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第85話 日常

 揚陸戦艦『大和』の艦橋は、勝利の熱狂と、それを押し殺そうとする軍紀の静寂がせめぎ合っていた。  

 本来ならマリア少尉が座っているはずの通信席には、現在、オペレーターを兼務するカミラが座っている。

 マリアはメドムでの過労か、高熱を発して自室で休養を余儀なくされていた。


 カミラは、ヘッドセットから流れるノイズ混じりの信号を冷徹な手つきで調整し、スピーカーの出力を上げた。


「……シリチャイ司令、大東亜領グアミより、中継電波による入電です」


 カミラの報告に、カイとシリチャイが同時に身を乗り出した。  

 AAUによって蹂躙され、通信が途絶していたはずのグアミ。

 その沈黙を破ったのは、絶望の悲鳴ではなく、歓喜の咆哮だった。


『――こちらグアミ、大東亜第四艦隊旗艦「ベルナルド」! 大東亜第四、第六、第十五艦隊により、グアミ奪還に成功! 敵AAU駐留軍は、本国での虐殺の報を知るや否や、組織的な抵抗を放棄。即座に戦意を喪失した!』


 艦橋の将兵たちが、息を呑んだ。  

 カミラの声が、勝利の数字を淡々と、しかし力強く読み上げていく。


『我らの勝利は、ホルノルにいる第41大東亜エウロ特務艦隊の奮戦によるものである。リヴァイアサンがアムムトを討ち、メドムの門をこじ開けたからこそ、我々は再びこの島に旗を立てることができた。……第41特務艦隊、諸君らの功績に、最大級の感謝と敬意を!』


 スピーカーから漏れる歓声の裏側には、奪還された島の人々の泣き声さえ混じっているようだった。  

 マリアに代わりオペレーターを務めるカミラは、その熱狂に一切表情を動かさず、シリチャイに指示を仰いだ。


「司令、いかがいたしますか」


 シリチャイ大将は、深く、そして力強く頷いた。

 その瞳には、かつての戦友たちが守り抜いた領土を取り戻した軍人としての誇りが宿っている。


「……返電しろ。カミラ、そのまま打て」


 シリチャイはマイクを手に取らず、艦橋の窓の向こう、自分たちが解放したメドムの海を見つめたまま、言葉を紡いだ。


「――貴艦隊の奮戦と、その見事なる勝利を、心から誇りに思う。我々もまた、このメドムの地で、狂気に立ち向かう覚悟を新たにしたところだ。共に、この大海の夜明けを迎えよう」


 カミラの指先が、その返電を電波へと変え、大海原の向こうへと飛ばしていく。  

 カイ・イサギは、その光景を静かに見守っていた。

 「……ドミノが、倒れ始めましたね」 とベルナール中将。

「ああ。だが、倒れた先にあるのが平穏か、あるいはさらなる奈落か……。我々はまだ、この巨大なチェス盤の上から降りることはできん」


 グアミ奪還の報。


 大和の艦橋に流れる、勝利の咆哮。  

 カミラが淡々と、しかし確実に伝えるグアミ奪還の速報は、兵士たちの疲弊した心に一時の熱を与えた。  

 だが、シリチャイ大将の背中を見つめるカイ・イサギの瞳には、歓喜の色はない。


「……マリア少尉の容体は?」

「……高熱が続いています。医師の診断ですと、しばらく続くかもしれません」

 カミラの報告に、カイは静かに目を伏せる。  


「返電を終えたら、全艦隊に伝えろ。……我々の戦いは、まだ終わっていない。AAUはまだまだ死んではいない。相手は『巨人』だ」

 シリチャイは続けた。

 シリチャイの誇り高き返電の裏で、カイの言葉が冷たく艦橋の空気を引き締める。  

 大東亜連合の勝利に沸く世界。  


 メドムの惨劇、そしてグアミ奪還の報は、世界に「勝利」と「悲報」を同時に突きつけていた。 

 連日のように流れるAAUと帝国による戦時犯罪のニュースは、もはや人々の感覚を麻痺させ、「悲報に慣れさせる」という最悪の日常を形作っていた。


 補給と整備を終えた第41大東亜エウロ特務艦隊に、参謀本部から新たな特命が下る。  

――「スター・アイルズを奪還せよ」。  

 帝国に占拠されたままの、スター・アイルズ。

 その故郷を解放する戦いが、ついに始まろうとしていた。

 各戦線から招集される総数五個艦隊、八個師団。

 作戦名『レイライン作戦』。

 

