第59話 記憶
宴の帰り際、ヴォルフとクリスが、名残惜しそうに指を絡め合って歩く後ろ姿があった。
ハインツはそれを見とがめることもなく、ただ一人の父親としての穏やかな眼差しで、微笑ましく見守っていた。
翌朝、新部隊の駐屯地へ向かう前のホテルの食堂。
朝食を摂っていた中隊員全員の動きが、一点を凝視して完全に凍りついた。
「ヴ、ヴォルフ……! お前、そのヒゲ、ヒゲはどうしたんだよ!」
ガリアスが、持っていたジョッキを落としそうになりながら絶叫した。
そこには、トレードマークだった胸元まであったはずの無精ヒゲを綺麗に剃り上げ、見違えるほどすっきりした顔立ちの息子が立っていた。
「え? ……ああ、これか。クリスがさ、『お髭は痛いから嫌いです』って困った顔で言うんだよ。 親父、俺はもう一生、ヒゲなんて生やさねえからな」
ヴォルフは照れくさそうに、だが決意に満ちた顔で顎をなでた。
その瞬間、アンジャリとエルザが手にしていたフォークとスプーンが、皿の上にカチャンと音を立てて転がった。
「……嘘でしょ。ヴォルフって、あんなにカッコよかったの? 泥臭い野郎だと思ってたのに、めちゃくちゃ美形じゃない……」
エルザが信じられないものを見るような目で呟き、アンジャリもまた、どこぞの王族のような気品を秘めた「掘り出し物」に呆然と目を丸くしていた。
ザハークの面々が、ヴォルフの剃り落とされた髭に仰天する前日のことだ。
場所は八州にある陸軍総合病院の個室病棟。
カイが「どちら様ですか?」と口にした瞬間、ミナの頭脳は一九八三年、十二月七日の地獄へ強制的に引き戻された。
あの日の帝都デリ・ガート。
空を覆ったのは帝国の栄光ではなく、味方の誤射による邪龍『ファフニール』の雨だった。
旗艦グングニルの艦橋が崩落した際、焼け落ちた細い鉄棒が、ミナの脇腹を無慈悲に貫通した。
それは単なる外傷ではなかった。
灼熱の鉄柱は、彼女の腹部を焼き、抉り、女性としての根源である「子宮」を、その命の器ごと粉砕したのだ。
義手と義足は砕け、腹には生涯消えない醜い穴が開いた。
「……ミナ、新居には広い子供部屋を作ろう。暖炉のそばで、子供たちが遊べるようにさ」
かつてカイが設計図を描きながら、照れ臭そうに語っていた夢。
その夢の種を受け取る場所を、彼女はあの日、連合軍の失策によって永久に失った。
自分はもう、カイの望む「父親」にしてあげられない。
その絶望を抱え、昏睡から覚めたカイにどう告げればいいのか。
ミナは自分が昏睡から目覚めて二週間、彼の枕元で泣き腫らしたミナを待っていたのは、追い打ちをかけるような「忘却」という名の絶縁状だった。
「……ねえ、カイ。私は子供も産めない。あなたは私のことも忘れた。それなら、私には何が残っているの?」
ミナの震える声は、記憶を失ったカイの空虚な瞳に吸い込まれ、霧散した。
一九八三年、十二月七日の「帝都陥落」。
それは歴史の教科書には「連合軍の完全勝利」と記される。
しかし、旗艦グングニルの甲板を真っ赤に染めた惨劇を知る者にとって、それは神が仕組んだ最悪の冗談でしかなかった。
サカモト副長は、すでにこの駐屯地にはいなかった。
先週、彼は荷物をまとめ、逃げるようにこの地を去った。
かつてカイの背中を支え、中隊の「兄貴分」として豪快に笑っていた男の面影は、そこにはなかった。
「……すまないな、ミナ。俺はAAUへ行くよ」
旅立つ間際、サカモトは包帯の巻かれた左手を、力なく見つめて語った。
ファフニールによる衝撃は、彼の神経を無残に焼き切っていた。
「シュテルツァー教官としての誘いが来たんだ。妻の実家がAAUでな……。不自由な左手でも、教えることくらいはできるさ。だが、お前達のような化け物と肩を並べて戦うエリート部隊は、もう無理だ。……限界なんだよ、肉体も、心もな。娘がいるんだ。高校生で、生意気で可愛い娘がな。金が必要なんだ。軽蔑してくれてもかまわない……」
