第79話 情報
シュミットが安堵と羞恥の混ざった溜息を漏らし、アンジャリが勝利の笑みを浮かべて彼を「確保」したその瞬間。
パシャッ! パシャシャシャッ!
静寂を切り裂くような、連続した機械的なシャッター音と、強烈なフラッシュの光が休憩室を白く染め上げました。
「なっ……!? 敵襲か! 光学兵器か!?」
反射的にアンジャリを背後に庇い、胸のホルスターに手をかけようとしたシュミットの前に、一人の女性がカメラを構えたまま躍り出てきました。
「……ユイ!? あなた、どうしてここに……旅行は終わったわよね!?」
アンジャリが驚愕の声を上げます。
そこに立っていたのは、軍服のスカートに油汚れと土をつけ、肩で激しく息をしながらも、瞳だけは獲物を見つけた猛獣のようにギラつかせているユイ軍曹でした。
「はぁ、はぁ……! 桟橋に取り残された時は……もう、この世の終わりかと思いましたよ! でも、ライオンポートへの輸送路が回復したって聞いて、整備用の資材輸送機に無理やり潜り込んで……今、たった今到着しましたぁ!」
ユイは額の汗を乱暴に拭うと、首から下げたカメラを愛おしそうに撫でました。
「間に合って良かった……! 『鋼の男』が膝を突き、その魂を捧げる歴史的瞬間……。もし逃していたら、私は広報官として一生の不覚を抱え、八州の海に身を投げていたところです!」
「……輸送路の回復を、私利私欲のスクープ撮影に使うとは。本来の仕事はどうしたのだ?」
シュミットが呆れ果てたように吐き捨てますが、ユイはどこ吹く風で、カメラの作動を確認してニヤリと笑いました。
「申し遅れました! わたし、第507特務中隊 リヴァイアサン付き広報官のユイ軍曹ですぅ! 皆様のビューティーアドバイザーとして、そしてこの『愛の軌跡』を全軍のプロパガンダ……報道として記録させていただきますぅ!」
「本当は、出航の時には乗ってるはずなのに、置いて行かれたんですよぅ」
「ユイ軍曹、よくぞ参られましたわ!」
マリスがぱっと顔を輝かせ、ユイの側に歩み寄ります。
「さっそくですけれど、今のシュミット中佐の『耳まで真っ赤になった跪き写真』、最高画質で焼き増ししてくださらない?わたし、部屋に飾りたいですわ!」
「もちろんです、マリスさん! 大量のフィルムも、『重要物資』として執念で持ち込みましたから! さあさあ、中佐、アンジャリ少佐。今度は今のポーズをもう一度、もう少しだけ密着して、左手の指輪がキラリと光る角度でお願いします!」
「断る! 撮影は終了だ、撤退しろ!」
シュミットが顔を真っ赤にして逃げようとしますが、八州から執念で追いかけてきた広報官と、シュミットの写真を「おねだり」する妹たちの包囲網は、どんな帝国の防衛線よりも堅牢でした。
「ハイン、諦めなさい……。ユイが来たってことは、もう逃げ場はないわよ」
アンジャリがクスクスと笑いながら、彼の腕をぎゅっと抱きしめます。
「……やれやれ。どうやら本当の地獄はこれからだったようだな」
シュミットは諦めたように、しかしどこか幸せそうに、レンズの向こうで微笑むアンジャリの隣で、再び深い溜息をつくのでした。
クメルクス北部、クドムルーの喧騒から外れた場末の酒場。
その奥の湿った一室で、一人のシムラーシュ人諜報部員、チャイが血の混じった唾を吐き出した。
彼の爪の間には、帝国の憲兵隊に引き剥がされた痕が生々しく残っている。
だが、その代償として手に入れたものは、この世界の運命を左右する「情報」だった。
チャイは震える手で、極小のマイクロフィルムを通信機にセットした。
帝国の追手はすぐそこまで来ている。
彼はシムラーシュの誇りを胸に、最期の任務を完遂した。
「……これを、エウロへ。大東亜へ。世界を……灰にさせるな」
暗号化されたパルス信号が、粉塵の空を突き抜けて幾つかの中継を経て、エウロ諜報部極東支局へと飛び込んだ。
エウロ諜報部極東支局
受信されたデータは、分析官たちの顔を瞬時に蒼白にさせた。
新造艦、RB-01『セクメト』。
データが示すスペックは、あまりにも非人道的だった。
「射程4000km……!? 冗談だろう、粉塵で電子の目も届かないこの空で、どうやってそんな距離を……」
