第58話 邂逅
「さて、随分と遅くなってしまいましたね。お引き止めして申し訳ありません。……ゲストも、あまり待たせ過ぎては機嫌を損ねてしまいます」
ロペス准将は立ち上がり、柔らかな笑みを浮かべた。
「宜しければ、夕食を共にいかがですか? せっかくの機会です、今夜は日和極東連邦の料理をご用意させましょう」
「ガッハッハ! 極東のメシか、興味あったんだよな」
ガリアスが豪快に笑い、沈んでいた空気を吹き飛ばす。
「食べてみたいですね、お姉さま」
エルザが、隣に座るマリスに甘えるように言った。
マリスは妹となったばかりの少女の頭を優しく撫でながら、穏やかに微笑む。
「ええ、そうね。極東の料理は魚が中心なのでしょう? 私はお肉よりお魚の方が好みですの」
すると、マリスの頭を撫でるように手を伸ばしたのはアンジャリだった。
「あら、奇遇ね。私もよ。私たちが『海のシュテルツァー』を駆るからかしら」
その光景を見て、エルザが目を輝かせてロペス准将を振り返る。
「私も、お姉さまたちと同じ『海のシュテルツァー』がいいわ! ねえ、准将のお姉さん。私に『海のシュテルツァー』乗らせてくれませんか?」
「え……? あ、ええと……か、確認しておきますね(海のシュテルツァーって料理あったかしら。何か別名?)」
准将は、エルザの無邪気な問いに少しだけ困ったような顔をしたが、すぐに優しく頷いた。
「さて、皆さん。車の準備が整いました。移動しましょう。ゲストは、既に店で待っていますよ」
読めない極東の文字「蒼雅」と書かれた暖簾をくぐると、そこは外界の喧騒を遮断した、白木の香りが漂う静謐な空間だった。
個室の襖が開かれた瞬間、ハインツの視界に飛び込んできたのは、彼が地獄の戦場を生き抜くための唯一の光――「宝物」の姿だった。
「……パパ! 遅いよ!」
駆け寄ってきたのは、クリス・ゼ・ゲーヴェアだ。
かつて収容所の泥の中で消え入りそうだった少女は、極東の柔らかな着物に身を包み、見違えるほど健やかにそこに立っていた。
「……ああ、クリス。それにエルナ」
ハインツの手からステッキが滑り落ち、畳の上に乾いた音を立てる。
かつてアメリの大地を焼き、「魔王」と恐れられた男の肩が、娘を抱き寄せた瞬間に小さく震えた。
その背中を、ザハーク中隊の面々は静かに見守っていた。
彼らもまた、この一瞬のためにすべてを捨て、汚名を背負って海を渡ってきたのだ。
ソルガも、アンジャリも、そしてエルザも……。
互いに顔を見合わせる彼らの瞳には、誰からともなく、熱く、切ないものが込み上げていた。
その光景を上座で見守っていたのは、第41特務艦隊の首脳陣だった。
包帯の巻かれた胸を労わるように押さえているラッタナ・シリチャイ大将。
そして、その横で車椅子に座り、不敵な笑みを浮かべる副司令ジャン・リュック・ベルナール中将。
「……ハインツ大佐。いや、敢えて旧称の『中将』と呼ばせていただこうか。お初にお目にかかる」
「シリチャイ大将……。グングニルでの悲劇、聞き及んでおります。……不屈の艦隊司令に、敬意を」
「不屈、か。味方の弾で死に損なうのは、軍歴の汚点でしかないがね」
ベルナールが自虐的に笑い、場の緊張を絶妙に解きほぐした。
周囲の席には、一見すると一般客に見える者たちが座っているが、彼らは全員、連合の情報部員だ。
この異例の会談を見守る影の中で、シュミット中佐が重い腰を上げた。
生真面目な彼は神妙な顔で、ハインツの目を見据えた。
「……ハインツ大佐。私は、この戦争で貴方たちの同胞を数多く殺してきた。軍務とはいえ、一人の人間として謝罪させてほしい」
静まり返る個室。
ハインツはゆっくりと手を振った。
「顔を上げたまえ。我々は戦争をしていたのだ。ルールに則ったスポーツを楽しんでいたわけではない。……だが、私からも言わせてほしい。すまなかった。私の撃墜スコアの中には、君たちの大切な人が混ざっていたかもしれない」
「お互い様、ですね」
シリチャイが短く応じた。
どちらともなく謝罪の言葉が続く。
かつての仇敵たちが互いに謝罪し、杯を交わす。
それは奇妙で、しかし言葉にできないほど温かな「儀式」だった。
その沈黙が、彼らの心の奥に澱んでいた憎しみを許しへと変えていく。
「准将、この破格の待遇。そして我が家族への過剰な気配り……。差し詰め『黄金の檻』といったところだろう? だが、案ずるな。そんな檻に入れずとも、我々に帝国へ戻る意思はない。……もっとも、今の我々を信頼しろと言う方が無理な話だろうがな」
