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第60話 愛

 午後の中隊半休。

 それは、血と油にまみれた戦士達の休息。

 かつて帝国の魔王と恐れられたザハークの面々が駐屯する第41特務艦隊駐屯地通用門は、海からの冷たい風が吹き抜けていた。

 待ち合わせは12時15分。

 だが、10分前には、二人の影があった。


「お待たせしました、ヴォルフさん」

 白を基調とした冬用のワンピースに、純白のロングコート。

 腰まで届く長い髪と、エメラルドグリーンの瞳。

 冬の白銀座の風景の中に溶け込むようなクリスの神々しさに、ヴォルフは心臓が止まるかと思った。


「……クリスさん、綺麗だ」

 思わず口を突いて出た言葉に、クリスは頬を染める。


「あ、ありがとうございます……ヴォルフさんも、ステキ。かっこいいです」

 ヴォルフの顎からは、かつての野蛮な髭は跡形もなく消えていた。

 黒革のロングパンツにブーツ、引き締まった胸板を強調する黒革のジャケット。

 オールバックに整えられたブロンズカラーの髪。

 その彫刻のような顔立ちは、すれ違う八州の女性たちが思わず目眩を起こし、立ち止まるほどの気品を放っている。

 だが、当の本人は自分の魅力に全く無頓着だった。

 そこから軍用巡回バスで15分、さらに鉄道で一時間。

 日和極東連邦の心臓部、首都 八州の『白銀座』に足を踏み入れた瞬間、そこには別世界が広がっていた。

 冬の澄んだ陽光が、歴史ある石造りのビルと最新のガラス建築が混在する街並みを照らしている。

 白銀座。

 帝国の無機質な軍事都市とは対照的な、贅と美が極まった場所。

「私、まだ日和極東連邦語があまり上手くなくて……」


「任せてくれ! これでも特務にいたからな。あ、今もか。帝国標準語、連邦語、ゲルマー語、英語……四大ブロック語は一通り使えるんだ。……あ、軍の話なんて、せっかくのデートにふさわしくなかったな」