彼は、手に持っていた戦死した部下たちへの『代筆の手紙の写し』と、『あの日の戦闘報告書』を、意識の戻らないカイのベッドの脇に置いた。
「3月に二大ブロック合同の国葬が行われるそうだ。だがな、俺は出ない。……あんなものは、仲間を殺したプロパガンダ用のお遊びだ。若者たちの死を、次の戦争への燃料に変えるためのな。仲間の魂を見世物にするお遊びなんか見たくねぇ……」
サカモトの背中は、泥を背負ったかのように重く、そして絶望的に孤独だった。
彼は二度と振り返ることなく、煤煙が舞う八州の大通りの向こうへと消えていった。
その絶望の帳尻を合わせるかのように、かつての仲間たちの「現在」が、ミナの胸を締め付ける。
第四小隊のマイは、鉄柱に胸を貫かれ、誇り高い魂をグングニルの甲板へ散らした。
カイの同期で部隊のムードメーカーだったタケシは、艦橋落下の直撃を受け、埋葬するための「形」すら残っていなかった。
狙撃のエキスパートだったジョセフは瓦礫の下で静かに息を引き取り、ユキヤは衝撃波による即死だった。
生き残った者たちの余生も、また戦場より残酷だった。
ニルット少佐は、膝から下を失った。
エリートとしての誇りを、義足の軋む音と共にすり潰し、彼は静かに軍籍を去った。
チャルン大尉は一命を取り留めたものの、左半身に重い麻痺が残った。
かつてミサイルの弾幕を自在に操ったその左手は、今やペンを握ることさえも覚束ない。
彼は「教官」という名の閑職に追いやられ、若者たちに死への片道切符を教える日々を送っている。
ミナ・フェリシア自身も、その例外ではなかった。
腹部を貫通した鉄杭は、彼女の「未来」を根こそぎ奪い去った。
女性として子を成す機能――子宮を失った彼女にとって、この病院の冷たい空気は、まるで墓場の中に立っているかのように感じられた。
「貴女の子宮は傷ついてしまった。子どもを成す事は出来ないでしょう」
何度もリフレインする主治医の言葉。
(カイ……。あなたが忘れてしまったのは、私たちの名前だけじゃない。私たちが一緒に歩もうとした『はず』の、輝かしい未来のすべてなのよ)
ミナは、この日、夜おそくまでカイの枕元に座り続け、喉が枯れるまで語りかけ続けた。
二人が出会ったあの日のこと、揚陸戦艦大和で食べた食事の味、食堂でのプロポーズ。
そして、静かな夜に二人だけで交わした、未来へのささやかな約束。
だが、そのどれもがカイの瞳に火を灯すことはなかった。
医師は淡々と、しかし非情な事実を告げた。 「頭部への強打による記憶障害です。画像診断では脳組織の損傷は回復しています。全身の筋力低下もリハビリで補える。つまり、体は完全に『カイ・イサギ』として完成しているのです。……ですが、失われた記憶については、現代医学では領域外だ。明日戻るかもしれないし、一生このままで、新しい人格として生きていくことになるかもしれない」
いつ戻るか、あるいは戻らないか。その不透明な「永遠」という時間が、ミナの足元を暗い海のように浸食していく。
「カイ、見て。この指輪……あなたがくれたのよ。覚えていない? 私を助けてくれたときのこと、一緒に生きて行こうって言ったこと……」
ミナは震える手で、自分の左手に光る銀の指輪をカイの目の前に差し出した。
縋るような、祈るような視線。
だが、カイは困惑したように顔を下げ、ゆっくりと首を振った。
「……本当に、申し訳ありません。人違いだと思うのですが、そうやって涙を流されるのを見るのは、私の胸も痛むのです……」
カイの言葉は、氷の楔となってミナの胸に突き刺さった。
「やはり、人違いだと思います。あなたは私のことを『カイ』と呼び、愛してくれていると仰る。けれど、今の私にとって、あなたは今日初めて会った親切な看護婦さん、あるいは友達のお姉さんかとしか思えないのです。私があなたのことを知らない以上、その指輪も、婚約の話も……私の事ではない気がするのです」
