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第54話 分たれる未来

 メドム基地のドックの近く。

 ビーチ沿いの士官専用バー(ガンルーム)。

 磨き上げられた重厚なマホガニーのカウンター、琥珀色の光を湛えるグラス。

 ここは帝都のサロンをそのまま切り出したような、品の良い静寂が守られている場所だった。


 ハインツ・ゼ・ゲーヴェア中将は、独り、カウンターの隅でブランデーを煽っていた。

 机上には一枚の写真。

 娘クリスの無垢な笑顔が、高級な蒸留酒の香りに包まれている。


 ハインツは、誰に声をかけたわけでもなかった。

 事実、一人で「帝国崩壊という事実」と向き合う時間が必要だった。

  だが、重厚な防音扉が次々と開き、中隊員が集まってきた。


 まず姿を現したのは、副長のソルガ・ユルヴァ・ストリクス中佐だ。

 眉間の傷を深く刻み、悲痛な沈黙を纏っている。

 続いて、帝国が消滅した事実に隠しきれない落胆を滲ませるヘルガ・バルムンク大尉。

 普段はどこか飄々としているジュリアン・ノール中尉は、影のある表情で壁際に身を寄せた。

  さらに、ガリアス・ヴォルカス少佐と息子ヴォルフ少尉。

 親子で死線を越えてきた二人の足音は、奇妙なほど同期している。

 幼さと壊れそうな美貌が、今は暗い影に支配されているエルザ・シュタイン大尉。

 そして不安なのか、お互いに手を繋いで現れたのは、アンジャリ・サマセット大尉とマリス・アイスグリム中尉。。


 ハインツは、堰を切ったように笑い始めた。

「ハッハッハッハ! ……結局、ここに集まるわけか。よかろう、そちらのテーブルに移るとしよう」


 全員がアルコールが入った液体に口をつけたのを合図に、最年少のエルザが、震える声を押し殺して口火を切った。

「私……ちゃんと聞きたい。帝国はどうなるのか。そして、なぜ隊長は、あんなにあっさりと、国を捨てることを決められたのか」


「……閣下。秘密の独り占めは感心しませんな」

 ソルガが、エルザの動揺を覆い隠すように、ハインツの空のグラスを指先で弾いた。

 硬質な音が、静寂の支配するバーに響く。


 ハインツは顔を伏せたまま、ボトルに再び手を伸ばした。

「エルザ……それは難しい質問だ。私は、ただ臆病なだけなのだよ」


 隊員たちは返す言葉を持たず、無言でグラスを傾けた。

 祖国消滅という冷徹な現実は、喉を焼くアルコールを以てしても紛らわせることはできない。

 ガリアスはただ杯を重ね、ヴォルフは鎮痛な表情でハインツをチラチラと見ていた。

 アンジャリとマリスの姉妹は鮮やかな色の飲み物を選び、静かに杯を重ねていた。

 今はただ、逃げ場のない絶望を含んだ空気に沈んでいた。


「……帝国は死んだのね」

 エルザが皆の様子を見て、ぽつりと呟いた。

 その声は、一九歳の少女そのものの、か細い響きだった。


 酒が進むにつれ、ガンルームの空気は重苦しく、しかし濃密に結束していく。

 かつて第二次世界大戦でゲルマーでトップエースとして君臨したハインツ。

 彼は、祖父がアンギュラ・ヴィンクト最西部の街のアザリア人であった。 

 彼は「アザリア系ゲルマー人」だった。

 アザリア人はエウロ圏内では差別など無い。

 むしろ、アザリア人が差別の対象であろうなど、考える人は居ないであろう。

 それがエウロ圏の常識であった。

 彼は帝国を知らないまま、帝国に亡命した事で家族もろとも地獄に叩き落とされる事になる。

 そして、アザリア人として迫害され、家族を救うためにこの国に魂を売った怪物。


 ハインツは、四杯目のグラスを飲み干すと、ゆっくりと隊員を回した。

 その瞳には、酔いなど微塵も感じられない。

 魔王の威厳を湛えた射抜くような眼光が、部下たち一人一人の顔をなぞっていく。


「……お前たちに話すことがある」


 ハインツは、娘の写真をそっと裏返した。 その一動作が、物語の幕を引く合図だった。


「一日、考えろと言った。……だが、その前に一つだけ、お前たちに教えておかねばならんことがある」


 ハインツは古びたステッキを両手で握りしめ、かつて自らがその身を置いた「ゲヘナ内陸部・収容所」の光景を、呪詛のように紡ぎ始めた。


「お前たちが信じている『アゼリア人差別』は、洗練された都の、せいぜい不自由な暮らしのことだろう。だがな、ゲヘナの内陸部は違う。……あそこは、神が作った地獄ではない。人間が、人間を効率よく絶滅させるために設計した、巨大な屠殺場だ」

