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第68話 幸せの長女

 ハインリヒは、自室の扉の前で戦慄していた。  そこには「就寝中につき起こすな。緊急時以外、入室を禁ずる」という、ヨハンの筆跡による無慈悲な張り紙。

 さらにその下には、ご丁寧に翌日の着替えと洗面用具一式が詰められたバッグが置かれていた。


(くそ……! あの父上め、よりによってこんな時に、どこで寝ろと言うのだ!)


 氷の貴公子と謳われた中佐が、廊下の真ん中で途方に暮れる。

 そこへ、背後から消え入りそうな声が届いた。


「……シュミット中佐。いえ、ハインリヒ?」  自分の口から出たその名前に、アンジャリは顔が爆発しそうなほど赤らめ、視線を泳がせている。

 彼女の足元にも、ハインリヒと同じような荷物バッグが置かれていた。

「妹たちに……『寝ているから絶対に起こすな』って張り紙をされて、鍵をかけられてしまったの。追い出されちゃった。どうしよう……」


「それは……」  

 ハインリヒが絶句したその時、どこからともなく、いつになく怪しげな笑顔を浮かべたユイ軍曹が滑り込んできた。


「お困りのようですね、お二人とも。ご安心を! 閣下たちより『予備のスイートを用意せよ』と仰せつかっておりますぅ。さあさあ、こちらへどうぞ!」  

 ユイにグイグイと背中を押され、半ば強制的に案内されたのは、月光が美しく差し込む別の特別客室だった。

 月明かりの差し込むテラスには、温泉が注がれ続ける湯船が見える。

「では、おやすみなさいませ!」  

 音を立てずに扉が閉まる。

 残された二人の間に、心臓の鼓動が聞こえそうなほどの密密とした沈黙が流れた。


 彼らは順番にテラスのバスルームを使い、リビングに戻った後もハインリヒは決してアンジャリの方を向かなかった。

 背を向け、窓の外の夜の海を見つめる彼の背中は、まるで戦場での警戒態勢のように張り詰めている。


「……ねえ? 後悔、してますか? 中佐」  

 バスローブ越しでも伝わるアンジャリの控えめな気配。

 その少し震える声に、ハインリヒはハッと我に返った。

(いけない……。照れている場合ではないな。俺のこの態度は、彼女に不安を与えてしまっている)


 ハインリヒは自重を捨て、向き直った。

 そこには、湯上がりの火照りであどけなさを残したアンジャリがいた。

 彼は一歩踏み出し彼女の肩を優しく、けれど逃がさない強さで抱き寄せると、そのまま深く、深く唇を重ねた。

 どれほどの時間が流れただろうか。

 長い、あまりにも長い、互いの魂を確かめ合うようなキス。

「後悔など……あるはずもない。許してくれ。まだ、あの、俺は……ああ、ダメだな」  

 ハインリヒは唇を離し、額を彼女の肩に預けて、熱を帯びた吐息を漏らした。

「君の美しさ、可憐さに……この心がまだ慣れないのだ。もう少し、待ってほしい」


「うぐっ……」  

 言葉の続きを遮るように、今度はアンジャリが背伸びをしてハインリヒに口付けた。

 それは、彼女の精一杯の「答え」だった。


 驚きに目を見開いたハインリヒだったが、すぐに彼女の細い腰を引き寄せ、壊れ物を扱うような、けれど深く長い接吻を返した。


 重なり合う吐息。

 鼻腔をくすぐる石鹸の香りと、混じり合う二人の熱。  

 アンジャリは彼の胸板に爪を立てるようにして、しがみついた。

「……ハインリヒ、もっと。……もっと、して」


 震える唇から漏れたのは、自分でも驚くほどの剥き出しの渇望だった。

「もっと私を、あなたの愛で満たして……。いくらあっても、足りないの。死ぬほど寂しくて、寒かった私の時間を……あなたの熱で、全部、全部塗りつぶして……っ」


 ハインリヒは、彼女の悲鳴のような願いを受け止め、逃げ場を奪うように強く、より深く彼女を受け止めた。 

 それは「海の怪物」と恐れられた彼女が、生まれて初めて一人の男に差し出した、完全な服従の宣言だった。


 二人は吸い込まれるように、同じベッドへと入った。  

 アンジャリは、彼の大きな体に自分のすべてを預け、まるで命を分け与えてもらうかのように、必死にハインリヒを抱きしめた。  

 ハインリヒは、彼女の柔らかな体温を腕の中に収めながらも、欲望に任せて一線を越えることはせず、ただ彼女の震えを鎮めるように、何度も彼女の髪や額に唇を寄せた。


(ああ……私は、本当に大事にされている。こんなにも、あなたが欲しくてたまらないのに……)