「……私の、事じゃない……?」
ミナは絶叫しそうになるのを必死で堪えた。
あの日、味方の誤射で腹部を鉄棒が貫いた瞬間、自分は未来を、子供を授かる機能をすべて失った。
それでも生きてこられたのは、目覚めたカイに「お帰り」と言うためだった。
そしてカイは、「私を救ってくれる言葉」をかけてくれるはずだった。
それなのに、目の前の男は、自分たちを繋ぐ唯一の命綱を「他人事」として切り捨てたのだ。
「私を愛してくれたはずのカイは、どこへ行ったの? 心臓は動いているのに、体はここにあるのに……中身が別人だなんて、そんなの、死んでいるのと同じじゃない!」
溢れ出す涙を拭うことさえ忘れ、ミナは崩れ落ちた。
だが、その絶望の底で、彼女の脳裏にアスラの黒鉄の巨躯が浮かんだ。
(……そうだ、ここじゃダメなんだ。清潔なシーツと、薬品の匂いしかないこの真っ白な部屋に、カイの記憶の断片なんて落ちているはずがない)
ミナは涙を拭い、ぎらついた決意を瞳に宿してカイを見つめた。
「カイ。……いいえ、カイ・イサギ大佐。行きましょう。あなたが必要な場所へ、あなたが一番自分らしくいられた場所へ」
「どこへ連れて行くつもりですか?」
「私たちの家よ。鉄と、油と、火薬の匂いがする……アスラが待つ駐屯地へ」
ミナは、困惑し嫌がるカイの車椅子を、折れんばかりの力で掴んだ。
ナースが止めるのも、サカモトがいなくなった虚脱感も、今はどうでもよかった。
たとえ彼がすべてを忘れていても、アスラの操縦桿に触れたその指先が、鋼鉄の振動を通じて少しでも記憶を思い出してくれるかもしれない。
それは、子宮を失い愛する人の心をも失いかけた女が最後に賭けた、あまりにも無謀で、あまりにも切ない「再起動」の儀式だった。
降りしきる雨の中、ミナは自分を「知らない人」と呼ぶカイの手を必死に引き、駐屯地へと突き進んでいた。
「嫌だ! なんでこんな場所に連れてくるんだ。頼むから、私を家に帰してくれ!」
かつて愛機アスラを駆り、単機で帝国軍を震え上がらせた「破壊神」の面影はどこにもない。
今のカイは、未知の軍事施設に怯え、幼児のように恐怖に震える一人の無力な男に過ぎなかった。
駐屯地の入り口が見えた瞬間、ミナはそこに立つ人影を見つけ、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「シュミット! アラン! 助けて! カイが……カイの記憶が、戻らないの!」
友の生還に一瞬だけ顔を輝かせたシュミットとアランだったが、その言葉を聞いた直後、表情は絶望に塗りつぶされた。
「バカな……。記憶がない、だと……?」
「なんということだ。嘘だろ、カイ……!」
そこには艦隊司令シリチャイ大将と、副司令ベルナール中将の姿もあった。
さらに、元揚陸戦艦『大和』のオペレーターであり、新たに第41特務艦隊オペレーターとして着任したマリア・サントス少尉も、かつての戦友との再会を待ちわびていた一人だった。
しかし、彼女の目の前で繰り広げられているのは、再会の抱擁ではなく、変わり果てた英雄の醜態だった。
「離せ! 私はあんたらなんて知らない! 早く家に帰せよ!」
シュミットとアランが必死に駆け寄り、肩を掴んで説得しようとするが、カイは子供のように駄々をこね、泥を跳ね飛ばして暴れ回る。
その無様な姿を、一段高い場所から元『ザハーク』の精鋭たちが冷たく見下ろしていた。
「嘘だろ……。こんな奴が、あのアスラの主かよ」
ガリアスが忌々しそうに吐き捨てる。
かつての最強のはずの敵であり、今や部下として命を預けるはずだった男のあまりの凋落ぶりに、ザハークの面々の間には、失望を通り越した殺伐とした空気が流れた。
その時、ハインツ・ゼ・ゲーヴェアが進み出た。
「……記憶を失ったか。ならば、模擬戦はできるか?」
