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第67話 過去との決別

 祝宴の喧騒が遠のいた夜。 

 カイは、静まり返った客室で、翌朝の入院準備の点検をしているミナの背中を見つめていた。  明日から中隊員たちが向かう鶴剣州の極上旅行。

 カイは、もう一度だけ問いかけた。


「……ミナ。本当に、一緒に行かなくていいのか? たった二泊三日だ。医師には俺から頭を下げて、日程を少しだけずらして……」


 ミナは手を止め、ゆっくりと振り返った。

 その瞳には迷いも、自分への甘えも微塵もなかった。

「……だめよ、カイ。その『たった二泊三日』のために、もし手術のデッドラインを逃してしまったら? 癒着が固まって、二度と未来が開けなくなってしまったら……私は一生、私を許せないもの」


 彼女は自分の腹部にそっと手を当てた。

 そこには、かつて焼けた鉄棒が貫いた傷跡がある。

 そして今、そこには医師が告げた「最後で唯一の希望」が灯っている。

「そんな後悔を抱えたまま、綺麗な海を見たって、私は笑えない。……私はね、カイ。あなたの子供をこの腕で抱きたいの。そのための戦いは、明日から始まるのよ」


 ミナの言葉は、戦場でのどんな命令よりも重く、カイの胸に響いた。  

 彼女はカイの元へ歩み寄り、彼の風呂上がりの髪を優しく整えた。


「カイ。あなたはリヴァイアサンの指揮官なんだから、みんなと一緒に旅行に行かなきゃダメ。あなたが不在なら、シュミット中佐やヴォルフたちは、本当の意味で羽を伸ばせないわ」

「……だが、君を一人、病院に残して……」


「一人じゃないわ。先生もいるし、何より、あなたの心がずっとそばにいてくれるでしょう?」  ミナは悪戯っぽく微笑み、カイの胸に顔を埋めた。

「あなたは指揮官として、みんなを見守る任務を果たして。私は、私たちの未来を繋ぎ止める任務を果たしてくる。……二泊三日なんて、あっという間よ。戻ってきたら、たくさんのお土産話を聞かせてね」


 カイはミナの覚悟を噛み締め、彼女の震える肩を力強く抱きしめた。

「……わかった、ミナ。俺の負けだ。俺もしっかり任務を果たしてくる。……でも、約束だ。不安だったらすぐに連絡をくれ。いつでも戻ってくるよ」

「心配しすぎよ。大丈夫、気にしないで楽しんできてね」


 失われたはずの未来を、自らの手でもぎ取りに行くミナの強さ。  

 カイはその誇り高い妻を、誰よりも深く、愛おしく見つめ続けていた。


 夜の帳が下りた寝室で、カイはベッドに横たわるミナを、背後から優しく包み込むように抱き寄せた。  

 肌に触れるパジャマ越しでも、ミナの背中がどれほど細く、そしてどれほど強い意志で張り詰めているかが伝わってくる。


「……ミナ。まだ、起きてるかい?」

 低い、囁くようなカイの声に、ミナは彼の腕に自分の手をそっと重ねた。

「ええ。……なんだか、今日あったことが全部夢だったみたいで。目を開けたら、まだ、帝国と戦争中で『グングニル』のオペレーター席に座っているんじゃないかって……」


 カイは彼女の項に、羽毛が触れるような軽い口付けを落とした。

「夢じゃないさ。君は俺の妻だ。……明日、君が向かう場所も、その先にある未来も、全部現実だよ」


 二人の間に、それ以上の言葉は必要なかった。  カイはミナの体を決して強く締め付けることはせず、ただ彼女の柔らかな体温と、一定に刻まれる鼓動を確かめるように、静かに、大切に腕を回した。


