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第89話 死の淵

 AAU艦隊、残存する『エドガー・マクスウェル』級巡洋艦。

 かつては最新鋭の重装甲を誇り、大東亜の海軍関係者が「不沈の城郭」と恐れたその艦体も、今は見る影もない。

 周囲に浮いている友軍艦艇は、すでに二十にも満たなかった。


「馬鹿な……十一個艦隊が、たった一機の黒い悪魔に……!」


 艦橋で、艦長は震える拳をコンソールに叩きつけた。

 カイ・イサギという名の「神」が通り過ぎた後には、機能不全に陥った巨艦たちの残骸と、地獄のような混乱だけが残されていた。

「全艦、これ以上の交戦は不可能だ! 針路アエテルナ、全速撤退せよ!」


 その叫びは、しかし空虚な木霊となって消えた。  

 逃走を図ろうと回頭を始めた前方巡洋艦の横腹を、何かが「光の速さ」で撫でたように見えた。 

 直後、その巨大な船体が、見えない巨人の手に押されたかのように不自然な角度で傾き始める。


 ガキンッ! ガキンガキンガキンッ!


 静まり返った海面に、金属を削り、抉り、断ち切る「金切り音」が響き渡る。  

 それは、三姉妹の一角、マリスの駆る『クラーケン』が放つ、精密極まりない「外科手術」のような攻撃だった。


「艦長! 右舷後方よりシュテルツァー?接近! はやい!三機です! 先頭の機体、あり得ない速度で喫水線をなぞっています!」

「なんだと!?海にシュテルツァーがいるものか! 砲撃で追い払え! 30mm程度の豆鉄砲でこの装甲が抜けるものか!」

「ダメです! 20mm、いえ30mm……マンガニス弾頭対艦徹甲弾です!装甲を貫通されます! 艦底区間、全域に浸水! 総員退艦、間に合いません……ッ!」


 副長の声が、どこか遠い世界の出来事のように聞こえた。  

 その時、艦長は見た。  

 爆煙の向こう側から、復讐の女神のようなシルエットが、海面を滑走してくるのを。  

 エルザの駆る『ケートス』。

 その機体に備え付けられた、巨大な鉄槌――『トールハンマー』の射出口が、冷徹な死の予感を孕んで上空を向いていた。


 溢れる涙を止める術が無いエルザの瞳には、もはや慈悲のかけらもなかった。  

 まぶたの裏に焼き付いているのは、血に染まり、ボロ雑巾のように引き摺り出されたカイ少将の姿。

 そして、自分たちのためにすべてを投げ打った「英雄」の笑顔。

「……皆殺し、って言ったでしょ」


 少女の唇が、呪詛のように小さく動いた。  

 次の瞬間、ケートスの放ったトールハンマーミサイルが、上空に舞い上がる。

 反転し、急降下するミサイルは、予め決まっている運命のように巡洋艦の煙突へと吸い込まれた。 

 煙突を直撃したミサイルは、弾薬庫を直撃し、そのまま灼熱の炎が艦内を焼き払う。


 ズドォォォォォォォォォォン……ッ!!


