第63話 青
ドックの喧騒から離れた士官用宿舎の一室。 支給されたばかりの制服を広げ、三姉妹はそれぞれの感触を確かめていた。
「……随分と、思い切った色使いをなさるのね。軍の規格というより、どこかの騎士団の礼装のようですわ」
マリスが、漆黒の生地に走るブルーメタリックのモールを指先でなぞる。
その所作には、生まれ持った上品さが自然と滲んでいた。
「闇に紛れる黒に、燐光の青。……ふふ、リヴァイアサンという不吉な名に、これほど相応しい装いもありませんわね」
「私はこの上衣が気に入ったわ。ボタン一つ一つがメタリックブルーで可愛いわね」
アンジャリが袖を通しながら、鏡の前で体をくるくると回している。
そこへ、自分の制服を抱えたエルザが、弾むような足取りで二人に歩み寄った。
「アンジャリお姉さま、マリスお姉さま! 見てください、このスカート! 可愛い!」
エルザは鏡の前で裾を揺らし、満足げに微笑んだ。
「ねえ、お姉さま方。これ、式の時も着るの? 副長は正装になるって言ってたけど。正装ってこれ?」
「まさか。式にはドレスを着ていくに決まっているでしょう?」
アンジャリが即座に返すと、マリスも可笑しそうに口元を隠して笑った。
「そうですわよ、エルザ。ミナの晴れ舞台ですもの。私たちも精一杯、華を添えなくては。……新婦より綺麗だったらどうしましょう」
「……! そうでした。ドレスですよね。ふふ、楽しみです。お姉さま方と一緒にドレスを選ぶなんて……きっと、ミナさんも張り切ってるだろうな」
エルザの言葉に、二人は静かに頷き合った。 束の間の休息。
鋼鉄の獣たちが眠るドックの傍らの女性パイロット待機室。
三姉妹は戦士としての鋭い眼差しをしばし緩め、来るべき「家族の門出」に想いを馳せていた。
三姉妹が「ドレス」という言葉の響きに、まだ現実味を持てずにいたその時だった。
ノックの音と共に、軽快な軍靴の音が響く。
「失礼しまーす! 大東亜経済広域圏統合本部 広報部所属。本日より皆様の『トータル・ビューティー・アドバイザー』(リヴァイアサン付き広報官を彼女なりに曲解したらこうなる)を拝命しました、ユイ・ナガセ軍曹でありますぅ!」
入室してきたのは、日和極東連邦出身の、快活な瞳をした女性軍曹だった。
彼女は軍の無骨なはずの制服を、驚くほど大胆に、それでいてどこか「かわいく見せる」ために計算し尽くされた着こなしで、三姉妹の前に立った。
「わあ……本物だ。アンジャリ少佐にマリス大尉、エルザ大尉! 噂以上のビジュアル……これなら『プロパガンダ映え』なんてレベルじゃないですね。世界中のプロパガンダポスターがこれ一枚で過去のものになりますよぅ!」
ユイ軍曹は三人の周りを、まるで獲物を見定める豹のように歩き回り、感嘆の声を漏らす。
「……ユイ軍曹、でしたかしら。その、ビューティー……何とかというのは、一体何の任務なんですの?」
マリスが戸惑いながら尋ねると、ユイはパチンと指を鳴らした。
「マリス大尉、いい質問ですぅ! 明日、皆様には八州の『ロイヤル八州ホテル』へ乗り込んでいただきます。目的は皆様の、ミナ少尉の結婚式参列用ドレスのフルオーダーですわ!」
「フルオーダー? ホテルで?」
アンジャリが眉を寄せると、ユイは熱弁を振るい始めた。
「少佐、お言葉ですが、これは立派な『戦い』なんです! 帝国があんな暫定政府なんてブチ上げた今、我が軍の英雄たちがどれほど美しく、力強く、そして豊かであるかを世界に見せつける必要があるんです。ガチガチの軍服で式に出るなんて、広報担当として、私が許しませぇん!」
「わあ、楽しそう」
エルザが面白そうに目を輝かせると、ユイはエルザの肩に手を置いた。
「エルザ大尉、貴女は特に重要です! その愛らしさと、エースとしてのギャップ。これに最高級のドレスを纏わせれば、帝国兵だって戦意喪失して投降してきますよぉ。明日は丸一日、『戦場』です。覚悟しておいてくださいね!」
