第66話 嘉礼
一九八四年三月三日。
日和極東連邦、蒼星郡。
エメラルドグリーンの海と白砂のコントラストが眩しいこのリゾート地は、今日だけは硝煙を忘れ、祝祭の熱に浮かされていた。
「……蒼星郡ビーチリゾート教会。参加者リスト良し。大東亜秘密警察50名、武装憲兵隊36名及び、エウロ派遣の武装親衛隊12名、配置完了。……ああ、この日差しだ。マンガニス粉塵が完全に晴れるなど半年に一度だろうに ……天に愛された英雄……か」
ガバルディ少将は、砂浜に設置された受付で、独り言を漏らしながら分厚い進行表をめくっていた。
彼の背後には、マクローアン・アイゼンハルト元帥やシリチャイ大将、ベルナール中将といった軍の重鎮たちが、軍服の礼装で並び、潮風に目を細めている。
波打ち際の白亜の教会。
扉が開くと、そこには「戦士」であることを一時だけ忘れた、光り輝く乙女たちの姿があった。
「ミナ、本当に綺麗……」
エルザが声を弾ませる。
隣では、マーメイドラインのドレスを完璧に着こなしたアンジャリが、ふと祭壇の向こうの空を見つめた。
(……シグルド、見てる?あなたなら、なんて言うかしら。私がドレスを着るなんてね)
戦死した婚約者、シグルドの穏やかな笑顔が脳裏をよぎる。
それは今や、彼女の魂の奥深くに大切にしまわれた「思い出」だ。
だが、祝福の光が強ければ強いほど、喪失の影もまた濃くなる。
アンジャリの瞳から、一筋の涙が静かにこぼれ落ち、白砂に吸い込まれた。
その隣で、ラベンダーのドレスを纏ったマリスもまた、そっと目を伏せていた。
彼女が思い出したのは、自分に愚直なまでのラブレターをくれたリュゼ・イスタリオン准尉のことだ。
彼はもう、この世界にはいない。
マリスは何も語らず、ただ溢れる涙を拭いもせず、その想いを心の最も深い場所へと沈めていく。
(マリス、忘れなさい……早く忘れるのですわ……さようなら……リュゼ……)
「ねぇ、お姉さまたち。早く行こうよ! ミナの晴れ舞台だよ」
エルザの明るい声が、二人を現世へと引き戻す。
潮騒が遠く響く中、教会の扉が重厚な音を立てて開いた。
バージンロードを歩むミナの義足が、大理石の床に硬質な音を刻む。
その隣で前を見据える、婚礼用に装飾が施され、整えられた制服に包まれているカイは、ゆっくりと歩みを進める。
一歩、また一歩。
祝福の拍手が降り注ぐ中、二人の視線は無意識に列席者たちの隙間を一瞬泳いだ。
そこにあるはずのない、けれどあって欲しかった「影」を探すように。
(……マイ大尉。あなたの声が聞こえる気がするわ)
ミナは、胸の奥で静かに呟いた。
もしあの日がなければ、マイ大尉は最前列で誰よりも大きな拍手を送り、「もっと背筋を伸ばしなさいませ!」と笑い飛ばしてくれただろう。
賑やかだったタケシがいれば、式の最中でも茶化して場を和ませてくれたはずだ。
ジョセフやユキヤ、そしていつも元気な声を届けてくれたナティカも、祝いの言葉を痛いほど投げかけてきただろう。
彼らは今、この場所にいない。
この世にすら居ないのだ。
呼ぶことさえ叶わなかった。
彼らの席は、二人の心の中にある、決して埋まることのない空白だった。
カイもまた、祭壇の前で唇を噛み締めていた。 脳裏に浮かぶのは、辞退の連絡を寄こした二人の戦友の顔だ。
(ニルット、チャルン……。俺たちは、君たちもここにいて欲しかったんだ)
両脚を失い、今は静かに療養を続けるニルット少佐。
左半身の麻痺と戦いながら、後進の育成に心血を注ぐチャルン大尉。
二人に宛てた招待状。
それに対する返信は、涙で滲んだような丁寧な断り書きだった。
「自分たちの姿が、新しい門出に影を落とすわけにはいかない」という、あまりにも痛々しい優しさ。
彼らをこの場所へ呼び寄せることが、かえって彼らの傷を深く抉るのではないか。
そう案じ、再度の説得を断念せざるを得なかった己の無力さが、カイの胸を鋭く突く。
生者と死者。
そして、傷つき去っていった者たち。
