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第80話 届かない手

 シリチャイ大将が沈痛な面持ちで突きつけた一級極秘情報。

 その絶望的な数字を前に、司令部には狂気にも似た緊張が走った。

 葬儀のような沈んだ空気が、一つのノックで一変した。


 静まり返った室内で、新しく着任した女性准尉がパッと花が咲いたような笑顔で敬礼しました。

 プラチナブロンドのポニーテールと、控えめな色使いの赤いリボンが敬礼に合わせて揺れた。

「失礼いたします! 本日付で第507特務中隊、専属オペレーターとして着任しました、カミラ・ドムブロフスキ准尉です! 皆さんのこと、ずっと噂で聞いてました。お会いできて光栄です!」


 彼女の弾けるような明るい声は、沈滞していた室内の空気を一瞬で塗り替えました。

 

 シリチャイ大将が口を開いた。

「ブリーフィング中済まないな、私が許可した」

 カミラ准尉の真っ直ぐな言葉に、沈黙が支配していたブリーフィング室の空気が温かくほどけていく。

 カミラが深々と頭を下げ、その顔を上げた。

 ブリーフィング室の冷たい空気の中、彼女の瞳には、連日プロパガンダ放送されていた最高の英雄たちを目前にしているという恐怖と、緊張で逃げ出したいほどの思いが滲んでいた。


 静寂が一瞬、室内を支配した。  

 その沈黙を破ったのは、カイ・イサギ少将だった。

 彼は立ち上がることなく、しかしカミラの瞳を真っ直ぐに見つめて、優しく語りかけた。


「……着任、感謝する。カミラ准尉。君が我々の『眼』となってくれることを、心から歓迎しよう。俺のことは偉い人が居ない時は、カイと呼んでくれ。少将ってなんか堅苦しいからな」  


 カイの声は、どこまでも誠実で、透明だった。 「我々の機体は、どれも一癖あるものばかりだ。だが、君の資料は見せてもらっている。エリート中隊のオペレーター経験者だね。君のオペレートを信じているよ。……これから、よろしく頼む」


 カイの言葉を受け、隣に座る副長、ハインツ大佐が、短く切った葉巻を灰皿に置いた。

「……ハインツだ。副長をやっている。准尉、我々の動きは早い。まずは慣れろ。慌てる必要は無い……我々は、君の指示に従う」  

 多くは語らない。

 だが、その短い言葉には、かつて「魔王」と恐れられた男の威厳が滲み出ていた。


「カミラさん! 私、エルザです!」  

 エルザが、椅子から身を乗り出すようにして、弾んだ声で言った。

「さっそくだけど、カミラって呼んで良いかな?わたしもエルザって…………偉い人が居ない時は呼んでくれるかな?大尉ってちょっと堅苦しくってさ」


「クスクス。エルザってば。カミラさん、よろしくお願いしますわ」  

 マリスが、優雅な所作で微笑みを向けた。  「わたくしたち姉妹は、対艦シュテルツァー……あなたの指示がなければ迷ってしまいますの。……宜しくお願いしますわね」


 二人の妹の言葉を隣で聞いていたアンジャリ少佐が、居住まいを正し、落ち着いた口調でカミラを見つめた。

「……カミラ准尉。よろしく頼むわね」」


 壁際に寄りかかっていたガリアス少佐が、豪快に髭を一撫でし、野太い声で笑った。

「ガッハッハ! 良い面構えだ、准尉。……俺たちの機体は……レーダーに映らない事も多いからな。なぁに機体の姿勢が低すぎるだけだ。心配しないでくれ」

「親父の言う通りだぜ。カミラ准尉、あまりにも居ない時だけ心配してくれ!まあ、そんなことはねえけどな」  


 シュミット中佐が、氷のような美貌をわずかに和らげて言い、カミラの胸がチクリと痛くなる。 

 アラン大尉とソルガ中佐も、それぞれの流儀で、静かな敬意をカミラへと示した。


 カミラは、一人ひとりの言葉を、その胸の奥深くに刻み込んでいた。  

 そこにあるのは、甘えを許さないプロの厳しさと、それ以上に深い、命を預け合う者同士の信頼だった。

「……はい! 皆さん、ありがとうございます!」

 カミラの緊張は少しずつ解け、恐怖は霧散していった。

 しかし、シリチャイ大将が手渡した『セクメト』の報告書に目を通した瞬間、カミラの大きな瞳が揺れ、涙がぶわっと溢れ出しました。


「……そんな……。こんな、街を、一般人を焼くためだけの兵器なんて、ひどすぎます……。八州には、一生懸命生きてる人がたくさんいるのに!」


 皆が、ロケット砲戦艦を思い出し、静寂が戻った。

「沈むな! 思考を止めるな!」  

 沈黙を破ったのは、艦隊副司令ベルナール中将だった。

 彼は白髪の混じった頭を抱えるようにして、海図の上に身を乗り出した。


「射程四千キロ……。精密誘導なし。これは『狙う』兵器ではない、ただ『置く』兵器です。ベルナール中将、閣下の知恵を貸していただきたい。閣下なら、この怪物をどこに隠しますか?」