 それは、昂ぶる情動に身を任せるような夜ではなかった。  

 今、彼女の肉体に負荷をかけることは、たとえそれが愛の証明であっても、彼には許されなかった。

 今の彼にできるのは、「男」としてではなく、彼女の命を守る「盾」として、その震えを鎮めることだけだ。


「……ねぇ、カイ。あなたの心臓の音、すごく落ち着くわ」  

 ミナがカイの腕の中で、幸せそうに身を委ねる。

「そうか? 俺は今、君が好き過ぎて心臓の音を必死に抑えているんだが」

「ふふ、嘘おっしゃい。……でも、ありがとう。こうして抱きしめられているだけで、私、明日からの入院が怖くなくなったわ」


 カイはミナの髪に顔を埋め、深くその香りを吸い込んだ。  

 激しい接触も、情熱的な交わりもない。

 けれど、お互いの魂の形をなぞり合うようなこの静かな抱擁は、どんな快楽よりも深く、二人の絆を一つに溶かし合わせていった。


「おやすみ、ミナ。……愛しているよ」

「おやすみなさい、カイ。……私も、愛しているわ。……一生ね」


 窓の外では、八州の夜空が静かに二人を見守っている。

 結ばれた手の指先から、互いの祈りが伝わっていく。  

 それは、本当の意味で結ばれる「いつか」の日を、より鮮やかに、より尊く待ち望むための、静謐で純潔な誓いの夜だった。


 三月四日、早朝。  

 静かな夜明けの中、一台の軍用車両が海軍記念病院の門を潜った。  

 昨日までの華やかなドレスを脱ぎ、見慣れた制服に身を包んだミナは、車を降りると助手席のカイを振り返った。


「行ってくるわ、カイ。……少しの間、寂しくなるけれど」

「ああ。君が万全の体で戻ってくるのを待っている。……君の後任は後日来るらしい。すまないな、ミナ。君を置いて旅行に行く羽目になってしまった」  

 カイは努めて明るく笑い、彼女の肩を抱き寄せた。  

「大丈夫よ、気にしないで楽しんできて」

 ミナは、名残惜しさを振り払うように踵を返すと、病院に向けて歩き始めた。

 ミナはふと、思い出したように、車に駆け寄ると、深い誓いを込めた口付けを落とす。

 次は一度も振り返らずに白亜の病院へと消えていった。


 午前十時。  

 出発を控えたホテルのスイートルームでは、アンジャリが身支度の仕上げにシャワーを浴びていた。  

 リビングのソファでは、すでに準備を終えたマリスが優雅にティーカップを傾け、その隣でエルザが旅行雑誌をめくっている。


 ふと、マリスが浴室の扉に視線をやり、それから悪戯っぽく目を細めて身を乗り出した。

「……ねぇ、エルザ。耳を貸してくださらない?」

「なに? マリスお姉さま」  

 エルザが不思議そうに顔を寄せると、マリスは笑いを堪えるように、囁くような声で切り出した。


「気づいているかしら? ……アンジャリお姉さま、昨日のパーティーからずっと、シュミットさんのことばかり……ではありませんこと?」  

 その言葉に、エルザは「やっぱり!」と声を弾ませた。

「だよねー! 見え見えだと思ってたよ。お姉さま、シュミットが話してる時、ずっとワイングラス握りしめて耳まで赤くしてたもん」


 マリスは、してやったりとクスクス笑い、さらに声を潜めた。

「そこで、ですわ。この旅行中、わたくしたち二人でシュミットさんを……少しばかり『誘惑』してみたらどうかしら?」

「えっ、誘惑!? ……あはは、何それ楽しそう!」  

 エルザは目を輝かせたが、ふと真面目な顔になって首を傾げた。

「でもさ、もしシュミットが、本当にマリスお姉さまの方になびいちゃったらどうするの?それとも、私にくるかも!」


 マリスはカップをソーサーに戻すと、指先で自分の唇をなぞり、どこか本気とも冗談とも取れない温度で微笑んだ。

「うーん、そうですわね……。わたくし、シュミットさんならば構いませんわ。あの実直さ、意外と嫌いではありませんもの。……そのまま本当にお付き合いしてしまおうかしら?」

「えーっ! ずるい!」  

 エルザは頬を膨らませてマリスを睨んだが、すぐにニシシと笑った。

「じゃあ、私もシュミットさんならいいかな! 硬いけど、優しいしね。一生懸命守ってくれそうだし。……よし、早い者勝ちだね!」


 二人は顔を見合わせ、クスクスと声を殺して笑い合った。  

 彼女たちにとって、これは姉の背中を押すための「威力偵察」であると同時に、もしシュミットがその包囲網を突破して自分たちを選んだとしても、それはそれで「合格」という、リヴァイアサン姉妹ならではの残酷で愛らしい選別試験だった。

「さあ、楽しみだね。鶴剣州の旅行」

「ええ。アンジャリお姉さまはどんな顔になるのかしら?今から待ち遠しいですわ」


「そう言えば、エルザ。あなた、こちらへ来てから随分と口調が変わりましたわね?」

 ふとした沈黙の合間に、マリスがかねてからの疑問を投げかけた。

 その視線は、妹の成長を眩しむような、それでいて少し寂しがるような複雑な光を湛えている。


「あー……。一応、これでも貴族の端くれだったから、頑張ってたの。ちゃんとお嬢様だと思われるようにって。でもね、もう『帝国貴族』なんていう肩書き、どうでも良くなっちゃって」