この華やかな式の光が強ければ強いほど、出席できなかった彼らの不在が、色濃い影となって足元に伸びる。
ミナの手が、カイの腕をそっと握りしめた。 視線が交わる。
言葉はなくとも、二人の想いは重なっていた。 (みんながいたから、私たちがここにいる)
(彼らの犠牲と、託された想いを、一生背負っていこう)
カイは、ミナの手を力強く握り返した。
不在の戦友たちの視線を背中に感じながら、二人は祭壇への最後の一歩を踏み出した。
それは、失われた命と傷ついた魂たちに捧げる、最も静かで、最も重い誓いだった。
新郎カイの元へと歩むミナの義足が、バージンロードを確かな足取りで刻んでいく。
列席者の中には、多くの「家族」がいた。
ソルガ中佐の隣には、妻ミレーユ。
そして、かつて上官への反抗罪で収容所にいたが、今はゲルマーの田舎でパン屋を営む息子のアルガが、少し照れくさそうに父と同じ列に座っている。
ハインリヒ・シュミット中佐の隣には、厳格な父ヨハンと母ヒルダ。
そして彼に瓜二つの美しき兄が、弟の勲章の付いた軍服という勇姿を誇らしげに見守る。
式の合間、ヴォルフは思わぬ人物に呼び止められた。
クリスの父、ハインツだ。
「ヴォルフ。……お前たち、婚約したのだろう?」
「大佐!申し訳ありません。近日中にご挨拶に伺おうかと!」
鋭い眼差しにヴォルフが身を強張らせると、ハインツは不器用に笑い、彼の肩を叩いた。
「よい。娘からもまだ何も聞いてないのだ。お前達が、分かりやすくてな……幸せにしてやってくれ。……それだけが、親の願いだ」
「……はい。命に代えても」
クリスはまだ父に話せていなかった事実に頬を染めながら、二人のやり取りを潤んだ瞳で見つめていた。
束の間の沈黙を破ったのは、アラン・バティスタ大尉だった。
「エマ! 見ろよ、最高じゃないか!」
愛妻エマを抱き寄せ、誓いのキスの瞬間に合わせて自分たちも熱い口付けを交わす。
周囲の笑い声をよそに、エマは大はしゃぎでアランにしがみついた。
そして、ついにその時が来た。
神父の前で、カイがミナのベールをゆっくりと上げる。
潮騒が一段と大きく響く中、二人の唇が重なった。
「おめでとう、カイ! ミナ!」
教会から海へと続く階段を下りる二人を、リヴァイアサンのメンバーが待ち構えていた。
「さあ! 祝福の時間だ!主砲照準。偏差を誤るな」
シュミット中佐の合図とともに、一同が手に持った花びらやライスを、もはや「攻撃」に近い勢いでカイへと叩きつける。
「痛い! おい、誰だ、今顔にぶつけたのは!」 カイが笑いながら腕で顔を覆うが、メンバーの手は止まらない。
ヴォルフも、アルガも、そして普段は冷静なシリチャイ大将までもが、満面の笑みで花びらを投げつけた。
青い海、白いドレス、そして降り注ぐ色とりどりの花びら。
失われた仲間たちの想いを背負い、それでも今、彼らは生きている。
ビーチでの開放的な挙式を終え、一行は『ロイヤル八州ホテル』の最上階、首都を一望できる特別宴会場へと移動していた。
会場の入り口では、広報課のユイ軍曹が「書読社」と「賢読社」の記者たちを厳しく統制している。
「いいですか、報道は明日の朝刊からです。今夜、ここでのことは一言も漏らさないように!漏れたら彼らが大変ですよぅ!」
彼女の視線は警備についている大東亜秘密警察とゲルマー武装親衛隊の私服警護員を掠める。
記者たちはごくりと喉を鳴らし、無言で了解のジェスチャーを何度も返した。
彼女の「トータル・ビューティー・アドバイザー」としての顔は消え、そこには有能な広報官の鋭い眼差しがあった。
定刻。
重厚な扉が開くと、大東亜外務大臣とエウロ外務大臣の両名が入室した。
本来なら、大東亜大統領やエウロ総統が直々に出席を熱望したという、国家レベルの重要行事。
それを「中隊という家族だけの規模にしたい」という新郎新婦の強い希望を通すため、軍上層部が悲鳴を上げながら各国首脳をなだめ倒した末の、大臣出席であった。
