第87話 大いなる犠牲の予兆
大東亜・エウロ両陣営の最高機密を扱う諜報機関が、同時多発的に「最大級の警告」を発した。
AAUが動いたのだ。
その規模、これまでにない「絶滅」の意志を孕んでいた。
報告によれば、AAUは二つの巨大な矛先を用意している。
一つは、アペプ級ロケット砲戦艦を主軸に据えた六個艦隊からなる「艦隊A」。
もう一つは、視界外からの長距離投射式面制圧砲を誇る主力戦艦群、五個艦隊で構成される「艦隊B」。
彼らの狙いは明白恐るべきものだった。
民間人の虐殺――――。
大東亜の首長国である日和極東連邦の主要都市を、その長射程の巨砲で焼き払い、大東亜の息の根を止める。
戦争という残酷なゲーム盤そのものをひっくり返し、一気に終局へと向かう「チェックメイトだけを狙う一手」だ。
唯一の希望は、この壊滅的打撃を目論む全力が、今まさにスター・アイルズに結集しているという事実だった。
統合参謀本部の会議は混迷を極めた。
出した結論。
「――各戦線から全艦隊を招集。これを海戦にて撃破せよ」
絞り出すことが出来るのは、南部五、北部三、東部二の計十個艦隊。
第41特務艦隊も東部艦隊の一部としてその戦列に加わる。
だが、これは「囮」である可能性も捨てきれなかった。
この隙を突き、帝国がアエテルナから大東亜の各所を強襲する懸念も、参謀たちの脳裏をかすめていた。
だからこその、この戦力であった。
もし戦端が開かれれば、航空機が使えぬこの世界において、艦と艦が目視圏内、あるいは超長距離から巨砲で殴り合う、史上最大の艦隊戦となる。
それは勝敗にかかわらず、双方に数万の命の喪失を強いる「地獄の海戦」を意味していた。
第41特務艦隊。
その旗艦『大和』格納庫の奥深くで、アンジャリは、一人悲痛な表情で愛機を見上げていた。
アンジャリは、自らの愛機『クラーケオス』の鈍い輝きを見つめ、静かに死を予感する。
たとえリヴァイアサン中隊の誇る対艦シュテルツァーといえど、敵は11個艦隊だ。
敵AAU軍の戦艦は、目視圏外、遠隔からの面制圧に特化した巨砲特化ドクトリンだ。
海の魔物クラーケオスと言えど、一発でも被弾したらただでは済まない。
二発、三発なら間違いなく撃沈される。
そして、数千発の面制圧が行われるこの海戦では、回避など不可能なのである。
目視圏外からの飽和攻撃、たとえ、肉薄出来たとしても、駆逐艦と潜水艦による爆雷と魚雷の雷撃の雨。
それら全てを掻い潜り、敵の懐へ飛び込むことなど、不可能である。
(……私が出れば、敵艦隊を二個、いえ、三個までは潰してみせる。でも、そこに面制圧の砲撃が降れば、私は避けることなど出来るはずがないわ」
愛しい婚約者の顔が浮かぶ。
ハインリヒとの結婚。
夢のように甘美な未来。
将来は店をやるの。
私のお店。
ハインが私のために用意してくれた夢の生活。
何のお店をやるかは、私が決めていいんだって。
隣にはいつもハインが一緒の、素敵な私のお店。
ハインを失いたくない。
そして、帝国を捨てた自分たちを温かく迎えてくれた、この大東亜・エウロの人々も失いたくない。
再び愛機を見上げる。
こんな時なのに、たわいない雑念が過ぎる。
クラーケオスがアンジャリに話しかけるのだ。
「あなたの命を礎にするなら、悪くないわよね?アンジャリ。あなたの大切な人たちですものね。そう、生まれて初めて知った、自分の命よりも大切な命」
アンジャリは、これが自分の心の声だということは意識の外にあった。
「お姉さま! 考えていることなどお見通しですわ!」
アンジャリは、驚いて振り向いた。
背後にいたのはマリスとエルザ。
そこには決然とした表情の妹たちが立っていた。
「どうせ、私たちが出れば勝てるまではいかないけど、味方が勝てるくらいまでに、損害は与えられるかも……でしょう?」
「絶対死んじゃうの、分かっているのにね!」
エルザが、泣きそうなのを堪えて笑う。
アンジャリは厳しく首を振った。
「……あなたたちは残りなさい。これは、私が一人で」
「嫌ですわ!」 「嫌!」
「単機なぞ、損害を与える前に犬死にですわ。無駄な死に方をなさるおつもりですの?アンジャリお姉さま…………アンお姉さま。」
その言葉が漏れた瞬間、マリス自身が一番驚いたように息を呑んだ。
帝国という凍てついた世界で、血の繋がりもないままに「姉妹」を演じてきた二人。
だが、アンジャリを「アン」という親密な名で呼ぶことは、マリスにとって侵してはならない聖域だった。
それは婚約者であるシュミット中佐だけに許された、甘く、切ない、幸福の証だと、どこかで遠慮し続けていたから。
ずっと、呼びたかった。
自分もただ一人の妹として、肩書きを脱ぎ捨てた「アン」という名前を、その温もりを、呼び捨てたかった。
マリスはアンジャリに詰め寄り、その軍服の袖を強く、子供のように握りしめた。
エルザもマリスに続く。