 ハインツの声が、湿ったドックの空気に重く沈み込む。


「そこではな、アザリア人の結婚も、妊娠も、法で禁じられている。理由は一つだ。そもそもが絶滅政策だ。増やしてはならないのだ……もし、妊娠が発覚すればどうなるか知っているか? 親衛隊の連中が、その女の腹を軍靴で、中身が弾けて混ざるまで……徹底的に踏みにじるのだ。絶叫すら許されん。それが、お前たちが守ってきた『帝国の法』だ」

 エルザが「……っ」と短く息を呑み、血の気が引いた顔で自らの腹部を抱えた。

 だが、ハインツの独白は、容赦なくその鼓膜を打ち続ける。


「水分に反応して爆発するマンガニスの原石をな、まともな道具もなく、素手と錆びたスコップで掘り出す。指が弾け飛び、手首から先を失うのは日常だ。……掘れなくなればどうなると思う? 使い道のない屑として、その場でこめかみを撃ち抜かれて終わりだ。……あるいは、監視兵が退屈しのぎにサッカーをするように、0歳の赤ん坊を蹴り飛ばして遊ぶ。……埋葬? そんな贅沢、あるはずがない。同胞の死体はそこら中に転がされ、蛆が湧き、死体を求める虫たちが無限に群がる。……それが、私の居た、私たちの見てきた『日常』だ」

 ドックの広大な空間が、真空になったかのように静まり返った。  

 ハインツの瞳は、目の前の部下たちを見てはいない。

 泥の中で血を吐きながら死んでいく子供たちの、同胞の、光の消えた瞳を見つめていた。

「……お前たちの言う『帝国軍人の誇り』は、この地獄の上に築かれた砂上の楼閣だ。お前たちが凱旋パレードで浴びていた喝采は、その裏で殺された万のアザリア人の断末魔でかき消されている。……私はな、妻を、娘を、あの地獄からすくい上げるためだけに軍に入ったのだ。帝国に忠誠などあるわけが無い」


 沈黙。  

 それは、誇り高く生きてきたエリートたちの魂が、自らの誇りの土台としていた何かが、根底から腐り落ちていく音だった。


 副長ソルガは、立っていることすら困難な衝撃に、壁を背に崩れ落ちそうになった。

 彼が磨き上げた「軍人の誇り」は、この酸鼻を極める虐殺の隠れ蓑に過ぎなかった。

 自分が捧げてきた忠誠のすべてが、汚物のように感じられ、激しい吐き気が彼を襲った。


 アンジャリとマリスは、互いの肩を抱きすくめながら、ただ立ち尽くしていた。

 マリスは、赤ん坊が蹴り飛ばされる光景を脳裏に描き、耳を塞いで蹲った。

 彼女たちが抱いていた「アゼリア人に対する不当な扱いへの憤り」がいかに無知で、甘く、平和なものだったか。

 その事実が、刃となって隊員たちの胸を切り裂いた。

 ガリアスとヴォルフは、互いに顔を合わせることさえできず、ただ目の前の酒を見つめていた。

 その二人の瞳は、大きく見開かれていた。

 ヴォルフは、ハインツがかつて語った「娘を幸せにしたい」という願いの重さを、今、本当の意味で、心臓が握り潰されるような痛みと共に理解した。


「……私が、帝国に忠誠が無い理由は分かっただろう。君たちは、祖国の為に命をかけて戦っていた。私は『家族を地獄の炎で焼く』という人質を取られていたから戦っていたに過ぎないのだよ」


 ハインツは、絞り出すような声で最後の一言を投げた。


「すまなかったな。お前たちの誇りを穢す事は分かっていたのだ。だから今まで言わなかった……明朝だ。……それまでに、自らの心と、しっかりと対話をしろ。私に着いて来ても、待つのは絶望かもしれん」


 ハインツはステッキを突き、背を向けてバーを後にした。

 残された八人の精鋭たちは、自分たちの足元に、今まで見たこともなかった「暗黒の奈落」がぽっかりと口を開けているのを、ただ愕然と、そして無言で見つめ続けるしかなかった。