大東亜外務大臣が、シャンパングラスを掲げて壇上に立つ。
「……カイ少将、ミナ少尉。この『国家の至宝』たる両名の挙式を、あえてこの規模の親睦会に留めることが、どれほどの政治的調整を要したか……。本来参列すべき政府や軍の重鎮たちは、この場に居合わせぬ不運を、今ごろ官邸で歯噛みしていることでしょう。しかし、この会場に満ちる温かな空気を見れば、我々の苦労も報われるというものです。我らが英雄と、その美しき花嫁に——乾杯!」
祝辞が終わり歓談が始まると、張り詰めていた空気は一変し、会場は華やかな活気に包まれた。
あちこちでグラスの触れ合う音が鳴り響き、リヴァイアサンの面々から漏れ出す快活な笑い声が、式典に温かな彩りを添えていく。
壁際では、広報課のユイ軍曹が一眼レフカメラを構え、獲物を狙う豹のように「プロパガンダ映え」する瞬間を狙っていた。
「いいわ、アンジャリ少佐! そのグラスの持ち方、最高に凛々しいですぅ! マリス大尉、その目、その瞳ですよ……くぅ〜」
完璧な広報写真を追求する彼女だったが、その背後に「獲物」たちが忍び寄る。
「ユイ軍曹、さっきから仕事ばかり。あなたもお飲みになったらいかがですの?」
マリスが優雅な手つきで、余裕が5mmも無く満ちたシャンパングラスを差し出す。
「えっ、いえ、私は職務中……あぐっ!?」
言いかける前に、エルザが「これ、美味しいですよ!」とスパイスの効いた鶏肉をユイの口へ放り込む。
「むがぁ!もぐむぐもぐもぐ。ちょ、エルザ大尉まで!? ……ん!これ何、すごく美味しい。分かりました、皆さまには敵いませんね。英雄と一緒に飲ませていただけるなんて感激ですぅ。さあ、飲むぞー」
ユイは半ば自棄気味にグラスを煽り、カメラを抱えたまま戦場(宴会)へ参戦するのであった。
会場の一角では、ガリアスが大臣と記者たちを相手に豪快に笑っていた。
「おいおい、大臣! 記者の諸君! そんな上品な飲み方で、俺の話が聞けると思っているのか? 海賊の酒は、そんなぬるくねぇぜ!」
ガリアスは狙撃兵として戦場全体を俯瞰し、戦場の裏表を知り尽くしている。
記者たちにとって最高の取材源だ。
しかし、彼から一言引き出すには、ガリアスが何度も注ぐ酒を飲み干さなければならない。
大臣も記者も、顔を真っ赤にしながら、「意識を保てるか……」と互いに視線で励まし合っていた。
その隣では、アランとエマの夫妻が、ガリアスに負けじと酒を煽り、幸せを周囲に振りまいている。
また、会場の賑やかな一角では、ソルガ中佐が酒杯を片手に、息子アルガに向かって胸を張っていた。
「アルガ、安心しろ。俺が退役したら、お前のパン屋を全力で手伝ってやるからな!」
かつて収容所から救い出された息子と共に歩める未来に、ソルガは上機嫌だ。
しかし、当のアルガは心底不安そうに眉を寄せた。
「父さん……気持ちは嬉しいけど、パンが作れるのかよ? 生地をこねるのだって、簡単なものじゃないぞ」
「任せろ! 職人気質は軍人もパン屋も同じだ。……で、パンのサイズはどうする? 120mmか、それとも144mm口径で焼けばいいか?」
その言葉に、隣で聞いていたハインツが思わず噴き出した。
「ガハハ! おいソルガ、パンに『口径』があるのか? お前が焼くのはバゲットじゃなくて、シュテルツァーの主砲弾か何かか!」
「副長!笑うな! 精密射撃と同じだと言っているんだ!」
ゲラゲラと笑い転げるハインツ。
アルガは「やっぱり断ればよかった……」と頭を抱えながらも、その顔にはどこか嬉しそうな色が滲んでいた。
一方、シュミット家のテーブルは、少しばかり「重い」空気に包まれていた。
父ヨハンと母ヒルダは、高級な酒を煽りながら、難しい顔で五男のハインリヒ・シュミットを見つめている。
「ハインリヒ。お前の兄フリードリヒは、とうに身を固めて立派にやっている。なのにお前は……」
兄フリードリヒは苦笑しながら、弟の背中を叩く。
「父上、母上。ハインリヒも戦場では英雄ですよ。結婚だって急ぐ必要は無いでしょう?」