 アンジャリは、彼に大切に守られながら眠りにつく安らぎを知った。  

 シグルドへの罪悪感でもなく、戦争の影でもない。  

 今、自分を包み込んでいるこの男の「今、ここにいる」という確かな鼓動。  

 それが、彼女の枯れ果てていた心に、一滴、また一滴と、生きていくための「愛」という名の水を満たしていった

 広いベッドの中で、アンジャリは必死にハインリヒの温もりを求めるように彼を抱きしめた。  ハインリヒは、彼女の柔らかな体温を腕の中に収めながらも、決してそれ以上の一線を越えようとはしなかった。

(ああ……なんて心地よいのだろう。この人の鼓動は、こんなにも力強い)


 アンジャリは彼の胸元に顔を埋め、静かに目を閉じた。

 かつて死者の声に怯えていた夜とは違う。

 そこにあるのは、自分をこの上なく大切に扱い、守ろうとする男の誠実な抑制だった。


「なんだろう……私は、本当に大事にされているのね」


 ハインリヒの腕の感触、素肌の彼の熱い体温。  それは冷たい深海から彼女を掬い上げ、安らかな眠りへと導く聖域だった。  

 二人の呼吸が重なり、やがて穏やかな寝息に変わる。  

 それは二人の生涯において、これまでのどんな勝利よりも尊く、これからのどんな戦いよりも守り抜くべき、初めての「心から満たされた夜」となった。

 ハインリヒは決して一線を越えることはなかった。  

 しかし、重なり合う体温と、夜を徹して交換し続けた静かな吐息は、肉体の交わりよりも強固に二人の魂を縫い合わせていた。  

 互いの孤独も、罪も、そして未来への怯えも。 

 そのすべてを包み隠さず分かち合った夜を経て、二人の間にはもはや、いかなる軍規も言葉も立ち入ることのできない「絶対的な絆」が結ばれていた。


 三月五日、朝。  

 窓の外から届く潮騒と、カーテンの隙間から差し込む柔らかな陽光が、二人の眠りを優しく解いた。


 朝食は、家族や妹たちの「配慮」という名の隔離策によって、各客室に運ばれることになっていた。  

 扉の外にワゴンが置かれた気配がしても、二人はすぐには動こうとしなかった。

 そこは、世界から切り離された二人だけの聖域だったからだ。


「……ハイン。起きてますか?」  

 アンジャリが、彼の腕の中で小さく身じろぎしながら囁く。  

 ハインリヒは、彼女の柔らかな髪に頬を寄せたまま、満足そうに目を細めた。

「ああ。……アン。君は夢の中にまで来てしまうのだな」

「ふふふ……お互い様よ、ハイン」


 二人の姿は、どこにでもいる恋人同士そのものだった。  

 ハインリヒは、アンジャリが自分の胸に甘えるように顔を寄せるたび、愛おしさが胸から溢れ出すのを感じていた。  

 かつて「海の怪物」と恐れられたエースパイロットは、今や一人の男性の腕の中で、あどけない微笑みを浮かべている。


「さあ、朝食を運ばないと。冷めてしまいますよ」

「もう少し……。あと少しだけ、こうしていさせてくれ」


 ハインリヒが、柄にもなく子供のような我がままを言って、彼女の細い腰を再び引き寄せる。 「ふふ……。中佐がそんなに甘えん坊だなんて、中隊の皆が見たら、きっと腰を抜かすわね」