 予想される到着日時は一九八四年五月二十三日。


 アラン中尉は、新たなる命令を握りしめたまま、艦内通路を駆けていた。  

 高熱で自室療養を続けている同郷の戦友、マリア少尉に一刻も早く伝えたかったからだ。

「マリア! 起きてるか、マリア!」


 彼女の部屋の前に辿り着き、乱暴にノックする。

 返事はない。  

 普段なら「うるさいわよ、アラン!」と、あの明るく大きな目を輝かせて怒鳴り返してくるはずだった。

 マリアの声は、地獄のような戦場にあって、艦隊全員を導く灯台の光そのものだった。

 返事が無い。

「……マリア? 入るぞ」


 嫌な予感が、背筋を凍らせる。  

 アランは怒鳴られるのを覚悟で、ロックの開いていた重い扉を押し開けた。


「……ウソだろ?」


 部屋の中には、窓から差し込む淡い光が、ベッドに横たわる彼女の姿を照らしていた。  

 マリアは、目を見開いていた。  

 驚いたような、あるいは何かを訴えようとしたようなその瞳は、しかしどこにも焦点を結んでいない。  

 口はわずかに開かれ、そこから漏れるはずの呼吸は、すでに止まっていた。


「……何をしてるんだよ、マリア。おい、冗談はやめろ」


 アランが立ち尽くす。

 彼女の白い頬に触れると、指先から心臓までほんのりと冷たさが伝わってきた。  

 あんなに明るく、大東亜の未来を語り、艦隊のオペレーターとしてマイクを握り続けていたマリアが、魂を抜かれた抜け殻のように横たわっていました。

「俺たちの……俺たちのスター・アイルズを取り戻すんだ。作戦が決まったんだぞ。俺たちの故郷だろ……?」

 アランの声が震える。

「お母さんが待ってるんだろう? 六人の兄妹がいるって、いつも自慢してただろうが! なんでだよ、なんでなんだよ、マリア!!」


 その叫びは、静まり返った部屋の壁に虚しく反響します。 

 メドムで聴き続けた、自国民を虐殺する銃声と悲鳴。

 おそらくあの「地獄の音」は、彼女の繊細な心を焼き切り、肉体さえも限界まで蝕んでいたのだ。  

 勝利のニュースに沸く艦隊の陰で、彼女はたった一人で、静かに、そしてあまりにも残酷に、その命の火を燃やし尽くしていた。


「……マリア……」


 アランは崩れ落ち、動かぬ彼女の手を握りしめた。  

 故郷奪還という最高の大義を前にして、最もその瞬間を分かち合いたかった少女は、眩しい笑顔を見せてはくれない。


 静まり返った自室。横たわるマリア。  

 アランの慟哭が、冷たい壁に虚しく響き渡る……。
































 はずだった。


「……クスクスクスクス。アハハハハハハハハハハ!」


 突如、死の淵にいたはずの少女の肩が、激しく上下に揺れ始めた。  

 アランが「え?」と声を漏らす間もなく、マリアはベッドから飛び起き、涙目で腹を抱えて笑い転げた。


「アランは単純だねぇ! アハハハハ!」

「は? ……マリア、お前、……生きてんのか?」 「はいよ! あんまりにもアランがバタバタ扉を叩いてうるさいからさ、ちょっと死んだフリしてみたんだよ。あー、おかしい! おかしすぎる! アランのあの顔、写真に撮っておきたかったわ!」