「……ふふ。戦場での装束なら沢山見てきましたけれど、ユイ軍曹の言う『戦装束』は、少し勝手が違いそうですわね」
マリスが微笑むと、ユイは不敵に笑い返した。
「マリス大尉、ドレスには装甲はいりませんからね。相手の心を撃ち抜く『武装』です! 明朝、ロビーでお待ちしてます。遅刻厳禁、寝癖厳禁ですよ!」
翌朝、ロイヤル八州ホテルのロビー。
ユイ・ナガセ軍曹は、一分間に十回は腕時計を確認し、三姉妹の登場を今か今かと待っていた。
「……よし、着付け班よし、アクセサリ班よし、メイク班、ヘアセット班よし。あとは主役たちが現れるだけ……」
その瞬間、朝日に包まれているホテル入口の自動ドアが開いた。
新制服に身を包んだ三姉妹が、朝の光を背負って歩いてくる。
ロビーにいた宿泊客たちが、波が引くように道を空け、静まり返った。
「完璧……! 完璧すぎてため息が出るわぁ……!」 ユイが駆け寄り、三人の立ち位置を素早く指示する。
「皆様、おはようございますぅ! 最高の発色、最高の佇まいです。さあ、サロンへ急ぎましょう」
「ユイ軍曹、朝から随分と元気ですわね……」 マリスが圧倒されながらも微笑むと、ユイはサロンの重厚な扉を勢いよく開けた。
並ぶドレスを前に沈黙する三姉妹。
ユイはその沈黙を「歓喜」と捉えた。
「さあ、まずはこのシルクから! アンジャリ少佐、これを。貴女の長い手足には、このマーメイドラインが絶対似合います。……何ですか、困惑しないでください。この薄さこそが、女の武器なんですから!」
「……ユイ軍曹、これ、本当に動けるの? 緊急時に走れるとは思えないんだけど」
アンジャリがドレスの裾を不安げにめくると、ユイはすかさずツッコミを入れた。
「少佐! 結婚式は走る必要も、コクピットに飛び乗る必要もありません! 貴女がすべきは、シャンパングラスを持って、優雅に立っていることだけですぅ。ヒールの重心?シュテルツァーと同じです!」
「マリス大尉、貴女にはこのラベンダーカラーのシルクシフォンです。肌の白さが際立ちます。……ああっ、コサージュをそんな慣れた手つきで扱う拳銃みたいに触らないでください! それはニリ製の最高級品なんですから!」
試着室のカーテン越しに、ユイの鋭い指示が飛び交う。
「エルザ大尉! そのピンクは甘すぎます、こちらの『ペールローズ』に。若さと強さを両立させるんですぅ。……え? 『緊急脱出の邪魔になる』? 却下です! 脱出しなくていいんです。どこに脱出するんですか!」
五時間後。
ユイ軍曹が「さあ、開けますよ!」と声を上げ、カーテンを引いた。
そこには、戦士の殻を脱ぎ捨て、光り輝く色彩を纏った三人の姿があった。
「ああ……素晴らしい。これですよ、これこそが私の見たかった『リヴァイアサンの真実』ですぅ!」
ユイが満足げに、しかしどこか誇らしげに胸を張る。
「どうかしら、ユイ軍曹。……正直、落ち着かないのだけれど ……」
アンジャリが少し照れくさそうに尋ねる。
「少佐、その『慣れない戸惑い』すらもアクセサリーですぅ。皆様、鏡を見てください。世界最高峰の美しき英雄たちですよ。……これなら、街中の男どころか、帝国の全軍を無力化できます!」
「ふふ、ユイさん、お上手ですわね。当日のエスコートも、貴女にお願いしてよろしいのかしら?」
マリスが笑うと、ユイは深く、優雅な礼を返した。
「喜んで、大尉。皆様の輝きを世界に届けるのが、私の使命ですから!」
三姉妹が八州のホテルで「ドレスという名の未知の戦場」と格闘していた頃。
ホテルの一角にある小さな会議室では、カイとミナが結婚式の細かな打ち合わせを行っていた。
