっかく助かったのに、また襲われるなんて…
やっぱり未来は変わらへんって事なん?
「世の中にはついてねぇヤツもいるって事だ」
「時間は?」
刑事のような聞き方になってしまった。
「午後8時43分」
現在の時刻、午後8時10分。
あと約30分。
「あの人の家、どれ?」
「外壁が茶色で瓦屋根の家だ。そこから見えるだろ?」
エンマが言った家はすぐにわかった。
今いる場所から10メートルくらい離れた場所。
家の前まで行くと、思ったよりも遥かに大きい事がわかった。
「でかっ。あのばあちゃん、金持ちやったんや」
庭に池でもありそうな雰囲気。
鯉とか飼ってたりして。
有り得る。
石で出来た表札には『村瀬』と彫られている。
3段ほどの石段があり、それを上がると門があった。
門を通り抜けて、20歩ほどあるいてやっと玄関に到着する。
門と玄関の間は庭のようになっていて、そこには犬小屋があった。
『小次郎』とやたら達筆で書かれた板がかかっている。
中を覗いてみると、やる気のなさそうな柴犬が目を閉じて寝そべっていた。
「よう、コジロウ」
なんとなく声をかけてみた。
すると、コジロウはチラリとあたしを見た。
数秒間見つめ合った後、コジロウは何事もなかったかのようにまた目を閉じた。
元々あたしの事が見えてへんのか、あたしに興味がないんかはわからへん。
でもたぶん後の方。
コジロウにはあたしが見えてる、そんな気がした。
あたしは壁でも何でも通り抜けられるわけやから、別に玄関から入る必要もないんやけど、やっぱり玄関から入るんが礼儀やと思った。
幽霊でもそれくらいはねぇ。
ただ、いくら幽霊とはいえ、不法侵入には違いない。
礼儀もくそもないやないか。
いや、もうホンマにごめんなさいね。
でも、インターホンが押せへんからその辺は勘弁してください。
押したら押したでまたおかしな光景が広がるんやしさ。
「お邪魔しまぁす」
とりあえずあいさつはしてみた。
自分にしか聞こえへんくらいの小っさい声で。
頑丈そうな引き戸を通り抜けると、そこには信じられへんくらいの広さの玄関が広がっていた。
なんや、コレ。
何城やねん。
靴を脱いで家の中に入った。
常に靴ははいてるんですよ。
裸足で歩き回る訳にはいかんからね。
村瀬のばあちゃんの家の中は、なんとなく懐かしい匂いがした。
おばあちゃんの匂い…。
ばあちゃん自身がそうであるように、家の中も品がいい。
というより、余計な飾りものが一切ない。
虎皮の絨毯とか、シカの頭の剥製とか、ゴージャスなシャンデリアとか、猟銃とか日本刀とか、昼ドラの金持ちの家にあるようなものはなく、すごくスッキリしていて気持ちがよかった。
長い廊下を歩いて、突き当たりにリビングがあった。
リビングというより、居間って言った方がいいんかな。
薄型の液晶テレビではなく、箱のような四角いテレビが堂々と居座っている。
広々とした畳の上には、大きなコタツがあった。
今の時期にはまだ必要ないので、コタツ布団はない。
何が入ってんのかわからん小さい棚の上には写真立てが2つ並んでいる。
白黒でなかなか男前の男の人が写っている写真と、カラーで満面の笑みを浮かべている男の人が写っている写真。
「白黒の方が旦那で、もう一つの方が息子だよ」
『カラー』という表現をド忘れしたに違いない。
でも、気付かんかったフリしとこ。
ばあちゃんが、お茶とせんべいを持って今に入ってきた。
今まで台所にいたらしい。
コタツの上に湯呑みが2つ置かれた。
このばあちゃん、あたしが家に勝手に入り込んでる事をとっくに知ってたみたい。
「幽霊は、お茶飲める?」
ばあちゃんがゆっくりと言った。
どうなんやろ。
死んでからは腹も減らんし、何にも食べてへんからなぁ。
「今日だけ特別に飲めるようにしてやるよ。どうせだからせんべいも食っていいぞ」
エンマが言った。
よかった。
感謝です。
せっかく出してくれはった物に手をつけへんのはマズいし。
って、まぁせんべい食いたいだけやけど。
「飲めるらしい」
ばあちゃんはニッコリ笑った。
あたしがお茶をすすってる間、ばあちゃんはずっとあたしの顔を見つめていた。
「おいしい?」
「うん」
完全におばあちゃんと孫の会話が成立している。
あたしはそれが嬉しかった。
久しく触れていない温かさ…
「ところであんた、一体何しに来たんだい?」
ばあちゃんは、見た目と言葉遣いのギャップがある。
そんなところもまた良い。
「それはちょっとまだ言えへんのやけど」
未来を人間に教えたらアカンってエンマに言われてる。
未来を事前に知り、それを変えていいのは、神様と閻魔とあたしのような立場の幽霊だけなんやって。
ちょっと優越感。
あたし、結構すごいやろ?