ハインツ・ゼ・ゲーヴェアの声は、地を這う重低音となって雨の演習場に響いた。
それは問いかけではない。
戦士としての冷徹な命令だった。
先ほどまで幼児のように怯えていたカイの様子が、アスラの前に来た途端、一変した。
目の前に聳え立つ黒鉄の異形――『Y-S01wアスラ』。
右腕部:大質量パイルバンカー
ASPB-602 "Cocytus"
通常の機体が装備するものの1.8倍近い炸薬を用いる特殊仕様。
艦船搭載型パイルバンカーの炸薬を使用。
左腕部:144mm試作汎用自動ライフル
AW-144R "Valkyrie"
連射性、射程、威力において当時の水準を二世代以上追い越しているが、あまりに強力な初速ゆえに弾道に独特の「歪み」が生じる。
重心バランスも劣悪で、狙った場所に当てるには機体制御と射撃計算を同時に、かつ瞬時に行う異常なまでの空間把握能力を必要とする。
肩部:有線誘導4連ミサイルパッド
OMS-04 "Hades"
被弾時の誘爆リスクを考慮せず、ランチャー内蔵式ではなく外部マウント式を採用。
発射後は爆砕ボルトによって即座にパージされ、アスラの機動性を極限まで引き上げる仕様となっている。
世界中でただ一人、カイ・イサギ大佐しか操れない漆黒の破壊神。
その重油とマンガニスの混じり合った、不潔で愛おしい鉄の臭いを嗅いだ瞬間、カイの瞳から混濁が消え、底知れぬ空虚な「深淵」が覗いた。
彼は何かに吸い寄せられるように、無言で、しかし流れるような動作でハッチへと吸い込まれていった。
「開始!」
統裁官のシリチャイ大将の吼え声と共に、四脚の魔王『ルシフェル』が咆哮を上げた。
開始直後に、即発射された右腕に握られた120mmライフルが、訓練弾とは思えぬ衝撃波を伴って火を噴く。
雨を切り裂き、死の直線がアスラの眉間を貫こうとした刹那――。
「……ッ!?」
ハインツの視界からアスラが消えた。
カイの脳は記憶を失っていた。
だが、その「指先」は、レバーの冷たさに触れた瞬間に覚醒していた。
アスラは背部ブースターを限界まで爆発させ、垂直に跳躍した。
それは、帝国エリート機でさえ到達できぬ狂気的なまでの上昇。
高度200メートル、雨雲の底を叩くほどの高みに、黒鉄の影が躍った。
「面白い……。そうでなくては!」
ハインツはルシフェルの四脚を駆動させ、機体を斜めに傾けながら反動を殺し、次弾を装填する。
だが、その頭上から死の雨が降り注いだ。
アスラの左肩に装備された四連装ミサイルパッドから放たれた四発の訓練用ミサイルが、白煙を引きながら不規則な機動でルシフェルを包囲する。
バキィン
パージされたミサイルパッドが爆砕ボルトにより弾け飛ぶ。
「浅い!」
ハインツはあえて回避せず、前進するだけで、迫り来るミサイルを全て回避する。
回避されたミサイルが地面に着弾し、爆風が視界を遮る。
その煙を突き破り、位置エネルギーをすべて破壊力に変えたアスラが、144mmライフルを構えながら猛降下してきた。
ドゴォォォォォンッ!!
地面に激突する寸前、アスラは逆噴射をかけ、着地の衝撃を推進力に変えてルシフェルの懐へ滑り込む。
同時に超至近距離から、144mmライフルが放たれる。
ハインツはルシフェルのパイルバンカーを機体の左に向けて、何も無い空間にパイルバンカーを撃つ。
ドゴォォォォォォォォォォォオン!
ハインツは、パイルバンカーの反動を利用して、カイが放った必殺の至近距離からの一発を回避する。
訓練弾が、ハインツの装甲を掠め、火花が周囲を照らし出し、鉄が擦れる凄まじい絶叫が空気を震わせた。
カキーン
焼けた薬莢が空を飛ぶ。
ハインツは、即座にパイルバンカーを再装填していた。
超至近距離。
互いの装甲が触れ合うほどの距離で、二機は荒々しい円舞を舞った。
ハインツの全身を、未だかつてない戦慄が駆け抜けていた。
(……これだ。これほどの男は、私の全生涯において初めてだ!)