その会議室の机の上には、ガバルディ少将が(半ばパニックになりながらも)用意させた、式の進行表や花のサンプル、そして料理のリストが並んでいる。
参謀総長の指名により、『リヴァイアサン結婚式担当将軍』に指名されたガバルディ少将は、ブツブツと呟きながら分厚い書類をめくっている。
「三月一日……海沿いの蒼星郡のビーチリゾート施設内教会で中隊全員と大東亜エウロ統合作戦本部長元帥と、艦隊司令、副司令、オペレーターと、ソルガ中佐の妻と息子。シュミットの両親と兄、アランの妻エマ。参加者リスト良し。エウロから派遣される、私服武装親衛隊員は一個小隊12名、打ち合わせは前日18:00」
「式が終わったら、第一近衛師団の護衛で八州のホテル。移動は全路線閉鎖するから1時間で到着。着付け直しと、コレと、アレ、ああ、これもか。小宴開始が17:00」
「小宴から参加されるのが大東亜外務大臣、エウロ外務大臣時間はちょうどに入室予定。プロパガンダ担当は、広報課と、書読社、賢読社の二社で、報道、広報は、全て翌朝と……大東亜秘密警察との調整が明日と明後日。彼らとの調整は戦場だ。厨房でシェフの邪魔をしかねん……」
そんなガバルディの苦悩には全く気がつく訳が無い、幸せの絶頂にいる二人がサロンで寛いでいた。
「ミナ。この、教会の祭壇に飾る花だけど……ミナの好きな色にしよう。君が選ぶものなら、僕はそれが一番いいと思うんだ」
カイが穏やかな微笑みを浮かべて言うと、ミナは困ったように、しかし幸せそうに首を振った。
「いいえ、カイ。私は貴方の瞳の色に近い、深い青の花がいいと思うの。……だって、貴方が私を見守ってくれているみたいで、安心できるから」
「……そうか。それなら、青にしよう。でも、ミナのドレスに合わせて、少しだけ白を混ぜるのはどうかな? ほら、君は白がとても似合うから」
「ふふ、じゃあそうしましょうか。貴方の意見を取り入れた方が、ずっと素敵な式になりそうだわ」
どちらかが「こうしたい」と言えば、もう一人が「それがいい」と即座に肯定し、さらに相手をより輝かせるための提案を付け加える。
本来なら、軍人の式の準備というものは、多忙な軍務の合間であれば「疲労」や「苛立ち」を原因に揉めかねないものだ。
だが、この二人に限ってはその法則は当てはまらなかった。
「料理は、マライカの伝統的な味を少しだけ入れてもらえるよう、シェフにお願いしてみたわ。……思い出の味、貴方と一緒に食べたいと思って」
「ありがとう、ミナ。……実は僕も、同じことを考えていたんだ。ガバルディ少将には少し無理を言ってしまうかもしれないけど、僕たちの思い出は、あそこにあるからね」
「ええ。……ねえ、カイ。私たち、本当に幸せになってもいいのかしら」
ふと、ミナが不安げに、しかし慈しむようにカイの手を取った。
カイはその手を優しく、力強く握り返す。
「ああ……ミナ、世界中の誰よりも、君を幸せにする。それは、アスラを操るよりも、僕にとっては大事な使命なんだ」
「……ずるいわね。そんなこと言われたら、もう何も言えなくなっちゃう」
二人の間に流れる時間は、硝煙の匂いも、新型機の駆動音も届かない、純粋な静寂に満ちていた。
互いの欠損を補い合うように、ただ相手の喜びだけを優先し合う。
そのあまりの仲睦まじさに、様子を伺いに来たガリアスが青い顔で眉間に皺を寄せながら「……あー、悪い。入りづらすぎるわ」と、声もかけずに退散していくほどだった。
二人の前に控えるのは、数々の名士を接客してきたベテランのブライダルマネージャーと、若手の給仕係である。
彼らは、先ほどまでの三姉妹による「ドレス・バトル」とは別の意味で、戦慄していた。
「……ミナ。この披露宴のメニュー、君が食べたいものを全部入れよう。君が喜んで食べてくれる姿を見られるなら、僕はそれだけでお腹がいっぱいだよ」