 シュミットの問いに、ベルナールは鋭い眼光を地図の一点、サルガナス大海の南、クメルクスへと向けた。

「一隻がクメルクスにいる……これが最大のヒントだ、シュミット中佐。帝国参謀本部は作戦に、効率や計算を重視すると聞いた……つまり『地球の自転』を利用する可能性がある」


「自転……赤道加速ですか?」  

 シュミットが即座に反応した。

 ゲルマー理工科大学の工学知識が、中将の言葉の先を読み取る。

「そうです、シュミット中佐。四千キロもの距離を、精密誘導なしのロケット弾で埋め尽くすには、莫大な初期速度が必要だ。赤道直下、あるいは低緯度海域から北へ向けて放てば、地球の自転が弾道を強力に後押しする。つまり、敵は『南』にいる!」


「ですが閣下」

 マリスが、震える指で海図の北方を指し示した。

「南だけでは、八州の全域を三時間で八割も破壊するのは非効率ですわ。効率を考え、挟み撃ちにするはずです。ならば、もう一隻は……」


「……マリエール諸島、あるいはミクロン海域か」  

 アンジャリが言葉を継いだ。

「クメルクスの『セクメト』が北上し、マリエールの『二番艦』と合流する……。そうすれば、八州は完全に南からの射線に晒される」


「でも、あともう一隻は?」  

 エルザが必死にコンパスを動かし、八州から四千キロの円を描いた。

「南だけじゃダメ。もし私が帝国の指揮官なら、八州を『袋小路』に追い込むよ。東……ギルバス海域。あそこなら、偏西風を使って安定滑空させればロケット弾を流し込める。風の力を利用すれば、粉塵の妨害も最低限で効率的に投射できるよ!」


 ベルナール中将は、かつて帝国が誇った天才児エルザの言葉に深く頷いた。

「その通りだ、エルザ。帝国は気象学さえ武器にしている。 一隻はクメルクスから北上する『セクメト』。 二隻目はマリエール海の影から。 そして三隻目……最も恐ろしいのは、東の果て、サルガナス大海の真ん中から偏西風に乗せて死を運ぶヤツだ」


 カイの視界が、怒りと恐怖で歪んだ。  

 八州を中心に描かれた、三方向からの死のベクトル。その収束点には、ミナが、数千万の民が、日常を送っている。


「……ミナを、八州を灰にさせてたまるか」

 カイは、胸の中の手紙を握りしめた。

「ベルナール閣下。潜水艦隊にクメルクスを任せるなら、我々リヴァイアサンは……『東』と『中央』を叩きに行くべきです」

「そして、八州に避難勧告は出せませんか?」


 ベルナール中将は、カイの肩に重く手を置いた。

「……作戦ではない、これは祈りに近い博打だ。だが、その推理に賭ける価値はある。参謀本部に打診しよう。そしてカイ少将、避難勧告は大東亜参謀本部も検討している。しかし、一般市民の大量移動は、ロケット砲戦艦の目標の変更を招くだけかも知れない」