ハインツにとって、戦場における敵は常に「格下」でしかなかった。
蹂躙し、狩り取るだけの対象。
だが、目の前の男は違う。
アスラの機動、その一挙手一投足が、ハインツという存在を上回り、圧倒している。
『こいつは、私より格上だ』
その確信がハインツを絶望させるどころか、老兵の凍てついた魂に火を灯した。
極限の死地において、ハインツの技量はさらなる高みへと、加速的に進化し始めていた。
アスラの機動がさらに加速する。
ルシフェルは必死に応戦するが、雨でぬかるんだ訓練所の窪みに、その四脚の一つがわずかに足を取られた。
ぬかるんだ泥濘に四脚が取られ、ルシフェルの挙動が僅かに乱れる。
コンマ数秒――機体の傾斜を感知した姿勢安定装置が、激しい蒸気音と共に強制修正をかける、その刹那。
カイという怪物は、その一瞬の隙を逃さなかった。
アスラは低重心のローラー走行で地を這い、同時に背部ブースターを爆発させる。
だが、その機首はルシフェルを向いてはいない。アスラはあえて敵のいない「何も無い空間」へと、弾かれたように滑り込んだ。
そこは、ルシフェルが体勢を立て直した瞬間に到達するであろう未来位置であり、完璧な死角。
カイの指先は、ハインツの「次の一歩」……鋼鉄の巨躯が描くであろう軌道を完璧に予見し、先回りしていたのだ。
「……ッ、真後ろか!?」
ハインツがその絶望を察知した時には、すべてが終わっていた。
背後から迫るアスラの右腕が、ルシフェルの心臓部――コックピット・ブロックを精密に、そして容赦なく捉えていた。
カツーン。
雨の演習場に、乾いた、しかし重厚な金属音が鳴り響く。
訓練用のパイルバンカーが、ルシフェルの脇腹へと深々と突き立てられていた。
もし、これが実戦用の超硬杭であったなら。
「魔王」と呼ばれた機体は、今ごろ内部ごと粉砕され、高圧蒸気の噴出と共に鉄の屑へと変わり果てていただろう。
静寂が訪れた。
激しく焼けるマンガニスの異臭と、冷却水の蒸気が上がる雨の演習場。
そこには、自分たちを繋ぐ唯一の言葉――「暴力」という名の対話を通じて、再び巡り合った二人の怪物が立っていた。
「ウソでしょ……ハインツ隊長が、ルシフェルが負けたって言うの?」
「ああ……。断言できる。私のオーディンでは絶対に彼には勝てまい」
「なんて、なんていう動きだ……」
ハッチが開いた。
降りてきたカイは、すっかり以前の面影を取り戻した不敵な笑みを浮かべた。
「……ごめんミナ。ちょっと、目覚めが悪かったみたいだ」
(私の名前を呼んだ!)
ミナの胸に、熱い衝撃が走る。
その言葉が合図だった。
シュミット、アラン、そしてマリア……。
元リヴァイアサンの面々が、我先にと泥にまみれたカイへ駆け寄り、叫び声を上げながら彼を強く抱きしめた。
その喧騒の中、ハインツもまたルシフェルを降り、カイの前へと進み出た。
ハインツは直立不動で敬礼を捧げ、戦士として、一人の人間としての最上級の敬意を口にする。
「……はじめまして、隊長。私はあなたの新しい部下です。ハインツ・ゼ・ゲーヴェア……本日より、部隊の末席にお加えください」
カイはいつものように、屈託のない笑みを浮かべて握手を求めた。
「よろしくお願いします、ハインツさん。カイ・イサギ大佐です。……ねえ、もう一戦やりませんか? あなた、すごく強くて……戦っていて、本当に楽しかったんだ」
「ああ、間違いない! この空気の読まなさ、この戦闘狂ぶり……これこそが俺たちのカイ・イサギ中隊長だ!」
シュミットが涙まじりに絶叫し、カイの頭をこれでもかと、ぐしゃぐしゃに撫で回した。
その光景を眩しそうに見つめるハインツの瞳には、いつの間にか熱いものが溜まっていた。