 鼓膜を焼くような轟音が、逃げ惑う者たちの意識を、語られるはずだった未来を、そして世界を蹂躙しようとした傲慢を、一瞬にして爆炎の渦へと叩き込んだ。  

 海面に残ったのは、燃え盛る重油の炎と、勝利を確信していた大国の、無惨なプライドの残骸だけであった。


「バカな! 嘘だと言え!」  

 AAU潜水艦隊、その旗艦の司令席で、群指揮官は狂ったように計器を叩いた。

「この海域に展開していたはずの三個潜水艦群……当艦を含め、生存確認が取れるのは、たったの三隻だというのか!?」


 返ってくるのは、ノイズ混じりの悲鳴と、不気味なほどの沈黙だけだった。  

 水中は爆発の残響が激しく、未だ正確な状況把握には時間を要する。

 だが、それにしても少なすぎる。  

 海面上を荒れ狂う「黒い悪魔」を仕留めるために敷き詰められた、潜水艦による包囲網。

 それは何一つ機能することなく、網ごと食い破られたのだ。


「……もはや、戦闘行動など無意味だ。急速潜航! この海域から離脱せねばならない」


 だが、彼は知らなかった。  

 黒い悪魔が去ったあとの戦場に、海中すら疾走する対艦シュテルツァーという三機の「悪魔」が解き放たれたことを。  

 海面上ではマリスとエルザによる凄惨な「処刑」が続き、そして海面下では――最も静かで、最も深い怒りを湛えた長女が、すでに牙を剥いていることを。

 その時だった。


 ――ミシリ。

 鋼鉄の耐圧殻が、あり得ない方向に歪む音が、狭い艦内に響き渡った。  

 続いて、ガキン! ガキンガキン! と、何かが外殻を強引に掴み、肉を抉るような鋭い金属音が全方位から艦を包み込む。

 鋼鉄の外殻が変形しながら悲鳴を上げる。

「な、何だ!? 爆雷か? 衝突したのか!?」


 指揮官の問いに答える者はいない。  

 彼らが知る由もなかった。

 深海の魔物『クラーケオス』が、その巨大なマンガニスクリンチャーの爪を、逃げ惑う潜水艦の背中に深々と突き立てていることを。


 アンジャリの瞳は、冷たく、静かに燃えていた。

「……逃がさない。カイを傷つけた報いだわ」


 彼女がトリガーを一段深く押し込む。  

 クラーケオスのクリンチャーに高出力の磁場が走り、鋼鉄の爪が、AAUの誇る特殊合金の耐圧殻を、紙細工のように三箇所同時に貫いた。


「艦長! 外殻貫通! 浸水、いえ、圧壊しま――」


 叫びが途絶える。  

 次の瞬間、深海の莫大な水圧が、開いた穴から一気に艦内へと牙を剥いた。  

 ミシミシ、という断末魔を上げる間さえ与えず、数万トンの水塊が潜水艦を「紙屑」のように一瞬で押し潰す。


 瞬間の圧壊。


 かつて静寂を支配した海中の狩人は、泡一つ残さず、冷たい深淵へと消え去った。  

 クラーケオスは、その残骸を一顧だにせず、次の獲物を求めて暗い海を音もなく滑り出した。


スター・アイルズの海を赤く染めた砲声が止み、不気味なほどの静寂が訪れていた。  

 病院船『東大和』。

 その艦内は、運び込まれた負傷兵たちの呻きと、消毒液の鼻を突く匂いに満ちている。


 集中治療室の奥では、カイ・イサギが死の淵で戦っていた。  

 左眼の失明。

 脳出血。

 顔を斜めに切り裂く170ミリの深い裂傷。

 そして、折れた肋骨が肺を突き刺すという、医師団さえ絶句するほどの重傷。  

 彼は、自らの肉体を「勝利への燃料」として使い果たしたのだ。

 だが、非情にも歴史の歯車は止まらない。  

 翌朝十時――「スター・アイルズ解放作戦」の決行が、参謀本部より通達された。


 その日の夕刻。

 

