第48話 選べない選択肢
九月の冷たい雨が、帝都デリ・ガートの重厚な石造りの窓を叩いていた。
帝国参謀本部の最深部。
円卓を囲むのは、世界を火の海に変えてきた老人たちである。
しかし、今この部屋を支配しているのは、かつての戦勝報告の熱狂ではなく、喉元に刃を突きつけられた者の沈黙であった。
「……大東亜の聖剣。カイ・イサギは、もはや我らの理解を超えた存在になりつつある」
参謀総長が、吐き捨てるように言った。
その手元には、ヌグメーダ戦域から届けられた血塗られた報告書が、まるで遺書のように置かれている。
「誰か、奴を倒す案は無いのか。搦め手でも、暗殺でも構わぬ。国家の面子など、あの漆黒の『アスラ』が撒き散らす災厄に比べれば、塵に等しい」
総長の乾いた声が響くが、誰も目を合わせようとはしない。
あの「死神」を止める術を、彼らは一つしか持っていない。
そしてその「術」が、いかに危険な諸刃の剣であるかも熟知していた。
参謀総長が再び、毒を吐くように問う。
「……やはり、魔王しかあり得ぬか。誰もがそう思っている。だが、ハインツもまた、帝国最強の聖剣であることを忘れるな。万が一にでも、共倒れとなれば……」
「総長。案じ召されるな」
沈黙を破り、陸軍元帥が意を決したように重い口を開いた。
「たとえハインツが破れても、我が国が誇るエースは百に近い。それに比べ、他国の『エース』と呼ばれる者どもは、掃き集めても三十に至りませぬ。いっそ、聖剣同士をぶつけ、不確定要素を整理するのも一手。……まあ、AAUには『トップエース』が腐るほどいるらしいですがな」
一瞬、凍りついていた空気がわずかに緩み、不気味な笑いが数カ所から漏れた。
AAUの悲哀。敗戦の泥沼に沈む中、国内の支持を繋ぎ止めるために量産される「プロパガンダのエース」。
彼らは戦場に送られるたびに、本物の牙を持つ帝国軍に蹂躙され、名実ともに「偶像」となって消えていく。
帝国にとって、それはもはや軍事的な脅威ではなく、茶飲み話の「笑い草」に過ぎなかった。
「……笑っている場合ではないぞ。エウロと大東亜の聖剣を、今ここで折りに行かねばならぬ。戦務担当、予備の近衛シュテルツァー二個師団は動かせるか? 奴らはヌグメーダに上陸したばかりだ。一息つく暇も与えてはならぬ」
そこで海軍元帥が、地図上の特定の一点をステッキで指し示した。
「……八州を落としましょう。大東亜の心臓部にして、サルガナス大海物流の心臓部。そこに『魔王』を送り込むのです。奴らが現在駐留しているヤバチカからも、距離は遠くありますまい」
「AAUはどうする?」
戦務担当将軍が、鋭い視線を投げかける。「AAUが倒れるのを待っていたら、エウロが解放されるぞ。そうなれば、次に来るのはどこだ? 決まっている。……ターナー島だ。我々の首都の目の前にある、あの忌々しい島だよ」
参謀総長の声が、低く、湿った響きを帯びた。 「私なら、そこに昔の遺物の大口径砲でも据えて、命中精度なぞ気にせず砲撃することにするだろうな。帝都デリ・ガートがゴミのように灰にされる姿が目に浮かぶようだ……」
会議室に戦慄が走った。
ヌグメーダ陥落は、単なる領土の喪失ではない。
それは帝国首都への「死刑執行」への布石なのだ。
全員の脳裏に、自国が火の海になる光景が焼き付いた。
「AAUとは停戦してやろう。我々はいつでも奴らをくびり殺せるが、『温情により無期限の停戦に応じてやる』のだ。……調整に何日かかる?」 「はっ、二週間。アエテルナもクメルクスも陥落した今、奴らに乗らぬ選択肢はありません。……ただし、鹵獲された我が国のシュテルツァーを隠し持っていたら停戦は白紙。無能な奴らですが、その人口と生産能力だけは、脅威になりますからな。我が国の技術を模倣したシュテルツァーの大量生産などは許してはなりません」
情報将軍が、さらに詳細な予測を述べる。
「八州は奴らの心臓。陥落すれば政府は予備都市へ移るでしょうが、エウロに戦力を割いている今、八州の守備は薄い。艦隊は六、防衛は多く見積もって連合全部で三十師団といったところ。……兵站のすり合わせを含め、AAUとの停戦に二週間、今の帝国遠征軍の再編に六週間。
一九八四年一月には、アエテルナから八州攻略艦隊を発進させることができます」
戦務参謀が、青白い顔で計算結果を読み上げた。
「対大東亜に投入可能なのは、シュテルツァー中核の二十五個師団を含む、陸軍五十七個師団。艦隊四、巡洋艦隊十二、潜水艦二百十。……これが帝国が大東亜遠征に出せる全軍です」
「バカな!それでは首都の守りは?!本土の守りはどうなるのだ?!」
「黙れ、海軍中将。そんなものは大東亜を早急に降せば良いだけでは無いか。それよりも……その頃には、ヌグメーダは落ちるか?」と陸軍元帥。 「……落ちるでしょうな」
「なんということだ……」
参謀総長が、震える指で顔を覆った。
それは歓喜ではなく、底なしの深淵を覗き込んだ者の恐怖だった。
「魔王を先に八州に上陸させ、奴らが移動する三ヶ月の間に、大東亜を蹂躙できれば良い……。だが、もしその前にターナー島が落ちれば、八州攻略なぞ何の意味も持たぬ! 帝国首都に『破壊神』が降り注ぎ、すべてが終わるのだ!!」
沈黙。時計の針の音だけが、死刑宣告のように響く。
「……博打だ。これしかあるまい。諜報部、情報を流せ。我が国の脆弱な諜報網だ、『情報の漏洩』など容易であろう。一つは『AAUと停戦』。そしてもう一つは、『停戦が成った瞬間、大東亜侵攻を開始する』とな」
参謀総長の瞳に、狂気に似た決意が宿った。 「奴らは戦慄するだろう。ヌグメーダを落とす前に、故郷が滅びると知れば大東亜に引き返さざるを得まい。エウロは大東亜を恨むだろうな。だが構わん。エウロとの同盟に亀裂を入れ、聖剣を無理やり引き摺り下ろす。……一九八四年一月。我が帝国の首都が燃えるか、奴らの聖剣が折れるか。……歴史上、最も醜く、最も過酷な戦場になるぞ」
冬が、すぐそこまで迫っていた。




