第61話 神の訓練
一九八四年一月三一日、午前。
日和極東連邦の空は、低く垂れ込めた鉛色の雲に覆われ、刺すような冬の寒風が訓練場を吹き抜けていた。
「絶好調だ」
そう笑うカイ・イサギ大佐の瞳には、数日前までの不調の様子は微塵もない。
アスラのコックピットに収まった彼は、もはや一人の青年ではなく、鋼鉄の巨躯を己の肉体の一部とした「破壊の化身」へと変貌していた。
「じゃあ、チームを分けるぞ。赤チームは俺とハインツ大佐。残りの全員が青チームだ。死ぬ気でかかってこい」
統裁官のシリチャイ大将は、これから屠られる羊を見つめるような、憐れみを湛えた瞳を中隊員たちに向けた。
彼女は小さく嘆息し、破滅の幕を開ける合図を送る。
「……訓練開始」
演習場に、マンガニスの焼ける異臭と、巨大な内燃機関が咆哮する振動が満ちる。
「第一から第四小隊、展開! 狙撃班は後方で任意の配置につけ、アンジャリたちは海側へ! 怪物二人を、このキルゾーンに追い込むしか生きる道は無いぞ!」
ソルガ中佐の鋭い号令が無線を飛ばす。
青チームの布陣は完璧だった。
後方からはガリアス少佐とヴォルフ少尉の『トール』と『ウール』が、120mm滑空ライフルの精密な火線で逃げ道を塞ぐ。
――ズゥゥゥゥンッ!!
――ズゥゥゥゥンッ!!
狙撃ライフルの弾着は少しずつ、二人を予定地域に追い込む――はずだった。
陸上ではオーディンのソルガ中佐と、フェンリルを駆るシュミット、アランが三角形の陣を敷き、海上からはアンジャリとマリスの八脚機『クラーケオス』『クラーケン』が牙を剥く。
だが、その完璧な包囲網を、一筋の「黒い閃光」が切り裂いた。
「遅い」
カイの声が通信機に響いた瞬間、アスラが爆発的な加速を見せた。
通常機の限界を軽々と超える初速。
シュミットのフェンリルが訓練用ブレード振り抜くが、アスラは「消えた」。
「どこだ!? 視界からロスト、……上か!?」
アランが大叫を上げた。
「みんな!隊長が消えた時は上空にいる事が多い!注意しろ!」
高度200メートル。
そこには、背部ブースターを全開にし、雨雲を突き抜けて急降下してくるアスラの姿があった。
「ハインツ大佐、右の狙撃班は任せた!」
「了解した、隊長!」
ハインツの『ルシフェル』が四脚を駆動させ、重力を無視したローラー走行で地を滑る。
――ズゥゥゥゥンッ!!
――ズゥゥゥゥンッ!!
彼は狙撃班の放った120mm弾を、予知に近い最小限の挙動で回避しながら、ソルガの『オーディン』へと肉薄した。
「くっ、俺だって場数を踏んだんだ!この機動に追いつけるか、魔王殿!」
ソルガが144mm試製ライフルを放つ。
ドン!ドン!ドン!
だが、ルシフェルはその火線の隙間を嘲笑うかのように跳躍し、空中で120mmライフルを旋回させながら放った。
パン!
カキーン!
「判定、機体損傷。……ソルガ中佐、戦死。撤収してください」
ミナの冷徹な声。
オーディンの頭部に訓練弾の直撃を受け、ソルガは本訓練第一号の戦死判定に追い込まれた。
「逃がさないよ、隊長!」
エルザの『ワルキューレ』から放たれた有線ミサイルが、降下中のアスラを狙う。
だが、カイは空中でアスラの脚部スラスターを使い急降下する。
しかも、背部スラスターを絶妙に使い、不規則な機動でミサイルをすべて置き去りにした。
ドドゴォ!ドゴオォォ、ドゴオォォン!!
ミサイルは全て虚しく中空で炸裂する。
「左肩、がら空きだぞ」
アスラが着地と同時に144mmライフル『ヴァルキリー』を連射。
パン!パン!
カキカキーン!!
弾道に独特の「歪み」を持つその一撃は、エルザが回避した先を見越して右腕とコクピットに着弾する。
「きゃあっ!? 私の跳躍先を読んでるっていうの!?」
ワルキューレが横転し、戦死判定の赤信号が灯る。
「エルザ機、戦死。撤収してください」
海側では、アンジャリが『スキュラバイト』を起動し、海面を滑走してアスラの足元を掬おうとしていた。
「陸の王者がどこまで海で動けるか、試してあげるわ!」
だが、アスラは海上運用機ではないはずなのに、独立懸架の脚部を狂気的な速度で回し、水面を文字通り「疾走」した。
「スキュラバイトはすごいけど、ギリギリまで挙動隠さないと危ないぞ」
「なっ…水面下から観測できない……!?」
アンジャリが驚愕する。カイは全スラスターと脚部モーターを完全同調させ、アスラを海上を走る魔物へと変えていたのだ。
「アビス・ホールドも試してみるか?」
カイが笑う。
アスラはアンジャリのクラーケオスの懐へ飛び込み、右腕の訓練用パイルバンカーを突き出した。
カキーン!