 第41特務艦隊の大食堂に、奇妙な時間が流れた。  

 示し合わせたわけではない。

 だが、リヴァイアサン中隊の面々は、吸い寄せられるように、同じタイミングでそこに集まった。


 アンジャリ、マリス、エルザの三姉妹。  

 目を腫らしたシュミット、呆然とした様子のユイとユキ、そして仮面の下の瞳を濡らしたカミラ。

 テーブルに並べられた食事は、誰もが手をつけぬまま、冷たい蒸気を失っていく。


「……ねえ。アンお姉さま」


 沈黙を破ったのは、エルザだった。  

 その瞳には、かつて「皆殺しよ」と叫んだ時の冷徹さはなく、ただ一人の兄を、戦友を想う少女の震えが宿っていた。


「カイ……起きてくれるよね? 明日の作戦、一緒に……行けるよね?わたし、カイが居ないと自分が壊れちゃいそうなんだよ」

 アンジャリは、震える自分の右手を、左手で強く押さえつけた。  

 彼女の脳裏には、クラーケオスの爪で潜水艦を圧壊させた感触よりも集中治療室で管に繋がれ、意識が戻らないカイの、あの姿が焼き付いて離れない。


「……明日の作戦はムリよ。寝かせてあげなければ……」

 絞り出すようなアンジャリの声に、シュミットが顔を伏せた。  

 彼は知っていた。

 カイが、自分のために、あるいは自分が守りたかった「三姉妹の未来」のために、あえてあのアスラという名の地獄に飛び込んだことを。


「俺が……不甲斐ないばかりに」


 シュミットの拳から、血が滲むほどテーブルに押し付けられる。  

 マリスは、ただ静かに、隣に座るカミラの肩に頭を預けた。

「俺じゃありませんでしょう?俺たちですわね。それに、わたしたちは、あの方に……何も返せておりませんわ。まだ、一言も……『ありがとう』さえ」


 カミラは、マイクを握りすぎて白くなった指を震わせ、虚空を見つめていた。  

 彼女が伝達した出撃許可。

 あの時、モニター越しに目が合ったカイの、あの消え入りそうな「微笑み」。


「明日の十時……解放作戦が始まります。……少将がいなくても、私たちは行かなければなりません。それが、彼が命を懸けて成し遂げようとした事なのですから」

 カミラの冷徹な宣言に、ユイがカメラを握りしめ、嗚咽を漏らしながら頷いた。  

 集中治療室で眠るカイの意識が戻るのを、全員が心の中で祈っていた。


 外は、不気味なほどに晴れ渡った月夜。  

 明日、この海域で再び火蓋が切られる。  

 そこにカイの姿があるのか、それとも彼の「魂」だけを背負って戦うのか。  

 運命の朝まで、あと十数時間。 


 病院船『東大和』の片隅、急造された暗室の赤い光の中で、ユイとユキは言葉を失ったまま現像作業を行っていた。  

 現像液の揺れるバットの中に、先ほどまで自分たちがいた「地獄」が、一枚、また一枚とモノクロの影となって浮かび上がってくる。


 広報官として、彼女たちは職務を全うした。  カイがカタパルトから弾け飛んだ瞬間から、十一の艦隊が壊滅し、三姉妹が残存艦を「処刑」し終えるまでの数時間。

 そのすべてが、数十足のフィルムと、千枚を超える静止画として刻み込まれていた。


 薬品の鼻を突く臭いの中、印画紙に焼き付いたのは、英雄の断末魔と、悪魔と化した少女たちの咆哮。

 それは、歴史が「勝利」と呼ぶであろう、あまりにも無惨な記録だった。


「……ユキ、これ」  

 ユイが、現像液のバットに浸かった一枚の写真を指差した。  

 ゆらゆらと揺れる薬品の中で、白い印画紙にようやく像が結ばれ、カイの顔がはっきりと浮き上がってきたところだった。


 超高倍率レンズが捉えていたのは、破壊神としての威圧感ではない。  

 そこに焼き付いていたのは、血に塗れ、左眼に金属片が刺さり、顔に裂傷が刻まれてなお――遠く離れたミナへの思慕と、後ろに残る三姉妹への慈愛、そして、二度と戻れぬ場所へ行く者の「諦念」が混ざり合った、あまりに人間臭い表情だった。


 それは、広報写真としてはあまりにも残酷で、遺影としてはあまりにも痛々しすぎる一枚。  

 カメラを向けていたその瞬間には気づかなかった「カイの遺言」が、今、現像液の中で残酷な真実となって完成したのだ。


「……撮りたくなかった。こんなの、見たくなかったよ……」  

 ユイの目からこぼれ落ちた涙が、薬品のバットに落ちて波紋を作った。

  

