第83話 地獄
一九八四年四月二十一日、正午。
八州の空を、マンガニスの粉塵さえも吹き飛ばすような歓声が突き抜けた。
「号外! 号外! 独立第507中隊、敵超戦艦を再び撃沈!」
新聞売りの威勢のいい声に、道行く人々が次々と足を止める。
刷り上がったばかりの紙面には、ユイが撮った炎を上げて沈みゆく敵艦の写真と、大きく踊る見出し――『無敵のリヴァイアサン、連破! 八州を焼いた復讐の炎、北サルガナス大海に沈む』の文字が並んでいた。
「またやったのか! あのカイ少将と、リヴァイアサン中隊が!」
「これでもう、ロケット弾の雨に怯える必要はないんだな」
街角のラジオからは、軍楽隊が演奏する高らかな行進曲が流れ、ニュースキャスターは弾むような声で「リヴァイアサンの英雄的戦果」を繰り返し喧伝している。
メディアはこぞって、アンジャリやマリス、エルザの勇姿を、大東亜の誇るべき騎士として、また国民の娘として華々しく讃えていた。
この熱気は、参謀本部も例外ではなかった。
「ははは! 見ろ、国民のこの喜びようを!」 参謀本部の廊下ですれ違う将校たちは、互いに朗らかに笑い合い、力強く握手を交わしていた。 「カイ少将は、まさに我々の救世主だ。あの三姉妹も、帰還したら国民栄誉賞ものだろう。八州を救った英雄として、最高のパレードを用意してやらねばならんな」
執務室では、普段は厳格なエリートたちも、今日ばかりは理知的な仮面の下から少年のような高揚感を覗かせていた。
彼らの語り合う未来は、勝利という名の希望に満ち満ちている。
「メドムの要塞も、今の彼らなら容易く踏み越えるだろう。我々の誇るリヴァイアサンが、ついにサルガナス大海の門をこじ開けるのだ」
そこにあるのは、英雄への絶大な信頼と、自国の勝利を信じて疑わない幸福な一体感だった。
対するAAU統合参謀本部は、葬儀にも似た悲痛な空気に支配されていた。
「……馬鹿な。帝国の技術供与を受け、我が国の総力を、国力を注ぎ込んだ二隻が、一発の有効打も与えられずに海の藻屑だと?」
AAU統合参謀総長の怒声が、石造りの広大な会議室に響き渡った。
卓上の灰皿には、火のついたままの葉巻が放置され、濃い煙が彼の苛立ちを象徴するように揺れている。
「帝国の、あの傲慢な連中の甘言に乗った結果がこれだ! こんな欠陥兵器に頼るから、我が国の誇る超戦艦がこうも無様に自壊するのだ!」
総参謀長は、手元の報告書を叩きつけるように放り出した。
そこには、敵潜の雷撃によりアムムトが自身の重みに耐えかねて折れたという信じがたい屈辱が記されていた。
AAUの現場は未だに対艦シュテルツァーの存在を知らないのだ。
参謀本部ですら、大東亜エウロ欧州連合が放ったプロパガンダ映像により、彼らはようやく『対艦シュテルツァー』という名の、深淵に潜む恐怖を認識したのである。
だが、その正体を知ったところで、対抗策などあろうはずもなかった。
超エース級の技量を要求される対艦シュテルツァーの配備など、シュテルツァー後進国であるAAUにとっては、逆立ちしても叶わぬ夢物語に過ぎなかった。
「最後の一隻……『アペプ』はどうしている。あれだけは失ってはならんぞ」
「は! 『アペプ』は当初の予定通りポートアススクを出撃し、南から八州を突く予定でしたが、大東亜の防衛網があまりに厚く、現在はポートアススク港へ一時帰投中であります」
「急がせろ! ……海軍部長、八州、あるいはその周辺に強襲揚陸は可能か?」
問われた海軍部長は、苦渋の表情で首を横に振った。
「……いいえ。現状の防衛網を突破しての揚陸は、もはや自殺行為でしょう」
「ならば、日和極東連邦の最南端の拠点。裏縄はどうだ! あそこを落とせば楔になる!」
「犠牲は計り知れません。投入した全兵力が海に沈む可能性が高いかと」
総参謀長は拳を机に叩きつけた。理知的なエリートとしての計算が、ことごとく「敗北」の二文字を弾き出す。
「ならば、東南大東亜全域を蹂躙し、奴らの兵站を根こそぎ狩ってやるか。……飢えれば、あの東洋人どもも少しは大人しくなるだろう」
その時、沈黙を守っていた作戦参謀が、静かだが重い声を上げた。
「恐れながら総参謀長。……現在、我々が危惧すべきは、兵站以前の問題です。メドムが、失陥する恐れがあります」
部屋に戦慄が走った。
「もしメドムを失えば、サルガナス大海上のあらゆる補給が途絶えます。我が軍のサルガナス大海における継戦能力は、完全にゼロになる」
「馬鹿を言え! 補給など、同盟相手の帝国を頼れば済む話だろう!」
「帝国は我々に協力などしません」
海軍部長が冷淡に言い放った。
「技術を供与する代わりに物資を奪う。それが彼らのやり方だ。元より、我々とあの亡命政府は友人ではない……敵同士に近い同盟だ。現に、我が国のメディアは帝国を忌み嫌っている。それを知っている彼らが、我々に無償の救いの手を差し伸べるはずがありません」
総参謀長は、椅子に深く沈み込んだ。
理知的に、そして非情に状況を整理すればするほど、唯一の解が浮かび上がってくる。
「……メドムを死守せよ。何としてもだ。大東亜の『リヴァイアサン』とやらを、白真珠湾の門の前で、全火力を以て葬り去る以外に、我がAAUの生き残る道はない」
