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第45話 裏切り

 一九八三年八月。  

 ヌグメーダ最西部の要衝、ハアリン沿岸要塞都市。

 そこは帝国がエウロ侵攻の拠点として、血と鉄、そして占領下のヌグメーダ人への苛烈な弾圧によって築き上げた、不滅の要塞である。

 鉄の規律を誇り、メニスカス海に面したヌグメーダ南側で鉄壁の護りを誇る巨城であった。


 帝国軍第565軽装甲シュテルツァー大隊長は、ヴォルフラム・フォン・リヒター少佐であった。

 シュテルツァー23機撃墜のエースにして、このハアリン要塞司令官。

 彼は20mm機銃を右手、左手に電磁サーベルを持つV-SP01 "GajaMarkII"を愛機としていた。

 その愛機は騎士の様相を呈していたが、本人は騎士道と相反するような軽薄で残虐な男だった。

 磨き上げられた軍靴は戦場を駆けるためではなく、自分に逆らえない部下を蹴り飛ばすためにあり、その鋭い眼光は敵兵の動向ではなく、部下の些細な「落ち度」を突き止めて憂さ晴らしをするためにのみ研ぎ澄まされていた。


「……少佐、失礼いたします。定時報告に参りました」


 大隊の諜報参謀、エリック・ホフマン大尉は、重い扉を押し開けた。  

 司令部の一室は、外のマンガニス粉塵と熱気が嘘のように、過剰なまでの冷房と高級な葉巻の香りに満ちている。

 ホフマンの頬には、昨日リヒターに投げつけられた灰皿の痕が、どす黒い痣となって痛々しく残っていた。


 部屋に入ったホフマンを待っていたのは、退廃的な光景だった。  

 リヒターの周囲には、実戦経験など皆無に近い、見栄えの良さだけで選ばれた女士官たちが数名、侍るように配置されていた。

 彼女たちはリヒターの好みに合わせて仕立てられた、軍規を無視して身体のラインを強調した特注の制服に身を包んでいる。

 一人はリヒターの肩を揉み、一人は剥いた果実を彼の口へと運んでいた。

 彼女たちの役割は軍務ではなく、リヒターの肥大化した自尊心を甘やかし、肯定すること。

 彼が何を言おうと「流石は少佐です」「少佐のお考えは常に完璧ですわ」と、蕩けるような声で同調するだけの、生きた装飾品であった。


「……またお前か、ホフマン。せっかくの午後の静寂を、その不吉なツラで汚しに来たのか?」


 リヒターは、侍る女士官の尻を無造作に撫でまわし、手に持ったクリスタルグラスの白ワインを転がしながら、傲慢な視線を向けた。

 卓上には軍事地図の代わりに、帝国本土から取り寄せた最新のファッション雑誌や、高級ビーチリゾートのパンフレットが散乱している。


「恐縮ですが、緊急を要する事案です。これをご覧ください」


 ホフマンは震える手で、何枚もの野戦報告書と、決死の潜入工作員が持ち帰ったメモを机に広げた。

 この情報を持ち帰るのに、1人の諜報員は『消えて』いるのだ。


「対岸のセーメライ基地において、敵に明らかな大攻勢の兆候ありとの報告です。昨夜から今朝にかけ、敵艦船群への一斉給油を確認。さらに全将兵の休暇が全面取り消しとなっています。何より異常なのは、夜間の弾薬運搬車両の通行量です。

通常の四倍……これは戦略単位での物資集積が行われている証拠です。少佐、どうか、防衛警戒基準の引き上げを! せめて、せめて一段階だけでも上げてください。今ならまだ間に合います!」


 ホフマンの必死の訴えに対し、周囲の女士官たちは顔を見合わせ、クスクスと品のない笑い声を上げた。

「まあ、ホフマン大尉。相変わらず大げさですこと」

「少佐のこの完璧なハアリンに、誰が攻めてくるというのかしら?」  

 彼女たちの軽薄な声が、ホフマンの焦燥を逆なでする。


 リヒターはゆっくりとワイングラスを置いた。カチリ、という微かな音が、死刑宣告のように部屋に響く。

 リヒターの顔に浮かんだのは、指揮官としての危機感ではなく、自分の心地よいバカンスの計画を邪魔されたことへの、子供じみた、しかし残酷な憎悪だった。


「……ああ、ホフマン。お前という男は、どこまで救いようのない無能なんだ? 俺が来週から、ヌグメーダ南部のプライベートビーチで休暇を楽しむ予定を入れているのを知っていて言っているのか? 俺の選んだワイン、美しい女、俺の夏休みだ。それを、お前はそんなゴミのような紙切れ一枚で台無しにしろと言うのか?」