「もう、カイ。それじゃあ貴方の好きな物はどうするの?私は、貴方が『美味しい』と言って笑う顔が見たいの。だから、貴方の好物をメインにしましょう?」
「いや、ミナが……」
「いいえ、カイが……」
無限に続く、互いへの献身のループ。
二人の周囲には、目に見えんばかりの輝かしい「幸せの粒子」が漂い、室内の酸素濃度すら変わっているのではないかと思わせる。
「……マネージャー」
若手の女性給仕が、震える手でティーポットを抱えたまま、上司に耳打ちした。
「……私、もう限界です。あのお二人の視線が重なるたびに、胸がいっぱいになって、自分が独身であるという現実が鋭いナイフのように刺さるんです……。お二人の幸せオーラが強すぎます。眩しすぎて、直視できません……」
「……耐えろ。これも我々の任務だ」
マネージャーもまた、額の汗をハンカチで拭った。
「だが分かるぞ。あの方は、あの若さで戦場を支配する『破壊神』なのだろう? なのに、今のあの目を見ろ。愛する女性に何を譲るかということだけに、全知全能を注いでいらっしゃる……。あんなに純粋な『愛』を見せつけられて、無傷でいられる人間などこの世におらん……しかし、重い。さすがは破壊神だ……我々なぞ近くにいるだけで破壊されそうだ(愛のオーラが強すぎて)」
そんな従業員たちの悶絶など、カイとミナの耳には一切届いていなかった。
「あ、ねえカイ。ケーキのカットだけど、二人で一緒にナイフを握るんですって。……なんだか、少し恥ずかしいわね」
「僕たちが、初めて一緒に握るのが武器じゃなくて、ケーキのナイフだなんて。最高じゃないか、ミナ。……練習、しておこうか?」
「ふふ、さすがにそれは当日のお楽しみよ」
二人が顔を見合わせて柔らかく笑い合うたびに、背後で給仕係が「うっ……」と胸を押さえて膝をつきそうになる。
百戦錬磨のホテル結婚式担当たちも、この「破壊神の重すぎる幸せの飽和攻撃」には対抗手段を持たなかった。
そこへ、ちょうどドレス選びという「任務」を終えた三姉妹が、ユイ軍曹を伴って通りかかった。
開いた扉の隙間から溢れ出す、あまりにも濃密な多幸感。
「……あら。あちらも、戦場(打ち合わせ)は佳境のようですわね」
マリスが、頬を染めて見つめ合う二人を見て、楽しそうに目を細めた。
「……お姉さま、あそこに入るには、いつものS-AGDK (シュテルツァー用 操縦席備付 対G加圧身体保護機構)が必要かもしれませんわ」
エルザが、あまりの甘さに呆気にとられた顔で呟く。
初めてのドレスに胸を躍らせる少女たち。
そして、全てを捧げ合う未来の夫婦。
ロイヤル八州ホテルは、リヴァイアサンという「家族」がもたらした、かつてないほど穏やかで、そして残酷なまでに甘い空気に包まれていた。
三月の結婚式を前に、ミナは艦隊に随伴する病院船『瑞穂』にて、定期的な検診を受けていた。
担当医は、かつてメニスカス海上の『瑞穂』の集中治療室で、彼女の命を繋ぎ止めた老練な外科医である。
彼は感応ナノ流体マーカーの子宮断層画像を見つめながら、穏やかに切り出した。
「ミナ少尉。……どうやら、私は君に重大な誤解をさせたままにしていたようだ」
ミナは診察台の上で、衣服を直しながら不安そうに眉を寄せた。
「誤解……ですか?」
「あの時……焼けた鉄棒が君の腹部を貫いた時。私は『妊娠はできない』と言った。覚えているかね」
「……はい。一生忘れることはありません。私の、女としての未来が死んだ日ですから」
「言葉が足りなかった。謝罪させてほしい」
医師は画像を指し示した。
「君の子宮はひどく損傷し、機能は停止している。だが、あの時私は摘出はしなかったのだ。 縫合し、残した。……今のままでは、確かに妊娠は不可能だ。だが、それは『一生』という意味ではない」
ミナの息が止まった。
義手の指先が、無意識にスカートの裾を強く握りしめる。