 動画フィルムに刻まれていたのは、アスラが敵陣へ死地を求めて突入する狂気のシーンだった。  物理法則を嘲笑う急旋回、豪雨のように舞い落ちる空薬莢。  

 そして、敵の巨弾が上げる巨大な水柱と爆風を帆にして、海面を滑る黒い影。

 だが、どのカットも激しく手ブレしていた。  記録者であるユイの腕が、恐怖と悲しみでまともにカメラを固定できていなかったのか。

 あるいは、大和の激しい回避行動が、広報部員の持つカメラのことなど気遣う余裕もなかったのか。


 揺れ、歪み、焦点の定まらないその五時間の映像こそが、いかなる理屈も通用しない、あの地獄の海の正体を何よりも雄弁に物語っていた。


「でも、見て……ユキ。最後、少将が落下して引き摺り出されたとき……」

 ユキは、無言でスチル写真の山をめくった。  そこに一枚、奇跡のような瞬間が捉えられていた。    

 救助されたカイの歪んだ手足、剥がれた皮膚。  しかし、その瞳――まだ光を失う前の右眼は、まっすぐに空を見上げていた。  

 その視線の先には、怒りの火を噴きながら敵陣へ突っ込んでいく、三姉妹のシュテルツァーがあった。


「少将は、笑ってるように見えるね」

 ユキの掠れた声が、静かな部屋に響く。    そして記録は、そこから「地獄の断罪」へと切り替わる。

 アンジャリのクラーケオスが潜水艦を圧壊させる、その瞬間。

 マリスのクラーケンが喫水線を精密に切り裂く。

 エルザのケートスが、無慈悲にトールハンマーを叩き込む、爆炎の閃光。


 それらの映像には、三姉妹の「叫び」がオーディオトラックに入っていた。  

 これは公開できない。軍の公式記録に残されるだけの剥き出しの殺意と、姉妹の絆。


「これ……いつか、公開されるのかな」

「わからない。でも、私たちが残さなきゃ、少将が何のためにあんな姿になったのか誰も知ることができなくなっちゃう」

「ねぇ、ユキ……少将死んじゃうのかな?」

「…………やめてよ……言っちゃダメなやつじゃん」

 ユイは、自分の頬を濡らした涙を拭わず、フィルムを保管箱に整頓して詰め込んだ。    


 一九八四年五月二十七日。  


 この日の記録は、後に「スター・アイルズ沖海戦」として歴史に深く刻まれる事になる。


 それは、一人の男が神になり、三人の少女が死神になった日の、美しくも残酷な記憶であった。


 深夜。  

 集中治療室のモニターが刻む、微かな鼓動の音だけが暗い部屋に響いていた。


 緊急手術を終えたカイ・イサギは、全身を白い包帯で厚く覆われ、生命維持のための無数の管に繋がれている。  

 その姿は、先ほどまで海を支配していた破壊神とは程遠く、触れれば消えてしまいそうなほどに脆い。

 左眼の失明。  

 外傷性脳出血。  

 顔面を斜めに切り裂く長さ170ミリの深い裂傷。  

 そして、折れた肋骨が肺を深く突き刺していた。

 せめてもの救いは、手足の骨折が重症では無かった事だけだ。

「血が、体温が足りません」

 医師の宣告は残酷だった。  

 播種性血管内凝固を起こしかけている体は、輸血を受け付けず、熱を失い続けている。  

 このまま三日以内に死を迎える可能性が極めて高く、意識が戻る可能性は、もはや奇跡の領域だという。

 病室には、ユイとユキの二人がいた。  

 傍らには、今日、地獄のすべてを焼き付けたカメラが転がっている。

「……冷たい」

 先程まで揃っていた中隊員たちは、全員が、まるで幽鬼が彷徨うかのように無言で部屋を出ていった。

 

 ユイとユキ。

 二人の胸の奥には、いつしか名前の付けられない感情が芽生えていた。  

 カイにはミナという、命を懸けて守るべき妻がいる。

 自分たちは、その光を記録するだけの「報道官」に過ぎない。    

 これが英雄への憧れなのか、それとも、ただ隣で笑っていてほしいという純粋な恋なのか。

 今の彼女たちには分からない。  

 ただ分かっているのは、このまま彼が冷たくなっていくのを、黙って見ていることなどできないということだけだった。

「ユキ……温めよう。このままじゃ、少将がどこか遠くへ行っちゃう」


 ユイの震える声に、ユキは静かに頷いた。  

 二人は、軍服のボタンを緩め上着を脱ぐと、カイの左右からその身体に寄り添った。    

 自分たちの体温を、少しでも彼に分け与えるために。  

 ボロボロになった彼の「心」が、暗い深淵に引き摺りこまれないように。    

 頬を寄せると、恐ろしく冷たいカイの身体からは鉄の匂いと、消毒液の匂いがした。  

 けれど、その奥にわずかに残る、彼自身の鼓動を感じるたびに、二人の目からは止めどなく涙が溢れ出した。

 その鼓動は、生きている人間とは思えない程に、弱くて今にも停止しそうであった。

「少将……わかってます。私たちは、ミナさんにはなれないって」

「でも、明日も、その次も……私たちはあなたの隣で、あなたの生きる世界を撮り続けたいんです」

 ユイは、包帯に覆われたカイの胸元に顔を埋め、子供のように肩を震わせた。  

 ユキは、カイの冷たい指先を自分の両手で包み込み、何度も何度も息を吹きかける。

 なんとか、このカイの体に温もりを取り戻したい一心での行動であった。


 彼女たちの涙が、カイの白い包帯を鉛色に濡らしていく。  

 それは、記録されることのない、「密かな恋」の証。    

 艦が不意に波に揺れる。  

 その振動に合わせて、二人はさらに強く、カイの身体を抱きしめた。  

 

 明日、十時。

 

 スター・アイルズ解放作戦の火蓋は切られる。  その残酷な朝が来るまで、せめて今だけは、この小さな「人間の温もり」が、死の淵を彷徨う英雄の唯一のいかりであることを二人は願わずにはいられなかった。

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