 その言葉は、カイの喉元まで出かかっていた悲鳴を強引に押し戻した。

「ミナだけは、ミナだけは今すぐ八州から避難させてください」

 心が、血の涙を流しながらそう叫んでいた。

 愛する妻は、今この瞬間も動けぬ体で病院のベッドにいる。

 もし自分の推理が正しければ、そこは地獄の火に焼かれる最前線となるのだ。  

 だが、カイの唇は鉄の規律に縛られたまま、微動だにしない。

 ここで彼女一人の命を乞えば、守るべき幾百万の民への裏切りとなる。  

 私情を優先すれば、命を懸けて戦う部下たちの背信となる。

 なりふり構わず彼女を救いに行きたい。

 一人の男として、ただ彼女の手を取って逃げ出したい。  

 しかし、肩に刻まれた「少将」という階級章が、冷酷な重圧となって彼の魂を圧し潰していた。  

 その制服はあまりにも重く、あまりにも無慈悲に、彼から「夫」である自由を奪い去っていた。


 司令室のテレタイプが、乾いた音を立てて印字を吐き出しました。

 シリチャイ大将がその紙を手に取ると、一瞬だけ眉間の皺が和らぎ、すぐに鋼の軍人の顔に戻りました。


「参謀本部より返電だ。読み上げる」


 室内に、シリチャイの低く重厚な声が響きます。


『貴艦隊の慧眼に感謝する。推理は本部の予測と合致した。 リヴァイアサン中隊を含む貴部隊は、直ちにマリエール諸島海域へ向かい、警戒および遊撃行動に努めよ。 詳細は現場指揮官に委任する。  なお、東ギルバス、および北方の他海域については、別部隊がすでに対応を開始している。各個、背後の憂いなく任務に邁進されたし。以上』


「……別部隊だと?」  

 ベルナール中将が、わずかに驚きを含んだ声を漏らしました。

「大東亜も、手をこまねいていたわけではないという事か」


 カイは、深く、深く息を吐き出しました。

 独りではない。

 八州を、未来を守ろうとしているのは、自分たちだけではないのだという事実は、凍りついていた心にわずかな熱を灯しました。


「マリエール諸島か……。あそこは島々が入り組み、粉塵による磁気嵐も激しい海域だ。隠れるには最適だが、見つけ出すのは至難の業だぞ」  

 シュミットが、すでに戦術士官の顔で作戦を練り始めました。


 「やってやりましょう。みなさん!」 とカミラ。

「敵が隠れているなら、炙り出すまでよ。八州の街を、あんなロケット弾で……ねえ、ハイン?」

 アンジャリから問いかけられたシュミットは「当然だ」と頷く。

「そうですわ! わたしたちリヴァイアサンが、マリエール海の死神を地獄へ送り返して差し上げますわ!」  

 マリスが宣言し、隣でエルザも力強く頷きました。


「第41大東亜エウロ特務艦隊、これよりマリエール諸島海域へ向かう。…… 第507特務中隊 リヴァイアサン出撃準備だ」

「「「はっ!」」」


 大和の巨体が、マリエール海の深い闇へと向かって、静かに、しかし力強く加速を始める。

 八州に住む数千万の命を背負った、孤独な、そして希望と不安入り混じる抜錨であった。


 大和のブリーフィングルーム。

 ノイズ混じりの電信が、一人の男の名を英雄として刻みつけました。


「……クメルクスにて、敵ロケット砲戦艦一番艦『セクメト』を撃沈」


 その報告を聞いたシュミットが、珍しく目を見開いて声を上げました。

「単艦で……あの帝国の多重防衛網を突破したというのか。信じられん。……やったのは誰だ」


 通信士が敬意を込めて、その名を読み上げます。

「エウロ第Ⅸ潜水艦隊、ギランター・プラーン大尉です。彼の乗艦、巡洋潜水艦『U-VulcanoⅧ』が、港湾奥深くに侵入。敵艦の腹下に潜り込み、零距離で酸素魚雷を四本叩き込んだとのことです」


「プラーン大尉……」  

 シュミットの脳裏に、ゲルマーシュテルツァー士官学校時代に新聞で見た、傲慢なまでに自信に満ちた男の横顔が浮かびました。

「あの『深海の虎』か。奴ならやりかねない。……だが、これで一隻は消えた」


 そのニュースは、中隊に希望の火を灯しました。

 新聞の一面は彼の写真と艦が踊る。

「『クメクルスの雄牛』ギランター・プラーン大尉。単艦で敵本拠地クメクルスに乗り込み敵戦艦撃沈」

 

