第51話 盤外のオーバーロード
一九八三年十月
帝国。
帝都デリ・ガート、帝国軍参謀本部。
石造りの重厚な会議室には、もはや冷徹な知略の響きはなかった。
飛び交うのは、喉元を掻きむしるような悲鳴と怒号である。
「なぜだ! なぜ誰もあの『リヴァイアサン』を止められなかった!? 百九十キロだぞ! わずか数時間で、我が帝国のヌグメーダ首都守備隊を降伏に追い込んだというのか!」
参謀総長が拳で机を叩き、ペン立てが激しく踊る。
「ヌグメーダ全域が降伏……。奴らが次に手を伸ばすとしたらターナー島しか無い! あそこを奪われれば、我々の帝都デリ・ガートは奴らの砲火に晒されるのだぞ!」
情報将軍が、青白い顔で最新の配備図を広げた。
「……AAU戦線に展開している主力部隊は、停戦条約の履行と戦線整理に手を取られ、即座には動かせません。今、本国周辺で集結可能なのは……」
「出せ! 予備役だろうが訓練兵だろうが、ありったけをターナー島へ送り込め!」
「それが……集められる部隊のほとんどが、『二線級部隊や予備役』です。もはや、旧時代の鉄屑に等しい旧式機ばかりです。これでは奴らリヴァイアサンの新型には……」
その言葉に、会議室が凍りついた。
最新鋭機を揃えた精鋭たちは、いまや遥か遠い占領地やAAUとの停戦境界線に散らばっている。
帝都を死守すべき最後の盾が、骨董品に近い旧式機であるという冷酷な現実に、誰もが絶望を噛み締めた。
なぜ、本国に精鋭や総予備を留めておかなかったのか。
その理由は、帝国の防衛ドクトリンそのものにあった。
本来、「有事の際に本国へ緊急展開するはずの最精鋭」は、その全てがヌグメーダに駐屯していたのだ。
本国に不測の事態あればヌグメーダから、ゲヘナ大陸周辺であればケマネアリの総予備が即座に救援へ駆けつける――鉄壁を誇ったはずのその運用思想は、今や完全に破綻していた。
救援に向かうべきそれらの大軍は、第507特務中隊という「異物」の手によって、既にこの世から消滅させられていたのである。
「……ハインツを。ハインツを呼び戻すか?」 誰かが掠れた声で呟いた。
だが、参謀総長は首を横に振った。
「魔王を呼び戻せるのか?」
「いいえ、奴は今、スーメム港を出て、サルガナス大海上の海軍拠点メドム島に向かっています。 我が軍最強中隊とのプロパガンダが絶大に効いているのですが、大東亜に派遣するという情報は既に垂れ流されております。サルガナス大海は殆ど大東亜の勢力圏ですし、停戦がなったと言ってもAAUも、ハインツが乗っている輸送船と分れば必ずや『誤射』するでしょう。細心の注意を払っての航海です」
「何が言いたいのだ!」
「ハインツに命令を届けられるのは、一ヶ月後のメドム寄港まで待つしか無いのです!しかも、航海が順調にいけばですが!馬鹿げたプロパガンダのおかげでね!」
「バカな」
「大東亜派遣部隊を引き戻すほかあるまい。……もっとも、海軍の機動力に限れば、あちらに一日の長がありますがね」
参謀総長は、自分の駒の配置が間違えていた事にようやく気がついたのだ。
しかし、盤面の駒は定められた距離ずつしか進む事が出来ないのだ。
最強の「クイーン」を敵陣の奥深くへ放り込んだ直後、自陣の「キング」が裸にされている事実に気づいたのだ。
しかも、キングの横には敵の「クイーン」が鎮座している。
もはや遅すぎるのだ。
物理的な距離という名の盤目はあまりに広く、反転させるには二ヶ月という絶望的な手数を要する。
「メドム宛に、ハインツへの即時帰還命令を打電せよ。……あとは、祈るしかないというのか? 我らに残された手数は、もうそれだけなのか!?」
その絶叫に答えようとする者は、一人としていなかった。
この閉ざされた会議室の誰もが、痛いほど理解していたのだ。
戦略上のあらゆる理論を使い果たし、最強のクイーンを失った盤上で、もはや神に縋ること以外に「キング」を救う術はないという無慈悲な現実を。
絶対無敵を誇った帝国の心臓部は、自らが生み出した物理的距離という名のチェックメイトを前に、ただ凍りついていた。
夜。
月世界を覆う粉塵は、この日、南洋の密林よりも深く暗い静寂を伴っていた。
大東亜連邦、その深奥に位置する御前会議室。
歴史の転換点となる「大東亜・エウロ・ホットライン最高統帥会議」は、いくつかの無線中継地点を経て有線通信による音声と、限られた画像情報の応酬によって進められていた。
テーブルの片側には、大東亜海軍の重鎮たちが、まるで石像のように微動だにせず座している。
そして、スピーカーから響くのは、大陸を越えて届くエウロ欧州連合――軍を統べる者たちの、凍てつくような冷静さを伴った声であった。