訓練用ではあるが、確実にアンジャリ機のバイタルパートを貫いていた。
「アンジャリ機。戦死です。撤収して下さい」
オペレーターがミナの声から、マリアの底抜けに明るい声に変わる。
艦隊司令ラッタナ・シリチャイ大将と副司令ベルナール中将は、哀れな子羊達の必死の抵抗を楽しみながら見ている。
「……ハインツ大佐、まだいけますか?」 「…………ああ。このまま包囲してやろうか」
(やりやすい!アスラが、さらに私を高みに導いてくれる!アスラの機動に無理について行く必要なぞ無いのだ)
ハインツの『ルシフェル』は、アスラの隣で機体を滑らかに動かしている。
アスラの超機動についていくために、常に高機動を求められるかと思っていた。
しかし、『自分の動きの範疇で、アスラの敵を射線に入れれば良いだけなのだ』という事にハインツは気がついたのだ。
アスラが正面から切り込んでいく。
アスラに気を取られたマリスとヴォルフの死角を取るのは簡単だった。
カキーン!
カキーン!
カコンッ、ガシャン!
ハインツのパイルバンカーのリロード音が、まるで油断した二機を嘲笑っているかのようだった。
「マリス機、ヴォルフ機。戦死判定です。撤収して下さい」
マリアの声は弾んでるようにも聞こえる。
不意に近接特化の二機――――シュミット中佐機とアラン大尉が同時にハインツに切りつけた。
二人は必殺のタイミングで切りつけた事に、一瞬歓喜した。
シュミットの訓練用ブレードの横なぎと、アランのナックルによるローラーダッシュからの正拳突き抜けが、同時にハインツの機体に吸い込まれる。
ドン!
カキカキーン!
二機の攻撃が当たる前に、シュミット機の後頭部にカイの144mm訓練弾が当たり、アラン機の胸部装甲にはハインツの訓練用パイルバンカーが突き刺さっていた。
そして、崩れ落ちた二機の攻撃は、ゆらりと揺れたハインツの機体には「戦死判定後」も触れる事が出来なかった。
「シュミット機、アラン機。戦死判定です。撤収してください」と再びマリアの声。
「よし、仕上げだ。ガリアスを叩くぞ」
アスラが再加速する。
その背後、ハインツは余裕を持って、ガリアスを探す事が出来た。
「隊長、A-4にガリアスと思われる敵影。ブッシュの中、姿勢低い。注意してくれ」
「アスラ了解」
(なぜ!なぜ分かるんだよ!バケモノどもめ)
――ズゥゥゥゥンッ!!
完璧な射角、完璧なタイミング、完璧な偽装のはずだった。
しかし、ゆらりと揺れたアスラには当たらない。
(隊長は、私の動きを真似たのか!素晴らしい戦闘センスだ)
「ガリアス少佐……チェックメイトだ」
1.3キロ先。
迷彩に隠れていたトールが瞬時に近距離サイトに切り替えライフルを向けた。
だが、その視界には、左右からアスラとルシフェルの訓練用パイルバンカーが迫っていた。
「バカ!訓練でここまで……!うぎゃあ」
ヴォルフが叫ぶ間もなく、アスラとルシフェルの同時突撃が、ガリアスの胸部装甲と背部ジェネレーターを突き破った。
「全機撃破。訓練終了です」
マリアの明るい声が、演習場に静かに響いた。
演習場には、戦死判定を受けて動けなくなった八機の精鋭機たちが、骸のように佇んでいた。
その中央で、黒鉄のアスラと、漆黒のルシフェルだけが立っていた。
ハッチが開くと、カイが元気よく飛び出してきた。
「ハインツ大佐! 最高の援護でしたよ! 俺が突っ込んだ後に、あんなに正確に援護してくれるなんて、本当に戦いやすかったな!」
「隊長。私もだ。こんなにも戦いやすいとは。あと三戦、いや五戦やってもいいな!」
それを聞いた並ぶものの居ないはずのエリート隊員達は泣きそうになっている。
ミナは、記録簿に記された「全機撃破:所要時間4分12秒」という数字を見つめ、静かにペンを置いた。
「……カイ。……良かったね。初めてのバディが、こんなに素敵な方で。さあ、みなさん、まだまだいけますよ。頑張りましょう!」
溢れる笑顔のミナ。
「頑張りましょう!」と弾ける笑顔のマリア。
対照的に、隊員たちはアスラとルシフェルという「超高機動の化け物」を追うのに、実戦の数倍消耗しているのであった。
破壊神の「万全な体調の機動」そして、それに従う「魔王の援護」それは、元帝国最強の精鋭たちを、一日にして「生存の恐怖」へと叩き落とす、絶望的なまでの黒く光り輝く蹂躙だった。
訓練が連日行われるようになると、第41特務艦隊の演習場には、もはや「正常な軍隊」の空気は残っていなかった。
「もう一度だ。今のはアスラに気を取られすぎている。私のルシフェルが見えていないぞ」
ハインツの声には、かつての冷徹さを突き抜けた「熱」が宿っていた。
彼は驚愕していた。
カイという怪物の隣を走るたび、自分の感覚が研ぎ澄まされ、長年停滞していた操縦技術が、まるで10代の若者のように加速的に進化している。
アスラの機動に同期し、その「死角」を埋めるという行為は、ハインツにとって最高難度のパズルであり、同時に至高の官能でもあった。
(……もっとだ。もっとこの男の隣にいれば、私はまだ、誰も見たことのない景色が見える……!)
