表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
50/89

第50話 希望の都

 エウロ欧州連合軍の最高意思決定機関である、首都ゲルマーの参謀本部。  

 そこは本来、敗北の色を濃くした絶望の沈黙が支配するはずの場所だった。

 数時間前まで、将官たちは地図を囲み、泥を啜るような思いで「全軍撤退」という屈辱的な命令書に署名していたのだ。


 しかし今、その静寂は、通信士たちが持ち込む信じがたい「速報」によって、嵐のような怒号へと塗り替えられていた。


「――説明しろ! 何が起きている! なぜ撤退命令が、首都陥落という報告に化けているのだ!?」


 参謀総長の椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで、白髪の将軍が絶叫した。

 彼の目の前には、最新の戦況地図が広げられている。


「はっ……報告によりますと、第507特務中隊『リヴァイアサン』は、命令受領の直後に急転。退路ではなく、敵占領下の首都ムカスクマンへ向けて百九十キロの『全力後退』を強行したとのことです!」

「馬鹿を言え! 百九十キロだぞ!? 軍事常識で、一個中隊がそんな距離を突破して首都を落とすなど、物理的に不可能なはずだ!」

「それが、現に首都は陥落しております! 港湾は封鎖され、帝国の補給路は完全に寸断。退路を断たれた帝国軍は各地で浮き足立ち、連鎖的に降伏を始めています!」


 会議室は、沸騰した大釜のような騒ぎになった。

 しかし、その熱狂の奥底で、老練な将官たちの顔は一様に青ざめていた。

 この勝利はあまりにも、毒が強すぎた。


「……なんという奇跡だ。だが、これは喜んでばかりもいられんぞ」  

 作戦局長が、地図上の一点を震える指で指し示した。


「一つ目の懸念は、この勝利によって我々の手が『ターナー島』に届いてしまうことだ。我々が意図しなくとも、帝国はそう思うだろうな。あそこは敵首都デリ・ガートの喉元。そこに我が軍の砲架が据えられれば、帝国の心臓は眼前の的と化す。……我々は、開けてはならないパンドラの箱を開けてしまったのだ」


 その言葉に、会議室の温度が急速に下がった。勝利の美酒は、一瞬にして猛毒の味へと変わる。


「これが二つ目の、そして最大の懸念。これこそが帝国の逆鱗だ。喉元に刃を突きつけられた帝国が、ただ黙っているはずがない。これに触れるには、国家の全滅をも辞さない相当な覚悟が必要になる」


 参謀本部の空気は、再び重苦しい決断の場へと戻った。

 今や大東亜とエウロは、「世界三大経済ブロックの最終決戦」という世界そのものを終わらせかねない、歴史の分岐点に立たされている。


「我々には、二つの選択肢しかない。一つは、この奇跡的な勝利を捨ててでも、早急に全軍を反転させ、大東亜の防備に回すこと。帝国の総力が大東亜に向かえば、心臓部である八州は耐えきれん。……だが、それでは再び帝国はエウロ側に兵力を戻すだろう。再び、エウロ全土が戦火に包まれるのは目に見えている」


 参謀総長が、地図上のターナー島を強く睨みつけた。


「もう一つは、このままターナー島を落とすことだ。ターナーを掌握すれば、帝国首都デリ・ガートは我々の掌中にあるも同然。戦争を一気に終結させる唯一の好機だ。しかし、それは帝国の文字通り全ての狂気を呼び覚ますことになる。……あのデリ・ガートが、灰にされる恐怖を座視するはずがない!」


「大東亜を守るか、それとも帝国の首を獲りに行くか……。エウロと大東亜の両首脳による大会議が必要だ。だが、残された時間は数日、いや、一日もないかも知れぬ」


 一人の老将が、震える手で眼鏡を拭いながら呆然と呟いた。

「カイ・イサギ……。あの『大東亜の聖剣』を、ただの切れ味の鋭い剣だと見くびっていたのは我々だったか。あれは剣ではない。戦場の因果を捻じ曲げ、眠れる獅子の尾を全力で踏みつける破壊神だ」


「なんという……なんという奇跡だ! だが、帝国の参謀本部が発狂するぞ。奴らは間違いなく、この屈辱を晴らすために、我々が想像もできない規模の復讐戦を仕掛けてくる。……世界を焼き払う口実を、我々自身が与えてしまったのだ!」