 その「暗黒の奈落」は絶望的に深く、そして、とても不浄なものだった。


 ステッキの音はもう聞こえなかった。


 自分たちが信じてきた「魔王」が、初めて見せた、あまりにも人間臭く、あまりにも救いのない「過去と真実」。  

 彼が去った後のテーブルは、絶望的に静かだった。

「一日考えろ、か……」  

 ガリアスの震える声が、重苦しい空気を切り裂いた。

 その場にいた全員が、自分という「誇り高き帝国軍エース」という存在が足元から崩れ去る音を聞いていた。


 地下通路の薄暗い一角で、激しい衝突が起こった。

「……正気なの、アンジャリお姉さま!?」  

 マリスの叫びが壁に反響した。

 彼女はアンジャリの胸ぐらを掴み、その瞳には燃えるような憎悪が宿っていた。

「あいつらは、大東亜は、シグルドさんを殺したのよ! 私たちの仲間を、基地を、全部めちゃくちゃにした奴らよ! なぜその軍門に降るなんて言えるの!? 復讐しないなら、死んだ人たちは何のために戦ったのよ!」


「黙りなさい!」  

 乾いた音が響いた。

 アンジャリの手が、マリスの頬を弾いていた。 

 マリスの顔が横を向き、一瞬の静寂。

 直後、マリスは泣き叫びながらアンジャリの頬を叩き返した。


 二人は暗い通路で、何度も何度も平手を打ち合った。

 軍人としての洗練された動きではない。

 ただの、行き場のない悲しみをぶつけ合う子供のような殴り合いだった。


「痛いでしょう!? これが、私たちが奪ってきた人たちの痛みよ!」  

 アンジャリがマリスの肩を強く揺さぶり、壁に押し付けた。

 二人の顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。 「シグルドは……あの人たちは、戦争犯罪で殺されたわけじゃない。正々堂々と戦って、そして負けたの。……私たちが沈めた大東亜の船にも、エウロも、AAUにも誰かの『大事な人』がいた。『スコア』と言って足していた数字一つ一つに!私たちが泣いているのと同じ数だけ、私たちは悲しみを作ってきたのよ……!」

 アンジャリの叫びに、マリスの目が大きく見開き、力がふっと抜けた。

 マリスはアンジャリの胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。

「……ああ……ああああ……っ!」

「私は……私は……恨むのは、もう……おしまい。恨むのは簡単よ。でも、私たちは生き延びてしまった。シグルドは……生きることを望んでくれているはず。私は……中隊長に、あの寂しい人に、ついて行く」  

「あなたも、よく考えて決めなさい」

 マリスはアンジャリの胸に顔を埋めたまま、しばらくの間、微動だにしなかった。

 やがて顔を上げたその瞳には、先ほどまでの憎悪ではない、どこか澄んだ覚悟が宿っていた。

「バカ!お姉さまと離れられるわけ、無いでしょう!うっうっうっうううう」

 二人は暗闇の中で抱き合い、流した涙と共に、重い復讐の鎧を脱ぎ捨てた。


 ソルガは自室の机に、愛用の拳銃を置いていた。  

 彼はエリートとして、帝国の軍律を骨の髄まで叩き込まれてきた。

 国を捨てる。

 その考えは、息子を殺された時から、頭には何度もよぎった。

 しかし、実際に国が無くなるとはどういう事か。

 彼はゆっくりと銃を取り、銃口を自らのこめかみに当てた。

 冷たい鉄の感触。指がトリガーにかかる。

 だが、その時、ハインツが先ほど語った言葉が繰り返し再生される。


「……もし、閣下の言葉が真実なら」  

 ソルガは鏡の中の自分を睨みつけた。

「『もし真実ならば』俺が捧げてきた忠誠は、ただの虐殺の片棒だったのか? 真実ならば、俺はそれを許さない。……死んで逃げるのは、その罪から目を逸らすことか?」  

 彼は銃を下ろし、深く息を吐いた。

「俺は死なない。……死んで楽になろうなぞ、参謀本部と同じだからな」  

 鏡の中には、帝国軍人の誇りを捨て、一人の「男」に命を預けることを決めた、一人の武人の顔があった。


 エルザは、ベッドの上で天井を見つめながら、豪奢な装飾が施された自らの軍服の襟を、指でなぞっていた。  

(どうしようかな。私は国なんてどうでも良い。この中隊は居心地が良いの。人数が多い方に着いて行こうかな)

