第69話 温かい湯
三月五日、昼前
日和極東連邦の海岸線をひた走るサロンバスの中は、軍服を脱ぎ捨てた英雄たちの、穏やかな安らぎに満ちていた。
ハインリヒは普段の厳格な軍装からは想像もつかない、仕立ての良いネイビーのカシミアセーターにグレーのスラックスという、育ちの良さを感じさせる私服姿だ。
隣に座るアンジャリは、淡いクリーム色のブラウスにミモレ丈のスカートを合わせ、その上からハインリヒが「冷えるといけない」と無理やり貸し出した、彼の厚手のカーディガンを羽織っていた。
二人は、マリスとエルザの「お姉さまを冷えから守るためですわ」という、もっともらしい理由によって、最前列の二人掛け席に詰め込まれていた。
(……もはや、隠し通せる段階ではないな。これ以上、彼女を皆の前で『部下』として扱うのは、俺の魂が許さない)
ハインリヒは、膝の上で握りしめていたアンジャリの指先に、一瞬だけ力を込めた。
そして覚悟を決めたように立ち上がり、車内を見渡す。
「皆、移動中にすまない。……少し、話がある」
その瞬間、バスの中の喧騒が嘘のように止まった。
後方の席では、チェックのネルシャツを着たガリアスがスキットルを止め、ラフなポロシャツ姿のソルガが、老眼鏡の隙間から視線を移し、読みかけの新聞を指で挟んだ。
カイは隣に置かれた、彼には似合わないストロベリージュースを見つめていたが、ハインリヒの声に弾かれたように顔を上げた。
「俺とアンジャリ少佐は……。その、何だ、……あれだ。正式に、婚約したんだ!」
ハインリヒが、戦場での号令よりも大きな声で、けれど耳まで林檎のように赤くして宣言した。
刹那、バスの車内は爆発したような歓声と、それ以上に大きな「失笑」に包まれた。
「遅い! 知ってるわよそんなの!」
誰かが真っ先に叫ぶ。
マリスが両手で口許を隠しながら、柔らかい笑みを浮かべる。
「中佐、今さら何言ってるんですか? 昨夜のあの……いえ、何でもありませんわ。ふふふ」
エルザが身を乗り出し、悪戯っぽく目を輝かせて続けた。
「お姉さまの指、中佐がずっと握りしめてたの、後ろから丸見えだったんだから!」
「な……ぜだ。なぜ、知られている……? 俺は今、初めて言葉にしたはずだが……」
「中佐、あんた甘いぜ。二人の間の空気が、前から砂糖菓子みたいに甘ったるいんだよ。まあ、『言わなくても見りゃわかる』ってやつだな」
ガリアスが豪快に笑い飛ばす。
「ハインツ大佐だって、朝から上機嫌で『祝い酒の銘柄を選んでおけ』
なんて俺たちに言ってたんだ。隠せてると思ってたのは、あんたら二人だけだぜ!」
ヴォルフが自分たちのことを棚に上げて笑い飛ばす。
その横にはクリスが、ピッタリとくっついている。
狼狽える鉄仮面の騎士。
その横で、アンジャリは思わず「ふふっ」と声を漏らした。
昨夜、温泉の湯気の中で交わした、魂を削り合うような抱擁。
愛称で呼び合い、孤独を塗りつぶし合ったあの「聖域」。
それがあったからこそ、今の喧騒が、凍てついた過去を溶かす最高の祝砲として彼女の胸に届く。
アンジャリは、騒がしい車内から窓の外へと視線を移した。
流れていく春の景色は眩しく、心の中にあったケルゲレンの氷も、シグルドへの沈殿した罪悪感も、今はもう遠くに消え去ろうとしている。
ただ、隣で必死に「どこで情報が漏れたのだ!」と部下たちに問い詰めている、不器用で誠実な「ハイン」の鼓動だけが、自分のすぐそばにある。
(ああ……私、今度こそ本当に、この人の隣で生きていくのね)
流れる景色が、記憶から消される事を拒む断末魔のように、再びアンジャリの心に過去を思い出させていた。
シグルドとの婚約は帝国貴族の礼節に則り、親の定めた相手である。
『交際』などと言う、浮ついたものなどない。
ただ、『その日が来たら』結婚するだけだ。
情が無いわけでは無かった。