メドムの命運は、もはや外交でも戦略でもなく、メドム要塞に備えられた巨大な沿岸砲の砲列と、そこに近づく『大和』の激突に委ねられた。
「どのくらいだ! どのくらいの派兵をメドムに送れると言っているんだ!」
総参謀長の咆哮が、防音壁に囲まれた会議室に虚しく響いた。
報告を行う幕僚の顔は、死人のように青ざめている。手元の資料を握る指先が、隠しようもなく震えていた。
「奴らがメドムに到達するのは、あと二十四時間以内と予測されています……」
「二十四時間だと!? それまでに本国から増援を送れと言っているんだ!」
「……現在地点は不明です。偵察に送った哨戒艦も、潜水艦も、悉く行方不明。代わりに、大東亜とエウロの潜水艦がこの海域で極めて活発に動いており……もはやサルガナス大海は、我々にとって『敵の海』と認識せざるを得ません」
総参謀長は、机の端をミシミシと音を立てるほどに掴み、血走った眼で幕僚を睨みつけた。
「言い訳はいい! 早く、派兵の内容を言わんか!」
一瞬の沈黙。幕僚は、覚悟を決めたように、消え入りそうな声で真実を口にした。
「…三日以内に派兵できる数は、ゼロです。最短で七日後。装甲師団二、歩兵師団二を送るのが限界です」
「馬鹿なッ! 七日後だと!? それはただの浪費ではないか! 焼け石に水ですらありゃせん!二十四時間以内に敵が来るのだぞ!」
総参謀長は力なく椅子に崩れ落ちた。
メドムが落ちるまでの時間と、増援が届くまでの「七日」。
その絶望的な時間の空白が、AAUの太平洋支配の終焉を告げている。
「……その通りです。我々の主力は、今この瞬間も東南大東亜各地に駐屯したままです。もはや、メドムの失陥は免れません」
海軍部長の声は、冷徹なほどに現実を射抜いていた。
AAUが帝国の技術を使い、物欲しげに東南アジアの利権を漁っている間に、本丸であるメドムの背後は完全に疎かになっていたのだ。
「……では、見殺しにするというのか。メドムにいる一万の将兵と、我が国の威信を」
「残された道は、メドム要塞単独での抵抗のみです。……あそこに備えられた『超長距離沿岸砲』で、大東亜の艦隊を、そしてあの死神どもを、島に近づく前に一人残らず葬る以外にありません」
AAU統合参謀本部は、メドムを見捨て、同時に「無理心中」を命じた。
支援のない孤島で、残された兵たちが狂気的な迎撃準備を始める。
メドム島の知事公邸前広場には、異様な熱気と、それを押し殺そうとする軍の銃剣が火花を散らしていた。
演壇に立ったメドム島知事、サミュエル・D・リチャードソンは、震える手でマイクを握り、広場を埋め尽くす数万の市民を見渡した。
「住民の諸君! 私は……私は本日、大東亜連邦に対し、メドム島としての降伏を宣言する!」
静寂が広場を支配した。
リチャードソンは、背後に控える軍の鋭い視線を無視し、声を張り上げた。
「この地を守るものは、もはや何もない! そして、私は国家の忌まわしき秘密を、あえてここに晒そう。我がAAUは、宣戦布告すら行わず、大東亜の民間人を焼き払ったのだ! 標的は軍人ではない、罪なき民間人だ! 我々の国は情報統制によって真実を隠してきたが、世界はすでに知っている! 先日も、我々は八州の住民を無差別に焼き払った。私は……私は、現大統領を弾劾する!」
「そうだ! よく言った!俺たちだって知ってるぞ!」
「人殺しを止めるんだ!」
市民たちの怒号と歓喜が地鳴りのように響き渡る。
だが、その希望は一瞬で打ち砕かれた。
――乾いた一発の銃声。
リチャードソンの額に、ポッカリと空虚な赤い穴が開いた。
彼は言葉を失い、ゆっくりと崩れ落ちた。
演壇の後方から、煙を吐く拳銃を手にした男が歩み出る。
AAUメドム混成駐留軍、ロバート・マクスウェル大佐である。
「静粛に! 私はマクスウェル大佐である! 彼の妄言に惑わされてはならない。彼は敵国に買収された裏切り者だ!」
「バカヤロー!」
「嘘つき!」
「人殺しめ、死ね!」
怒り狂った市民から石が投げつけられた。
マクスウェルの頬を掠め、血が滲む。
その時、最前列で怯えていた若い少尉が、極限の緊張と恐怖に耐えかね、手にしたサブマシンガンの引き金を引いた。
――タタタタタタタッ!!
短い一連射。
静まり返った広場に、三つの死体が転がった。
三歳の少年と一歳の少女、そして二人を抱きしめていた母親だ。
三人は抵抗する間もなく即死だった。
「あああああぁぁぁぁッ!!」
泣き叫びながら駆け寄ったのは、その家族の父親だった。
彼は狂乱のまま隣にいた警備兵のライフルを奪い取り、その銃口を兵の顎下に突き立てて発砲した。
それが、地獄の合図だった。
「撃て! 暴徒を鎮圧しろ!」
マクスウェルの冷酷な号令と共に、重機関銃が火を吹いた。
逃げ惑う群衆の背中に、無慈悲な鉛の雨が降り注ぐ。
――一九八四年五月二十二日。
後に『白真珠湾の惨劇』と呼ばれるこの日、軍による大虐殺が起きた。
市民の死者四千三百名。
軍・軍属の死者二百四十八名。
市民の負傷者は集計不能。
メドムの美しい海は、自国民をも裏切ったAAUの狂気によって、赤黒く染まっていった。