シュミット家の視線の先には、ハインリヒと同じ年齢に見えるヴォルフとクリスがいた。
「クリス、これ美味しいぞ。ほら、あーん」
「うん! 美味しい! ヴォルフ、あなたも食べて?」
そんな初々しいやり取りを、シュミットの両親は見つめている。
街に出れば、その細くしなやかな体躯と切れ長で氷のような美貌に、女性たちの目は吸い込まれるのだが、本人は至って奥手なのだ。
「……誰かいるのか?兄さんが、紹介してやろうか?」というフリードリヒの囁きに、ハインリヒはただ一言、「不要だ」と氷のような声で返し、酒を飲み干した。
しかし、ハインリヒの視線がコンマ数秒、仄かな思いを寄せているアンジャリを、無意識のうちに視界に入れたのを両親は見逃さなかった。
「――失礼、お嬢さん方。少しよろしいかな?」
ヨハンとヒルダの夫妻が、獲物を見つけた猟犬のような鋭い眼光で三姉妹に歩み寄る。
三姉妹はマクローアン・アイゼンハルト元帥とたわいのない話で、楽しそうに談笑していた。
ハインリヒ・シュミット中佐は、敵シュテルツァーの大軍を屠る勇猛な英雄だ。
だが、この至近距離から展開される両親の「迂回からの奇襲攻撃」を阻止する術を、持ち合わせていなかった。
(バカな!マクローアン・アイゼンハルト元帥だぞ?やめてくれ、父よ、母よ、ああ……)
「うちのハインリヒが、皆さんに迷惑をかけていないか、心配でしてね……。あんな堅物、煙たがられてはいないかね?」
父ヨハンの探るような問いに、まずエルザが屈託のない笑顔で応えた。
「迷惑だなんて! いつもあれこれ小言はうるさいですけど、私はシュミットさんのこと、大好きですよ!たまに、慌ててるの可愛いしね」
エルザの真っ直ぐな言葉に、夫妻の顔がぱっと明るくなる。
マクローアン・アイゼンハルト元帥は、『面白そうな出し物』でも見つけたかのように、ニヤニヤと上機嫌だ。
続くマリスは、杯を優雅に傾けながらクスクスと喉を鳴らした。
「そうねぇ……砲弾とか弾薬を出しっぱなしにするなだとか、少し細かすぎるところはありますけれど。でも、私はシュミット中佐のような実直な方は好ましく思います」
マリスのお嬢様らしい洗練された言葉と、可愛らしい笑みに、夫妻の目はさらにギラリと輝きを増した。
最後にワインを注がれた、長女アンジャリは、二人の熱視線に少し顔を赤らめ、居住まいを正して答える。
「……うちの中隊長は、あれ(カイ少将)ですから。シュミット中佐がいてくださらないと、中隊は回りません。彼は我がリヴァイアサン中隊の、文字通り『要』なのです」
「みなさん、ありがとうございます。親として安心しました」
二人は示し合わせたような流れる動作で三姉妹をハインリヒの両隣へと誘導し、半ば強引に座らせた。
「さあさあ、この席へ! もっとゆっくりお話を聞かせてくださいな!」
ここでマクローアン・アイゼンハルト元帥が、グラスを片手に身を乗り出した。
「シュミット中佐、私も良いだろうか? 君の『要』としての働きぶり、もっと詳しく聞いてみたいものだ。どうかな、この包囲網の居心地は?」
元帥という軍の頂点からの直撃弾に、ハインリヒは直立不動になりかけ、辛うじて着席したまま姿勢を正した。
「……報告いたします、元帥閣下。中隊長を補佐し、部下の規律を正すのは私の職務……。ですが、現在のこの……家庭内事情を含んだ特殊な包囲網に関しては、私の戦術教本には対処法が記載されておりません……。突破口が見当たりません、閣下」
耳まで真っ赤に染め、氷のような美貌をどこへやら、羞恥に耐えるように深く俯くハインリヒ。
その様子に元帥は「はっはっは! 教本にないからこそ実戦だろう、シュミット中佐!」 と豪快に笑い飛ばしたアイゼンハルト元帥は、さらに意地悪く目を細め、隣に座る三姉妹とハインリヒを交互に見つめる。
「……で、君の判断はどうだ? どのお嬢さんが良いのだ? シュミット中佐?」
「な! 閣下! ちょっ……!」