「な……! そんなことは……」
ロペス准将は言葉を詰まらせたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「……おっしゃる通りです。我々は、どうしてもあなた方が欲しいのですよ」
准将は、自身の目論見が完全に見透かされていたことをあっさりと認めた。
「しかし、提供したものがすべて事実であることに変わりはない。我々はこの檻に満足しているよ」
懐柔目的の「優しさ」がすべて読まれていたことに狼狽しながらも、准将は同時に、相手がそれを「分かった上で受け入れた」という事実に、深い安堵を覚えるのだった。
雰囲気が和らぐと、シュミットが感嘆の声を漏らした。
「『魔王ハインツ』と、その精鋭『ザハーク中隊』。その名を知らぬ者は連合にはいない。まさか、こうして肩を並べる日が来るとは光栄だ」
「それはこちらの台詞だ」
ハインツが自嘲気味に笑う。
「リヴァイアサンは我らにとって恐怖の象徴だった。我々と君たちが、なぜ直接ぶつからなかったか知っているかね? 我が軍の上層部が、『ザハークがリヴァイアサンと戦えば壊滅する』と判断して避けていたのだ。……実は、私もそう確信していたよ。はっはっは!」
「まさか!」
アラン大尉が驚愕の声を上げた。
「おいおい、アラン! 冗談だって魔王級だぜ、気をつけなよ」
ガリアスが豪快に笑いながら、極東の魚を口に運ぶ。
「ガッハッハ! こいつはうめえ! 魚のくせになんて味だ!」
ハインツは隣に座る妻エルナに耳打ちした。
エルナは優雅に微笑み、顔を真っ赤にして固まっているヴォルフへ声をかける。
「初めまして、ヴォルフさん。……お写真と人柄は、夫からの手紙で拝見していましたのよ」
「はぁ!? ……な、なな、何ですか!? 中隊長……!?」
ヴォルフが狼狽し、椅子から転げ落ちそうになっている最中、エルナは追い打ちをかけるように楽しげな言葉を繋いだ。
「夫から来た手紙にはね、『娘に相応しいエースが私の部下にいる。クリスが気に入るなら、ぜひ結婚させたい』……そう書いてあったんです。私もクリスも、貴方にお会いするのをずっと楽しみにしていたんですよ」
「……っ!!」
絶句するヴォルフの傍らで、クリスと呼ばれた少女は、黄色に近い金髪を一つにまとめ、清楚な出で立ちで顔を真っ赤にして俯いていた。
ハインツが、追い打ちをかけるように重々しく告げる。
「落ち着け、ヴォルフ。私はもう、お前の中隊長ではない……。改めて紹介しよう、娘のクリスだ」
クリスがおずおずと顔を上げ、澄んだ真っ直ぐな瞳で彼を射抜くように見つめる。
「はじめまして、ヴォルフさん。父から、貴方のことはたくさん聞いていました。……あの、私……自分で聞くのも変ですけど、どうですか?」
(色々と言いたいことを考えていたのに、肝心な時に言葉が出てこない。……それにしても私ったら、『どうですか?』だなんて。何を聞いているのよ、私!)
クリスは、人生で初めて許された「恋の始まり」に、爆発しそうなほど高鳴る鼓動を必死に隠していた。
一方のヴォルフは、もはや茹で上がったタコのように顔を真っ赤にし、金魚のように口をパクパクと開閉させるばかりだった。
歴戦の狙撃手としての冷静さは、可憐なクリスという女性の問いかけの前に、完膚なきまでに撃沈していた。
「はっはっは! 准将、すまない。この若者二人はもうダメだ!二人だけ、あの端の席に移動させてやってはくれないか?」
「もちろんですとも! 若い二人の『戦場』を邪魔するほど、私は野暮ではありませんからね」
ロペス准将がケラケラと愉快そうに笑い、二人を「隔離」するための席へと鮮やかに誘導した。
宴が深まる中、ソルガがふと尋ねた。
「……ところで。私たちの新しい隊長、カイ・イサギ大佐とは、どのような人物なので?」
アランとシュミットの目が、一瞬にして遠くを見るような、慈しみに満ちたものに変わった。 「……一言で言えば、馬鹿正直で温かい、太陽のような男ですよ。小細工が一切できない」
「操縦に関しては、間違いなく天才です。彼が目覚めれば、戦場の理が変わる」
ハインツはその言葉を噛み締めるように、心の底から漏らした。
「……そうか。それは、とても楽しみだ」
かつての魔王は、初めて「未来」という名の希望に、穏やかな笑みを浮かべたのだった。