魔王は、部下たちに休憩を与えるのも忘れて、紅潮した顔で再起動の合図を送り続けた。
一方で、迎え撃つ青チームの面々は、文字通りの地獄を這っていた。
「……はぁ、はぁ、はぁ! 嘘だろ、今のを躱されるのかよ!」
シュミット中佐が叫ぶ。
彼のフェンリルの動きは、以前とは比較にならないほど鋭くなっていた。
回避のタイミング、ライフルの偏差射撃、どれをとってもエウロのトップエースを凌駕する域に達している。
アランとの連携も完璧だった。
二機が阿吽の呼吸でアスラを挟み込み、回避不能な十字砲火を浴びせた。
しかし、その火線をアスラは垂直跳躍で嘲笑い、コンマ数秒の隙を見つけたルシフェルが、シュミット機の後背部を精密なパイルバンカーで突く。
僚機の撃破にコンマ数秒反応したアランの頭部装甲に衝撃が走る。
カキーン。
「判定、戦死……。シュミット中佐、アラン大尉。……あきらめないでください」
ミナの無線が非情に響く。
シュミットはコクピットの中でレバーを握りしめたまま、ガクガクと震えていた。
「あきらめないで……だって? ミナ少尉、俺たちは以前より確実に速くなっている。弾道計算だって、自分でも驚くほど正確だ。なのに……」 「……なのに、あの二人には、一度も掠りさえしない……ッ!」
アランが絶望を吐き出す。
彼らは、世界でも有数の強者へと脱皮しつつあった。
しかし、目の前の壁が、自分たちの成長を上回る速度で「神の領域」に鎮座しているため、一歩も近づいている実感が持てないのだ。
「隊長ー! まだまだ行けますな!」
ハインツが、かつての重厚な威厳をかなぐり捨て、目を輝かせてカイを誘う。
カイもまた、寝不足で隈を作った顔で「もちろんです、ハインツ大佐! 楽しいなあ!」と快活に応える。
その背後で、第四小隊のガリアスは、空になったタバコの箱を握りつぶした。
「ヴォルフ……。聞いたか。あの魔王おじさん、完全に壊れちまったぞ」
「……ああ。隊長に当てられて、自分が強くなれるのが楽しくて仕方ねえんだ。俺たちのことなんて、もう障害物くらいにしか思ってねえよ」
海面上では、アンジャリとマリスの機体が冷却水から蒸気を上げ、力なく漂っていた。
「お姉さま……私たち、実は退化してるんじゃないかしら……」
「……いいえ、マリス。私たちが遅くなったんじゃない。あの二人が、物理法則を卒業しているだけよ」
ミナは記録簿の数字を見つめていた。
隊員たちの反応速度は、訓練前から平均で20%向上し、命中精度も飛躍的に上がっている。
実戦に出れば、一つの旅団を壊滅させられるほどの精鋭集団がここに完成しつつあった。
だが、その精鋭たちが、一様に「自分は無能だ」という絶望的な顔で整備兵に機体を預けている。
「……皮肉なものね」
ミナは独り言を漏らし、銀の指輪を撫でた。 あまりにも高い光の隣にいると、自分の影さえも見えなくなる。
(この「世界一強くて、世界一惨めな精鋭たち」は、本当の戦場に出る時まで、成長には気が付かないのね)
「全機、冷却完了。……次、いきます」
ミナの冷徹な号令が、再び絶望の火蓋を切った。
演習場の中央、他の機体が「戦死判定」を受けて沈黙する中、二機の鋼鉄が火花を散らして舞っていた。
漆黒の魔王『ルシフェル』と、眉間に傷を持つ初老の男、ソルガ中佐の『オーディン』である。
「……信じられん。ソルガ、貴様、今の機動を読み切ったか!」
ハインツの声は、驚愕を通り越し、狂喜に震えていた。
ルシフェルが放つ、回避不能のはずの超至近距離のパイルバンカー。