軍の最高権威による直球すぎる「威力偵察」に、ハインリヒはもはや椅子から転げ落ちんばかりに狼狽した。
氷の貴公子と謳われた冷徹な仮面はどこへやら、視線をあちこちに泳がせ、喉を鳴らすのが精一杯だ。
その様子を隣で見ていたエルザが、身を乗り出して屈託なく笑う。
「何々? シュミットさん、また慌ててるの? 可愛いねぇ」
マリスもまた、コロコロと笑いながら手で口元を隠し、追い打ちをかけた。
「うふふ、コロコロと表情が変わって……。今、閣下に何と言われましたの? ぜひ私たちにも教えてくださいませ」
そんな妹たちの賑やかな声の傍らで、長女アンジャリだけは少し違っていた。
元帥の問いが微かに耳に届いた彼女は、ワイングラスを持つ手に無意識に力が入り、頬に熱が昇るのを感じていた。
(どの子が……って、閣下、なんてことを……) 困惑しながらも、アンジャリは伏せた睫毛の隙間から、隣で真っ赤になっているハインリヒを盗み見る。
彼が一体なんと答えるのか。
その返事を待つ彼女の胸は、かすかな期待と共にドキドキと高鳴っていた。
当のハインリヒは、三姉妹の異なる熱量に挟まれ、オーバーヒート寸前であった。
元帥のニヤニヤ顔に射抜かれ、一瞬視線をアンジャリに向けるも、もはや俯きながら酒を煽るしか退路は残されていなかった。
主賓席では、ミナがふと自分の足をさすっていた。
次々と、祝福の言葉が投げかけられる。
だからこその、ドレスから覗く義足。
最新技術の結晶ではあるが、花嫁姿としてどう見えているのか、心のどこかで不安が拭えない。
だが、その微かな動きを、カイは見逃さなかった。
「ミナ。どうした? どこか痛むかい?」
「……いいえ。ただ、少しだけ、気になってしまって」
カイは彼女の手を優しく取り、大勢のゲストがいる前で、真っ直ぐに彼女の目を見つめた。
「ミナ。今日の君は、夜空のどの星よりも輝いている。世界一綺麗だよ。俺の自慢の花嫁だ」 「……カイ。もう、恥ずかしいわ」
頬を林檎のように赤らめるミナ。
だが、一度溢れ出したカイの嘘偽りない真実の言葉は、止まることを知らなかった。
濃密な、他者を寄せ付けない愛の粒子が二人の周囲を覆うのだ。
そんな騒がしいテーブルから少し離れた別テーブルでは、どこか似たような状況が展開されていた。
アラン・バティスタ大尉と妻エマ。
二人は世界が二人しか存在しないかのように見つめ合い、甘い言葉を囁き合っている。
「エマ、今日も君は、夜空に咲く一輪の薔薇より美しいよ……」
「アラン、貴方のそばにいられるなら、私はもう何もいらないわ……」
二人の周囲には物理的な壁こそないが、誰も近づこうとしない「絶対防衛圏」が出来上がっていた。
「……あそこも、愛の粒子の濃度が濃すぎて窒息しそうだわ」
近くを通りかかったマリア・サントス少尉が、腕をさすりながら早足で通り過ぎる。
もはやそれはプロパガンダ映えを通り越して、一種の広域破壊兵器に近い。
ユイ軍曹ですら、「あそこは……やめておきますぅ」とカメラを向けるのを諦め、別の獲物を探して千鳥足で去っていった。
アラン・バティスタ大尉と妻エマが展開する「愛の粒子」は、回避不能な広域破壊兵器となって周囲を飲み込んでいた。
通りかかったマリア・サントス少尉が逃げ出すよりも早く、彼女と一緒に飲んでいたラッタナ・シリチャイ大将とジャン・リュック・ベルナール中将がアランに捕まった。
「司令、副司令! 聞いてください、私のエマがいかに素晴らしいかを!」
シリチャイ大将とベルナール中将は、突然の少壮将校による「愛の演説」に気圧されながらも、エマの淑やかな挨拶に相好を崩した。
「アラン大尉、君の熱烈な愛妻家ぶりは艦隊でも有名だが……これほどとはな」
シリチャイ大将が苦笑いしながらシャンパンを口にする。
しかし、話題はアランの予想外の言葉によって、意外な方向へと旋回していった。
「愛といえば、司令! 愛する妻を喜ばせるには、最高の魚が必要ですよね? 私は知っています、お二人が極秘で夜釣りを楽しんでいらっしゃることを!」
