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第55話 南海の希望

 サルガナス大海の波濤を割り、一隻の揚陸艦が西へ向かって進んでいた。  

 マストの最上段には、誇り高きヴァジュラ帝国の旗ではなく、降伏を意味する純白の旗が、皮肉なほど鮮やかに翻っている。


 船内の空気は、マンガニスの粉塵よりも重く、誰一人として口を開く者はいない。

 皆、昨日ハインツから突きつけられた、帝国の「血塗られた真実」という名の毒に冒されたままだった。


 そんな墓場のような沈黙を破ったのは、ヴォルフ少尉だった。  

 彼は隣に座るハインツを見つめ、震える声で、だが真っ直ぐな言葉を絞り出した。

「中隊長!……オレ、娘さんと結婚するために頑張るよ! あのさぁ、俺、スコアだってこれから……」

 ヴォルフの言葉は、ハインツの短く、重い一言によって遮られた。

「……やる」


「は……?」  

 ヴォルフは、自分の耳を疑った。    

 ハインツは、鋼のような視線を海面の向こうへ向けたまま、静かに続けた。

「娘は、お前にやる」


「は、はぁぁ!? 中隊長、今、なんて……」

「……国に帰れたら、お前に会わせてやろう。それで、娘がお前を気に入るのであれば……幸せにしてやってくれないか」

 その声には、かつて戦場を支配した「魔王」の威圧感はなかった。

 ただ、一人の老いた父親としての、祈りにも似た響きがあった。  

 ハインツはゆっくりと顔を向け、ヴォルフを直視した。

「娘はアデリア人だ。帝国が滅んだとしても、元帝国領には住めまい。大東亜やエウロは分からんが、どちらにしろ見知らぬ土地だ。……それは、戦場で銃火を浴びるよりも、ずっと長く、苦しい戦いになるはずだ」

 ヴォルフは、ハインツの瞳の奥にある「地獄」を見た。  

 昨日語られた、赤ん坊が蹴り飛ばされ、妊婦が踏み躙られるあの地獄。

 ハインツはその光景から娘を救い出すために、自らの誇りも、祖国も、戦友さえも質に入れたのだ。

「……そんなこと、させない!」  

 ヴォルフは叫んだ。

「俺が……俺が守る! アデリア人だろうが何だろうが関係ねえ! 中隊長が守ってきたものを、次は俺が守るんだ!」


「……はっはっはっは!」  

 ハインツは、腹の底から、乾いた笑い声を上げた。  

 その笑い声は、揚陸艦の冷たい鉄の壁に反響し、周囲にいたソルガやアンジャリたちの耳にも届いた。

「お前、会ったこともないだろう? 実物は案外、ガッカリするかもしれんぞ」

「中隊長! スコアは!? 俺、もっと撃墜数を稼いで、認められないと……」

「……そんなもの、もう、何の役にも立ちはせんよ」

 ハインツは寂しげに微笑み、再び海を見つめた。  

 撃墜数、階級、勲章。  

 そんな血で汚れた栄光が、娘のささやかな幸せの役に立たないことなど、ハインツ自身が一番よく知っていた。

「……」  

 ヴォルフは、もはや何の言葉も紡げなかった。 

 自分が陶酔し、追いかけ続けてきた英雄。

 その男が、今、自分に最愛の娘を託そうとしている。  

 会ったこともない、クリスという名の女性。  だが、ヴォルフの胸の中には、その姿が鮮明に浮かんでいた。

 父であるハインツが、その魂を削ってまで守り抜こうとした、清らかな守るべき「聖域」としての彼女の姿が。


 輸送艦は大東亜連邦領サルガナス大海の孤島グアミへ向けて、白旗をなびかせながら進み続ける。  

 ヴォルフは、甲板を打つ波の音を聞きながら、まだ見ぬ彼女への、深く、重い決意をその胸に刻み込んでいた。


 一九八四年一月六日


 ハインツたちの乗った揚陸艦が、熱帯の湿った風を切り裂き、グアミの港へと入港した。

 そこには、彼らが想像していた「銃口を向けられ、連行される光景」はなかった。


 代わりに待っていたのは、白く清潔な軍装に身を包み、穏やかな笑みを浮かべた一人の老将だった。

「――総員、整列!」  

 ハインツの鋭い号令が飛び、揚陸艦の甲板にザハーク中隊の面々が並ぶ。

 白旗を掲げ武装を解いた彼らは、屈辱に唇を噛み、大東亜連邦の兵士たちによる罵倒や拘束を覚悟していた。

 だが、タラップを降りた彼らを迎えたのは、整列した大東亜連邦軍の儀仗隊による、非の打ち所のない敬礼だった。

「ようこそ、グアミへ。ハインツ・ゼ・ゲーヴェア閣下」

 進み出てきたのは、褐色の肌を持つ将星、マリアノ・テオドール大将だった。

 グアミ基地司令である彼は、ハインツの前に立つと、敵意の欠片もない穏やかな瞳で彼らを見渡した。

「……マリアノ大将か。手厚い歓迎感謝する。我々を捕虜収容所へ送るための、せめてもの情けか?」  

 ハインツが不思議そうに訊ねる。

 すると、テオドール大将は破顔して笑った。 「捕虜? 滅相もない。閣下、あちらをご覧ください」

 大将が指し示した港の外海。

 そこでは、漆黒の船体を持つ大東亜連邦の潜水艦が数隻浮上し、ハインツたちの艦に向かって、甲板の乗員たちが帽子を振っていた。


「まさか……護衛、だと?」  

 ソルガが驚愕の声を漏らす。

「うそ!気が付かないわけが!」とマリス。

「そう、護衛です。彼らはAAU近海からずっと、交代で貴殿方の艦隊に随伴し、不測の事態に備えていたのですよ。……私たちは、あなた方を捕虜にするつもりなど毛頭ありません。これは『亡命』。そうでしょう?」

 テオドール大将は、ハインツの横に並ぶヴォルフやエルザたちの、困惑に満ちた顔を見つめた。


「我が連邦の参謀本部は、貴殿方が駆るシュテルツァーの技術を欲しがっております。まぁ、仮に接収したとしても乗れるパイロットなど大東亜にはいないのでしょうが。……ですが、それ以上に。あなた方は今や、世界で最も有名な中隊だ。武士道と誇りを重んじる我が軍にとって、『魔王』とその精鋭たちを迎え入れることは、この上ない光栄なのです」

 大将は一歩近づき、ハインツに右手を差し出した。


「ようこそ、大東亜経済広域圏へ。歓迎しますよ」


 ハインツは、差し出されたその大きな、温かい手を見つめた。  

 帝国の泥の中では、決して差し出されることのなかった「人間」としての握手。


「……驚いたな。東洋の礼節というのは、これほどまでに甘美なものか」  

 ハインツは自嘲気味に呟きながらも、その手を強く握り返した。


 ヴォルフは、潜水艦から振られる手を見つめながら、隣のハインツを見た。  

 中隊長の横顔に、ほんのわずかな、だが確かな安堵の兆しが見えた気がした。

 ソルガだけは、大東亜の優しさの裏に何かを感じて警戒を解く事ができなかった。

「……中隊長、俺たち。本当に、捕虜じゃ無いんだな」  

 ヴォルフの呟きは、南国の青い空に溶けていった。  

 屈辱の果てに待っていたのは、絶望ではなく、見たこともないほど明るい「光」に見えた瞬間だった。

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