 エルザは照れくさそうに笑いながら、手元のカップを見つめた。

 かつての虚飾を脱ぎ捨てたその声は、今の彼女が置かれた「家族」という場所への信頼に満ちている。  

 マリスは、エルザの胸中を察するように、深く、静かにため息をついた。


「あのような凄惨な事実を聞かされては、仕方がありませんわね……。今のあなたが、本来の、自然体のエルザなのですわね。私は、今のあなたの方がずっと素敵だと思いますわよ、エルザ」


「マリスお姉さま……。ありがとう!」


 浴室からシャワーの止まる音が聞こえ、二人は急いで、何食わぬ顔で元の位置に戻った。

 何も知らないアンジャリが、タオルで髪を拭きながらリビングへ戻ってくる。

「お待たせ。……あら、なんだか楽しそうね? 何かあったの?」


「いいえ、お姉さま。今日の鶴剣州は、とても『熱く』なりそうだという話をしていただけですわ」  

 マリスの愛らしい淑女の微笑みに、アンジャリは不思議そうに首を傾げるばかりだった。


 同じ頃、別室のシュミット家のスイートルームでは、ハインリヒ・シュミット中佐が人生最大級の「防衛戦」を強いられていた。


「ハインリヒ、聞いているのかい? アンジャリさんは素晴らしいお嬢さんだ。あの若さでリヴァイアサンの小隊長をこなす責任感、そして何よりあの凛とした佇まい……。うちの家風にもぴったりだと思わないかい?」


 母ヒルダが、荷造りの手を止めては熱っぽく語りかける。

 ハインリヒは溜息を飲み込み、軍服の襟を正すふりをして視線を逸らした。

「……母上、彼女はただの戦友です。そのような話は、今は……」


「ハインリヒ、戦友から始まる愛もあるだろう? 父さんはマリスさんのあの落ち着きも捨てがたいと思うぞ」  

 追い打ちをかけたのは父ヨハンだった。

 彼は高級な葉巻を燻らせながら、元将校としての風格を漂わさせ、獲物を定めるような目で息子を見据える。

「あの方なら、我が家の社交を完璧にこなしてくれるだろう。いや、いっそエルザさんのような明るい娘が家に来れば、お前のその氷のような性格も少しは溶けるかもしれん。……なぁ、ハインリヒ。お前は一体、どのお嬢さんなら嫁に迎えたいんだ?」


「父上、母上……勘弁してください。自分は職務で頭が一杯なのです」


 シュミットの必死の拒絶は、熱狂的な両親の耳には一滴の雨音ほども届かない。

「そんなことを言って、昨日のパーティーではアンジャリさんをじっと見ていただろう?」

「そうよ、母さんは見逃さなかったわよ!」  

 両親の息の合った「十字砲火」に、ハインリヒはもはや、撃破される寸前の重装シュテルツァーのように沈黙するしかなかった。


 彼は救いを求めるように、浴室の扉を見つめる。  

 唯一の盾であり、両親の注意を逸らしてくれるはずの兄フリードリヒは、悠々と朝のシャワーを浴びていた。

(兄さん……早く、早く出てきてくれ。このままでは鶴剣州に着く前に、俺は撃墜寸前だ……)


 心の中で悲痛な叫びを上げるハインリヒ。

 しかし、浴室からは能天気な鼻歌が聞こえてくるばかりだ。  

 氷の貴公子と謳われたシュミット中佐は、かつてない絶望感と共に、テーブルに置かれた冷めたコーヒーを煽った。


 同じく出発の朝。

 ソルガ中佐がホテルの部屋で荷物の最終確認をしていると、ノックもそこそこに、大きな溜息と共にガリアスが転がり込んできた。


「……どうした、ガリアス。準備はできたのか?」  

 顔を上げたソルガに、ガリアスはブランデーの入っているスキットルボトルを放り投げ、ソファに深く沈み込んだ。


「ああ、出来てるさ。……何というか、その。ヴォルフを訪ねてクリスが来やがってなぁ。部屋が甘ったるいピンク色の空気で充満してやがる。俺の居場所なんて、クローゼットの中にも残っちゃいねぇよ」