 呆然と立ち尽くすアラン。数秒前までの絶望が、怒濤のような脱力感へと変わっていく。


「……おかしく無い! 冗談にもほどがあるだろ! 俺が、俺がどれだけ……!」

「アハハハハハハハハハハ! ごめんごめん。ねえ、アラン、私ベルナール中将から聞いてるから知ってるよ、その作戦。……『スター・アイルズ奪還』でしょ?」


 笑いすぎた涙を指で拭い、マリアは少しだけ真面目な顔になって、窓の外の青い空を見上げた。 

 その瞳には、かつての明るい輝きが、熱を吹き飛ばすほどの強い意志と共に戻っていた。


「嬉しすぎて、つい悪戯しちゃった。ごめんね。……でも、ようやく、ようやく帰れるんだね。あの、私たちの、青い海の島に」


 メドムからスター・アイルズへ。

 果てしないサルガナス大海のただ中で、第41大東亜エウロ特務艦隊は沈黙を守り航行を続けていた。  

 艦内を支配しているのは、張り詰めた緊張感だ。

 AAUの凄惨な虐殺、そして帝国による領土占拠。

 兵士たちの心は勝利の高揚の中にも、「次は自分たちが死ぬ番ではないか」という暗い予感に蝕まれていた。


 だが、その重苦しい空気の底で、何かが蠢いている。


 艦隊副長、ベルナール中将は、薄暗い廊下を歩きながら眉をひそめた。

 生活支援群の給養班。

 いつもは黙々と作業に従事する彼女たちが、隅で肩を寄せ合い、まるで軍事機密を扱うスパイのように囁き合っている。


「……君たち。そこで何をしている」

「あ、中将閣下!」


 一人の若い女性一等兵が、慌てて背後に何かを隠した。

 その顔は青ざめ、指先がわずかに震えている。


「見せなさい。この艦に隠し事は許されん」 「そ、それは……軍規に触れるようなことでは……」

「なら出せるはずだ。出しなさい」


 観念した一等兵が差し出したのは、数枚の紙片だった。

 ベルナールはそれを奪い取り、手元を凝視する。


「……なんだ、これは」


 そこにあったのは、油にまみれ、首筋に汗を光らせながらTシャツ一枚で愛機を見上げるシュミット中佐の姿だった。

 いつもは無口な彼が見せる、無防備で熱っぽい眼差し。  

 めくると、さらに数枚。

 凛々しく敬礼する制服姿、そして仲間と談笑する一瞬の柔らかな笑顔。


「あ、あの……中将閣下。私…………中佐のこの姿を見ると、まだ戦えるって、そう思えるんです……っ!」


 一等兵は涙目になりながらも、ベルナールの手から写真を奪い取ると、脱兎のごとく角の向こうへ消えていった。


「…………」


 ベルナールは呆然とした。そのまま整備班のデッキへ向かう。

 そこでも、屈強な男たちが、何かを大切そうにカードケースに収めていた。


「君ら。その手に持っているカードは何だ」 「あ、副司令! い、いえ、これは……その、整備の『お守り』です!」


 取り上げたカードには、美しい光沢のコーティングが施されていた。  

 制服のスカートを翻して凛々しく微笑むアンジャリ。  

 両手を握り込み、口元に寄せながら少し恥ずかしそうに首を傾げるエルザ。  

 そして、陽だまりの中で椅子に腰掛け、幸せそうにウトウトしているマリス。


「……全て、広報部のアイツか」


 ベルナールは食堂の隅でいかがわしい取引をしているユイ軍曹を見つけると、荒々しい軍靴の音を響かせながら近づいた。

「ユイ軍曹! 見せてみろ!」

「ひっ、ひぃぃぃいっ!! 中将閣下!?」

 ユイのその手には、まだ現像したての生写真が握られている。


「何だね、この不穏な売買は。全艦の兵士たちが、君の撮った写真を隠し持っている。これは立派な営利活動、いや軍紀違反だぞ」


 ベルナールの鋭い眼光に、ユイはガタガタと震えながら弁解を始めた。


「ぶ、ブロマイドですぅ……。だ、だってみんな欲しいって言うし、お小遣いも稼げるし。あの……最初は景気づけのつもりだったんですぅ。でも、シュミット中佐と、三姉妹のポージング写真は、もう……驚くほどバカ売れしちゃって……!」


 ベルナールは、食堂の壁に貼られた「商品サンプル」をじっと見つめた。  

 三姉妹の瑞々しさは、確かに荒んだ艦隊の士気を支える光になっている。

 そして、中隊員たちがストイックに自分を追い込んでいるその姿(特にシュミット中佐の露出度高めの写真)が、一部の女性兵士たちには英雄として美しく映っているのだ。


 ベルナールは咳払いを一つし、周囲を素早く確認した。


「……ユイ軍曹。一つ聞くが、三姉妹のセットはあるか?」

「へ? あ、ありますよ! デラックス版が!」 「よろしい。……あと、もう一枚。私が所望したいものがある」


 ベルナールの視線が、不意に壁に貼ってあるサンプルに指を刺す。

 ユイは「へっ?」と呆けた顔をする。

 それは、「観賞用ブロマイド」ではなく、「思い出用通常写真」だ。


「その……S-7を貰おうか」

 一瞬、空気が凍りついた。  

 ユイは自分の耳を疑い、数秒遅れて顔を真っ赤に染め上げた。

「わ、わ、わ、わたしぃぃぃぃいいーーーっ!?」

 艦橋まで届かんばかりの絶叫が数千人を収容できる大食堂に響き渡った。

 それは、ユキ軍曹が撮った、「階段を駆け上がりながら、階下に笑顔を向けているユイ軍曹自身」の「思い出用通常写真」だ。


「誰にも言うんじゃないぞ! 分かったな、これもお小遣いにしていいから!」

「中将閣下、変態ですぅぅぅう!!」


 リヴァイアサン中隊の面々は、まだ知らない。

 自分たちが硝煙に塗れ、神経を磨り減らしながら次なる戦場を見据えているその裏で、自分たちのブロマイドが、厳格な艦隊副長までもを狂乱の渦に巻き込み、全艦隊の士気高揚に――異常なまでの貢献を果たしていることを。


 第41大東亜エウロ特務艦隊は、補給地点の予定を変更し、奪還されたばかりのグアミへと進路を転じる。

 この基地が補給拠点として機能するだけで、大東亜エウロ連合軍によるサルガナス大海の防衛網は、盤石を通り越し、完璧に近いものへと昇華されるのだ。

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