ep.8
流れる汗と共に口内に鉛の味が蘇る。
頭が悲鳴をあげていた。
首がもげそうな程、右左に振り続ける。
見ているのかーー!?
いや、待て。彼女は俺の顔など知らない。分かるわけが無い。
でも、あの店で待っていたのだとしたら!?
勧めたのはそういう事なのか。そして、2人前を頼んだ事で、俺を特定したんじゃ……
待て、違う。それだけで断定できないはず。
思考の迷路に誘われる。
1つの答えを出しては、またそれを否定する。その繰り返しだった。
あらゆる毛穴から何かが飛び出すように、全身が鳥肌へと変わる。
前を通る観光客の目すべてが俺を嘲笑っているかに思えた。
この中に居るのか!?
だがそう思えば思うほど、誰もが"笑顔のシルエット"に見えた。
後ろを振り向き先程の店を凝視する。
中には確かカップルが1組と、中年男性が1人。それだけは覚えているが、注視していた訳ではない。見過ごしていて、実際は他にも居たのではないか……?
疑念が俺の足を速めた。
扉が開くや否や、店員が声を掛ける前に先程の席へと駆けた。
建物内の隅から隅まで目を送る。
客からは引きつる顔が覗いた。
やはり、記憶は正しいーー。
「お客様、どうされました?」
店員の声が耳に届くと、一気に血の気が引いていく。
「あ、いや。すみません」
逃げるようにその場から立ち去った。
女性など居なかった。その事実が突き付けられると俺の脳は動きを止めた。
分からないーー。
彼女は何故知っているんだ。
恐怖だけが忍び足で近づいてくる。
目の前では川のせせらぎと、太陽の光で煌めくヤナギが風に揺られていた。
それは幻想にしか見えなかった。
目の前を黒い羽ばたきが通る。
ゴミをくちばしで突くと、一つ雄叫びをあげた。それを汚らしく蔑むように指さす人影。
その濁りが白壁に混じる。全てが俺を見ているのかのようだった。
ここまで来たんだ。
もう、夢でも幻でもそんな事どうでもいい。もう一度、ここに来た理由を自分へ言い聞かせる。
彼女が見ていたって構わない。むしろ近くに居るのなら好都合だ。
自身へまじないをかけた。
指先は素早く文字を打つ。
その速さに心拍がリズムを重ねる。
……よし。
『美味しかったです。つい2人前も食べてしまいました。』
今度はこちらからヒントを投げかける。片方の足が揺すりを止めない。
誰かに見られている感覚が呼吸を荒く乱していく。何度も画面をタップしては確認をするが、通知音が鳴る恐怖に怯えていた。求めているのに頭がそれをどこか拒む。わざと狭い路地に進んでは即座に足を引き返す。人混みに紛れていないと、心が保てなかった。
陽がゆっくりと傾いてゆく。
彼女の返信は切れた糸のように途絶えた。
川に陽が映り込み、その美しさはまるで絵画のように映えていた。
観光客は喜んで写真に収めていく。それをただ、平常心を保つ為だけに眺めていた。微塵も感動すらしない自分が、異常とは思えなかった。
むしろ、偽りの姿のみを残したい。そんな人間の愚かさの方がおぞましかった。
満たされていた腹と共に、次第に落ち着きを戻し始める。スマホを開き複数あるタブを見返した。
『一輪の綿花から始まる倉敷物語』
どうしてもこの一文が頭の隅を突付く。スクロールしながら読み進めると紡績工場、アイビースクエアというワードに目が止まった。
再度マップを開き、文字を打つ。
再び赤い矢印が表れ、導かれるまま歩みを始めた。
川沿いをひたすら歩くと、レンガ造りの入口が現れた。
足を踏み入れたら飲み込まれるーー。
膝が笑い始めた。太腿に拳をぶつけると、痛みすら感じる事なく突き進んだ。
建物は、溢れ出した青葉に呑み込まれていた。隙間なく重なり合う葉が、逃げ場を塞ぐ生きた檻に見える。
逃さない。
厚い葉の隙間から、蔦が血管のように這い出している。
その奥で、獲物を絞め殺そうと潜む無数の蛇を幻視した。頭の先から足の指まで、一直線に痺れが走る。
絡みつき、すべてを覆い隠す緑に、小学生の時に持ち帰った植木鉢が思い起こされた。
祐希の転んだ先で、無残に千切れたアサガオの葉。
俺はいらないからと、自分のを差し出した。あの時の嬉しそうな笑顔。共に重ねた思い出。
「それだけは、本物なんだ……」
また、自分に信じ込ませるようにつぶやいた。
祐希の母親に邪魔だ消えろと罵られた日々。幼き俺は心臓を鋭い爪で掻きむしられているようだった。
カーテン越しに助けを求める祐希の悲痛な顔。その度に役立たずな自分が許せず、涙を止められなかった。
その時初めて気づいたんだ。
穏やかな祐希の、狂気に滲んだ表情に。
許されるはずなんて
無いんだ。




