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第70話 絆

 黒漆と金箔の湯船。

 硫黄の香りと熱気が渦巻く中、アンジャリの体ががくりと力を失った。

「あ……、ハイン……、なんだか、くらくらする……」

「アン!?」  

 あまりにも深い、溺れるような接吻の代償は、心地よくも残酷な「のぼせ」となって彼女を襲った。

 ハインは慌てて彼女を抱き上げ、バスタオルで包むと、そのまま寝室の寝台へと運び込んだ。


 三月の夕闇が夜風を運び、窓の外で鳴っていた。

 ハインリヒは、少し顔色の戻り始めたアンジャリを案じながら、室内電話の受話器を取った。 (……夕食を、本館へ食べに行くのは無理だな)  彼が「部屋食」への切り替えを頼もうとコールボタンを押すと、ワンコールも鳴らぬうちに弾んだ声が響いた。


『はい! 広報、ユイ軍曹でありますぅ! あ、シュミット中佐殿。カイ少将閣下から聞いておりますよぉ。体調不良ですよね?』

「……いや、まだ何も言っていないのだが。いや、まあその通りでもあるんだが」

『ふふふ、お見通しですよ! 皆様、中佐たちは来ないから食事は下げて部屋に運んでくれ、と仰ってました。すぐにお届けさせますね!』


 通信が切れた後、ハインリヒは寝台のアンに向き直り、苦笑いを浮かべた。

「……何も言う前に『部屋で食べること』になっていたんだが」  

 アンは寝台の上で、少しだけ恥ずかしそうに、けれど幸せそうに微笑んだ。

「ふふふ……お見通しなのね。皆、私たちがこうなるのを知っていたのかしら」


 やがて届いた懐石料理は、目にも鮮やかな極東の至宝だった。

「アン、食べられるか?」

「ええ……。でもハイン、なんだか、まだ力が入らないの」  

 アンジャリが少し甘えるように視線を送ると、ハインリヒは柔らかな光を瞳に宿して隣に腰を下ろした。

「大丈夫だ、手伝うから一緒に食べようじゃないか」


 ハインリヒが箸を運び、アンの口元へそっと運ぶたび、二人の間には味覚以上の濃密な「意味」が積み重なっていく。

 それは、孤独なエースパイロットたちが生まれて初めて知る、慈しみという名の食事だった。


 食事が終わり、ワゴンが下げられた後の離れは、再び外界から切り離された聖域となった。

 ハインは、いまだ力の入らないアンを包み込むように抱き寄せ、漆の壁に揺れる行灯の光の中で、彼女の瞳をじっと見つめた。

 

 そこから先に交わされたのは、言葉でも、あるいは単なる肉体の律動でもなかったのかもしれない。  

 重なり合う鼓動が、どちらのものか判別できなくなるほどの密密とした沈黙。  

 アンジャリが求めた「熱」は、ハインリヒの誠実な「理性」とぶつかり合い、猛り狂う炎となって二人を包み込んでいった。


 漆の壁に映る二人の影が、一つに溶けては揺らめく。  

 それは、失われた時間を埋めるための祈りであり、未来を誓い合うための儀式だった。    

 ハインが彼女を「壊れ物」として守り抜いたのか。  

 あるいは、アンジャリの剥き出しの渇望が、騎士の理性を融かしたのか。    

 その答えは、夜の帳の中に深く沈み、ただ二人の吐息だけが、金の粒子のように闇に舞っていた。


 翌朝、窓から差し込む陽光は、昨日よりもずっと鮮やかに世界を照らしていた。  

 寝台の上で、アンジャリがハインリヒの腕の中に丸まり、安らかな寝息を立てている。  

 その指先は、ハインリヒの手と固く、深く、解けないほどに絡み合っていた。    

 ワゴンの脇に置かれた冷めた茶器と、二人の輪郭を曖昧にするほど穏やかな光。  

 それが、昨夜という時間が二人にもたらした「魂が重なりを求めた結果」の、唯一の証拠だった。


 三月五日、夜。

 古都・銅海州に佇む『金剛武将閣』本館

 広間では、中隊員とその家族たちが、極東の銘酒と海の幸を前に、あちこちで笑い声を弾ませていた。


「おい、ユイ軍曹! また隠し撮りしてやがるな!」  

 ヴォルフが、庭園の影からレンズを覗かせていたユイを見つけて声を張り上げた。

「隠し撮りじゃありません、『歴史の記録』ですぅ! ヴォルフ少尉、クリスさん。ほら、もっとこう……寄り添って! 熟成された恋人同士の余裕ってやつを見せてくださぁい!」  