「そうだよ、それに99パーセント死んじゃうけど、絶対じゃないからね。……爆雷と魚雷の相互援護? むりむり! 沈む前にトールハンマーを乱射するしかないんだから!でもね、トールハンマーなら撃てるよね。私たち死んでもさ、あの子達は自分たちで、敵を減らしてくれるからね」
エルザは、顔を少し上げている。
エルザは溢れた涙が落ちないよう、我慢しているのだが、アンジャリにはすぐ分かる。
妹たちの、あまりに必死で、あまりに無邪気な「死ぬ覚悟」に、アンジャリの心は激しく揺れた。
「……ダメよ。あなたたち二人がいなくなって、私が笑顔でウェディングドレスなんて着られるわけないでしょう?」
アンジャリは、言ってはいけない事を絞り出すように呟く。
「私が戦わなければハインが死んでしまう。それはもっと嫌なの。ねえ、もし私が死んで、あなたたちが生き延びたら……」
その言葉を、マリスが強引に遮った。
「分かりましたわ! お姉さまの遺志、謹んで引き受けますわ!」
「任せてよ! お姉さまがいなくなったら、私がシュミットをしっかり愛してあげる!」
「私なんて、一日中くっついててあげるんだから。……嫌だったら、生き延びてね、お姉さま」
「わたしもです。わたしが生き延びたら、朝から晩まで、ずっとシュミット……と……キスとかしちゃうんです……からね」
冗談めかした、あまりに残酷な励まし。
アンジャリは、溢れそうになる涙を、軍人として、少佐としての意志でせき止めた。
それは愛を知ったばかりの少女の魂からの絶叫を、鋼鉄のドレスで覆い隠すような残酷な意思であった。
「……いいわ。みんな揃って逝きましょう。戦いが始まったら、発射筒で待機。時期を見て、独断で出るわよ」
「「はい、お姉さま!」」
同じ頃、艦橋に近い会議室では、シュミット中佐がシリチャイ大将、ベルナール中将、そしてカイ少将を前に、必死の訴えを続けていた。
「閣下、今回の大規模艦隊戦に増強第三小隊(三姉妹)を出すのは、あまりに愚策です! 敵の飽和攻撃の中では、いくら彼女達といえど防ぎ切れません!」
だが、返ってきたのは、予想に反した静かな拒絶だった。
シリチャイ大将が、重厚な声で頷く。
「当然だ、中佐。世界最強の対艦部隊を、私の娘たちを、このような技量など関係の無い、消耗戦で失うわけにはいかん。参謀本部の意向も決まっている。我が艦隊の最優先事項は――『友軍が敗北しても、リヴァイアサン中隊だけは生きて逃がせ』だ」
ベルナールも、冷徹な仮面の下に慈悲を隠して続けた。
「11個艦隊を相手にするのは、艦隊の仕事だ。シュテルツァーに無理をさせる局面ではない」
上官たちの深い理解。
軍人として、そして一人の人間として、彼らは三姉妹を守ろうとしていた。
それは、友軍の敗北や、国家を滅亡に導く一歩かもしれないと理解した上での重い決断である。
シュミットは安堵に胸を撫で下ろす。
だが、喉の奥には鋭いトゲが刺さったままだった。
「……ですが、閣下。アンジャリ少佐が、独断先行する懸念があります。彼女に釘を刺しても、『大丈夫よ』としか言わないのです。彼女は、自分を犠牲にしてでも我々を……」
シュミットの瞳から、一滴の涙がこぼれ落ちた。
愛する女が、国を、自分を守るために死に向かおうとしている。
そして自分の技量では、海上で『何の役にも立たない』のだ。
その予感を止められない無力感。
シュミットは、上官であり友でもあるカイの肩に顔を伏せるようにして、その震える本音を漏らした。
「少将、カイ、お願いだ、俺は降格しても除隊になっても構わない。彼女は出るかもしれないんだ。助けて、助けてください……」
カイは、優しくシュミットの頭を自らの胸に抱き締める。
そこには『破壊神』が決意した大いなる意志が宿ったかのような、人ではない光を目に湛えていた。
迫り来る破滅の音は、逃れることが出来ない。
一九八四年五月二十七日。
歴史にその名を刻む「スター・アイルズ沖海戦」の幕が、今、上がろうとしていた。
ユイ軍曹は、手に持った愛機の重量を、かつてないほど疎ましく感じながら艦内を彷徨っていた。
「……あーあ。暇。暇すぎる。暇すぎて、『撮ってはいけないもの』でも撮っちゃいそう」
いつもなら、整備班にちょっかいを出して怒鳴られるか、給養班からつまみ食いをせしめて逃げ回っている時間だ。
だが、今日に限ってはそのエネルギーが湧かない。
何となく指先が冷たくなるような、妙な胸騒ぎが消えなかったからだ。
「……アンジャリ少佐。何してるかな」
ふとした思いつきだった。
いつものように、不用意に「役得ですよぉ!」と割り込み、少佐の恥じらう顔を一枚いただいて、ユキと二人でプレミアム価格を設定する――。
そんな、くだらなくて愛おしい日常を求めて。
彼女の足は自然と、クラーケオスとクラーケンの眠る第三格納庫へと向いていた。
だが、格納庫へと続く分厚い隔壁の影で、彼女の足が止まった。
声が聞こえる。
一人は、アンジャリ。
そして、マリスとエルザ。
(……お、三姉妹揃い踏み。これはまたとないスクープの予感……!)