孤独な頂に立ち続け、誰からも理解されぬ「魔王」だった男が、生まれて初めて自分を軽々と超えていく「高み」を見つけたのだ。
それは敗北の屈辱ではなく、求道者が真理に出会った瞬間の、歓喜の涙だった。
「……おかえり、カイ」
ミナは、義手のワイヤーをキシリと鳴らし、泥と雨にまみれたカイを抱きしめたい。
「ただいま、ミナ」
カイもまた、ミナを抱きしめた。
オマケ
模擬戦から三日。
第41特務艦隊の駐屯地には、奇妙な光景が広がっていた。
かつて帝国の魔王と恐れられたハインツ・ゼ・ゲーヴェア大佐が、軍用ポーチからこれでもかと大量の「錠剤」を取り出し、神妙な面持ちでカイ・イサギ大佐の前に差し出していたのである。「隊長。……今日の、その、頭の状態はどうですか?」
ハインツの声は、まるで壊れ物を扱うかのように慎重だった。
カイは「アスラ」の機体整備を見守りながら、不思議そうに首を傾げる。
「ああ、ハインツさん。おはようございます。今日は少し、こめかみの辺りがズキズキするかな……。今日はちょっと訓練は止めておこうかな」
その発端は、先日の模擬戦直後にカイが漏らした、あまりにも無邪気な「不満」だった。
「いてて……。せっかくの好敵手なのに、頭痛のせいで上手く機体を動かせなかったな。本当、残念だよ」
その言葉を聞いた瞬間、ハインツの端正な顔が驚愕に歪んだ。
(……バ、バカな! 三戦して全て、私が手も足も出ず敗北したというのにか!? 私は……私はあの時、実戦の数倍の気力と技量を振り絞り、文字通り命を削って君に挑んでいたのだぞ!)
ハインツは、あの日アスラが放った「頭痛のせいで鈍い」はずの挙動に翻弄され、完敗した屈辱を思い出す。
自分にとっては生涯最高の立ち回りだった。
それなのに、相手にとっては「頭痛のせいで思い通りに動かない機体」を無理やり操っていた、不本意な結果でしかなかったというのか。
「次はちゃんと、頭が痛くない時にやりましょうね!」
ニコリと笑うカイの背後で、ハインツはそっとこめかみを押さえた。
(……今のは、私という戦士への死刑宣告か? それとも、何か?彼は、私も本気では無いと思っているのか……?)
ハインツは、整備中のアスラを見上げた。
(……最高コンディションの私を子供扱いした男が、病み上がりで『頭痛がする』だなんて。この男が本気で健康になった時、この世界に彼の相手をできる者などいるのか?)
そこへ、ミナが苦笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。
「ハインツ大佐、あまりこの人を甘やかさないでください。放っておくと、すぐに際限なく無茶をするんですから。……案外、頭痛がしているくらいが、ストッパーになって丁度いいのかもしれませんね」
ミナのからかうような言葉に、カイは少し不満げに頬を膨らませた。
「……ひどいなミナ。そこは『今日の動き、いつもよりハリがないわね』とか、少しは心配してくれてもいいじゃないか」
「あら、リハビリ中なんだからそれだけ動ければ十分でしょ? ハインツ大佐だって、わざわざ貴方の相手をして、リハビリに付き合ってくださっているのよ?」
ミナはそう言って、感謝と敬意を込めてハインツに微笑みかけた。
「大佐、カイのリハビリに付き合ってくださってありがとうございます。おかげでこの人も、少しずつ勘を取り戻せているみたいです」
カイは「そういうものかなぁ」と、どこか嬉しそうに、照れくさそうに笑った。
自分の動きを一番近くで見てきたミナに、不調を見抜かれていること自体は、彼にとって心地よいことだったのだ。
一方、ハインツは真顔を崩さぬまま、軍用ポーチから取り出した一錠の胃薬を水なしで飲み下した。
(……ハリがない、だと? リハビリ? あの、神の機動が、リハビリだとでも言うのか……!?)