「面制圧用多連装ロケット砲戦艦です。精密な狙撃など必要ない。八州の全域に、数万発の焼夷弾をばら撒く。これは都市を効率よく焼くための『無差別虐殺装置』だ」
情報確度S、危険性S。
エウロ諜報部は、これを「第一級重要情報」と認定した。
報告書は瞬時に暗号化され、大東亜参謀本部へと超特急で回付された。
大東亜経済広域圏統合参謀本部
重苦しい沈黙が、作戦室を支配していた。
参謀総長は、差し出された報告書を読み終えると、愛用の老眼鏡をテーブルに置いた。
その瞳には、冷静な軍人の奥底で煮えくり返るような怒りが宿っている。
「帝国は……無辜の民を焼き払うために、これほどの物を用意したというのか。軍事基地でもない都市を、民を、我々の故郷を、ただの灰にするつもりか」
彼は隣に控える潜水艦隊司令官へと視線を移した。
ただ遠隔から都市を焼き払うためだけに造られた、長距離殺戮戦艦。
それは参謀本部の将校たちにとって、あまりに非人道的な破壊兵器であり、断じて存在を容認できるものではなかった。
「なんという非人道的な……」
「帝国め、正気か。許しがたい暴挙だ」
居並ぶ将官たちの口から、憤怒の叫びが次々と漏れる。
「司令官、命令だ。クメルクス北部港に停泊中の、帝国ロケット砲戦艦……これらを存在せしめてはならん。一隻たりとも、外洋へ出すな」
「了解しました。我が潜水艦隊、『ア・エ・カ号潜水艦群』を放ちましょう」
司令官の低い声が響く。
それは、都市を焼き尽くそうとする死神に対する、深海からの死刑宣告だった。
ゲルマー諜報部から届けられた「Sクラス」の速報。
それは、勝利の戦略を練るための情報ではなく、敗北までのカウントダウンを突きつける死刑宣告だった。
「一隻……『セクメト』の所在だけだと?」
参謀総長の声が、乾いた音を立てて響きました。
シムラーシュ人部員が命を賭して報告したクメルクス北部港の座標。
だが、竣工したはずの同型艦は三隻だった。
「残る二隻……『アペプ』と『アムムト』はどこだ!? 報告には三隻とあったはずだ!」
叫びにも似た問いに、諜報部長は苦渋に満ちた表情で首を振りました。
「……現在、クメルクス以外の二隻は、どこで建造されたかも分かりません。完全に消息を絶っています。太平洋のどこかに潜んでいるのか、あるいは既に大東亜の首都 八州を射程に収める海域に展開しているのか……判別不能です」
「判別不能だと!? この化け物を野放しにしているというのか!」
一人の参謀が、震える手で計算尺を叩きました。
RB級ロケット砲戦艦が、その最大投射能力をもって八州へ三時間の無差別砲撃を行った場合の被害予測。
「……算出、終わりました」
若き士官が、掠れた声で読み上げました。
「三時間の投射により、八州の居住区の85%が消失。焼夷ロケット弾による同時多発火災で、都市全体が巨大な火葬場と化します。生存者数は……推定不能。死傷者は、数千万の単位に達します。我々が守るべき『家』も、『家族』も、文字通り灰すら残らず蒸発します。これまでの戦争の概念が……すべて終わります」
作戦室に、死のような沈黙が落ちました。
4000kmの彼方から、姿も見せずに文明を消去する。
それはもはや戦いではなく、一方的な「焼却」であった。
「撃たれたら最後、首都陥落か。しかし、こんな虐殺が許されるものか」
「……急げ。潜水艦隊司令部に伝えろ」
総長は、絞り出すように命じました。
「見つかっている一隻を叩け。だが、残る二隻を見つけ出さない限り、我々に明日は来ない。深海の狼たちに伝えろ……これは大東亜の、エウロの、存亡を賭けた狩りだ。一秒の遅れも許されん」
【第一級極秘通達:全将官へ緊急配信】
敵新造ロケット砲戦艦、通称『RB級』三隻を最優先撃滅目標とする。
目標艦は精密射撃を破棄し、広域面制圧による都市無差別殺戮のみを目的とした非人道兵器なり。
一隻はクメルクス北部港。
これに対し、大東亜潜水艦隊を全戦力投入し撃滅を試みる。
だが、残る二隻は現在消息不明。
射程4000km。
本艦が三時間砲撃を継続せし場合、首都八州の85%は消失、住民数千万人は焦土と化す。
これは戦争ではない。
許し難い大量虐殺である。
全軍、あらゆる行動で残る二隻を索敵、破壊せよ。
大和の艦橋、重苦しい空気が支配する司令官室に、シリチャイ大将の低い声が響いた。