「少佐、しかし事態は一刻を争います! 基準を引き上げ、ビーチに部隊の展開及び、海岸防衛線及び揚陸艦破砕線の構築を!敵が来てからでは遅いのです!」


「そんなことしたら、俺が遊べなくなるのがわからねえのかって聞いてんだよ!!」


 リヒターが獣のような咆哮と共に跳ね起き、ホフマンの顔面を渾身の力で殴りつけた。  

 衝撃で眼鏡が飛び、ホフマンは床に激しく叩きつけられる。


 朦朧とする彼の視界に、磨き抜かれたリヒターの軍靴が迫る。

「ぐっ、あ……ッ!!」


 容赦ない蹴りが、ホフマンの鳩尾にめり込んだ。

 リヒターは狂ったように、倒れた部下を何度も蹴りつけた。

「しっけーんだよ! 敵が来るだと? バカが! お前みたいな小心者が、自分の無能さを隠すために、敵の影に怯えてデマを流しているんだろうが! ほら、お前たちも言ってやれ。この臆病なブタにな!」


 リヒターに促され、女士官たちは冷ややかな、蔑むような笑みを浮かべた。

「少佐を不快にさせるなんて、万死に値しますわ」

「お可哀想に。そんなに怖いなら、早くどこかへ逃げ出せばよろしいのに」


 リヒターは本気で、このハアリンが不落であり、自分の余暇が脅かされるはずがないと信じ込んでいた。

 彼にとっての世界は、自分の特権を称賛し、跪く者たちだけで構成されるべきだったのだ。


「……オメーみたいな不吉な奴には、望み通り休暇をやるよ。今すぐ消えろ。二度と俺の前にその汚いツラを見せるな!」


 リヒターは、靴の汚れを跳ね飛ばされたホフマンの制帽で拭き取った。

 這いつくばりながら、ホフマンは血の混じった唾を吐き、リヒターの足元を見つめていた。

 かつて自分が命を懸けて守ろうとした帝国。

 その末端の組織は、すでに精神から崩壊していた。


 その夜。

 司令部を後にしたホフマン大尉は、一刻の猶予もなかった。  

 宿舎に戻るなり、病弱な妻とまだ幼い娘を力強く抱き寄せた。

 彼の胸中には、もはや帝国への忠誠心など一片も残っていない。

 残っているのは、自分を、そして「命をかけて情報を手に入れ、未だ帰ることのない諜報員」をゴミのように扱った組織への静かな、しかし燃えるような怒りだった。


「……行こう。ここはもう、私たちの国ではない」


 マンガニス粉塵が夜空を重く覆い、すべての通信が減衰するこの世界において、情報の最大の脆弱性は、常に「踏みにじられた者の心」であった。  

 ホフマンは、使い古された軍用車両に家族を乗せ、ハアリンの影から逃れるように車を走らせた。


 目指すは、峻険なノカーナ山脈。

 そこを越えれば、かつて彼が「敵」と呼んだエウロ軍の勢力圏だ。  

 闇の中で娘が泣き声を上げ、妻が震える手で彼の腕を掴む。

 ホフマンはハンドルを握りしめ、自分に言い聞かせた。

 これは裏切りではない、正義を執行するための転進なのだと。


 自軍の検問を突破し、岩肌を削るような峠道を越え、彼はついにエウロ軍の哨戒線へと辿り着いた。  

 銃口を向けられ、両手を上げたホフマンの口から出たのは、一人の将校としての、最後にして最高の機密報告だった。


「……帝国軍第565大隊長、リヒター少佐は、バカンスのために全警戒を放棄した。ハアリンの海岸は、今、完全に無警戒です」


 その情報は、電撃的な速さでセーメライ基地へと届けられた。


 彼の身柄を担当したエウロ軍憲兵隊リヴァイ中佐は信じがたいものを見るかのように目を細めた。

「……ホフマンという男、相当な覚悟でこれを持ってきたな。リヒターという『バカ』一人のために、帝国は最も重要な情報を、自ら垂れ流したわけだ」