「いいえ」

 クリスがヴォルフの手をそっと握った。

「私、あなたのことなら何でも知りたいの。もっと、教えてください」


「はい、喜んで!」

 軍ではエースとして鳴らした男が、初々しいティーンエイジャーのように声を弾ませる。


「ねえ、お願いがありますの。……丁寧語、やめません?」

「分かりました! ……いや、分かったよ。じゃあ、話しながらメインストリートに行こう」

「はい……なるべく連邦語で話しませんか?私、慣れておきたくて」

「あれ、丁寧語は?」

「私は良いのよ、ヴォルフ。フフフ」


 二人は笑い合い、白銀座のメインストリートを歩き出した。

 帝国首都より遥かに進んだ街並み。  

 ショーウィンドウに並ぶ宝石のような菓子、最先端のファッション。

 人々は平和を享受し、華やかな彩りに満ちている。

「へぇ……極東は遅れた国のイメージがあったけど、失礼だったな。帝国首都より進んでるじゃないか」

「私は、物心ついた時からずっと、あそこにいたから……あ、ごめんなさい! 忘れなきゃいけないのに」


 クリスの瞳に一瞬、暗い影が差した。ヴォルフはたまらず彼女を抱きしめた。

 雑踏の中、彼女の震えを止めるように。

「ヴォルフ。泣かないで。私はもう大丈夫……忘れるお手伝い、してね」

「任せてくれ! まずはランチだな。クリス……さん、じゃなくて、クリス。スシやサシミはいけるか? スキヤキやテンプラも定番らしいが」

「スシ、写真は綺麗ね。でも生魚は初めてだから……少し心配かも」

「なら、今日はスキヤキにしよう。ずっと一緒にいるんだ、これから色々試せばいい」

「ずっと……? それって……」

「あ、いや! もちろん君が良ければだ! そんな話はちゃんとした時にしなきゃ。まずはランチだ!」


 老舗のスキヤキ店。

 仲居が手際よく肉を焼く香ばしい匂い。

 割り下の甘い香りに包まれながら、二人は初めてのデートの食事を堪能した。


 その後、ふらりと入った宝飾品店。

 意匠を尽くした重厚な木製扉の向こう、控えめながらも上品な照明に照らされた店内。


「ねえ、ヴォルフ。ここ、とても高いお店よ。……出ましょう?」

「いいんだ。俺はこれでもシュテルツァーのエースだからな。二人の初デートを記念して、何か贈りたいんだよ」


 ヴォルフの「狙撃兵の目」は、クリスの視線が一瞬だけ、ある一点で止まったのを見逃さなかった。

 それは三本の爪で支えられた、一点の曇りもない大粒のダイヤモンド。


「これ、綺麗だな。……君、これをショーケースから出してくれるか?」

「かしこまりました。……ご婚約でいらっしゃいますか?」


 店員の問いかけに、二人の時間は凍りついた。 「はあ!? ……え、あ、いや、なぜそうなるんだ?」

「こちらは婚約指輪でございまして。もちろん、ファッションとしてのご使用も妨げませんが……」


 帝国には「婚約指輪」という風習はない。

 結婚は、親が決める義務でしかなかった彼らにとって、それは衝撃的な概念だった。

 二人は戸惑い、目を見合わせる。「ええと」と同時に声が重なった。


 だが、ヴォルフは店内の静寂を切り裂くように、力強く宣言した。

「……指輪のために言うんじゃない。君が大切なんだ、クリス。出会ったばかりだけど、後悔なんて絶対にしない。……俺と、結婚してほしい」

 その言葉に、クリスの瞳から大粒の涙が溢れ出した。

 ヴォルフは壊れ物を扱うように、彼女を優しく抱き留める。

「嬉しい、喜んで……! はい、私も、ずっとあなたを愛し続けます」

 白銀座の洗練された店内で、二人は初めてのキスを交わした。

 もはや周囲の目など意識の外だった。


 だが、突然沸き起こった盛大な拍手に、二人は弾かれたように現実へと引き戻される。

 彼らは顔を真っ赤にしながら、逃げるように、それでいて離れないように、互いの身を寄せ合った。

「お客様……当店のオーナーより申し付かっております。この指輪にお二人の刻印を入れ、お祝いとして進呈させてください。お代は一切、結構でございます。オーナーからはただ、『英雄のために』とだけお伝えするようにと……」

 ヴォルフは激しく困惑した。シュテルツァーエースとしての矜持から、正当な対価を払おうと食い下がったが、店側は頑として首を縦に振らない。


 実は、彼らの動向を監視していた大東亜秘密警察が、裏で手を回していたのだ。

「英雄に私金を使わせるな。支払いはすべて国家が持つ」

 当局からはそう通達されていた。

 だが、当のオーナーの熱狂は、国家の思惑すらも凌駕していた。

「ふざけるな! 世界の希望、あのリヴァイアサンの中隊員がうちの店に来てくれたんだぞ! 国家の予算だと? 英雄から一銭でも取れるか! この指輪は、俺個人の誇りにかけて贈らせてもらうんだ!」