「……AAUの停戦が決定した」
エウロ側の代表が、硬質な響きで切り出した。 「帝国の喧伝によれば、彼らの『魔王』率いる最精鋭・ザハーク中隊は、大東亜に向かうと喧伝している」
「了解している。我が軍の潜水艦隊が、彼らの輸送艦を追尾している。我が軍のパトロール駆逐艦隊を見るたびに反転している。余程見つかりたく無いのであろうな」
大東亜の参謀総長が答えた。
「帝国は、AAUの停戦を単なる足場として利用したに過ぎない。停戦が終わり次第、彼らは全力を挙げて貴公ら大東亜全域に殺到するだろう。早くて11月…、ハインツの中隊の到着を待つならば12月の中旬。その牙は剥かれる」
会議室に漂う緊張感が、さらに一段階、密度を増した。
粉塵によって航空機が死に、海戦の様相が数キロ以内の肉眼視認と5kmも届かないレーダーによる泥沼の近接戦闘へと回帰したこの時代において、戦略の誤りは国家の死を意味する。
議題は、来るべき帝国の侵攻をどこで、いかに迎撃するかに絞られた。
「選択肢は二つだ」
エウロ側が図面を提示するように続けた。
「一つは、帝国の大東亜侵略を阻止するため、貴公らの防衛網に我が方の戦力を集中させる案。これならば、大東亜は単独で粘り、我が方の援軍が1月上旬までには合流できるだろう。……だが、これは受動的な防衛に過ぎん。帝国の『魔王』が自由に動き回る余地を、無為に与えることになる」
大東亜の将官たちが、互いに視線を交わした。
大東亜が単独で帝国の至宝と戦い、数ヶ月の間、血を流し続ける。
それは軍事的合理性には適っていても、国家の疲弊を考えれば「下策」に近い。
「ならば、もう一つの案だ」
大東亜の参謀総長が、地図上の一点――地中海の要衝、ターナー島を指し示した。
「帝国の喉元にナイフを突きつける。……ターナー侵攻作戦だ」
この提案に、スピーカー越しのエウロ側がわずかに息を呑む気配がした。
ターナーは帝国の地政学上における急所である。
ここを奪われれば、帝国はその心臓部を直接脅かされることになり、外地への攻勢どころではなくなる。
「試算を出している」
エウロ側が、冷徹な数字を並べ立てた。
「我がエウロの主力、そして『リヴァイアサン中隊』。彼らを十一月中旬までに展開させ、ターナーを強襲、占拠することは可能だ。後詰として、大東亜の艦隊が同時期にロピラ運河を強襲すれば、帝国の反撃を完全に封じ込めることができる」
「リヴァイアサン……」
大東亜の将官の一人が、その名を噛み締めるように反芻した。
帝国に「ザハーク」あれば、大東亜・エウロ同盟に「リヴァイアサン」あり。
航空機が沈黙し、大地の制圧がすべてを決するこの世界において、奴らは最強の牙だ。
難攻不落を誇る沿岸要塞ですら、数時間で瓦礫の山へと変える――戦場の理を喰らい尽くす、名実ともに怪物たちであった。
「帝国は今、ヤバチカに置いている最強部隊を大東亜に向けると誇示している。……彼らが自分たちの背後、ターナーを狙われるなどと夢にも思っていない隙を突くのだ。彼らは大東亜への侵攻に固執するあまり、本国の防備を二の次にしている」
「よろしい。……決定だな」
沈黙が会議室を支配した。
一九八三年十一月、エウロによるターナー侵攻。
そして一九八四年十二月、大東亜によるロピラ運河強襲。
帝国の「魔王」が、荒れ狂う太平洋を隠密航行し、自分たちを狙う刺客に怯えながらメドムに辿り着こうとしているその裏側で、帝国に虐げられてきた全く別の頭脳集団は、そして致命的な一撃を「帝国の心臓」へ向けて放つことを決めたのだ。
「これより、作戦名『オーバーデスロード「Over Death Lord(死の大君主)」を発動する。……帝国の魔王がどこに隠れていようと関係ない。家を焼けば、鼠は這い出してくるものだ」
会議は終わった。
ハインツたちがメドムで受け取ることになる「恐るべき命令」の正体。
それは、彼らが命懸けで守ろうとした帝国の秩序が、その足元から崩壊し始めているという残酷な報せであった。
一九八三年、十一月。
荒れ狂うサルガナス大海を、音もなく切り裂く艦隊があった。
ハインツ率いる参謀本部直轄第335対シュテルツァー特務中隊――通称『ザハーク』を載せた特殊シュテルツァー揚陸艦。
その影に寄り添うのは、帝国海軍が誇る精鋭駆逐艦隊である。
滞留する粉塵が視界と電波を遮るこの海において、有効射程わずか5kmのレーダーと、極限まで研ぎ澄まされた目視のみが生死を分かつ。
暗闇と霧に閉ざされた海原で、針の穴を通すような精密な操艦を繰り返す彼らは、まさに『魔王』を守護する沈黙の盾であった。