現にアンジャリは式の準備をしながら、その日を心待ちにしていたのだ。
アンジャリは、誰にも気づかれないように、そっと自分の左手をハインリヒの足の上に置いた。
今、頭に流れた過去の記憶が、自分の不貞であるかのように思ったのだ。
ハインの体に触れる事で、少しでも頭の隅にへばりついて剥がれない記憶を消し去りたかった。
すると、皆の『イジリ』に当惑していたはずのハインリヒが、ふと口を閉じ、力強い掌でその手をそっと覆い隠した。
「気にするな。無理をしなくていいのだ』
アンジャリの魂は、張り詰めていた糸が切れたかのように、静かな安息の中へと沈み込んでいった。
ハインリヒが言った「気にするな」は、あるいはバスの中に響く下世話な冷やかしへの牽制だったのかもしれない。
だが、今のアンジャリには、それが自分の内側にある醜い焦燥――「ハインを愛するためにシグルドを消し去りたい」という、傲慢で必死な足掻きさえも包み込む、何より慈悲深い抱擁に聞こえていた。
消さなくていい。
忘れなくていい。
足掻く必要などない。
そう言われた気がして、アンジャリの指先から、ようやく強張った力が抜けていく。
彼女は、自分の左手を覆うハインリヒの掌の熱を、もう一度だけ確かめるように静かに指を絡めた。
車窓を流れる鶴剣州の鮮やかな景色が、初めて「過去」という名の霧に邪魔されず、ありのままの光を持って彼女の瞳に映り込む。
かつて愛した人の影を、消えない傷としてではなく、今の自分を形作った一部として、静かに隣に座らせておける。……そんな穏やかな「降伏」が、今の彼女には許されたのだ。
アンジャリは、そっとハインリヒの肩に頭を預けた。
もう、耳を塞ぐ必要はなかった。
ハインリヒの掌の重みこそが、彼女を過去の亡霊から守り、たった今、この現世へと繋ぎ止める、世界で最も堅牢な鎖なのだから。
「おめでとう、中佐。……アンジャリ少佐。ミナがここに来られなかったのは残念だけど。ここにいたら、大騒ぎだったろうな」
カイが、真っ直ぐな瞳で二人を見上げた。
「ああ。……すぐに、彼女のところへ報告に行かせてもらう。あいつの驚く顔が目に浮かぶな」 ハインリヒ中佐が優しく応え、アンジャリも深く頷いた。
三月五日、午後一時。
古都・銅海州に到着した一行を迎えたのは、歴史の重みに塗り込められたような名宿『金剛武将閣』だった。
玄関先で、マリスがふっと視線を逸らしながら袖を整えた。
「お姉さま。わたくしたち、昨夜の移動で少しばかり疲れが出てしまいましたの。エルザとゆっくり休ませていただきますわ」
エルザがそれに合わせるように、アンジャリの背中をポンと押す。
「そうそう! だからお姉さまは、あっちの広いお部屋を使って。シュミット中佐も、自分の部屋が取れなくて困ってるみたいだしね」
二人は確信していた。
昨夜、一つの部屋へ消えた二人が、今朝どのような顔でバスに乗ってきたか。
あの表情を見れば、何かがあったかなど幼い少女でも分かると言うものだ。
リヴァイアサンの姉妹として、そしてアンジャリの妹として、二人の運命は昨夜の月明かりの下で決定したと見なしていた。
ハインリヒの両親、ヨハンとヒルダもまた、確信に満ちた顔でハインリヒを突き放した。
「ハインリヒ、お前もいつまでも親の顔を見たくはあるまい。フリードリヒと我々でこの部屋は手狭だ。ユイ軍曹が手配した別室へ行きなさい」 「……父上、しかし」
「いいから。男なら、察しなさい」
ヨハンに背を向けられ、ハインリヒは廊下で立ち尽くした。
隣には、同じように妹たちに「追放」されたアンジャリが、少し俯きながらも縋るような視線をハインリヒに投げかける。
ハインリヒは、去りゆく父の背中と、隣で俯くアンジャリを交互に見た。
彼は一つ、重く深い呼吸を置くと、意を決してアンジャリの側に一歩寄った。