 夕方。

 完成した指輪を左手薬指に嵌め、二人は駐屯地へ戻った。

 クリスの指には上品なダイヤのリング。

 ヴォルフの指には、ダイヤが邪魔にならないようにリングの内側にダイヤが埋め込まれたお揃いのペアリング。


 駐屯地の食堂。

 そこには、カイとミナが夕食を摂っていた。

 ミナの左手薬指には、かつてカイから贈られた指輪が光っている。

 隣に座ったクリスが、嬉しそうに声をかけた。


「ミナさん、その指輪、婚約という意味だったのですね。ステキです」


 ミナの手が止まった。視線が、クリスの指元へ吸い寄せられる。

「……え?」


 クリスの左手薬指。

 そこにあるのは、明らかに自分と同じ「意味」を持つ輝き。

 ミナは固まった。

 一方のカイは「うん、今日の魚も美味いな。明日は肉だな」と、完全にマイペースだ。


 ミナは恐る恐る、ヴォルフの顔を見た。

 彼は下手な口笛を吹きながら、ハンバーガーを無造作に頬張っている。

 だが、その指にもリングがあった。

「はぁぁぁぁぁあ!? なにそれ、あなたたち!?」


 ミナの叫び声に、食堂を出ようとしていたアンジャリ、マリス、エルザが立ち止まる。

「皆様ごきげんよう、どうしまし……」

「ぎゃぁぁああ! マリス、見てよあれ!」

 アンジャリが悲鳴を上げた。

 他国のファッション誌をチェックしていた彼女たちが、その指輪の意味を知らないはずがない。

「ええええええええ!!」

  エルザが信じられないものを見る目で、ヴォルフの顔面3センチまで詰め寄った。

 ヴォルフの「王族のような美形」と「指輪」のダブルショック。

「ダメです! ヴォルフは私の旦那さんです!」

 クリスが慌ててエルザを引き離す。


「えええええええええええええ!!!」


 食堂中に響き渡る絶叫。

 その中には、ついに事態を飲み込んで口から魚を落とした、カイの驚愕の声も混ざっていた。


 時は少し遡り、カイが記憶を取り戻した日のことだ。

  彼は半ば強引に退院を申し出たが、拍子抜けするほどあっさりと許可が下りた。

 複雑な退院手続きも、費用の支払いすらも必要なかった。

 まるで、誰かが最初から彼が、意識が戻り次第、立ち去ることを知っていたかのように。


 病室の片付けはミナが付き添った。

 手には、サカモトが残していった一通の手紙と、血が乾いて変色した分厚い戦闘記録。

 

 夕闇が迫る駐屯地のカイの自室。

 窓の外では冷たい海風が、まるで誰かの嗚咽のようにヒュウヒュウと鳴っている。


「……話して、ミナ。俺が眠っていた間のこと、全部」

 

 カイは質素なソファーに深く身体を沈め、サカモトが残した手紙の折り目を見つめたまま、独り言のように呟いた。

 その背中に、ミナがそっと温かな掌を置く。

 彼を労わるように、あるいは自分自身の震えを抑えるように。

 やがて彼女は、喉の奥に詰まった苦い澱を吐き出すように、静かに語り始めた。

 あの十二月七日――すべての光が奪われ、世界が形を変えてしまった日の真実を。


「……味方の新兵器『ファフニール』が、グングニルの艦橋を直撃したの」


 その言葉から始まった物語は、地獄そのものだった。

 炎上し、甲板に落下した艦橋。


 サカモト副長が、震える左手を酷使しながら命を散らした仲間たちの家族へ「代筆の死亡連絡」を書き続けたこと。

 ムードメーカーだったタケシが、艦橋落下の直撃を受けて埋葬するための「形」すら残らなかったこと。

 狙撃のエキスパートだったジョセフは瓦礫の重圧に押し潰され、ユキヤは衝撃波によって魂を抜き取られた。


「第四小隊のマイ大尉は……巨大な鉄柱に胸を貫かれて、即死だったわ。シュミット中佐が、彼女の残骸の前で泣き崩れていた……。ニルット少佐は両脚を失い退役。チャルン大尉は左半身に重い麻痺を抱えて教官になった。みんな、奪われたのよ」


 ミナの瞳から、一筋の涙が頬を伝う。

「いつも通信機越しに元気な声をくれたナティカ准尉……彼女は、首が、あり得ない角度に折れて……即死だった」


 カイは黙って聞いていた。

 脳裏に、笑い合っていた戦友たちの顔が一人、また一人と浮かび、そして無惨に砕け散っていく。

 カイは拳を白くなるほど握りしめ、溢れ出す嗚咽を止めるために奥歯を噛み締めた。

 大佐としての、そして一人の男としての鋼鉄の自尊心が、声を上げて泣き叫ぶことだけは辛うじて踏みとどまらせていたが、その目からは止めどなく熱いものが零れ落ち、サカモトの残した報告書を濡らしていった。


 だが、ミナが最後に告げた言葉は、これまでのどんな凶報よりも残酷にカイの魂を抉った。


「……私の脇腹を貫いた鉄棒は、私の『未来』も一緒に奪っていったのよ。私は、もう子供を授かることができない。女性としての大事なもの……子宮を、失ったの」


 ミナは視線を伏せ、震える指先で自分の細い膝を掴んだ。

「カイ、あなたが望むなら……この婚約をなかったことにしてもいい。私にはもう、あなたに家族を贈る事が出来ない。文句なんて言わないから……だから……」


 沈黙が部屋を支配した。

 カイは立ち上がり、座っているミナに覆い被さるように抱きしめた。


「バカだな、ミナ。……生きていてくれて、それだけで嬉しいんだ。俺はミナの内臓を好きになったわけじゃないんだよ」


「バカ……! バカよ、カイ! 意味わかってるの? 本当に分かってるの……っ!? 子供が、あなたの子供を抱かせてあげることが、一生できないのよ!」

 叫び、カイの胸を何度も何度も拳で叩くミナを、彼は逃がさなかった。

「当たり前だろ。分かってる。……俺は、ミナが、あの地獄からこうして生きていてくれたこと。今、こうして抱きしめられる温もりがあること。それだけで、神様に、運命に感謝してるんだ。俺に必要なのは、ミナなんだ」