その言葉に、それまで威厳を保っていたベルナール中将の眉がピクリと跳ねた。
「……ほう、大尉。貴殿も『道(釣り)』を嗜むのか?」
「実は私もなんです! 実は『大和』の右舷前方120mm砲塔の銃座……あそこが一番海面に近くて、大物が狙いやすいんですよ!」
軍事機密ならぬ「釣りポイント機密」の暴露に、シリチャイ大将が膝を打った。
「大尉、分かっているな! あそこの手すりはロッドを固定するのに丁度いい。ベルナール、我々が先日逃した八州湾のヌシも、あの銃座からだったな」
「司令、あそこは波の返しが複雑ですからね。大尉の言う通り、あの銃座こそが旗艦の至高のポイントだ」
さっきまでの甘い空気はどこへやら、テーブルの上には見えない海図が広げられ、最高幹部と一将校が「いかにして銃座から魚を釣り上げるか」という熱い議論に没頭し始めた。
「……あの、皆様? 今日は結婚式なのですよね……」
マリア・サントス少尉が呆れ顔で声をかけるが、釣り好き軍人たちの耳には届かない。
「アラン、貴方の釣ったお魚なら、私、毎日でもお料理するわ」
エマの追い打ちのような甘い一言に、アランは鼻の下を伸ばしながら叫んだ。
「どうでしょう。ベルナール中将! これが愛の力です! 次の作戦……いえ、次の遠征には妻を同行させてください!」
艦隊司令と副司令は、アランのあまりの壊れっぷりに、もはや将官としての威厳も忘れて笑い転げていた。
旗艦「大和」は、彼らの中で、いつの間にか「巨大な釣り船」としての評価を確立しつつあった。
宴が佳境に入った頃、ガバルディ少将がアナウンスを入れた。
「皆様、今宵の宴は名残惜しいですが、明日は特別な任務が控えております」
ミナは明日、海軍記念病院へと入院する。
そして、中隊員たちは家族と共に、彼らの圧倒的な「個の力」を国家に留めておきたい日和極東連邦による、国力をかけた「二泊三日の極上旅行」へと送り出される。
エースが均質化された部隊を上回るこの世界。
最強のエースを繋ぎ止めるための、それは「おもてなし」という名の新たな戦場だった。
「明日の旅行、楽しみね、ヴォルフ」
「ああ。クリス、今日は早く寝ないとな」
ホテルのロビーで、誰の視線も無いことを確認した二人は深い口付けを交わす。
八州の広大な夜空を仰ぎ、英雄たちの祝宴は、明日への煌めきと一抹の寂寥を湛えながら、静かに幕を閉じようとしていた。
帝国参謀本部極秘文書:第804号付録
「……以上の通り、敵中隊『リヴァイアサン』の所在確認が遅れたことにより、C案(八州湾揚陸作戦)は永久に凍結された。以下は、現地で自害した工作部隊長の通信記録の末尾である。
受信 帝国参謀本部 諜報第四局
発信 日和極東連邦 蒼星郡 潜伏地点
同局第一課
……これをもって最終通信とする。
大東亜秘密警察、及びエウロ武装親衛隊による包囲網は完成した。
逃道はない。
現在、階下からは部下たちの断末魔と、敵捜査官の軍靴の音が聞こえている。
貴様ら、本国の参謀本部に座す『臆病な計算機』どもに告ぐ。
我々は好機を掴んでいた。
この謎の警備体制こそは、リヴァイアサンそのものであったのだ。
今こそC案——3時間の艦砲射撃の上、AAUと呼応した30個師団による夜間奇襲揚陸作戦を決行すべきであった。
『リヴァイアサンとは断言できぬ』だと? その疑念一つで、貴様らは戦争に勝つ唯一の機会をドブに捨てた。
もしあの夜、艦砲射撃で八州を火の海に変えていれば、今ごろ我らは敵エースどもの焼死体の上で凱歌を上げていたはずだ。
貴様らがその保身と『確証』に執着している間に、我ら工作員は地下で犬死にし、リヴァイアサンはさらにその羽を休め、次なる戦場で我ら帝国軍の若き兵士たちを蹂躙し続けるだろう。
無能な上官を持ったこと、それこそが我が人生最大の不運である。
地獄で、貴様らが蹂躙される報告を待っている。
日和の海は、吐き気がするほど黒い。
——三月三日、現地二十時十三分