「現に、かなり不規則ではあっても月経はあるだろう? それは臓器がまだ生きようとしている証拠だ。……ミナ少尉。何度か手術を繰り返せば、君は完全に機能を取り戻せる可能性がある」
ミナの瞳が見開き、あふれんばかりの涙が溜まっていく。
だが、医師の声は軍医としての冷静さを保っていた。
「ただし、条件がある。完全に修復するには、少なくとも一年半の入院が必要だ。その間、君は前線を退き、軍務を離れなければならない。必要な手術の回数は計三回。体への負担も、その後のリハビリも過酷なものになる。……できるかね?入院は絶対だ。理由は、単純な外科手術だけでなく癒着の剥離、組織の再建、そしてホルモン環境の安定化を待つ時間が必要だからだ」
医師は、動揺しているミナの目をまっすぐに見つめて続ける。
「手術は少なくとも3回は必要だ。1回目で癒着の除去と血流の再建、2回目で子宮壁の形成、3回目で産道の機能確認という段階を踏むと思う」
ミナは震える唇を噛み締め、涙を拭った。
一年半。
それは、カイの隣に立てない時間を意味する。 しかし、その先には、かつて夢想することさえ許されなかった「カイとの子供を抱く自分」がいる。
「……はい。お願いします、先生。三月、結婚式が終わったら……いえ、帝国との戦いに一区切りがついたら。私に、その時間をください」
医師はミナの覚悟を受け止め、窓の外に停泊する旗艦『大和』を見つめた。
そして、眼鏡の奥の目をさらに細めて、現実的な助言を付け加えた。
「……ミナ少尉。軍医としてではなく、一人の医師として、君のその甘い認識を訂正させてもらう」
低く、しかし有無を言わせぬ重みのある声に、ミナは弾かれたように顔を上げた。
「『帝国との戦い』だと? 冗談ではない。あのような巨大な国家が、一年や二年で片付くと思うかね。君はその間、ずっとこの身体を放置し、戦場のストレスと振動に晒し続けるつもりか」
「ですが、私は『リヴァイアサン』のオペレーターです! カイの……中隊の目として、私が欠けるわけには……」
「代わりはいくらでもいるのではないか?だが、君の代わりの子宮は、この宇宙のどこにも存在せんのだよ!」
医師の叱咤が、静かな診察室に響き渡った。
彼は立ち上がり、淡く白い光で映し出されたミナの臓器を指し示した。
「いいか、よく聞きなさい。君の臓器が『生きよう』として悲鳴を上げているのは今だ。三月の結婚式……そこがデッドラインだ。式を終えたら、翌日、即座に入院し、最初の手術を受ける。それが私の提示する絶対条件だ」
「結婚式の、翌日に……?」
「そうだ。それ以上一日でも遅れれば、癒着は石のように硬くなり、再生の可能性は永遠に失われる。帝国との決着を待っていたら、君が手にするのは勝利の勲章だけで、君の子宮はもはや動く事は無いだろう」
医師は少しだけ表情を和らげ、しかし逃げ道を塞ぐようにミナの目を見つめた。
「オペレーターとしてカイ少将を支えるのも軍人の務めだろう。だが、彼が本当に望んでいるのは、戦場での君のバックアップか? それとも、いつか平和が来た時に、君と二人で幸せな家庭を築くことか? 英雄と呼ばれる彼に、これ以上の喪失を味合わせるつもりかね」
ミナは返す言葉を失い、ただ涙を溢れさせた。 一年半の空白。
それは、帝国との開戦が予測されるこれからの時期に、愛する人を独り戦場に送り出すことを意味する。
しかし、医師の言う「デッドライン」は、彼女が女としての幸せを掴むための、最後で唯一の細い糸だった。
「……先生。カイと、カイ少将と相談する時間をください。私だけの独断では、決められません」
ミナの声は震えていた。
一年半の離脱。
それは、カイの「目」として死線を共有してきた彼女にとって、半身をもぎ取られるような提案だったからだ。
老医師は、静かに椅子に深く背を預けた。