 すでに千鳥足のユイに煽られ、クリスがヴォルフの腕に顔を埋める。

「もう、ユイさん……。でもヴォルフ、本当に素敵な夜ね」


 別のテーブルで酒を煽っていたガリアスが「ガッハッハ!」と豪快な笑い声を被せた。

「邪魔なんてできるわけねぇだろ! あの鉄仮面の中佐殿が、耳まで真っ赤にしてアンジャリを連れてったんだ。今ごろは『エース』の看板も放り出して、のぼせてるに違いねぇぜ!」  

 ハインツ大佐が、呆れ顔でガリアスの杯に酒を注ぐ。

「ガリアス、お前はもう少し静かに飲め。……しかし、ソルガ。お前はどう思う。あの中佐が、明日どんな顔をして現れるか」


 ソルガ中佐は、妻ミレーユが取り分けてくれた寿司を口に運び、静かに、けれど確信を持って答えた。

「……恐らく、これまでになく『隙』だらけの顔で現れるだろうな。冷徹な戦術家としての仮面が、たった一夜で剥がれ落ちる……それもまた、男の成長というものだ」

「あら、あなたもそうだったわよね?」  

 ミレーユの微笑混じりの追撃に、ソルガが珍しく言葉を詰まらせる。

 その横で、息子アルガが「父さん、顔が赤いぞ」とパンを千切りながら追い打ちをかけた。


 会場の一角、カイ少将は一人、静かにグラスを傾けていた。  

 本来なら隣にいるはずの、世界で一番大切な女性がいない。

 その空白が、どんな高級な酒よりも彼を酔わせ、そして少しだけ寂しくさせていた。


「閣下、あまり一人で飲みすぎると、ミナ少尉に怒られますよ?」  

 アラン・バティスタ大尉が、妻エマを連れて冷やかしにやってきた。

「アランか。……わかっているよ。彼女は今、病院で一人、未来のために戦っているんだ。俺は羽目を外す気にはなれなくてね」

「ミナさんの手術、きっと上手くいきますわ」

 エマが優しく微笑むと、カイは少しだけ目元を和らげた。

「ありがとう。……明日、旅行が終わったら、真っ先に彼女のところへ土産話と土産を持っていくよ。それが今の俺の、一番重要な『任務』だ」

 カイの部屋にある旅行バッグには、「誰も買わないような変な土産物」が、深い愛情と共に大切にパッキングされていた。

 

 一方、シュミット家のテーブルでは、長男フリードリヒが、父ヨハンと母ヒルダに酒を注いでいた。

「父上、母上。……ハインリヒのことは、もう安心してもよろしいのではありませんか?」  

 ヨハンは、不機嫌そうな顔を装いながらも、その瞳には満足げな色が滲んでいた。

「……フン。あのバカ息子が、廊下で立ち往生しているのを見た時はどうなるかと思ったがな。アンジャリ少佐のようなしっかりした女性が隣にいてくれれば、我が家も安泰だ」


 そこへ、エルザとマリスの妹コンビが、デザートの皿を抱えて乱入してきた。

「ヨハンおじさま! ヒルダおばさま! ケーキ、すごく美味しいですよ!」

「ふふ、お姉さまを『追放』した甲斐がありましたわね、エルザ」  

 マリスが優雅にフォークを運びながら、悪戯っぽくウィンクする。

「これでお姉さまも、ようやく『鉄の女』から解放されて、一人の恋する乙女に戻れるというものですわ」


 宴が夜更けに向かう中、窓の外には日和極東連邦の静かな海が広がっていた。  

 カイは、ふと海軍記念病院がある方角の夜空を見つめた。

(ミナ。みんな楽しんでいるよ。……でも、君が居ないと、俺は楽しめないんだ……)