「奴らはムカスクマンの陥落を阻止する為に、わざと『AAUとの停戦後の大東亜侵攻』という情報を垂れ流したのだからな」


「……構わん、今は勝利の鐘を鳴らせ」  

 参謀総長が、重々しく告げた。

「リヴァイアサン中隊を最大限の賛辞で迎えよ! 彼らが大東亜へ引き返すその瞬間まで、ムカスクマンの全ての鐘を鳴らし続けろ! 帝国が攻めてくるのが明日であろうと、今日、我々は歴史を塗り替えたのだ!」


 首都ゲルマーの参謀本部に、狂おしいまでの歓声と、死を覚悟した者の乾いた笑いが響き渡る。  一九八三年の最も長い一日。

 歴史の流れは、一個中隊の暴走によって強引に「勝利」と「破滅」の分岐点を叩き折られたのである。


 ヤバチカの駐屯地に、凍りつくような冷徹な電文が舞い込んだ。


 漆黒の制服に身を包んだ「ザハーク」中隊の面々は、整備ドックに並ぶ愛機の足元で、その非情な命令を反芻していた。


「……来年五月まで待機、という命令を自分たちで出しておきながら、舌の根も乾かぬうちにこれですの?」  

 エルザが、届いたばかりの指令書を扇子代わりに仰ぎながら、不機嫌そうに唇を尖らせた。

「アエテルナへ転身。しかも出発は三日後……。淑女の準備というものを、参謀本部の老人たちは理解していらっしゃらないようです」


「準備を考えると、随分と慌てているようだな」  ソルガが、重厚な黒のロングブーツを鳴らしながら歩み寄る。

 その瞳には、副長としての冷徹な分析が宿っていた。

「五月までの待機予定を半年以上も繰り上げ、三日後に出撃。これは『予定の変更』ではない。……『恐慌』だ。本国で何かが起きた」


「ガッハッハ! いいじゃねえか、予定が早まるのは大歓迎だぜ!」  

 ガリアスが、愛機の脚部に背中を預け、豪快に笑い飛ばした。

「AAUのような雑魚との追いかけっこには、正直飽き飽きしていたところだ。大東亜……あそこには、あの『阿修羅』がいるんだろ? 楽しみで仕方ねえよ。なぁ、ヴォルフ!」


「お、親父……。楽しみなのはわかるけど、三日で弾薬と予備パーツの積み込みを終わらせなきゃいけないんだ。早く準備しようぜ!」  

 ヴォルフは、「中隊長のスコアの衝撃」からようやく立ち直り、必死にコンテナの山を指図していた。

 その顔には、ヴォルフらしい焦りと未知の戦場への高揚が混在している。

「おう、ヴォルフ少尉。もう『婿養子』の修行のつもりかよ」

 

 ヘルガが、ケラケラ笑いながら、ウォッカの小瓶を弄び揶揄うように割り込んだ。

「大東亜に上陸すれば、嫌でもあの『阿修羅』とやらにお目にかかれるだろうさ。アタシたちのこの黒い制服が、返り血で赤く染まるのが先か、阿修羅の首を獲るのが先か……。ねぇ、アンジャリ」

 海軍出身のアンジャリは、マリスと共に巨大な輸送艦の入港を水平線に眺めていた。

「海を渡るなら、私たちの領分ね。ヤバチカから、サルガナス大海に浮かぶメドム海軍基地へ。そこからアエテルナ、そして大東亜へ……。大航海ね。閣下と皆を無事に戦場へ送り届けてみせるわ。ね、マリス?」

「ええ、お姉さま。……ですが、この慌て方は異常です。まるで、帝国が背後から何かに追い詰められているような……」  

 マリスの冷ややかな呟きが、一瞬、猛獣たちの間に沈黙を落とした。


 その沈黙を破ったのは、規則的なステッキの音だった。  

 カツ、カツ、カツ。


「――理由はどうでもいい。我々は命じられた場所へ行き、命じられたものを焼くだけだ」


 ハインツが、霧の向こうから姿を現した。漆黒の制服を纏ったその姿は、朝日を浴びてこの世の存在では無いかのような威厳を放っている。

「エウロで何かが起きた。そして、その『火』が大東亜へ飛び火しようとしている。参謀本部は、その火を我々に踏み消せと言っているのだ」


 ハインツは、愛機『ルシフェル』の巨大な爪先を見上げた。


「大東亜のどこに上陸するかは、まだ伏せられている。だが、三日後には我々はアメリの土を離れる。……諸君、これは遊びではない。この歪んだ時代の終止符を、我々自身が打ちに行くのだ」