 ぼやくガリアスの顔は、言葉とは裏腹にどこかだらしなく緩んでいる。

 それを見たソルガは、苦笑しながらデスクの引き出しから上質な葉巻の箱を取り出した。

「困っていると言っているが、どこか嬉しそうだな、ガリアス。まあ、これを一本やって落ち着け」


「悪いなぁソルガ。せっかくの家族の時間を、俺みたいなはみ出し者が邪魔しちまってよ」  

 アルガやミレーユの姿を探すように室内を見渡すガリアスに、ソルガはマッチを擦って火を差し出した。


「かまわんさ。家族は朝の散歩だ。……しかし、大変だな。まさか魔王ハインツ大佐と親類になるとはな。お前がヴォルフの『父親』として挨拶に行くんだろう? 頑張れよ、ガリアス」


 ソルガの言葉に、葉巻を深く吸い込んだガリアスが激しくむせた。

「……げほっ! おい、よしてくれよ。あの親父と酒を酌み交わすなんて想像しただけで、ああ……俺の心臓、鶴剣州に着くまでもたねぇなぁ……」


「ハッハッハ! 双頭の荒鷲の片翼が、挨拶一つで心不全か。傑作だな。……さあ、行くか。バスが待っている」


 二人のベテランは、立ち上る紫煙の中に少しの寂寥と、それ以上の喜びを隠しながら、賑やかな声が響くロビーへと歩みを進めた。


 正午。  

 太陽が天頂に達した頃、ロイヤル八州ホテルの車寄せには、

 一台の巨大な特別仕様サロンバスが横付けされていた。

「さあさあ、皆様! お乗りください! 本日から三日間、皆様を現世の楽園へとお連れいたしますぅ!」  

 ユイ軍曹が、もはや添乗員にしか見えない手旗信号で、中隊員とその家族を誘導していく。


 バスが発進すると、前方のパトカーがサイレンを鳴らし、一般車両を完全に排除した高速道路へと躍り出た。

「おい、見てみろよ。高速道路が貸し切りだぜ」  ガリアスが窓の外を眺めて鼻を鳴らす。  

 日和極東連邦が国力をかけて用意した「おもてなし」。

 それは、この一団を不測の事態から完全に隔離するための、巨大な鳥籠でもあった。


 数時間の走行を経て、バスは鶴剣州の断崖に立つ伝説の宿、『碧海へきかい迎賓館』へと到着した。  

 和の意匠を凝らした重厚な瓦屋根と、洋の機能美が融合したその建築物は、皇室や華族、国賓クラスしか立ち入ることが許されなかった「魔宮」である。


 その夜。  

 迎賓館の最深部、千畳敷の広さを誇る大広間にて、舞踏会の幕が開いた。  

 天井からは無数のクリスタルシャンデリアが輝き、床は鏡のように磨き上げられた大理石。  

 オーケストラが奏でるワルツが響く中、リヴァイアサンの面々は、慣れない正装に身を包み、再び「社交」という名の包囲網の中にいた。


 会場の隅、ハインリヒ・シュミット中佐は、壁の花になろうと必死だった。  

 しかし、その目論見は、ラベンダーとサクラ色の香りに阻まれる。


「シュミットさん! この曲、私と踊ってくださいな!」  

 エルザが天真爛漫な笑顔で、ハインリヒの右腕を抱え込んだ。

「なっ、エルザ大尉、自分はダンスなど……」 「あら、中佐。私がエスコートして差し上げますわ」  

 左側からは、マリスがいつもとは違う、ほんのりとした健全な色気を湛えた瞳でハインリヒを射抜く。

「マリス大尉まで……! ハインツ大佐!いえ、中隊長……助け……」  

 ハインリヒが救いを求めて視線を泳がせると、そこには少し離れた場所で、グラスを握りしめたまま硬直しているアンジャリの姿があった。


 アンジャリは、妹たちの「連携攻撃」を目の当たりにし、心臓が焼けるような錯覚に陥っていた。

(二人とも……冗談が過ぎるわ。中佐が困っているじゃない……)  