 広間には、穏やかな和の音楽が流れ、英雄たちの語らいは尽きることなく続いていく。  

 そこには軍規も階級もなく、ただ、明日も共に生きたいと願う「家族」たちの、純粋な祝祭だけがあった。


翌朝


「……くらえ!スキュラバイト!」


 寝言にしてはあまりに鮮明なその叫び。

 直後、無意識に繰り出されたアンジャリの腕が、ハインリヒの首筋に強力な「接舷行動」を仕掛けたのだ。


 漆塗りの寝台の上、ハインリヒは戦慄した。

 目の前のアンジャリは、間違いなく寝ているのだ。

 しかし、その身体に染み付いた『クラーケオス』の戦闘機動は、無意識下で最も近い「標的」を捕捉してしまったらしい。


「アン!? ま、待て、ターゲットは俺か……!?」


 アンジャリの細い腕が、鋼鉄のワイヤーのようにハインリヒの首を抱え込み、逃げ場を塞いだ。

 これこそが、一度許せば回避不能と言われる『アビス・ホールド』なのだろうか。  

 そして彼女の膝が、ハインリヒの脇腹へ『スキュラバイト』の如き鋭い「圧壊攻撃」の軌道を描き……。


「ぐっ……、あ、アン……! マンガニス濃度を下げろ! 臨界駆動だ、それは……!」


 ハインリヒは咄嗟に身をよじり、致命的な「船底圧壊」を回避した。

 もしこれが戦場なら、彼は間違いなく撃沈されていただろう。

 氷の貴公子と謳われた中佐が、今、寝ぼけた恋人の寝相という名の「不可避の奇襲」に翻弄され、冷や汗を流している。


 ようやく彼女の腕を優しく、かつ確実に制圧し、布団の中へ「再装填リロード」するように押し戻した時、ハインリヒは大きく息を吐いた。


「……君は、夢の中でも俺を沈めようとするのか。……それとも、捕らえて離さないという誓いか?」


 アンジャリは、そんな彼の苦労など露知らず、「ふふ…………アビス…ホールド……」と、今度は違う物騒な単語を呟き、寝息を立てている。


 ハインリヒは乱れた襟元を正し、鏡の中の自分を見つめた。

 頬には、彼女の「アンカー」が掠めた微かな赤みが残っている。


(……やれやれ。中隊の連中に見られたら、どんな事を言われるか分かったものではないな)


 彼は苦笑しながら、時計を見た。

 あと十分。

 朝食に間に合うように、この愛らしい「海の怪物」を優しく、けれど確実に現世(現実)へと浮上させなければならないのだ。


 ハインに優しく揺り動かされ、アンはようやく「深海」から浮上するように目を覚ました。


「……ん、ハイン……? おはよう……」


 視界がはっきりした瞬間、アンジャリは凍りつきました。

 自分の両腕が、まるで獲物を逃さない強力な電磁アンカーのようにハインの首に絡みつき、至近距離で彼を完全に「ホールド」していたからです。


「あ……あああああ! ご、ごめんなさい! 私、無意識に!」


 アンジャリは跳ね起きるように腕をほどき、真っ赤になって布団の隅へ飛び退いた。


「……朝食の時間だよ、アン」


 ハインリヒは乱れた襟元をゆっくりと指先で整えながら、どこか遠い目をして苦笑した。


(うう……恥ずかしいわ……。私、夢の中でまで『クラーケオス』に乗っているなんて。ハインを艦船か何かだと思って攻撃しちゃうなんて、もうお嫁に行けない……)


 アンジャリが両手で顔を覆って悶絶していると、ハインリヒは膝をついて彼女の側に寄り、その小さな手を優しく包み込みました。


「さあ、朝食に行こう。俺の大切な婚約者……」


 ハインリヒは悪戯っぽく目を細め、彼女の耳元で囁きました。


(君の『アビス・ホールド』なら、いつでも歓迎だ。……ただし、次からは朝ではなく、夜の穏やかな時間に願いたいがね)


「ハイン……!」


 アンジャリは彼の冗談に救われ、ようやく顔を上げました。


「さあ、行こう。みんなが待っている」


 ハインリヒに手を取られ、アンジャリは浴衣の裾を整えて立ち上がりました。

 のぼせの熱は、昨夜の乱れた自分の熱を思い出して、別の熱へと変わっていました。



 朝食の膳が並び、芳醇な料理の香りが広間を満たす中、少しだけずれた着こなしの浴衣姿のマリスとエルザが、まるで示し合わせたようなタイミングで顔を見合わせて笑ってる。


 朝食会場の重厚な扉が開くと、広間の空気は一瞬にして密度を増した。  

 現れたのは、どこか憑き物が落ちたような清々しくも艶やかなオーラを纏うアンジャリと、彼女の傍らに、鉄壁の守護者の如き面持ちで控えるハインリヒだ。


 二人が席に着くや否や、リヴァイアサンの面々から、昨夜の空白を問い詰めるような執拗で温かな視線が突き刺さる。  

 ハインリヒは軽く会釈すると、鋼の自制心をもって、あらかじめ用意していた「公的な釈明」を切り出した。


「……皆、昨夜はすまない。不徳の致すところだが、私自身が体調を崩してしまった。慣れぬ環境での体調不良という醜態を晒し、アンジャリ少佐には一晩中、その介抱を強いてしまった。夕食の席の欠席は、全て私の自己管理不足によるものだ。申し訳ない。……アンジャリ少佐には、多大な負担をかけた」