「アンジャリ少佐……。その、皆がああ言っている以上、我々だけが廊下で立ち往生しているわけにもいかない。……行こうか」
「……ええ。そうね、ハインリヒ。……行きましょう」
アンジャリは、恥じらいを隠すように小さく頷いた。
彼女の耳が、三月の冷気の中でも隠しきれないほど赤く染まっているのを、ハインリヒの視界に入った。
二人が顔を上げると、そこにはいつの間にか、まるでこの瞬間を予見していたかのように、ユイ軍曹が音もなく立っていた。
その瞳は、獲物を罠に追い込んだ猟師のような、あるいは敵を包囲殲滅する直前の総司令官のような、不敵で、かつ何事かを激しく企んでいる光を湛えている。
「お二人とも、お話はまとまったようですね! さあさあ、こちらでありますぅ!」
ユイは弾んだ声で言うと、手に持った重厚な真鍮の鍵をジャラリと鳴らした。
「本日、お二人のためにご用意いたしましたのは、この宿の最深部、まさに『芸術』と呼ぶに相応しい離れでありますぅ。本館から回廊を渡り、庭園を抜けた先にございますので、誰にも……ええ、大東亜秘密警察の野暮な連中にすら、声が届くことはございませぇん!」
「ハナレ?我々だけ離されるのか?危険では無いのか……!」
ハインリヒが思わず軍人としての鋭い声を上げたが、ユイはどこ吹く風で、軽快なステップを踏みながら二人を先導し始めた。
「中佐、これは任務ですよ、任務! 我が軍の英雄たちが、束の間の休息をいかに濃密に過ごすか。その環境を整えるのが、広報部たる私の、ひいては全軍の願いなのですから! さあ、この回廊の先が……お二人だけの『金剛武将閣・特別離れ 黒曜金舞の間』でありますぅ!」
軋む木の廊下を進むたび、本館の喧騒は遠ざかり、代わりに潮騒と静寂が二人を包み込んでいく。
アンジャリは、自分の鼓動がユイの足音よりも大きく響いているのではないかと不安になり、思わずハインリヒの軍服の袖を、縋るようにそっと掴んだ。
ユイ軍曹は離れの重厚な門に辿り着くと、一際深々と、そしてどこか芝居がかった一礼をして、鍵を開けた。
「どうぞ……お楽しみください。あ、のぼせには十分ご注意を!」
そう言い残すと、彼女は風のように、来た道を走り去っていった。
残されたのは、沈黙するハインリヒとアンジャリ。
そして、開かれた門の先に漂う、濃厚な硫黄の香りと、ただならぬ予感だけだった。
特別室は、かつて当地を治めた百十万石の藩主が身を休めたという由緒ある離れだった。
重厚な扉を開けたアンジャリは、その先に広がる光景に息を呑んだ。
部屋の中央、一段下がった場所に鎮座するのは、およそ客室の一部とは思えない広さの浴槽。
重戦車二台分の広さはあろうか。
床から壁、そして天井に至るまで、黒漆が塗り込められ、その表面には繊細な金箔の「散らし」が施されている。
注がれる湯の音だけが響くその空間は、まるで異界へ通じる祭壇のようだった。
「……ハイン。見て、すごい温泉……」
アンジャリは、湯面から漆黒の天井に乱反射する金の光を見つめたまま呟いた。
ハインリヒは荷物を置き、彼女の隣に立った。 「ああ。このような施設が部屋にあるとは……東洋とは凄いものだな……」
「……ねえ。こんなに広いなら……二人で、入れるわね」
アンジャリは自分の指先を弄り、視線を足元に落とした。
彼女にとって、これは精一杯の、そして命懸けの誘いだった。
マリスやエルザから、昨夜の戦果を期待するような視線を浴びせられ、彼の両親からも半ば公認の仲として押し出された。
けれど、アンジャリは知っている。
ハインリヒという男が、どれほど自分を「壊れ物」のように大切に扱おうとしているかを。
だからこそ、自分から踏み込まなければ、この静かな幸福の先には進めないような気がしていた。
ハインリヒは一瞬、喉を鳴らした。