 そう自分に言い聞かせるが、彼女の瞳は、妹たちに翻弄され、耳まで真っ赤にしているハインリヒから離れない。  

 シグルドとの思い出は、今も胸の奥にある。  

 けれど、今、目の前で他の女性(妹たち)に袖を引かれているハインリヒを見て、彼女の中に疼くのは、今まで知らなかった「独占欲」という名の熱だった。


 ハインリヒは、彼女たちの香水に酔いそうになりながら、ふと、群衆の隙間にアンジャリの視線を見つけた。  

 彼女の瞳に宿る、微かな寂しさと、隠しきれない熱量。

「……アンジャリ少佐」  

 ハインリヒの口から、無意識に彼女の名が漏れる。  

 その瞬間、エルザとマリスは視線を交わし、悪戯っぽく唇の端を上げた。

「あら、中佐。お呼びなのはお姉さまだったの?」

「ふふ、野暮なことは致しませんわ。ねぇ、エルザ?」


 二人は示し合わせたように、両側からハインリヒの腕を掴むと、姉の元に連行する。

 そして、彼をアンジャリの元へと押し出した。  鏡のような大理石の上で、ハインリヒとアンジャリ。  

 不器用な二人の距離が、オーケストラの旋律の中で、静かに、けれど決定的に縮まっていく。


 押し出されたハインリヒは、たたらを踏んでアンジャリの目の前で止まった。

 周囲の視線が突き刺さる。

「……アンジャリ少佐。その……あまり、得意では無いんだ。あの。一曲だけ、願えますか……?」

 絞り出した声は、戦場での命令よりも数倍硬く、今にも消えてしまいそうだ。

 アンジャリは、差し出された彼の手を、壊れ物を扱うようにそっと取った。

 その目は、恋を知ったばかりの10代の少女のような恥じらいを含んでいた。

「……喜んで。中佐」


 一曲目。

 二人の間には、まだ拳一つ分の「規律」という名の隙間があった。

(……なんて熱い手なの)  

 アンジャリは、腰に添えられたハインリヒの手の熱に、思考が白く染まりそうになる。

 シグルドを亡くして以来、忘れていた「男性との接触」。  

 いや、親の決めた婚約であったシグルドとは手も繋いだ事はなかった。

 ハインリヒはといえば、アンジャリの肩から漂う薄い石鹸の香りと、薄いドレス越しに伝わる柔らかな感触に、心拍数が限界を超えていた。 「……中佐、顔が真っ赤ですわよ」

「……ハハハ。……会場の暖房が効きすぎているようです」  

 そんな子供じみた嘘に、アンジャリは思わずクスリと笑った。


 一曲目が終わる。  

 しかし、離れようとした二人の両脇に素早く回り込み、反包囲陣形を敷いたマリスとエルザが、扇子を翻しながら「まだまだ、これからですのよ?」と悪戯っぽく囁いた。  

 楽団の演奏は止まることなく、より情熱的な二曲目へと移る。

 ダンスを切り上げるタイミングを完全に封じられた二人は、導かれるように再びステップを踏み出した。


 今度は、先ほどよりも少しだけ距離が縮まる。  慣れない二人は、刻々と変化するリズムに何度も置いて行かれそうになった。

 だが、お互いの合わないステップを補い合おうとするたび、その不器用さに自然と笑顔が広がっていく。

「……私のような堅物と踊っても、退屈なだけでしょうに」  

 ハインリヒが、照れ隠しのように自嘲気味に呟く。

「ごめんなさい。私も貴族だったくせに苦手なの。でも……中佐のステップは、とても誠実です。私は……そういう方、好きですよ」  

 アンジャリの真っ直ぐな言葉が、不意を突かれたハインリヒの胸を鋭く射抜いた。


 三曲目。  

 テンポが落ち、重厚な弦楽器の調べが響き渡る。

 会場の照明が一段と落とされ、二人の周囲には、他者を寄せ付けない濃密な空気が漂い始めた。  

 壁際では、マリスとエルザがワイングラスを片手に、姉の様子を満足そうに眺めている。


「とろけていらっしゃいますわね、エルザ」

「はい、マリスお姉さま。作戦は大成功です」 「なになに!? その作戦、わたしにも詳しくお願いしますぅ!」  

 どこからともなく現れたユイ軍曹が、目を輝かせて二人の会話に食いついた。


 いまや、舞踏会の中心は間違いなくあの二人だった。

 お世辞にも洗練されたステップとは言えない。 

 けれど、互いを見つめ、慈しみ合うその表情は、会場にいるすべての観客の胸に熱く語りかけるものがあった。  

 もはや、言葉による会話は必要なかった。  

 アンジャリは静かにハインリヒの胸元に顔を寄せ、ハインリヒはそれを拒むことなく、より深く彼女を抱き寄せる。


(……シグルド、ごめんなさい。でも、私は……私は、なんて卑怯な女……)  

 胸を刺すような罪悪感は、依然として消えない。

 けれど、どれほど耳を澄ませても、以前のように死んだ婚約者の声が聞こえてくることはなかった。    

 ハインリヒの力強い鼓動と、軍服越しに伝わる確かな体温。  

 その圧倒的な「生命」の温もりが、彼女を『死んだ婚約者への貞節』という名の『美しい殉教へ至る道』から静かに、けれど力強く、光あふれる『現世うつしよ』へと引き戻そうとしていた。