下卑た好奇心を盾にして、ユイは息を殺した。
いつものように、レンズの蓋を外そうとした。
だが、その指は、次に鼓膜を叩いた言葉によって凍りついた。
「……私が出れば、敵艦隊を二個、いえ、三個までは潰してみせる。でも、そこに面制圧の砲撃が降れば、私は避けることなど出来るはずがないわ」
アンジャリの声は、鋼鉄の艦橋で聞く凛とした命令ではない。
それは、折れそうな枝が震えるような、か細い「死」の予感だった。
ユイの鼓動が、早鐘のように打ち鳴らされる。
カメラを握る指先から、血の気が引いていくのが分かった。
「嫌ですわ!」 「嫌!」
マリスとエルザの絶叫。
それに続く、あまりにも残酷で、あまりにも必死な「嘘」の応酬。
「わたくしが生き延びたら、朝から晩まで、ずっとシュミット……と……キスとかしちゃうんです……からね」
「シュミットをしっかり愛してあげるよ!」
マリスの、あのお嬢様としての誇りさえも捨てた、震えるような強がり。
エルザの、涙を堪えて無理やり口角を吊り上げているであろう、歪んだ笑顔の声。
そして、アンジャリが絞り出した、「みんな揃って逝きましょう」という心中への誓い。
ユイは、自分が持っているカメラを、今すぐ海へ投げ捨てたくなった。
記録? スクープ?
そんな言葉が、今はドブネズミの死骸よりも汚らわしく思えた。
彼女たちがどれほどこの「大和」での日々を愛していたか。
アンジャリがどれほど、シュミットとの「お店」という、ささやかな未来を大切に胸に抱いていたか。
ユイは、誰よりも近くで彼女たちを「撮って」きたからこそ、そのすべてを知っていた。
なのに。
今、聞こえてきたのは、自らを灰にすることを前提とした、死者の会話だった。
「…………う、」
喉の奥から、せり上がってくるものがあった。
声を出せば、彼女たちの覚悟を汚してしまう。
カメラを持った私が見つかれば、彼女たちを余計に傷つけてしまう。
ユイは、両手で自分の口を、あばらが折れるほど強く、強く抑え込んだ。
そのまま、崩れ落ちるように冷たい金属の床に膝をつく。
涙が、止まらなかった。
ボロボロと、大粒の雫が頬を伝い、軍服の襟元を濡らす。
それは彼女が今まで撮ってきた、どんな「現実」よりも重く、苦い雫だった。
目を開けることができない。
まぶたの裏には、先日見たばかりの、青い海とはしゃぐ彼女たちの笑顔が焼き付いている。
あの時、マリスが強引にシュミットを海に引き摺り込んだあの笑い声が、今のこの絶望的な沈黙を、何万倍もの鋭利な刃物に変えて、ユイの心臓をズタズタに切り裂いた。
(……やだ。やだよ……。撮りたくない……。そんな顔、誰も見たくないよ……!)
ユイは、床に頭を擦りつけるようにして、ただ、ひたすらに嗚咽を殺した。
肩が激しく上下し、体中が痙攣するように震える。
声にならない叫びが、肺の中から溢れ出しそうになるのを、自らの掌で必死に押し殺す。
その姿は、英雄の背中を追う報道官でも、お調子者の軍曹でもなかった。
ただ、大好きな友人たちが死にゆくことを知ってしまった、一人の無力な、ただの少女の姿だった。
手元に転がったカメラのファインダーには、誰も映っていない。
ただ、暗い格納庫の影と、床に落ちたユイの涙だけが、鈍い鉛色に光っていた。