 それは、アンジャリの名誉を一点の曇りもなく守り抜き、かつ彼女が「夜通し自分の傍にいた」という事実を「介抱という職務」へとすり替える、最も硬派で不器用な、彼なりの騎士道的嘘であった。    

 しかし、その嘘が完璧であればあるほど、周囲には逆の真実が透けて見える。  

 ハインリヒの眼窩に刻まれた深い疲労と、それとは対照的に、昨日まではうっすらと背負っていた悲壮な雰囲気が消え、しっとりと柔和な光を宿しているアンジャリの瞳。    

 会場には、堰を切ったような「どっ!」という笑い声が広がった。


 「いやはやシュミット中佐! 介抱……左様でございますか、それは大変な『激務』でしたな!」 とソルガ。

「見てくださいよ、介抱を命じられたはずの、お姉さまのあの顔。まるで宝物でも見つけたような晴れやかなお顔ですわね」

「中佐、そんなに自分を責めないでくださいよ。……その目のクマが、いかに必死な愛……いえ、『介抱』だったかを物語っていますから」

 ヴォルフは笑いで涙がとまらない。


 隊員たちの敬意混じりの揶揄からかいが止まらない。

 ユイ軍曹に強要され、朝から日本酒で出来上がった数名が、気勢を上げて杯を掲げる。


 そんな喧騒の中、マリスはほんのりと頬を赤く染めて、シュミットに話しかけた。


「……シュミット中佐? そんな風に、全てを『ご自身の不手際』という嘘で塗りつぶそうとなさるなんて、いかにも貴方らしい振る舞いですわ」


 マリスは杯を煽ると、くすくすと喉を鳴らし、アンジャリの幸せそうな様子を愛おしげに確認してから、再び彼に視線を戻した。


「……お姉さまに、これほどまでの安らぎを与えたのですね……うふふ、本当によくやってくださいましたわ」


 マリスの言葉は、ハインリヒの嘘を暴く刃ではなく、彼が果たした「救済」への、妹としての最大級の賛辞だった。  

 ハインリヒは沈黙した。

 大人の嘘を突き通そうとする強さと、真実を見抜かれた気恥ずかしさの間で、騎士道精神の権化である彼は、ただ静かに冷たい水を煽り、視線を落とすしかなかった。


「でも、一つだけご忠告差し上げますわ。アンジャリお姉さま、たまにですけど……寝ている間に突然『スキュラバイト!』って叫んで、全力のホールド攻撃を仕掛けてきますの。わたしたち、何度夜中に撃沈されそうになったことか。……お気をつけあそばせ?」


 ハインリヒが、口に運ぼうとした金箔で彩られた鶏肉をピタリと止めました。

 アンジャリは、隣で飲んでいたお茶を噴き出しそうになり、顔を真っ赤にして妹を睨みます。


「マ、マリス! 何を……!」


「そうそう! 本当に危ないんだから」


 エルザがマリスの言葉を引き継ぎ、身を乗り出して追い打ちをかけました。

 ハインツやガリアスの大笑いが止まりません。

「あの『アビス・ホールド』は、寝相のレベルじゃないよ! ものすごい力でね、ギュッてされたら最後、本当に圧壊しちゃうよ。シュミット中佐、今夜はちゃんと装甲板を仕込んで寝たほうがいいんじゃない?」


「エルザまで! やめてちょうだい、二人とも!」


 アンジャリの必死の抗議も、妹たちの連携攻撃の前では霧散してしまいます。

 一座は、マリスたちの「実体験」に基づいた生々しい忠告に、ドッと沸き上がった。


 ハインリヒは、先ほどの離れでの「奇襲」を思い出し、こみ上げる笑いを堪えるように拳を口元に当て、咳払いを一つする。


「……忠告ありがとう。マリス大尉、エルザ大尉。だが、彼女になら、もし圧壊されるとしても……それはそれで、本望というものだよ」


「……っ!」


 ハインリヒの、騎士らしからぬ、けれどこれ以上なくアンジャリを肯定する返答に、今度はマリスとエルザが「そこまで言う!?」と言わんばかりに顔を見合わせ、声を上げて笑い出しました。


「あら、ご馳走様ですわ。お姉さま、中佐の装甲は相当に厚そうですわね」

「あはは! さすがは『氷の貴公子』、愛の出力が違うね!」


 真っ赤になって俯くアンジャリの肩を、ハインリヒが優しく、けれどしっかりと抱き寄せます。

 春の陽光が差し込む大広間。

 賑やかな笑い声と共に、二人の絆はリヴァイアサン中隊全員の公認のものとなっていくのでした。

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