ハインツは、奥歯を噛み締め胃に広がる苦味に耐えた。
(少尉。あのアスラの猛攻を『ハリがない』の一言で片付けられては、私のこれまでの戦士としての全人生、積み上げてきた技量すらも全否定されるに等しい。……だが、それは口にできぬ)
最強の破壊神を上司に持った魔王の、胃の痛むような苦難の日々は、まだ始まったばかりだった。
「まあ、確かにこの前のカイは、いつもより三割くらい動きが遅かったわよね?」
ミナが、整備記録を眺めながら何気なく言ったその一言は、ハインツの心臓を物理的に握りつぶした。
ハインツは、震える手で自分の愛機ルシフェルの戦闘記録(シミュレート結果)を思い出し、ミナを凝視した。
「……三割? 少尉!今、三割と言ったか? あの、あの機動が……通常より三割も『遅かった』というのか?」
カイは整備工具を小脇に抱え、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「ああ、ミナはよく気がつくなあ。実際、昨日はブースターも三割くらいしか使えなかったんだよ。頭が割れそうに痛くて、加速の G に意識を保つのが精一杯でさ」
「ブースターを……三割……?」
近くにいたヴォルフの手から、スパナが滑り落ちた。
カラン――と乾いた音が、静まり返ったハンガーに異様なほど高く響き渡る。
その場にいた全員の思考が停止した。
アンジャリ、マリス、エルザの三人は、未知の災害から身を守るかのように互いを抱きしめ合い、震えながらカイを凝視している。
背後では、クレーン作業中だったソルガとガリアスが、驚愕のあまり操作を誤った。
二人は中途半端に吊り上げられていた重機材に揃って頭をぶつけ、声にならない悲鳴を上げながら悶絶している。
だが、そんな地獄絵図のような光景にも気づかず、カイはただ「早く体調を万全にしないとな」と、無垢な瞳で空を見上げていた。
「いつもは全部一緒に使わないと、海なんて渡れないんだぜ。四肢のモーターとメインスラスターを完全同調させて、機体重量をゼロにする感覚っていうのかな。昨日はそれができなくて、ただ『普通に』跳んだだけなんだ」
ハインツは、そっと近くのドラム缶に腰を下ろした。
(海を渡るというのは対艦シュテルツァーの性能では無かったのか?ただのスラスター制御だと!?)
膝の震えが止まらない。
自分は、人生最高のコンディションで、心技体のすべてをぶつけ、死力を尽くして戦った。
その結果、相手は「頭痛がひどいから、ブースターを七割カットして、普通に跳んだだけ」の男に、子供扱いされたのだ。
「……ハ、ハハ。破壊神か。帝国参謀本部の見立ては正しかった訳だ」
ハインツの口から、乾いた笑いが漏れた。
昨日のアスラのあの跳躍――高度200メートルへ一瞬で到達し、雨雲を切り裂いたあの狂気的な上昇が、それをブースターで変則的な機動に瞬時に切り替えたあの機動が、カイにとっては「不本意な鈍亀」の動きだったのだ。
ヴォルフは天を仰いだ。
ガリアスは無言でタバコを三本まとめて口にくわえ、火をつけた。
もはや一本では足りない。
「隊員のみんな、頭痛が治ったらすぐにでも全員と訓練できるから、待っていてくれ! たぶん、明日には治ると思うんだけどな」
カイの快活な笑い声が、冷え切ったハンガーに響き渡る。
それは希望の光ではなく、破滅へのカウントダウンとして全員の耳に届いた。
「お、お姉さま……」
「……ええ、海よ。今のうちに海底に逃げるのよ」
「でも、アスラって海上を疾走するって聞きましたわ!」
「……詰んだわね。地球上に逃げ場なんてないわ」
女性陣が絶望に身を寄せ合う中、重機材に頭をぶつけたガリアスが、鼻血を拭いもせずにヴォルフに命じた。
「ヴォルフ。……ハインツ大佐を囮としてぶつけて、その隙に全機撤退するしかねえ」 「親父、正気か!? ……でも、それしか生き残る道はねえな!」
ソルガは呆然と、自分の愛機を見上げた。
「私のオーディン……いや、ザハーク中隊は帝国最強部隊……。フ、笑わせる。あれは恥ずかしい過去だ。そして明日か。明日には、あの怪物が『本調子』に戻ってしまうのか」
ハインツは、自分を「生贄」に捧げようとしている部下たちを力なく睨み返した。
「おい、ガリアス! 私を噛ませ犬として使う気か……! ……いいだろう、だが30秒だ。30秒以上は、全盛期の私であっても絶対にムリだ!」
最強の魔王が、わずか「30秒」の生存を賭けて絶叫する。