「了解!!!!」


 猛獣たちの咆哮が、整備ドックに反響する。

 三日後。

 黒と金の「魔王の軍勢」は、海を越え、自らの運命と、そして宿敵「大東亜の聖剣」が待つ決戦の地へと向かう。


 一九八三年、九月。  

 ヌグメーダの泥濘を、リヴァイアサン中隊は電撃的な速度で駆け抜けた。  

 皮肉にも、彼らの足を早めたのは、その絶望的な路面状況であった。

 精密な二脚駆動系を持つ彼らにとって、「停止」は泥濘に足を取られる死を意味し、ゆえに過剰な速度で駆け抜ける以外に道はなかったのだ。


 その必死の爆走は、結果として戦史に類を見ない奇跡を成し遂げる。  

 首都ムカスクマンの陥落。  

 それはエウロ・ゲルマ・リキ欧州連合経済共同体にとって、長きにわたる屈辱と絶望の時代に終焉を告げる魂の号砲であった。


 勝利の報は制圧から三日後、全エウロ加盟国へ、そして全世界へと駆け巡った。

 それは奇しくもザハーク中隊が乗った揚陸艦が港を離れた、半日後の出来事であった。

 各国の首脳陣が歴史の分岐点に震える中、現場の将兵たちには、この一瞬の「歴史的大勝利」を祝う権利が与えられた。


 舞台は、芸術の都ニリ。

 ナポレオンの凱旋を祝した凱旋門を望む、大宮殿の大広間である。  

 この宮殿は今、世界で最も眩い「光の海」へと変貌していた。


 広間の入り口では、礼装に身を包んだ近衛兵たちが抜剣の礼で参列者を迎える。  

 シャンデリアの輝きは、磨き上げられた大理石の床に数万の光の海を描き出し、オーケストラが奏でる重厚なワルツが、高鳴る胸動と共鳴していた。


「――来たぞ。あれが、『黒い死神』たちだ」


 会場の喧騒が、一瞬だけ凪のように静まり返った。  

 正面玄関から姿を現したのは、カイ・イサギ大佐率いる第507特務中隊の面々である。  

 大東亜の漆黒の礼装を纏ったカイ。

 その左胸には、ケルゲレンで受けた勲章に加え、今日授与されるはずの新たな栄光の重みが予感されていた。


「中隊長、カイ・イサギ大佐。前へ」


 エウロ連合軍最高司令官、ピエール・ド・レーヌ元帥の声が広間に響き渡る。  

 カイは静かに、しかし確固たる足取りで演壇へと進み出た。  

 元帥は、トレイに捧げられた勲章――『薔薇剣盾付き鋼鉄十字章』を手に取った。

 これは、エウロにおいて一個師団を壊滅させた英雄にすら、滅多に与えられない伝説の象徴である。


「カイ・イサギ大佐。貴公らの成し遂げた『ムカスクマンの後退』は、戦史における全ての常識を破壊した。貴公の剣は、エウロの民に自由を、そして帝国には拭い去れぬ恐怖を刻み込んだ。全エウロを代表し、この最高の名誉を贈る」