それをオーディンは、機体をわずかに傾けるだけの最小限の挙動でいなし、ルシフェルの腕が反動で少し下がったと同時に左腕の20mm機銃でルシフェルの頭部カメラを正確に撃ち抜いたのだ。
「ル!ルシフェル戦死!撤収してください」
そのミナの言葉に全員が驚く。
以前のソルガなら、ルシフェルの初撃で爆散していただろう。
だが、今日の彼は違う。
連日、アスラという「神」を視界に焼き付けられ、その隣で神懸かり的な動きを見せるハインツを追い続けた結果、彼の脳内にある一つの殻が音を立てて砕け散ったのを感じていた。
次戦。
「ハインツ大佐……いや、副長! 隊長の隣で走る貴方の背中を、私は嫌というほど見てきた!」
オーディンの144mm試製ライフルが火を噴く。ハインツはローラー走行でそれを躱すが、ソルガはすでにその「着地点」に機体を滑り込ませていた。
「見えている……。貴方が次にどこを踏み、どこで息を止めるのか、今の私には手に取るように分かるぞ!」
ガキンッ!!
鉄と鉄が激突し、激しい金属音が響く。
ルシフェルのパイルバンカーと、オーディンのライフルが一瞬噛み合い、互いの鋼鉄が火花となって散る。
二機は一歩も退かず、泥を跳ね上げながら円を描くように格闘戦を繰り広げた。
かつての「上官と部下」ではない。
そこにあるのは、同じ深淵を覗き、同じ破壊神を仰ぎ見る、対等な二人の怪物だった。
「素晴らしい……。素晴らしいぞ、ソルガ!!」
ハインツはコックピットの中で、子供のように笑い声を上げた。
自分と互角に渡り合い、自分の命を獲りに来る者が現れた。
孤独な頂にいた魔王にとって、これ以上の贅沢があるだろうか。
ハインツの『ルシフェル』が、歓喜に応えるように出力を跳ね上げる。
だが、ソルガの『オーディン』もまた、リミッターを解除されたエンジンの絶叫を上げ、魔王の猛攻を真っ向から受け止めてみせた。
「見ろよ、親父……。あのオーディン、副長と対等にやり合ってやがる」
獲物を待つように機体を地面スレスレに伏せた『ウール』の中から、ヴォルフが呆然と呟く。 「ああ。……ソルガの旦那、ついに化けやがった。あのアスラの無茶苦茶な動きを毎日見せられたせいで、ソルガの『普通』の基準がぶっ壊れちまったんだ」
ガリアスが言う通りだった。
アスラという絶望に晒され続けた結果、彼らの感覚は「神の領域」に調律されてしまったのだ。
ハインツが「遅くなった」のではない。自分たちが「神の速度」に慣れてしまったのだ。
そして、それはソルガだけのものでは無かった。
演習場を見下ろす指揮所では、ミナがその激闘を静かに見守っていた。
「……所要時間、10分経過。ハインツ大佐とソルガ中佐、未だ判定出ず。……両機、互角です」
指揮所の隣で、アスラのハッチを開けたカイが嬉しそうに身を乗り出す。
「すごい! ソルガ中佐。いつの間にあんなに上手くなったんだろう! ハインツ大佐とあんなに長く戦えるなんて、本物のエースだな!」
「貴方が毎日、彼らを死ぬ気で追い回した結果でしょ。カイ」
ミナは苦笑しながら、しかし誇らしげに言った。
この部隊は、もはやエリート集団などという生易しいものではない。
一人の破壊神が一人の魔王を覚醒させ、その二人が、ただでさえ非凡な精鋭たちを「神の領域」へと作り変えてしまったのだ。
「隊長! 見てください、私のソルガを! これこそが、私が求めていた中隊の姿だ!」
無線の向こうで、ハインツが叫ぶ。
その声は、かつての絶望に満ちた「戦いを強制された奴隷」の叫びではなく、最高の戦友を得た歓喜の咆哮だった。
蹂躙されるだけだった子羊たちは、今、牙を剥く狼へと変貌を遂げた。
最強のバディに見合う最強の中隊が完成しようとしていた。