 世界中には、同じように未来を賭けて戦っている「同志」がいる。


「すごい……! エウロの潜水艦一隻で、あの化け物を仕留めるなんて」  

 エルザが目を輝かせて叫ぶと、アンジャリも強く頷きました。

「ええ。英雄が一艦で道を切り拓いてくれたわ。次は私たちの番ね、カイ」


 カイは海図を見つめたまま、静かに、しかし熱い決意を言葉に乗せました。


「プラーン大尉が南の死神を葬った。……なら、マリエール海に潜む二番艦は、俺たちの手で引きずり出す。八州への砲撃開始まで、もう時間がないはずだ」


 だが、安堵は長くは続かなかった。  

 英雄の誕生を祝う空気は、次々と入電する「南洋崩壊」の報告によって瞬時に凍りついた。


「緊急電! スター・アイルズ、全域が陥落! 守備隊、全滅した模様です!」

「続いてサウザンド・アイルからも……! 主要拠点をすべて帝国軍に制圧されました。防衛線、完全に消失!」


 海図の上に、次々と赤く、どす黒い「帝国領」の印が刻まれていく。  

 それは、大東亜の「盾」として機能していた諸島群が、音を立てて崩れ去ったことを意味していた。

 拠点の喪失は、そのまま帝国の補給線が八州へと一気に延伸されることを示している。


 ブリーフィング室に、断末魔のような絶叫が響き渡った。

「……あ……ああ……」


 その場にいたアラン・バティスタ大尉の顔から、一瞬にして血の気が引いた。  

 かつて蒼星郡の教会で、周囲が窒息するほどの甘い言葉をエマに囁いていた、あの快活な面影はどこにもない。  

「……エマ……エマッ!!」


 アランは、自身の側頭部をかきむしるように両手で抱え込んだ。  

 脳裏に蘇るのは、祝宴の席で「貴方のそばにいられるなら、私はもう何もいらないわ」と微笑んだ、愛妻の柔らかな声だ。  

「嘘だ……嘘だと言ってくれ! 全域陥落だと!? 守備隊が全滅したなら、残された民間人はどうなる! 彼女は、エマはどこにいるんだ! 返事をしてくれ、エマァ!!」


 アランは周囲の制止を振り払い、狂ったようにオペレーターのコンソールへ掴みかかった。

 その瞳は血走り、喉からは血の混じったような咆哮が漏れる。  

 愛する妻を「夜空の一輪の薔薇」と称え、釣った魚を毎日料理してほしいと語り合ったあの日常が、帝国の戦火によって、跡形もなく焼き尽くされたのだ。


「アラン大尉、落ち着け!」

「落ち着けるかッ! 俺の命なんだ……エマは、俺の魂なんだよぉ!!」


 彼はそのまま床に崩れ落ち、獣のような嗚咽を漏らしながら、冷たい床を爪が剥がれるほどに掻きむしった。


 一方で、情報を伝え終えた艦隊オペレーター、マリア・サントス少尉もまた、限界を迎えていた。    

 彼女もスター・アイルズの出身だった。  

 かつてアランとエマの「愛の粒子」に呆れ顔を見せ、足早に通り過ぎたあの平穏な夜。あの日、彼女の故郷は確かにそこにあった。  

「……サウザンド・アイル応答……応答してください……」

「スター・アイルズ……返信を……」


 震える指で通信を繋ごうとするが、スピーカーから返ってくるのは、心臓を逆なでするような不気味なノイズだけだ。  

 やがて、マリアの手から通信マイクが滑り落ちた。

「……お母さん……」


 マリアはその場に泣き崩れた。  

 軍人として、多くの死を見てきたはずだった。  だが、故郷という地図の上が、ただの「消失した防衛線」という記号に置き換わる絶望には耐えられなかった。    

 彼女が座るオペレーター席の足元には、涙が水溜りとなって広がる。  

 かつて祝宴で浴びた色とりどりの花びらの記憶は、今や真っ黒な絶望へと塗り潰された。


 沈黙するブリーフィング室に、アランの狂気じみた悲鳴と、マリアの押し殺した泣き声だけが、重く、暗く、満ちていった。


 その片隅で、広報課のユイ軍曹は、文字通り石のように硬直していた。


 首からは、あの祝宴の日と同じ一眼レフカメラがぶら下がっている。  

 かつて「英雄の帰還」や「愛の誓い」を劇的に切り取り、国民を熱狂させるための『最高の一枚』を追い求めてきた彼女の指は、今、凍りついたようにシャッターボタンから離れなかった。


(撮れない……)


 ユイは震える手でカメラを構えようとしたが、ファインダー越しに映ったのは、もはや軍人の形を保っていないアランの姿だった。

 愛妻エマとの惚気話を振りまき、皆を呆れさせ、笑わせていたあの男が、今は剥き出しの絶望を叫び、床に爪を立てて血を流している。


 広報官としての冷徹な本能が、一瞬だけ「これは国民の復讐心を煽る最高に劇的な素材だ」と囁いた。  

 だが、次の瞬間、激しい吐き気が彼女を襲った。


 レンズが捉えているのは、プロパガンダの英雄ではない。  

 ただ、守るべき愛する人を、故郷を、魂の半身を奪われた一人の男の「死」そのものだった。


「ユイ軍曹………?」


 傍らにいた艦橋詰め憲兵が、心配するように囁いたが、彼女は弱々しく首を振った。  

 カメラを構えることは、彼らの引き裂かれた心に土足で踏み入る行為にしか思えなかった。    かつて「幸せすぎて窒息しそう」と冗談めかして言ったあの愛の粒子は、今や毒煙となって彼女の視界を塞いでいる。  