「彼らには見せんさ。……これは、俺の人生で最も守秘義務の重い『極秘事項』なんだから」


 アンジャリは、彼の不器用な冗談に声を立てて笑い、今度は自分から彼の頬にそっと口付けた。  そこには、戦場の冷徹な判断も、過去への呪縛もない。  

 ただ、互いの存在を慈しみ、確認し合うだけの、甘すぎて呼吸が止まりそうな時間が流れていた。


 オーケストラの残響も、両親の喧騒も、妹たちの企みも、今は遠い世界の出来事のよう。  

 二人は朝日を浴びながら、何度目かの深い、深い口づけを交わす。  

 それは、失った何かを自らの手で取り戻した、幸福な二人だけの「祝宴」の続きだった。


 ワゴンが運ばれてきた気配が消え、給仕の足音が遠のくのを待って、二人はようやくその「聖域」の重い扉を開けた。  

 差し込む朝日は眩しく、世界は昨日までと同じ顔をして動き出している。

 けれど、二人の内側に流れる時間は、昨夜を境に決定的な変化を遂げていた。


「……美味そうだ。食べようか、アン」

 ハインリヒが、どこか照れくさそうにワゴンを見つめて声をかける。

 だが、その言葉が終わらぬうちに、柔らかな衝撃が彼を襲った。


「うぐっ……!」  

 アンジャリが、我慢できないと言わんばかりに彼の首に手を回し、不意打ちの接吻を贈ったのだ。

 昨夜の続きを慈しむような、深い、深い朝の挨拶。  

 ハインリヒは一瞬驚いたものの、すぐに愛おしそうに目を細め、彼女の細い肩を抱き寄せると、何度もその唇を啄むようにキスを返した。


「……アン。食事が冷めてしまうよ」  

 ようやく唇を離したハインリヒが、困ったように笑う。

「フレンチトーストは好きかい? 俺は、実はこれを作るのが得意でね。いつか、君に作ってあげたいと思っていたんだ」


「食べたいわ、あなた……。あ、」  

 アンジャリはハッとして口を押さえた。

 あまりに幸福な空気に、無意識のうちに未来の光景を重ねてしまっていた。

「ごめんなさい、つい妄想が……。私、変なことを」


「いいや、アン。君となら、とても温かく幸せな家庭が築けそうだ」  

 ハインリヒの瞳には、迷いのない確信が宿っていた。

「俺は本気だ。戦場ではなく、静かな朝を君と分かち合える未来を……俺の人生をかけて守りたい」


「ふふ……。いいのかしら。私はこう見えて、気の強い軍人なのよ? 扱いに困るかもしれないわ」  少しだけ悪戯っぽく、けれど潤んだ瞳で彼を見上げるアンジャリ。

 その姿は、どんな名画よりもハインリヒの心を射抜いた。


「ああ、知っているさ。だが俺にとっては、これほどまでに可憐で愛おしい、唯一の女性だ。……すまない。また、キスをしたくなってしまったようだ」


「私も。……ねえ、もっと強く抱きしめて。もっと、キスしてほしいの。あなたの愛がないと、私、壊れてしまいそうだわ」


 再び重なり合う二人。

 豪華な朝食から立ち上る湯気が静かに消えていきます。

 時計の針は無情にも出発の時刻を指し示そうとしていました。

 バスの出発時間など、もはや二人の頭の中からは完全に吹き飛んでいたのでした。


 バスの出発予定時刻は午前十一時。  

 だが、その針が十分を回った頃、ようやく二人の影が車寄せに現れた。

 ハインリヒ・シュミット中佐とアンジャリ少佐である。


 二人が車内に足を踏み入れた瞬間、異様な空気が彼らを迎えた。  

 リヴァイアサン中隊なら、遅刻は厳罰の対象だ。

 だが、今このバスを満たしているのは、規律への怒りではなく、粘りつくような「ニヤニヤ」とした視線の雨だった。


「……すまない。ああ、その……少し、寝坊してな」  

 ハインリヒが、襟を正しながら、かつてないほどしどもどとした言い訳を口にする。

「ごめんなさい。私も、寝坊してしまったみたいで……」  

 アンジャリもまた、真っ赤な顔で視線を足元に落とした。


 その様子を見て、マリスが鈴を転がすような声で言った。

「お姉さま、気にしませんことよ? ふふふ。お疲れのようですものね」

「わたしも気にしてないからね、アンジャリお姉さま!」  

 エルザが身を乗り出し、悪戯っぽく目を輝かせる。

「ところで、キスの味はどんな味だったの?」


 その直球すぎる問いに、二人は同時に目を見開いた。

 口が金魚のように開いては閉じ、開いては閉じる。

「あれー!? 冗談のつもりだったのに……本当にしたんだね、あの顔!」  

 エルザがケラケラと笑い転げ、バス内は一気に爆笑の渦に包まれた。


 最前列では、カイが心底楽しそうに二人を見つめていた。

「あれ? 二人ともそういうことか! おめでとう! まぁ、一度知ったら、キスは止まらないよね!」

(……ああ、もう! あのバカップル『カイとミナ』と一緒にしないで欲しいわ!)  

 アンジャリは心の中で絶叫したが、同時にハタと気がついた。

(あ……私、今、自分が一番軽蔑していたはずの『バカップル』なのかしら?)


 バスの後方では、激戦を潜り抜けてきたベテランたちが、呆れ顔の中にも深い慈しみを含んだ視線を交わしていた。

「第二次大戦から戦場に出ていたがな、こんなに幸せオーラ漂う中隊は初めてだぞ、ソルガ」  

 ハインツが苦笑しながら言えば、ソルガも深く頷く。

「ああ。まぁ、シュテルツァーと言う機体が現れて、性別に関係なく、才能が戦場を支配するようになってから、軍の男女比も、あり方も劇的に変わったからな。……まあ、必然だろうな」


 そこへ、スキットルを片手にしたガリアスが割り込む。

「それにしてもよう、この中隊のカップル率は異常だぜ! 俺とか、ハインツとか、ソルガみたいな枯れ木には、ちと、刺激がきついわな」


「何を言う」  

 ハインツが、年季の入った誇らしげな顔でガリアスを見据えた。

「うちもまだ夫婦仲は『完全充足』されている。現役だ」

「うちもまだ『戦闘意欲剛健』だが?」  

 ソルガまでが平然と言い放ち、ガリアスは「……まいったなこりゃ。ガッハッハッハ」と、嬉しそうに酒を煽った。


 春の光を浴びて走り出したサロンバス。  

 そこには、殺戮に明け暮れた英雄たちが、苦難の果てに手に入れた幸せの種子がいくつもの眩い光を放っているかのようであった。


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