 かつての帝国は、冷徹なまでの機能美を誇っていた。

 しかし、一九八三年の今、それは腐り切った土台の上に立つ、崩壊寸前の巨神に過ぎない。

 アザリア人への弾圧、チェスの駒気分でエースを使い潰す無能な司令部。

 そして、リヒターのような特権階級の堕落。

 ルディガゼーラ海峡要塞の空白も、ハアリンの弛緩も、すべては帝国の内側から湧き出した膿であった。


 エウロ軍基地の一角、重厚な石壁に囲まれた一室。

 今、そこは「尋問室」という殺伐とした名称からは想像もつかない、どこか賓客をもてなすような穏やかな空気が流れていた。  

 木目調のテーブルには、捕虜に提供される簡素なレーションではなく、温かな湯気を立てる紅茶と、パン屋から届けられたパンに生ハムとチーズと葉野菜を挟んだもの。

 そしてホフマン大尉の幼い娘のために用意された、軍施設では珍しい色鮮やかな菓子が並べられていた。

 この「もてなし」こそが、彼がもたらした情報の価値の裏返しであり、同時に彼を精神的に揺さぶるための高度な尋問技術の一部でもあった。


 正面には、二人のエウロ憲兵将校が座り、書類にペンを走らせていた。

 だが、その表情は険しく、拭いきれない疑念の色が張り付いている。


「……エリック・ホフマン大尉。繰り返すが、我々は貴殿の言葉をそのまま鵜呑みにするほどお人好しではない」


 憲兵大尉が、しつこいほどに問い詰める。

 その視線は蛇のようにホフマンを射抜いていた。

「貴殿が持ってきたこの『防衛基準は据え置き、大隊長はビーチでバカンスを楽しむ』という情報。……もしこれが帝国の狡猾な罠だとしたらどうだ? 我々がこの情報を信じて艦隊を動かした途端、ハアリンの断崖から伏兵が一斉に現れれば、わが艦隊は全滅し、エウロの防衛線は崩壊する。貴殿は、そのための『捨て駒』ではないのか? 家族を連れての亡命すら、演出ではないのかと聞いているんだ!」


 ホフマン大尉は、やつれた顔をゆっくりと上げた。その瞳には、裏切り者の卑屈さも、工作員の鋭さもない。

 ただ、極限まで摩耗し、底をついた人間の虚脱感と、家族を守り抜いた男の静かな、しかし重い決意だけがあった。


「罠であれば……どれほど良かったか……」


 ホフマンは、掠れた声で漏らした。

 その声には、自分を蹴り飛ばした祖国への、形容しがたい絶望が混じっている。

「わが帝国が、そのような高度な策を弄し、一人の将校を家族ごと駒に使うような知性と執念を持った組織であり続けていれば、私は今もあちら側で誇りを持って戦っていただろう。……だが、真実はもっと無残で、もっと滑稽なものだ。ヴォルフラム・フォン・リヒター少佐の頭にあるのは、来週のビーチでどの女を隣に座らせるか、ただそれだけだ。私が給油車両の急増を報告した時、彼は何と言ったと思う? 『俺のバカンスを邪魔するな』だ。私は殴られ、鳩尾を蹴られた。……敵の攻勢を予見したという、ただそれだけの理由で、私の忠誠心は軍靴で踏みにじられたのだ。それに、その情報を入手した帝国の諜報員の一人は、君ら憲兵隊に連行された。彼の忠誠に対する母国の仕打ちはこれだ……」

 憲兵曹長が、憲兵大尉に耳打ちする。

(諜報員らしき女、抵抗激しいため射殺)

 ホフマンはテーブルの下で拳を握りしめた。 「家族を連れて夜のノカーナ山脈を越えるのが、どれほど恐ろしいことか、貴殿らにはわかるか? 自国の検問すら突破した!幼い娘が泣き声を上げるたびに、私の心臓は止まりそうになった。工作員なら、もっと効率の良い、安全な亡命ルートを選ぶはずだ。……私は、あんなバカの道連れに家族を殺されたくなかった…………」