「まぁ、とにかくゆっくりしていきなさい。あんたは悪いもんじゃなさそうだから」
「ありがとう。ばあちゃんさ、村瀬さんっていうんやね」
「そうだよ、村瀬菊乃。あんたは?」
「ルイ」
「そうかい」
時刻は午後8時40分。
あと3分。
「ルイ、そろそろ来るぞ」
エンマが心配そうに言った。
でもあたしは大丈夫。
だって結構強いから。
「わかってる」
ソワソワしてる訳でも緊張している訳でもないのに、心臓がドキドキしてる。
最近は人助けが楽しくて仕方ないから、ワクワクしてるんや。
武者震いってやつ?
あたしにはもう、命の危険なんてないはずやから。
テレビで流れている清涼飲料水のCMが携帯電話のCMに切り替わった瞬間、その時はやってきた。
突然、玄関の方からけたたましい破壊音が聞こえた。
鍵か戸自体をぶっ壊したに違いない。
あんなに頑丈そうな戸をぶっ壊せるやなんてよっぽどの怪力か、あの戸が見た目より頑丈ではなかったんか。
「何の音?」
ばあちゃんが慌てた様子を見せずに言った。
このばあちゃん、ちょっと鈍いんかも。
銀行でも、強盗が入ってきた事に一番最後に気付たんがこの人やし。
ばあちゃんはゆっくりと立ち上がった。
足が悪いみたいで、立ち上がり方がぎこちない。
玄関の様子を見に行くために立ち上がったらしい。
「あ、ちょっと待って。あたしが見に行ってくるから」
どうせあたしの姿は向こうに見えへんやろから恐々行く必要もなく、堂々と強盗の姿を確認しに向かった。
ヤツらはまだ玄関にいた。
「誰かいるかな」
「別にいても構わねぇよ。殺っちまえばいいんだから」
強盗たちは声を潜める様子もなく、ニヤニヤ笑いながら話している。
あたしの想像通りの強盗さん。
1人は営業マンのような声で、もう1人はいかにも悪そうなガラガラ声。
2人ともサングラスをしていてハッキリ顔は見えへんけど、結構若いという事はわかった。
もしかしたらあたしとあんまり変わらへんかも。
強盗はまだ、ばあちゃんがいることに気付いてない。
出来れば気付かんといてほしいんやけど、まぁそれは無理な話。
「すっげぇ金ありそうじゃねぇ?」
営業マンが卑しい声で言った。
あたしはその声に寒気がするほどの嫌悪感を感じた。
「だからこの家にしたんだろうが」
ガラガラ声がイライラしたような声で答えた。
2人は最初に応接室のような部屋に入った。
応接室て。
どんだけ金持ちやねん。
「おい、全部ひっくり返して根こそぎ持って帰るぞ」
ガラガラ声は言った。
営業マンは締まりのない顔でうなずいた。
ソファやテーブルを全部ひっくり返しても、金目のものは出て来なかった。
透明のガラステーブルまでひっくり返した時に、あたしはコイツらの頭の悪さを認識した。
だって、ひっくり返さんでも下丸見えやん。
次に2人が入ったんは寝室。
2人がかりで、セミダブルのベッドをひっくり返した。
ばあちゃん、ベッドで寝てるんや。
お年寄りは布団で寝るもんやと思い込んでたから、単純に関心した。
ここでも収穫はなし。
寝室を出てすぐ隣には階段がある。
2人は迷わずに2階に上がった。
もちろんあたしもついていく。
まだ1階探し終わってへんのに2階行くとか、なんぼほど要領悪いねん。
いちいち一緒に行動せんでも手分けして探せばいいのに。
やっぱり2人ともアホや。
こんなアホに殺られる予定になっているばあちゃんが気の毒でしゃあないわ。
結局、2階ではなんにも見つけられへんかった2人はまた下におりた。
2人が部屋を荒らすのはおとなしく見てたけど、もしなんか盗ろうとしたら阻止するつもりやったのに。
不法侵入の時点で追い返すべきなんかもしれんけど、出来るだけ未来を変えるなと言われているので仕方ない。
だからあたしは、窃盗とばあちゃんの殺害のみを阻止しようと思う。
エンマから具体的な指示はいつもないけど、あたしの行動に文句を言った事はないから、あたしの判断は間違ってないんやろう。
2人は徐々にばあちゃんのいる居間に近づいている。
そろそろばあちゃんに強盗の事を知らせようと、あたしは一端居間に戻ることにした。
