スナップの効いた夜
日が変わる直前。残業で疲れた私は、とあるバーの前を通りかかった。
このバーの名前には見覚えがある。たしか、以前に友人からおしゃれなバーがある……そう聞いた記憶があったのだ。
興味を惹かれた私は、そのバーの扉を開いた。店内はシックで落ち着いた雰囲気だ。奥では、きれいに整えられた口ひげをたくわえた老齢のマスターが、カクテルシェーカーを振っている。
マスターはその動きをとめると、カクテルグラスへと中身を注ぐ。そして、手首のスナップでカクテルグラスをカウンターテーブルに勢いよく滑らせると、一人の男性客が手慣れた動作でキャッチする。その客とマスターは無言で視線を合わせるとお互いに小さく頷き、客はカクテルに口をつけた。
そこで、マスターは私に気がついたようだ。
「……見ない顔だね。ここは初めてかい?」
「あ、はい。女性一名ですけど、大丈夫でしょうか」
「ああ……問題ない。あいにく、うちは客の性別で酒の味を変えるような不調法はしていないものでね」
そして、マスターはちらりと空いている席のほうへと視線を向けた。
「席なら空いている……好きな場所に座るといい」
低く渋い声。私は先ほどの客から席を一つ空け、一番端の席に腰を下ろした。
メニューを前にどうしようか悩んでいると、注文した覚えがないカクテルが滑り込んでくる。薄い朱色が美しいカクテルが、私の目の前にぴたりと止まった。
マスターの方向を見ると、途中に座っている客と目が合う。これは……俗にいう、「あちらのお客様からです」というやつだろうか?
予想していなかった出来事に、胸が少しときめく。だが、マスターが私に近づき、ため息とともにひと言こう呟いた。
「すまない……スナップを効かせすぎてしまった。あちらの……お客様の分だ」
マスターは気まずそうにカクテルを私の所から、先ほど目が合った客の元へと運んでいく。そして、私のほのかな胸のときめきは霧散した。