 彼の言葉には、捏造された物語では決して到達できない、生々しい「生活」と「屈辱」の臭いがあった。  

 別室でマジックミラー越しにこの様子を凝視していた憲兵責任者リヴァイ中佐は、深く溜息をつき、傍らの書類にサインを入れた。

「……芝居であれを言えるなら、奴は稀代の天才だ。手続きを進めろ。この一家を速やかにゲルマーへ移送し、市民権を与える。彼はもう、十分に苦しんだ」


 しかし、現場の憲兵大尉はまだ納得がいかない様子で、さらなる矛盾点を突こうと口を開きかけた。

 その時、重厚な扉が音を立てて開いた。


 入室してきたのは、第41東亜エウロ臨時混成艦隊司令官、ラッタナ・シリチャイ中将。

 そして、その背後に影のように付き従う、漆黒の制服を纏った「リヴァイアサン中隊」中隊長、カイ・イサギ大佐であった。


 部屋に緊張が走る。シリチャイ中将の放つ威圧感に、憲兵たちは即座に起立し敬礼を送った。

 ホフマンもまた、身体に染み付いた軍人の習性で椅子から立ち上がろうとしたが、全身の打撲と精神的疲労がそれを許さなかった。


「……楽にしてくれ、ホフマン大尉。君はもう、我々の客だ」


 シリチャイ中将が重厚な声で制した。

 中将はホフマンの手元にある紅茶に目をやり、それから彼自身の目を見た。

「君の報告は、私の艦隊に所属する数千の将兵の命、そしてこの戦争の行方を左右する。慎重になることを許してほしい。……だが、君の覚悟は受け取った」


 カイは、シリチャイ中将の横からゆっくりとホフマンの前に歩み寄り、椅子を引いてその対面に座った。

 エースとして数多の戦場で死線を越え、敵味方を問わず「魂の叫び」を聞いてきたカイの瞳は、静かに、しかし深くホフマンを見つめていた。


「……オレ、信じるよ」


 カイの口から出たのは、短く、しかし尋問室の空気を一変させるほどに温かな言葉だった。


「大変だったんだろう? ……味方を裏切るのは、辛いよな。どんなにクソみたいな上官でも、自分が一度でも命を捧げた国を捨てるのは、身を裂かれるような思いだったはずだ。あんたの目は、嘘をつける男の目じゃない。……家族を守るために、すべてを捨てた男の目だ」


 ホフマンの目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。

 エウロの憲兵にどれほど厳しく問い詰められても、リヒターにどれほど暴行を受けても保っていた強情なまでの「軍人としての殻」が、自分と同じく最前線で戦うカイの、飾りのない言葉によって完全に砕け散った。


「……申し訳、ない……。私は、私はただ……あんな男のために……娘を、妻を死なせたくなかった……それだけだったのだ……!」


 軍人とは思えないほどの泣き声を上げて泣き崩れるホフマンの肩に、カイはそっと大きな手を置いた。


「もういい。あんたが命がけで運んできたその情報、オレたちが必ず形にしてやる。……そのリヒターっていう少佐は、オレが倒してきてやるからな。あんたの家族が、ゲルマーで二度と怯えずに、平和に暮らせるように。……ハアリンの空に、終わりの合図を打ち上げてくる」


 カイの言葉は、単なる同情ではなかった。

 それは、一人の戦士が、同じく戦い抜いた男に対して捧げる、神聖なまでの「契約」であった。


 一九八三年八月未明。  

 旗艦『グングニル』の格納庫では、ジョセフ少尉の手によって、漆黒の怪物『アスラ』が蒸気カタパルトの第一射出位置に据え付けられていた。  ホフマン大尉が流した涙と、リヒター少佐の愚行。

 そのすべてが収束し、今、不沈の要塞へと突き立てられる。


「総員、ラ・マルセイエーズ作戦を開始する! 目標、ハアリン沿岸要塞!」


 シリチャイ中将の号令とともに、アスラのマンガニス推進器が青白い咆哮を上げた。

 破壊神は海原を蹴り、約束を果たすために飛び立った。

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