「遅かったね。何だった?」
あたしが居間に戻ると、ばあちゃんは暢気にお茶をすすっていた。
やっぱりまだ強盗に気付いてない。
「ばあちゃん、落ち着いて聞いてな。
今、この家の中に強盗が2人おるねん。
2人ともまだばあちゃんがここにいる事に気付いてない。
でもだんだんここに近づいてるねん」
あたしは、ばあちゃんを慌てさせへんように慎重に話した。
「そうかい」
ばあちゃんは他人事のような返事をした。
いや、もし他人事であっても強盗が入ったと聞けば多少は慌てるはずや。
予想以上に鈍感なんか、ものすごい肝がすわってるんかどっちかや。
どっちにしてもすごい。
「貴重品はどこにしまってんの?」
あたしにはこの家の財産を守るという仕事もある。
そう思ったら、また気合いが入ってきた。
「全部この部屋だよ」
ラッキー。
手間が省ける。
だってもうあのアホな強盗についてまわらんでいいし。
アイツら見てたらイライラすんねん。
「あんた、もしかしてまたあたしを守るために来てくれたのかい?」
ばあちゃんはちっこい体をあたしの方へ向けた。
これは…
言ってもいいんかなぁ。
「まぁ、そんな感じ」
問題ないと勝手に判断した。
エンマにまた怒られるかもなぁ。
「ありがとうね」
「まだ守りきったわけじゃないから、礼は早いで」
それでもばあちゃんはニッコリ笑った。
ばあちゃん、あんたが襲われるんはこれからやねんで。
もうちょっと自覚してほしいもんやわ。
「なんだよこの家。全然金ねぇじゃん」
居間の隣にある台所から営業マンの声が聞こえてきた。
それでもばあちゃんは落ち着いてる。
ここまでくれば、鈍感とかでは絶対にない。
恐れ入りました。
「もっとちゃんと探せよ。もう、あとこの部屋だけなんだからよ」
ガラガラ声がそう言いながら、濃紺の暖簾をくぐって居間に入ってきた。
ガラガラ声とばあちゃんの目がピッタリと合った。
「あ、ヤベ」
ガラガラ声は驚きのせいか、ガラガラではない声を出した。
にしては、出て来た言葉が軽すぎる。
絶対にヤバいとは思ってない。
ガラガラ声はばあちゃんから目を逸らさへんかった。
もちろんばあちゃんも。
「この家には何もないよ。さっさと帰んな」
いつもの柔らかい声とは全然違う。
「そんなわけにはいかねぇよ。俺らだってこれで食ってんだから。それに、この家に何もないなんてありえねぇ」
ガラガラ声は口角の片側だけをつり上げて笑った。
卑劣な笑い。
嫌い。
「おい」
ガラガラ声が、まだ台所を物色している営業マンを呼んだ。
「ばあさんがいた。殺るぞ」
「OK〜」
営業マンもガラガラ声と同じ笑い方をした。
さっきまでどんくさいと思ってたヤツらが、急に冷酷な人格に変わった。
人間は誰でも二重人格者。
営業マンがばあちゃんの後ろにすばやく回り込み、ばあちゃんの両手を後ろで抑えた。
ばあちゃんは足をバタバタさせて抵抗しているが、若い男の力に勝てるはずもなかった。
ばあちゃんがいくら暴れても、営業マンは笑ってるだけ。
コイツら…
ホンマ最悪。
あたしの心は一瞬にして凍った。
死ぬほどビビらしたる。
ガラガラ声は、嬉しそうにばあちゃんの首にナイフの先を突き付けた。
ばあちゃんはさらに暴れる。
「ばあさん、暴れると切れちゃうよ」
ガラガラ声はそう言って、ばあちゃんの首にさらにナイフを食い込ませた。
ばあちゃんの首からはツーッと一筋の真っ赤な血が流れ、白いカーディガンに染み込んだ。
それを感じたんか、ばあちゃんの顔は真っ青になっている。
あたしは営業マンの手元やポケットを確認した。
どういうわけかコイツは何の武器も持ってない。
まさかの丸腰。
あたしは、ガラガラ声が握っているナイフを上に引っ張り上げた。
ガラガラ声はナイフの柄を握ったまま。
「なんだ…これ…」
ガラガラ声は、自分の意に反して上へ上へと上がっていくナイフとそれを掴んでいる自分の腕を、気味の悪いものでもみているような目で見ている。
いや、これは確かに気味が悪い。
ガラガラ声、あんたのリアクション大正解。
「何やってんだよ。早く殺っちまえ」