その横で、カイだけが「みんな、やる気満々だなあ!」と、さらに笑顔を輝かせていた。
その眩しすぎる光景を見ながら、ザハークの面々はふと思い出した。
中隊再編のための煩雑な指示書と、山のような重要書類。
それらを受け取るために、「俺たちが行く!」と殊勝な顔をして大東亜エウロ軍統合司令本部へ向かった、シュミット中佐とアラン大尉の姿を。
当初は「面倒な事務仕事を率先して引き受けてくれるなんて、なんて責任感の強い士官なんだ」と感謝すらしていた。
だが、今、彼らは気づいてしまったのだ。
カイ・イサギという男の本性は、純粋無垢な「訓練狂」であることを。
そして、あの二人は「三泊四日」という、普段なら誰もが嫌がる出張任務を、この地獄の猛訓練から逃げ出すための免罪符として、喜んで奪い合っていったのだということに。
「……あの野郎ども、逃げやがったな」
ヴォルフが震える声で呟く。
「事務仕事のほうが、隊長の相手をするより命の保証があるってわけか……」
ガリアスが遠い目をして、司令本部がある方角の空を仰いだ。
残された者たちの頭上には、希望に満ち溢れたカイの笑顔と、逃げ場のない「完調のアスラ」との演習という、絶望的な明日が待ち構えていた。
「ハインツさん?」
「……『ハインツ』と呼び捨てで結構です、隊長」
ハインツは直立不動で応えた。
自分を「万全では無い体調」で叩き伏せた怪物への、それは本能的な臣従の礼だった。
「じゃあ、ハインツ大佐。貴方が副長ですよね? 俺が隊長機で突っ込む時、後ろから援護してくれますか?本当に助かるよ。今までの部下には、俺の機動についてこられる人がいなくてさ」
カイは心底嬉しそうに、ハインツの肩を叩いた。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ハインツの脳裏には「死」の二文字が、144mmライフルの弾丸よりも速く着弾した。
「は……? え、えん、ご……ですか?」
喉の奥から絞り出したようなハインツの声に、ミナが追い打ちをかけるように微笑んだ。
「そうなのよ、ハインツ大佐。カイはいつも、勝手に飛んだり海を歩いたり、すぐ全力で走っちゃうから。今までは結局、カイが一人で敵を全滅させて、他の隊員達はカイのいる所からは離れて行動していたんですよ。……よかったわね、カイ。 やっと隣を走れる人が見つかって」
「ああ! これから援護がある戦いができるなんて、本当に楽しみだよ。心強いなあ、ハインツ大佐!もちろん、俺も援護します。よろしくお願いします。人生初めてのバディなんです」
カイのその純粋な、キラキラとした期待の眼差し。
対するハインツの脳内は、未曾有のパニックに陥っていた。
(……バカな! 断じてムリだ!! 魔王と恐れられた私だが、あんな物理法則を無視した機動に追従するなど、人間の域を超えている! 私はもう、ガタが来始めているおじいちゃんなのだぞ!? G(重力加速度)に耐えられるはずがなかろう!)
ハインツは、冷や汗を滝のように流しながら、昨日のアスラの動きを再計算した。
自分は「ギリギリで避ける」ことで生き残ってきた回避の達人だ。
だが、カイの機動は「弾丸より速く移動する」という暴力的な次元。
あんなジェットコースターのような機動に随伴すれば、敵に撃たれる前に、自分の内臓がシェイクされて口から飛び出してしまう。
(しかし……言えん! この、子供のように目を輝かせている破壊神に、『私は無理です、置いていってください』などとは、ザハークの『魔王』としての誇りにかけて絶対に言えん……!!しかし、見てみたい。世界最強の破壊神アスラの隣で見る戦場を。そしてそれができるのは『魔王』の私しかおらぬ…………)
「う……うおおおおお……ッ!」
ハインツは拳を握りしめ、魂の咆哮を上げた。 それは決意の叫びか、あるいは運命への悲鳴か。
「……お任せください、隊長。このハインツ・ゼ・ゲーヴェア……老骨に鞭打ち、地獄の果てまで、その背中を追わせていただきます!」
そのやり取りを遠巻きに見ていたヴォルフが、ガリアスに囁いた。
「なあ親父……副長の顔、真っ白だぜ。あんなに必死な顔、AAUに包囲された時でも見たことねえよ」
「見ろヴォルフ。あれが『神の隣』に立つ代償だ。……今日から副長の食事は、離乳食か液状食に変えてやれ。普通の飯じゃ、明日の訓練のGで全部ぶちまけるぞ」
かくして、帝国最強の魔王は、史上最も過酷な「破壊神の随伴機」としての任務を背負わされることになったのである。