 元帥の手によって、薔薇の意匠が施された剣と盾、そして鋼鉄の十字が、カイの胸元で鈍く輝きを放った。

 続いて、シュミット少佐、サカモト中佐……中隊員全員に、同じ重みの勲章が次々と授与されていく。

 続いて何人かの昇進が言い渡される。

 カイをはじめ、何人かは昇進を固辞していた。

 彼らは分不相応と言っているが、本音は「昇進により、この中隊を離れる事を懸念していた」のだ。

「シュミット中佐……いや、英雄殿よ」  

 北方の激戦を勝ち抜き、カイたちの反対側から首都へと肉薄したヤン・カジミェシュ少佐が、授勲を終えたシュミットに歩み寄った。

 ヤンの胸にも、激闘を物語る勇者に与えられる勲章が揺れている。

「中佐殿、貴方たちが南から突き上げてくれなければ、私の『ケーニヒスフェンリル』は泥の中で鉄屑になっていただろう。……感謝します。故郷を救ってくれて」


「……ヤン少佐。我々の背後を守ってくれたのは、北方の貴公らだ」  

 シュミットは、かつてないほど晴れやかな顔でヤンの手を握り返した。

「今日は政治のことは忘れよう。我々は生き残り、そして、この街の鐘を鳴らしたのだから」


 授勲式の厳粛な空気が解けると、大広間の奥の重厚な扉が開け放たれた。

 そこには、食の都ニリが戦時の制約を全て無視して作り上げた「勝利の饗宴」が待ち構えていた。


 テーブルの中央には、ニリの美しさの象徴マデーヌ川を模した巨大な氷の彫刻がそびえ、その上には北方の港から本日直送された「銀光の牡蠣」が山をなしている。

「――ミナ少尉! 見て、このフォアグラのパテ! 金箔が散らしてありますわ!」  

 マイは、大尉へと昇進した喜びも相まって、シャンパングラスを片手に、宝石のように並んだオードブルに目を輝かせた。

「ケルゲレンのカニも良かったですけれど、ニリの『鴨のオレンジ煮』は別格ですわ。これこそが、淑女の戦果に相応しい味わいというものですわね!」


「ジョセフ中尉、飲みすぎですよ。これからまた海を渡るんですから」  

 ミナ少尉が、昇進したてのジョセフを揶揄しながら、自分は焼きたてのブリオッシュを口に運んだ。

「……美味しい。アラン大尉、食べてみてください。このバターの香りが、戦場の匂いを忘れさせてくれますよ」とユキヤ。


 会場の隅では、大東亜のシリチャイ中将と、ベルナール少将が静かにグラスを交わしていた。 「……シリチャイ中将。我々が鳴らしたこの『勝利の鐘』は、帝国の逆鱗を最大級に逆撫でしたことになります」