営業マンが、目の前でナイフ相手に乱舞するガラガラ声に言った。
「違うんだ!ナイフが勝手に!!」
異常に慌てるガラガラ声の心境に気づきもせずに、営業マンはイライラしている。
仲間割れ。
いい感じ。
あたしはそのナイフで、ばあちゃんの両手を押さえつけてる営業マンの左手をちょっとだけ切りつけた。
ホンマにちょっと。
ちょっとだけ。
「痛っ」
イラッ。
営業マンは、大した事のない切り傷に大袈裟な声を上げた。
こういう奴らは、他人の痛みには鈍感でも自分の痛みには恥ずかしいくらいに反応する。
でも今回の場合は、得体の知れないものにやられたという恐怖も混ざってるんかもしれんけど。
「よくわかんねぇけど、コレぜってぇやべぇよ!」
2人はばあちゃんを放して、慌てて逃げだそうとした。
まだ。
まだ逃がさへん。
《待て》
あたしは2人の頭に直接話しかけた。
怖さが半減したら困るから、関西弁は一時封印。
直接頭に言葉を送り込んだんは、死んでから初めて。
けっこう…
しんどい。
「お前、今何か聞こえなかったか…?」
「聞こえた」
2人は明らかな動揺を見せた。怯えている。
2人の顔全体から大量の汗が噴き出した。
というより、顔から出ることの出来るあらゆる液体が流れ出ている。
かわいそうに。
よっぽど怖いんやね。
でも…
まだ終わらへんよ。
あたしは、2人の顔面に向かってナイフを飛ばした。
もちろん、顔面に刺す気はない。
ナイフが刺さったんは、2人の顔と顔の間の壁。
2人の顔は真っ青になり、膝がガクンと曲がった。
座り込んだ身体全体が震えている。
失禁でもしそうな勢いやけど、迷惑やからやめてや。
そんな2人の胸に、容赦なく腕を貫通させた。
エンマから教えられた人間にしてはいけない事のうちの一つ。
人間の心臓部位に腕を貫通させると、その部分に寒気を感じると同時に破裂寸前まで鼓動が高まり、呼吸困難に陥る。
要するに、死にそうな状態を体験するって事。
2人の顔は真っ青から真っ赤に変色した。
お前らリトマス試験紙か。
忙しいのう。
営業マンの目は充血し始めた。
そろそろか。
あたしは、2人の胸から腕を引き抜いた。
2人は一気に咳き込み、さらに激しく震えだした。
逃げたくて仕方ないのに、恐怖で足がすくみ、動けへんらしい。
はっ。
自業自得じゃ、ボケ。
《今すぐこの家から出て行け》
あたしがまた念力を使うと、2人は顔を見合わせ、同時に全力疾走で逃げ出した。
たった2言を送り込んだだけやのに、ひどい頭痛を感じた。
うっすら汗もかいてるし、ちょっと息もあがってる。
「このために来てくれたんだねぇ」
あたしがガラガラ声と営業マンを痛めつけるのを黙って見ていたばあちゃんが、いつもの柔らかい口調で言った。
「まぁな」
「2回も助けてもらって、本当になんてお礼を言ったらいいか…」
ばあちゃんは『2回』と言ったけど、あたしにはこれで終わるとはどうしても思えへんかった。
この人は、たぶんまた危ない目に合う。
これはあやふやな予感ではない。
絶対的な確信。
「気にしんといて」
あたしはそんな不吉な確信をばあちゃんに悟られんように、精一杯の笑顔を向けた。
ちょっと不自然やったかも。
あたしは間違っても女優にはなれへん。
「また会えるかい?」
「どうやろな」
ここで『また会える』と言ってしまえば、軽い忠告にはなるはずやった。
でも、余計な不安は与えたくなかった。
忠告なんかせんでも、あたしが絶対守ったるから。
ばあちゃんにバイバイと言い、入ってきた時と同じように玄関から出た。
今度はばあちゃんに聞こえるようにお邪魔しました、というあいさつをして。
「ちょっとやりすぎだな」
玄関を出た瞬間にエンマの声が聞こえてきた。
「言われると思ったわ」
「まぁでも、出来るだけ未来を変えるなと言ったのは俺だし、ばあさんが殺られる直前まで我慢した事は誉めてやる。お前は偉いよ、よくやったな」
エンマは、仕事が終わると必ず誉めてくれるようになった。
あたしはそれが嬉しかった。
だってあたし、誉められて伸びるタイプですから。