 ユイはカメラを静かに下ろし、レンズキャップを嵌めた。


 今、この瞬間にレンズを向けることは、彼らに対する、そして自分たちが信じてきた「家族」という絆に対する、取り返しのつかない冒涜だ。


 ユイは力なく項垂れ、レンズを通さない生の視界で、ただ地獄のような光景を見つめ続けることしかできなかった。  

 彼女の目からも、一筋の涙が静かに溢れ、冷たいカメラのボディに滴り落ちた。


「まさか……スター・アイルズも、サウザンド・アイルも、剛健なシュテルツァー部隊が駐留していたはずだ……」  

 ソルガが地図を見つめたまま、震える声で呟いた。  

 マリスは無言でアンジャリの腕を掴み、アンジャリは左手の指輪を痛いほど握りしめている。


 カイは、地図の一点、八州を凝視していた。  南方がこれほどまでに速く瓦解したのなら、敵のロケット砲戦艦にとって、このマリエール海域はもはや「危険な最前線」ではない。

 いつでも八州へ牙を剥ける「安全な射撃陣地」へと変貌しているのだ。


「……帝国は、世界を焼き払う準備を終えようとしている」


 カイの口から漏れたのは、祈りのような、あるいは呪詛のような言葉だった。   

 ミナが、数千万の民が、何も知らずに暮らすあの街へ。

 四千キロの彼方から、ただ無差別に命を刈り取るためだけに作られた非人道兵器の砲門が、今この瞬間も向けられようとしている。


 ゲルマーの英雄による戦果さえも、この巨大な絶望の波に飲み込まれようとしていた。


 カイは、赤く塗りつぶされたスター・アイルズとサウザンド・アイルの海図を、穴が開くほどに見つめていた。

 「ミナだけは避難させてください」という言葉が、水中の泡のように浮かんでは消え、繰り返し彼を苛む。


 通信機からは、今この瞬間も、南方の拠点で戦う友軍たちの悲痛な叫びが断続的に聞こえて来るようだ。

 かつて共に学び、訓練に励んだ仲間たちが、帝国の圧倒的な火力の前に次々と散っていく。

 しかし、あるはずの救援要請は全く無いのだ。

 それは、帝国、AAUの圧倒的な物量により、完全に都市機能が喪失していることを意味していた。

「……救援に行かなければ。今ならまだ、間に合う拠点が……生き残っている奴らがいるはずだ」


 カイが絞り出すように呟いた言葉に、シュミットが静かに、しかし冷徹な現実を突きつけました。


「カイ。我々がここを離れれば、マリエール海の空白を突いて『アペプ』が活動するぞ。そうなれば、八州は三時間で灰になる」


「分かっている……分かっているんだ、シュミット!」


 カイは拳を地図の台に叩きつけました。

 目の前の海図。

 南へ向かえば、仲間たちを救えるかもしれない。

 だが、それは背後にいるミナを、そして数千万の八州市民を見捨てることと同義だった。


「あっちには、仲間がいる。だが、こっちには……」


 カイの脳裏に、ミナの穏やかな笑顔と、あの六百文字の未来が浮かんだ。

 もし、自分が「仲間を救う」という大義のためにここを離れ、その間に八州が焼き払われたら。 

 自分は、灰になった街で誰に、どの面を下げて詫びればいいのか。


 アンジャリが、カイの震える肩にそっと手を置きました。

「カイ……辛いけれど、私たちの任務は、この海域に潜む『死神』を逃さないことよ。私たちがここを動くことは、帝国が最も望んでいることだわ。それに、友軍に任せましょう。大東亜参謀本部も、あそこが抑えられたままにはしないはずよ」


「そうですわ、カイ様……。南の仲間たちは、私たちがここを死守し、八州を守り抜くことを信じて戦っているはずですわ」

 マリスが悲しげに、弱々しくも胸を張りました。

 エルザも涙を拭い、強く頷きます。


 カイは、奥歯を噛み締め、血が滲むほど拳を握りしめました。

「アラン……すまない。マリア、すまない……!」

(カイは、もう一人。そして心の中で一番謝りたい相手に、無限の謝罪を繰り返すのでした)

「分かっている。俺は理解しているから」

「私も、行けます!」

 南方の空を見つめ、救えない仲間たちへの謝罪を心の中で叫びながら、カイは再び、マリエール諸島の霧深い海域へと視線を戻しました。


「リヴァイアサン中隊、転進はしない。……俺たちは、ここで『アペプ』を待つ。八州に、一発のロケット弾も通させない。それが、散っていった奴らへの、唯一の手向けだ」

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