 ハインリヒは、自分の腕の中に収まる小さな肩の震えを感じていた。  

 彼はまだ、彼女の過去も、その瞳に宿る影の正体も何も知らない。  

 しかし、理屈などとうに追い越していた。

 ハインリヒ・シュミットという一人の男の魂には、この女性のためならば『即座に命を捧げられる』という、狂おしいほどに純粋な騎士の決意が既に完成していた。


 曲が終わる。

 オーケストラの残響が消えても、二人はしばらくの間、繋いだ手を離すことができなかった。

 三曲のワルツを終えた二人は、繋いだ手を離せぬまま、どちらからともなくテラスへと逃げ出した。    

 三月の海沿いの夜風は、火照った肌にはいささか鋭すぎたが、今の二人にはその冷たさが心地よかった。


 アンジャリは手すりに身を預け、暗い海の向こうを見つめた。

「……シュミット中佐。私の婚約者だった人は、シグルドという名でした」  

 唐突な告白に、ハインリヒの体が微かに強張る。

 アンジャリの声は、潮騒にさらわれてしまいそうなほど淡々としていた。

「彼も軍人でした。私よりもずっと優しくて……戦争になんて向かない、不器用な人。あの日、彼が守ったケルゲレン要塞に、あなたの国の――大東亜のシュテルツァーが現れたの。私は唯一の生き残り」


 ハインリヒは喉の奥に、苦い鉄の味を感じた。  リヴァイアサン中隊の侵攻作戦。

 彼女の悲劇には、自分たちが、あるいは自分自身が直接手を下している可能性すらあるのだ。 「……すまない。それは、我々の――」


「言わないで!」    

 アンジャリが言葉を遮った。

 その瞳には涙はなく、ただ凪いだ海のような深い静寂が宿っている。

「聞きたくないわ。……戦争だもの。奪い、奪われるのが私たちの日常。私も、あなたの同胞をたくさん殺した。私の両手も血まみれなの。それを、あなた個人の罪にするなんて、そんなの卑怯だわ……」


 ハインリヒは拳を握りしめ、視線を足元の大理石に落とした。

 彼は震える呼吸を整え、心の奥底から言葉を絞り出した。


「……君の過去ごと、俺にくれないだろうか」  

 アンジャリの目が、驚きに見開かれる。

「君の罪も、君の過去も。かつての婚約者への想いも、痛みも……その全てだ。君の人生そのものを、俺に預けてはくれないだろうか」


 勇気を振り絞ったその一言を残し、ハインリヒは耐えきれなくなったように顔を逸らした。

 『氷の貴公子』の仮面は完全に剥がれ落ち、耳まで真っ赤に染まった横顔が、月光に照らされている。  

 過去を「忘れろ」と突き放すのではなく、「過去ごと欲しい」と受け入れる不器用な誠実さ。

 それが、彼女の頑なな心を、音を立てて溶かしていく。


「……ずるいわね。中佐。いいえ、ハインリヒさん。それは、プロポーズなのかしら? 私は『シーサーペント』…… 恐れられた海の怪物。数多の命を奪ってきたエースなのよ?」

「俺にとっては、何者にも代えがたい。誰よりも大切な……愛する女性だ」

 吹き抜けた一陣の夜風。

 アンジャリには、それがシグルドの「さよなら」の囁きにすら聞こえた。

 

 アンジャリは、とめどなく溢れ出す涙を拭うこともせず、静かに手を伸ばした。  

 そして、逃げるように手すりを掴んでいたハインリヒの大きな手に、自分の指をそっと絡めた。  ハインリヒの指がピクリと跳ね、それから意を決したように、彼女の細い指を力強く握り返す。


 二人の指が、月明かりの下で一つの影を作る。  透き通るようなカーテンの向こうには、二人の唇が重なる美しいシルエットが映し出されていた。


 その光景を、テラスに続くカーテンの陰から、二つの影が食い入るように覗き込んでいる。


「ヨハン! 見た!? 指を、指を絡めたわよ!」 「ああ、ヒルダ……しかと見届けたぞ! ハインリヒ!ナイスだ!」


 ヨハンとヒルダの夫妻は、窓越しに声にならない歓喜のガッツポーズを繰り返し、勝利のダンスを踊り出しそうな勢いだった。

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