 エルザの頭には、今は関係のないはずの、自分の過去に意識が囚われていた。

 一人で考えるというのは、あまりに孤独だった。

 そう、私はずっと、一人だった。

 名門シュタイン家の令嬢――そんなのは、ただの便利な飾りでしかなかった

 9歳の時、両親が亡くなった。

 親戚をたらい回しにされ、辿り着いたのは孤児院。

 12歳で、転機が訪れた。

 シュテルツァー適正審査で、天才的な結果を叩き出したのだ。

 シュタイン家に養子に取られ、「過去」を抹消され実子となった。

 しかし、養子になって住むことになったのは、帝国軍のシュテルツァーパイロット養成幼年学校の寮。

 書類上の親に会ったのは、受勲する時だけ。

 だから、顔も覚えていない。

 

 彼女は、外の通路から聞こえて来るアンジャリたちの慟哭を薄い壁越しに聞いていた。

「お姉さまたち……あんなにボロボロになって……」  

 エルザは、自分が初めて「家族」と呼べる存在を見つけたことを確信した。

「国なんて、どこでもいい。……私は、お姉さまたちと一緒にいたい。多い方に着いていくなんて嘘。……私は、私の家族がいる場所へ行くわ」


 中隊の揚陸艦が停泊しているドックの隅に、海賊の影が二つあった。

「ヴォルフ。俺は決めたぜ!先祖と同じように略奪で生きてくんだ。とりあえず、帝国軍がいるアエテルナに行ってよ、アエテルナは帝国軍で占拠されてんだろ?そこから仲間ぁ見つけるのよ!」

「親父!略奪と暴力で生きていくのが海賊だってのかよ。……ダセェよ!」  

 ヴォルフの言葉に、ガリアスの拳が飛んだ。

 ヴォルフの体が吹っ飛び、積んであったドラム缶にぶつかる。

「ヴォルフッ……! お前、何様だ! 俺たちの先祖はそうやって生き抜いてきたんだ!」

「……でも、母ちゃんはそんなこと望んでなかったはずだ!」

 ヴォルフは立ち上がり、父親の胸ぐらを掴み返した。

 彼の瞳からも、熱い涙が溢れていた。

「さっき、中隊長から聞いただろ!あんたも!帝国がアゼリア人に何をしてきたか……『海賊』も同じだ!汚いんだよ! 略奪?略奪なんて最低だぜ!俺は、そんな略奪の歴史の一部になりたくねぇ!」  

 ガリアスは再び拳を振り上げたが、息子の真っ直ぐな瞳を見て、その手が止まった。

「……親父。俺は投降する。中隊長の娘さんを、まだ嫁にもらってねぇんだ。俺は、先祖だの国だのより、そのチンケな理由のために生きてぇんだよ!」

 ガリアスは、振り上げた拳をそのままに、わっと声を上げて泣き出した。

「……おめぇ……お前よぉ……」  

 ガリアスは息子の頭を乱暴に殴りつけ、それから強く抱きしめた。

「……ごめんなぁ、母ちゃん。……海賊なんて、バカなこと言うんじゃなかったな。……ああ、ヴォルフ。収容所でも地獄でも、息子と一緒がいいやな……」


 十二月二十五日午前九時。

  メドム島の空気は、不気味なほど静かだった。  ドックに集まった彼らの顔は、多種多様に歪んでいた。

 だが、その瞳には、昨日までの迷いはなかった。

 ヘルガとジュリアンは、ハインツから離れた場所に立っていた。

「私は……自分で真実を確かめに行く。嘘だったら、私はあんたを殺しに行くわよ、中隊長」  

 ヘルガは吐き捨てるように言い、ジュリアンは冷笑を浮かべてハインツを蔑んだ。

「……さようなら。戦場で会う事があったら、貴方の首を獲ってあげますよ」

 ハインツは何も言わず、ただ深く頷いた。 「……ご苦労だった。……それぞれ地獄かもしれないが生きろ…………」

 白旗を掲揚したシュテルツァー揚陸艦が西へ進路をとった。

 一方、ヘルガとジュルアンは、『元仲間』を見送る事もせず、自軍の駐屯地司令部であった場所にへ向かうのであった。

 それは、国を捨て、名誉を捨て、ただ「人間」として生きることを選んだ者たちの、悲痛な、しかし力強い羽ばたきだった。


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