「相談かね。……よろしい。だが、聞くまでもなく彼の答えは分かっていると思うがね、ミナ少尉」
医師のその言葉には、数多の傷ついた兵士と、彼らを待つ家族を見てきた者特有の、諦念に似た確信が籠もっていた。
「彼は英雄かもしれないが、その本質は、愛する者を失うことを何よりも恐れるただの青年だ。君が『未来』を掴むために戦場を離れると言って、否と答えるはずがない」
「……」
「行きなさい。彼が待合室で待っているらしい」
ミナは深々と一礼し、重い足取りで診察室の扉を開けた。
『瑞穂』の清潔な、けれど無機質な白い廊下を進む。角を曲がった先の待合室に、その人はいた。
夕刻の低い陽光が、窓から差し込んでベンチを長く照らしている。
そこに座っていたのは、支給されたばかりの漆黒の制服に身を包んだカイだった。
肩のブルーメタリックのモールが、夕光を反射して鋭く、けれどどこか寂しげに光っている。
アスラに乗っている時の圧倒的な威圧感はどこにもない。
ただ、大切な人の安否を案じる、一人の男としての静かな背中。
ミナの足音に気づき、カイが顔を上げた。
彼女の潤んだ瞳を見た瞬間、カイは何かを察したかのように立ち上がり、微かに目を見開く。
「……ミナ」
その優しく、包み込むような声。
ミナは、医師に突きつけられた「最後で唯一の希望」と、そのために支払うべき「空白の時間」を思い、カイの胸に飛び込みたい衝動を必死に抑えながら、その場に立ち尽くした。
病院船『瑞穂』のデッキへと続く静かな通路。
カイの隣を歩きながら、ミナは震える声で、医師から告げられた「真実」を一つひとつ言葉にしていった。
子宮がまだ生きていること。
三回の手術が必要なこと。
そして、結婚式翌日に入院しなければ、そのチャンスは永遠に失われるという「デッドライン」のこと。
「……だから、私は一年半もの間、貴方の側を離れることになってしまうの。これから帝国との戦いが始まるかも知れないっていうのに、私……」
ミナが言い終わる前に、カイは力強く彼女の肩を掴み、その足を止めさせた。
向き合ったカイの瞳は、これまでに見たことがないほど、鋭く、そして狂おしいほどの情愛に燃えていた。
「入院するんだ、ミナ。いいや、入院してくれなきゃ俺が許さない。式の翌朝、俺が君をこの病院船まで抱えてでも連れてくるよ」
「カイ……」
「帝国との戦いなんて、どうだっていい。いや、どうにかしてみせる。でも、君の代わりは……世界中のどこを探したって、歴史のどこを掘り返したって、見つからないんだ」
カイはミナの義手を、自分の温かな両手で包み込んだ。
新制服のブルーメタリックのモールが、夕闇の中で二人の境界線を縁取っている。
「一年半なんて、俺たちがこれまで潜り抜けてきた地獄に比べれば、なんてことない時間だ。ミナはここで、未来のために戦ってくれ。……でも、勘違いしないで欲しい。俺は『子ども』のために君をここに残すんじゃない。ミナ、君が……君自身の身体が、少しでも健やかで、健康な体になってくれなきゃ、俺が嫌なんだ」
カイは少しだけ照れくさそうに、けれど子供のような純粋な瞳で微笑んだ。
「それにさ、毎日来るよ。戦争が起きていない時間は、全部ミナに会いに来る。一分でも、一秒でも、だから、一人だなんて思わないで」
その言葉に、ミナの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「……約束よ、カイ。出来るだけで良いの。貴方の顔を見せて。そうじゃないと私、手術の痛みに負けちゃうかもしれないから」
「ああ、約束だ。俺が約束を破ったことがあったかい?」
「クスクス。いつもじゃない?」
遠くで、改修作業を急ぐドックの喧騒が聞こえる。
だが、夕闇に包まれたこの場所だけは、失われたはずの未来を取り戻した二人の、静かな聖域となっていた。




