ep.7
コンクリートのザラつきが掌に無数の模様をつけていた。細かな粒を払うと、土の臭いがその場を覆う。
風が一つ抜ける。
周囲の喧騒と共に臭いを一掃したようだった。
この地から始めたい。
初めての対話。
ここは一輪の綿花から始まった場所。
彼女が伝えたい本当の意味。
ここからなんだ。
スクロールする指が一定のリズムでゆるりと流れる。瞳には小さな文字ばかりが写り込んでいた。何度も別タブを開き、文字を追いながらも検索を繰り返す。
開いたままの口元から唾が細長く落ちていく。それすら気づかない程、俺はスマホの画面に見入っていた。
ふと指が止まる。
背筋に氷が滑るように、なぞった感覚がした。それなのに、脈打つ身体は熱かった。
勢いよく立ち上がると、身体がやけに軽く感じる。思い切り吸えるだけの酸素を内に流した。それを一気に吐き出すと雑踏へ睨みを送った。
始めよう。
地面を濡らした唾液がコンクリートへ染み込むと、ぼやけるように姿を消した。僅かながらの体温をその場へ残し、足音は遠ざかっていった。
流れてくる人がただのシルエットに見える。まるで通学路に置かれた「飛び出し坊や」のように。
風の舞う音と共に、こうべを垂れる緑の葉が泳ぐ。まるでこちらに手を振っているように思えた。
カシャ。
スマホを片手に、景色を数枚写真に収める。
撮る度に鳴る事務的なその音に、腹の虫が重なった。
そう言えばもう何時間も水分しか摂っていない。何か口に……。
脳裏に浮かんだのは、あのばら寿司だった。
どのみち行く予定ではあった。
順番を変更して、彼女のブログ写真から、検索で出された店へと歩みを進める。
わずか2分ほどで到着したその店は15周年の看板が立てられていた。外観の白にくすみが加わり、その年月を肌で感じた。
時刻は午後3時前になっていた。
この時間だからだろうか、店内には数名の客のみ。入店と同時に窓際の席へと案内された。
「いらっしゃいませ、ご注文はお決まりですか?」
店員がテーブルへと置いたグラスの中で、氷が音を奏でる。
ここのメニューは、ばら寿司がメインで他はドリンクと一口バニラアイスのみだ。
「ばら寿司お願いします」
「かしこまりました」
店員が去ろうとした時だった。
口が勝手に開いた。
「あの、2人前で」
店員は振り向くと
「はい、2人前でご用意致しますね」
と少し驚く顔を見せた。
いや……驚いたのは自分か。
つい2人前と言ってしまった。
まぁ、腹は減っている。問題なく食べ切れるはずだ。
そんな事を考えながら窓辺を眺めた。木々の緑に、長い葉っぱ。
ゆっくりと動く舟に、残像のように絶えず行き交う影たち。
ただ、一緒に来たかった。
想いにふけていると、ばら寿司がテーブルに置かれた。
「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」
店員の微笑む笑顔に、胸の奥の切なさが顔を出す。
箸を2膳並べた。
あのブログのように鮮やかなばら寿司を見て、再び写真を撮る。
一緒に食べよう。
それは祐希に想ったのか、彼女が妹へ向けた想いなのか。
箸ですくうと思いのほか大きな口でそれを迎え入れた。
口へと運ぶと酢の香りが鼻をさすった。
ーーうまい。
飲み込んだ後にもずっと旨味が口内を支配する。飢えた胃袋が俺の手を止める術を奪った。貪るように何度も何度も喰らいついた。
気づけば10分ほどで皿は空っぽになっていた。今更ながら割り箸の袋に記されたメッセージに気づく。薄いピンク色で書かれた『素敵な一日となりますように』
グラスに残った氷を噛み砕きなが見つめた。観光客の多い土地柄だけに、何かを込めているんだろう。この時の俺には箸袋の薄っぺらさくらいに、どうでもよく思えた。
会計の為レジへと向かう、奥にかけてある絵画が目に飛び込んできた。
この辺りの風景画だ。陽が落ち辺りが薄暗く、木と葉が妖しげに描かれている。目が逸らせないでいると、先程の店員が笑顔で答えた。
「このヤナギ、夜に見るとちょっと不気味なんですよ」
そう言いながら両手を下に向け、恨めしそうな表情を見せる。
「え……」
もう一度絵に目を向ける。
垂れ下がるそれが、まるで鎖のように見えた。
「お客さん、今日はたくさん召し上がって頂いて、ありがとうございます」
そう言って頭を下げた店員のうなじの白さ、髪の揺れが脳の端にこびりつく。それはだらりと垂れていくように見えた。
扉が開かれ歩み始めながら思考を巡らせるが、明確な答えは浮かばない。
当初の目的地へと向かう為スマホを取り出したその時、通知音が響いた。
ゴクリと空気と混ざる唾を飲み込む。
大きな何かを食道へと誘う感じがした。
画面に触れると1件の返信。
再度タップし表示された一文に、喉が詰まった。
コンクリートに打ちつける乾いた音が耳元に響く。あまりの動揺にスマホを投げていた。鼓膜が拒絶するかのように音を削いでいく。冷え切った汗が、シャツを皮膚に張り付かせた。
まるで幽霊にでも会ったかのように震える手でなんとかスマホを掴んだ。
黒くなった画面に触れると、再び文字が映し出された。
「美味しかったですか?」