彼女はシムラーシュ出身の叩き上げであり、命を賭して情報を届けた諜報部員チャイの同郷の女である。
「カイ少将。そしてリヴァイアサン中隊の諸君」
シリチャイ大将が提示した報告書を読み終えた瞬間、室内の温度が氷点下まで下がったかのような錯覚に陥った。
シュミットが、アンジャリが、マリスとエルザが、先ほどまで笑い合っていた柔らかな表情を消し、戦慄に目を見開く。
「……三時間で、八州の八割以上を……?」
シュミットの声が、かつてないほどに低く、怒りに震えていた。
「精密誘導もなしに、ただ街を焼くためだけに4000キロの彼方から火を放つというのか。無辜の民を虐殺するためだけの兵器を開発したというのか!」
その傍らで、カイ・イサギはただ一人、石のように硬直していた。
彼の指先には、胸のポケットに収めたミナからの手紙の重みがあった。
海風に吹かれながら待っている。
――あなたの帰る家を、一緒に建てたい。
――ネーベルハイトで、幸せな家庭を。
ミナの手紙から滲み出た、ミナの心の声が浮かんでは消えてゆく。
「……八州だと……」
カイの口から、掠れた声が漏れた。それは少将としての冷静な分析ではなく、一人の男としての悲鳴に近かった。
「ミナ……ミナが、そこに居るんだぞ!」
カイの脳裏に、ミナの筆跡が浮かぶ。
自分たちが未来を語り、ネーベルハイトの暖炉の暖かさを夢見ていたその瞬間に、帝国はミナの頭上からすべてを焼き尽くす巨獣を放ったのだ。
「その『ロケット戦艦』だか何だか知らないが……」
カイが顔を上げたとき、その瞳には、もはや軍人としての義務感を超えた、猛烈な殺気が宿っていた。
「……俺たちの未来を、ミナを!焼かせてなるものか!」
シリチャイ大将は、それ以上何も語らなかった。
ただ、通信機から吐き出された赤い印字の紙を、テーブルの上に静かに置いた。そこには軍人としての全人生を否定するかのような、非人道的な数字が羅列されている。
シリチャイは、リヴァイアサン中隊の面々に「撃滅せよ」などという無責任な発破をかけることはしなかった。
彼は、ただこの地獄のような現実を、同じ「将官」であるカイと共有する義務があるだけだった。
カイは、差し出されたその紙を、指が白くなるほど強く握りしめた。
射程四千キロ。
三時間の砲撃。
精密誘導など放棄し、ただ「そこにあるものすべて」を焼き尽くすためだけの質量投射。
どこかも分からない海域から放たれる恐ろしい数のロケット弾によって、全てが灰燼に帰すという。
リヴァイアサン中隊は、あくまで対艦、対機動兵器の白兵・強襲部隊だ。
広大な世界のどこかに潜み、四千キロの彼方から死を運ぶ「見えない怪物」を見つけ出すための目も、耳も、持ってはいない。
「……シリチャイ大将。建造場所、あるいは母港の推測は……」
カイの問いに、シリチャイは重く首を振った。
「分からん。シムラーシュ人諜報部員が命を賭して掴んだのは、クメルクスに現れた一隻の座標だけだ。残る二隻が……世界のどこの海にいるのか、あるいはドックで今この瞬間に抜錨の時を待っているのか。我々には、それを知る術がない」
この「世界」において、情報は血よりも重い。だが、その血を流して得られた情報でさえ、救える命よりも、失われる命の巨大さを浮き彫りにするだけだった。
「……作戦は、ありません」
シュミットが、地を這うような声で言った。
「我々がどれほどシュテルツァーを操ろうと、四千キロ先でボタンを押すだけの殺戮を止める術はない。……これは、戦争ではありません。ただの、殺戮です」
マリスとエルザは、恐怖に肩を震わせ、互いの手を握りしめることしかできなかった。
アンジャリは、さっき左手に通したばかりの指輪を、もう片方の手で強く、痛いほどに押さえつけていた。
カイは、震える手で胸の手紙に触れた。
封筒越しに伝わる紙の感触。
その中には、ミナの体温が宿っているような気がした。
「……そんなことが、許されてたまるか」
だが、その言葉は、空虚な執務室の壁に跳ね返り、何の解決策ももたらさなかった。
帝国の「セクメト」「アペプ」「アムムト」。 死神の名を冠した三隻の巨獣は、既にどこかで口を開け、八州という名の「大東亜の心臓」を喰らう準備を終えていた。