「――全く。参謀本部の机上の空論には反吐が出るぜ」
船底を絶え間なく叩く不気味な波音に合わせ、ガリアスが吐き捨てた。
「AAUをくだしてから動けば、こんなコソ泥みたいな真似をせずに済んだものを。駆逐艦隊を侍らせて、コソコソと迂回を繰り返す。シュテルツァーに乗る前に、この理不尽に胃が焼けるぜ」
揺れる艦内、ガリアスは苛立ちを隠そうともせず、愛機の操縦系統図を睨みつけていた。
一九八三年のサルガナス海において、大東亜海軍は絶対的な支配者だ。
メドム島こそ帝国の版図として維持しているが、その外側は、彼らの「庭」であった。
粉塵によってソナーは減衰し、索敵距離はせいぜい5km。
魚雷は有線による七〇〇メートル程度の超至近距離射程が限界。
だからこそ、この視界の利かない海では、いつの間にか敵艦と鼻先を突き合わせる死の接敵が日常であった。
「エルザ、紅茶をこぼさないように。……新制服を汚せば、予備は届かないわよ」
アンジャリが、傾く艦内に合わせて優雅に重心を移動させながら窘める。
「アンジャリさん、そんな冗談を言っている場合? ……もう何度目ですの、この急転舵」
エルザは黒い制服に滴らせた紅茶を拭きながら舷窓に目を移す。
エルザが窓の外を睨むと同時に、艦全体が軋みを上げて大きく傾いた。
粉塵の向こう、わずか数キロ先にAAUのパトロール艦らしき影が目視されるたびに、精鋭駆逐艦たちは敏感に反応し、最短航路を捨てて大きく回頭する。
一発の「誤射」さえ許されない、暗闇の中を手探りで進むような航海だった。
「……お姉さま、またノイズです。今度は、クジラの歌じゃない」
マリスはヘッドホンを両手で押し当て、厳しい顔でソナーモニターを見つめていた。
「AAUの潜水艦ですわ……音が大きい。わたくしたちの動静を察知すれば、彼らは『誤射』しますものね。……お姉さま、ごめんなさい。わたくしの探知が……」
「マリス。貴女が謝る必要なんてないって、いつも言っているでしょう? 分かっているわ、即時スクランブル体制で待機する。今週だけで、もう二十回目だったかしら」
「……二十二回目ですわ。では皆様、行って参ります」
「すまねえな」
普段は傲慢なガリアスが、絞り出すような声で労いの言葉をかけた。
「お姉さま方、申し訳ございません……」
エルザは、自分が身代わりになれればと何度も願った。
だが、叶わぬ自分の無力さに、ただ絶望を噛み締めることしかできない。
帝国海軍試作対艦八脚型シュテルツァー、『クラーケオス』と『クラーケン』。
海上の覇者であるこの二機は、海中戦においてもその『牙』が衰えることはない。
海上艦隊、潜水艦隊が相手であろうとも引けを取る事は無い。
だが、常に二機一組でスクランブル待機を強いられるのには、避けられぬ理由があった。
仮に潜水艦が戦闘態勢に入れば、高速射出された彼女たちは瞬時に敵を撃沈するだろう。
しかし、その刹那に魚雷を放たれれば、鈍重な輸送艦を守り切る術はない。
ゆえに、常に一機が「狩り」、もう一機が「艦隊防衛」として、同時に出撃しなければならない。
延々と繰り返される緊急発進は、少女たちの精神と肉体に、過負荷をかけ続けていた。
他の中隊員たちは、もはや返す術のない莫大な「借り」を、彼女たちに作り続けているという罪悪感に苛まれていた。
ハインツが呟く。
「本当に、本当にバカな奴ら(参謀本部)だ……」
帝国が世界中に流した「最強部隊ヤバチカにあり。大東亜を制裁するために、行くべき場所へ向かう」という熱心なプロパガンダは、今や彼らの喉元を締める縄となっていた。
世界中の潜水艦が、手柄を求めて「魔王」のスクリュー音を血眼になって探している――そう確信し、疑わない司令部は、執拗なまでの隠密航行を厳命していた。
幾度もの迂回を繰り返し、帝国の版図であるメドム島に艦隊が滑り込んだのは、当初の予定を二ヶ月近く過ぎた十二月中旬のことだった。
「……ようやく、メドムか」
ハインツが、漆黒の制服の乱れ一つなく、ステッキを床に突き、窓を閉ざされたブリッジに現れた。
その瞳には、安堵もなければ自意識に酔うような影もない。
「中隊長、お疲れ様です……。この遅れが、参謀本部の焦りに油を注がなければ良いのですが」 アンジャリの報告に、ハインツは冷ややかに目を細めた。
「……遅れた時間は、戦場での戦果で埋めればいいだけの話だ。そもそも、無策な参謀本部が招いた遅滞だ。我々がここ(メドム)へ着くまでに、奴らも少しは知恵を絞ったのだろう?」
一九八三年十二月二十四日
ハインツは、粉塵に煙るメドムの港を見据えた。
メドム上陸とともに、参謀本部からは恐るべき命令が伝達された。