「ええ、ベルナール少将。ザハーク中隊が動き出したという報が入りました。……次に彼らがまみえるのは、人間ではない『魔王』かもしれません」


 その不穏な未来を予感してか、カイは賑やかな会場を離れ、バルコニーへと一人出た。  

 秋のニリの風は冷たく、火照った顔を優しく撫でる。  

 漆黒の夜空に、凱旋門がサーチライトに照らされて白く浮かび上がっていた。


「……カイ。また一人で、家を建てているの?」  

 ミナが、義手を隠す長い手袋を嵌めた手で、そっとカイの隣に並んだ。  

 彼女の手には、会場からこっそり持ち出した「木苺のマカロン」が二つ乗っている。


「……ああ。今度は、ニリのような美しい街に、小さな家を。……そんなことを考えていた」

 カイは、胸元の鋼鉄十字章に手を置いた。

「ミナ、俺はまた、多くの命を奪ってこの勲章をもらった。……この手は、もう一生洗っても綺麗にはならないかもしれない」


「……バカね、カイ。その手が守った命が、今このニリ中で笑っているのよ」  

 ミナはマカロンを一つ、カイの口元に運んだ。 「あーん、して。……甘いものを食べて、嫌なことは全部マデーヌ川に流しちゃいなさい」  

 カイは照れながらも、マカロンを噛み締めた。  

 甘酸っぱい木苺の香りが、鼻腔にこびりついていた硝煙と重油の匂いを一瞬だけ、優しく上書きした。


 テラスの陰で、二人の唇がそっと重なる。

 それは、英雄としての大佐と少尉ではなく、明日をも知れぬ戦乱の中に放り込まれた、少年と少女の、あまりにも脆く、そして尊い誓いだった。


 突如、夜空を彩る大輪の花火が、エッフェル塔の影を鮮やかに照らし出した。  

 パリ中の鐘が、リヴァイアサン中隊を讃えて鳴り響く。  

 だが、カイはその光の奥に、遠く大東亜を包囲しようとする漆黒の機体の影を見ていた。


「……行こう、ミナ。戦争を終わらせに」

「ええ、気をつけてね。カイ」


 繋いだ手を強く握りしめ、二人は光溢れる大広間へと戻っていった。  


 今は、この夜の甘いマカロンの味と、ニリの鐘の音がある限り、彼らの魂が闇に飲み込まれることはない。


 第四小隊のニュエン・フォン・マイ大尉——今宵、彼女が纏っているのは、大東亜の最高級シルクを贅沢に用いた、瑠璃の深淵を覗くかのような深蒼のイブニングドレスである。

 背中が大きく開いた大胆なカットは、戦場での傲岸不遜な姿からは想像もつかない、一輪の青薔薇のような清廉さと妖艶さを同時に放っていた。


「……ふふ、チャンスですわ」  

 マイの目が、獲物を狙う雌豹のように怪しくギラついた。  

 彼女は先程まで、将軍達に囲まれていたカイが一人になり、テーブルに食事を取りに行こうとしたところに歩み寄る。


「大佐ぁ……。今日のわたくしのドレス、いかがかしらぁ? ヌグメーダの泥にまみれていた時とは、少しは違うとお思いになりませんこと?」


 上目遣いでカイの腕に指先を這わせるマイ。

 甘い香水と、上等なワインの匂いがカイの鼻腔をくすぐる。  

 しかし、その誘惑が完遂されることはなかった。


「……おい、お嬢様がまた暴走し始めたぞ!」

「阻止しろ! また戦線が崩壊するぞ!」


 背後から現れたサカモト中尉、ジョセフ中尉、そしてユキヤ中尉ら中隊の面々が、示し合わせたような連携を見せた。

 彼らの目もまた、酒の力か、あるいは「マイの暴走を止める」という使命感か、異様にギラついていた。


「ちょっと! 何をしますの! 離しなさい、この無骨者ども!」

「いいから! お嬢様はあっちで肉でも食べてなさい!」


 屈強な男たちがマイのドレスを汚さないよう慎重に、かつ迅速に彼女を担ぎ上げ、連れ去っていく。

 まるで敵のシュテルツァーを鹵獲して撤収するかのような手際の良さだった。  

 マイの「離しなさい! 淑女に対する無礼ですわよ!」という絶叫が、ワルツの旋律の中に遠ざかっていく。


 一人残されたカイは、キョトンとした顔でその光景を見送った。

「……なんだ。中隊員同士、俺抜きで話したいこともあるよな。あいつら、仲がいいな」


 一人納得したカイは、喧騒を避けるようにして再びテラスへと出た。

 眼前に広がるのは、サーチライトに照らされたフィリーヌ塔と、光の帯となって流れるマデーヌ川。

 世界で最も美しいとされるニリの夜景だ。

 カイはふと思い出したように、礼装の内ポケットから一枚のメモ帳と鉛筆を取り出した。


 手すりにメモを置き、月明かりの下でサラサラと筆を走らせる。  

 そこに描かれていたのは、家の設計図の隅に新しく書き加えられた、ある「曲線」のスケッチだった。

「……あら、こんなところでまたお仕事?」


 背後から、聞き慣れた、そして何よりも心地よい声がした。  

 ミナだった。

 彼女は両手で支えた銀のトレイに、繊細な意匠を凝らした小皿を載せている。  

 その上に並んだ二つの、先ほどとは違う色合いのマカロンが、まるで寄り添う二人のように、いたずらっぽく月光を反射していた。


「ミナか。いや、仕事じゃないんだ。さっきのマイのドレスを見て、少し思いついてな」

「えっ、マイのドレス? カイ、あんな大胆な格好に影響されちゃったの?」  

 ミナが少しだけ頬を膨らませて身を乗り出し、メモを覗き込む。


 そこにあったのは、家の屋根裏へと続く「螺旋階段」のスケッチだった。


「……マイのドレスの裾が、歩くたびに波打っていただろ。あれを見て、階段もあんな風に優雅な曲線にすれば、狭いスペースでも圧迫感が出ないんじゃないかって」


 ミナは一瞬呆気にとられ、それから噴き出すように笑った。

「ふふ……あはは! カイったら、本当にもう! あのマイの渾身のアプローチを、階段の設計のヒントにしちゃうなんて。……マイが聞いたら、ショックで寝込むわよ、きっと」


「変かな? 螺旋の方が、二階からでもリビングにいるみんなの顔が見える気がして」

「ううん、素敵よ。……とってもカイらしいわ」


 ミナは笑いを含んだ瞳でカイを見つめ、彼の手から鉛筆を取り上げると、その設計図の窓の横に、小さなお花のマークを書き加えた。


「ここに、私が植えるお花の花壇も作ってね」 「ああ、約束だ。……戦争が終わったら必ず」


 パリの夜風に、二人の夢が溶けていく。

 明後日には再び、鉄の嵐が吹き荒れる海へと向かう彼らだったが、今、このテラスの上だけには、戦火の届かない穏やかな時間が流れていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