「……ああ。そうだな。外は、監視の目も厳しい。ここでゆっくり過ごすのが、一番いいだろう」
外出は自由だ。
しかし、私服警備が付くと言うのだ。
ハインリヒは、「たかが自分達の散歩」などと言う理由で、他者の手を煩わせたくは無かった。
それに、アンジャリとの距離感を見られるのは嫌だった。
湯の音が、響き続ける静謐な空間。
脱衣所で互いに背を向け、衣服を脱ぐ。
漆の扉を開け、湿り気を帯びた熱気が二人を包む。
ハインリヒは、先に湯に浸かっていたアンジャリの元へ、慎重に足を進めた。
黒漆の縁から溢れ出す湯が、金の粒子を踊らせている。
「……ハイン、こっちに」
アンは、膝を抱えるようにして湯に浸かっていた。
ハインが隣に座ると、二人の体温が水を通じて溶け合う。
彼は、アンジャリの白い肩が湯気の中で淡く光っているのを見つめた。
大きな傷跡があるわけではない。
ただ、戦場を駆けてきた者特有の、瑞々しくも張り詰めた肢体。
「アン……」
ハインが、堪えきれずに彼女の手に自分の手を重ねる。
アンは、吸い寄せられるように彼の広い胸に背を預ける。
「ハイン……。ずっと、こうしていたかった気がする」
ハインリヒは、彼女の項に鼻を寄せ、薄い石鹸の香りと湯の匂いを深く吸い込んだ。
アンジャリは、彼の腕が自分の腹部を包み込むのを感じ、期待に胸を高鳴らせた。
このまま、彼が力強く自分を抱き上げ、寝室へ連れて行ってくれることを。
彼の一部になれることを。
だが、ハインリヒの腕は、震えるほどに優しかった。
彼はアンジャリの耳朶に、祈るような口付けを落とした。
「君が、ここにいる。それだけで、俺は……これ以上の何を望めばいいのか、分からない。満たされているんだ……」
「ハイン……、私は、もっと……」
アンジャリは振り返り、彼の首に腕を回した。 全裸で重なり合う二人の肌が、湯の中で吸い付くように密着する。
ハインリヒは、アンジャリの潤んだ瞳と、微かに開かれた唇を見つめた。
彼女の望みは、その瞳の熱が語っている。
けれど、ハインリヒの内にある「騎士」は、それを許さなかった。
今、この旅先で、流されるように彼女の純潔を奪うことは、自分の中にある彼女への敬意を汚すような気がしたのだ。
ハインリヒは、爆発しそうな情動を理性で抑え込み、ただ深く、深く、アンジャリの唇を塞いだ。
舌が絡み合い、互いの呼気が一つになる。
アンジャリは、彼の背中に爪を立て、必死に食らいついた。
(もっと……もっと強く。あなたを私の中に感じたいの……!)
けれど、ハインリヒは彼女の背中を優しく撫でるに留めた。
漆と金の湯船、立ち上る高濃度の硫黄の香りと熱気。
二人の体温は上昇し続け、心拍数は限界を超えて跳ね上がる。
どれほどの時間、そうして貪るように口付けていただろうか。
不意に、アンジャリの体ががくりと力を失い、ハインリヒの胸に崩れ落ちた。
「あ……、ハイン……、なんだか、くらくらする……」
「アン!?」
のぼせたのだ。
緊張と、期待と、そしてあまりにも長い接吻。 ハインリヒは慌てて彼女の細い体を抱き上げ、湯から引き上げた。
漆の床に横たえられたアンジャリは、顔を真っ赤に染め、乱れた呼吸のまま彼を見上げた。 「……最低だわ、私。……こんなところで、のぼせちゃうなんて」
「いや、俺のせいだ。……あまりに、長く離したくなかったから」
ハインリヒは、濡れたままの彼女をバスタオルで包み込み、そのまま寝室の寝台へと運んだ。 一線を越えるチャンスは、湯気の中に消えていった。
けれど、アンジャリは、自分を甲斐甲斐しく介抱するハインリヒの、困ったような、けれどこの上なく慈しみに満ちた目を見て、幸せな溜息を漏らした。
(この人は、やっぱり……。ずるい人……)
金箔の屏風が夕日に照らされる中、のぼせたアンジャリの手を、ハインリヒは冷めるまでずっと握り続けていた。