 ミナの嗚咽が、カイの軍服に吸い込まれていく。

 しばらくして、カイは彼女の顔を覗き込み、少しだけ茶化すように笑った。


「ミナ、泣き止んだ? ……とりあえず、食事にしよう。俺はドクターに止められてるからこの栄養剤だけど、ミナは何が食べたい?」

「……私は、カイと一緒に食べたい。食堂で何か貰ってくる。先に食べないでよ?」


 三十分後、ミナは自慢げにチーズバーガーをトレイに乗せて戻ってきた。

「へへ、いいでしょう? 背徳の味だよ」

「いいな……。明後日くらいには、俺も普通食を食べてやる。ドクターはもう居ないしさ」

「カーイー! ……まあ、止めても食べるんでしょうね。お腹が痛くなっても知らないわよ」


 少しだけ戻ってきた日常の会話。

 しかし、それは脆い硝子細工の上の平穏だった。

「……ミナ、シャワーを浴びておいでよ。俺は次に入るから」

「……着替えとパジャマ、持ってくる。待ってて」

 カイは首を傾げた。

「パジャマ? なんで?」

 ミナは答えず、ただ少しだけ顔を赤らめて通路へと消えた。

 パジャマを持って戻ってきたミナは、カイに着替えの手伝いを求めた。

 義手と義足を持つミナにとって、服を脱ぐことさえ困難な作業だ。

 カイは赤面しながらも浴室へ入り、彼女の背中を支えた。

 手足が不自由な彼女が、戦いとは無縁の『ありのままのミナ』に戻るための、静かな儀式のようでもあった。


 浴室の湿った空気の中で、ミナがぽつりと呟いた。

「ねえ……私、シャワーも好きだけど、湯船も好きなの。でも、誰かが一緒じゃないと、やっぱり難しいんだ。……毎日、手伝ってくれるのよね?」

 カイはひどく赤面しながらも力強く頷いた。「……もちろんだ。ずっとだ」

 カイがシャワーから出ると、部屋の灯りは落とされていた。

 ミナは、カイのベッドの中にいた。

 カイが躊躇してベッドの近くの椅子に座ろうとすると、ミナはシーツの中から細い手を伸ばし、彼の腕を強引に引き込んだ。


「……ここにいて、カイ」

 暗がりの中、シーツの下で二人の肌が触れ合った。

 先に潜り込んでいたミナの目からは、止めどなく涙が溢れていた。

 それを見たカイの瞳からも、熱いものが頬を伝う。

 ミナはもう、涙を隠そうとはしなかった。

 声を上げて泣く彼女を、カイは強く抱き寄せる。

 それは、凄惨な最期を遂げた仲間たちへの鎮魂の涙。

 サカモトが去り、リヴァイアサンが散り散りになった絶望の涙。

 相手の心が、自分と同じ気持ちで、自分と同じ切実さで求めてくれている。

 その確信が得られたことへの歓喜の涙。

 互いが「欠かせない半分」であることを、震える肌が証明していた。


 どちらからともなく、唇を重ねた。

 義手のワイヤーがキシリと小さな音を立て、カイの指先はミナの腹部に刻まれた、鉄棒が貫いた生々しい傷跡をなぞった。

 彼女が失った「未来の器」の場所。

 カイは、幾度もこの世から消え入りそうになった最愛の半身を慈しむように、その肌のいたるところにある傷跡に何度も、何度も唇を寄せた。

 指先から伝わる確かな体温は、彼女が今ここに生きているという何よりの証明だった。


 言葉はもう必要なかった。

 重なり合う肌の温もり、高鳴る鼓動、混じり合う吐息。

 それだけが、この冷たい世界で彼らが手にしている唯一の真実だった。

 失われた機能や、不自由な四肢を超えて、二人の魂はひとつに溶け合っていく。


 かつて艦橋が崩落したあの瞬間に止まっていた二人の時間は、この夜、激しく脈動する愛によって再び動き始めた。

 二人は夜が明けるまで、ただひたすらに、お互いの存在を深く、深く確かめ合った。

 外はまだ冬の嵐が吹き荒れていたが、その小さなベッドの中だけは、春の産声のような熱気に包まれていた。


 翌朝、窓から差し込む薄い光の中で、二人は疲れ果てたように、しかし穏やかな顔で眠りに就いていた。

 悲しみが消え去ったわけではない。

 けれど、互いが唯一無二の半身であることを魂に刻みつけたこの夜を経て、彼らは昨日よりもずっと、前を向いて歩きだすための強さを手にしていた。

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