第44話 歓迎
一九八三年七月
揚陸戦艦『グングニル』がセーメライの石造りの港に接岸した時、甲板を叩いたのは歓声という名の地鳴りだった。
1981年12月以来、帝国軍によってルディガゼーラ海峡を封鎖され、メニスカス海は帝国に封鎖され、陸の孤島と化していたこの港町にとって、海峡を血で洗ってこじ開けたリヴァイアサン中隊は、まさに「生きた伝説」だった。
その夜、旧総督府の大広間で開催された舞踏会は、戦時下とは思えぬ狂熱に包まれていた。
中隊の男たちは、エウロ軍から貸与されたエウロ将校用儀礼服に身を包んでいた。
肩からは金色のモール飾緒が重々しく垂れ、各種徽章が光る。
そして、磨き上げられた軍靴が磨き抜かれた床を叩く。
広間の入り口で、カイは足を止めた。
政府が用意したドレスを纏った女性隊員たちが現れたからだ。
「……ミナ?」
カイの口から、掠れた声が漏れた。
ミナ・フェリシア少尉は、義手を隠すような長いレースの袖がついた、淡いブルーのシルクドレスを纏っていた。
普段、凛とした制服姿でインカムを握る彼女が今はまるで別人のように、壊れやすく、そして気高く見えた。
「大佐、そんなに……見ないでください。慣れないドレスで、一歩歩くごとに、墜落するんじゃないかと気が気じゃないんです」
顔を真っ赤にするミナの横では、マイ中尉が真紅のベルベットドレスを堂々と着こなし、扇子を広げていた。
「あら、わたくしにこれを用意したエウロの役人は、なかなか良い審美眼を持っていますわね。大佐、せっかくのわたくしのドレス姿ですわよ。しっかりと、目に焼き付けてくださいませ」
会場では、エウロ軍の将校たちが次々と彼らを取り囲んだ。
軍の暗号電文や、軍のプロパガンダニュース。
そしてラジオ放送による英雄の活躍という断片的な報告、そして何より、ドックに鎮座する、漆黒の『アスラ』の威容が、彼らの想像力を掻き立てていた。
「カイ大佐! 本当なのか、ケルゲレンで一機も失わずに一個大隊を壊滅させたというのは!」
カイは、思いがけず軍の高官達に囲まれて、慣れないゲルマー語で冷や汗をかきながら対応している。
「シュミット少佐、プロパガンダニュースでは、ルディガゼーラ海峡要塞を一個艦隊、一個中隊で落としたとか。一体どんな魔法を使ったのか」
浴びせられる質問の嵐。
カイたちは不慣れな賞賛に戸惑いながらも、運ばれてきた「本物の食事」に、戦士としての本能を揺さぶられていた。
「おい、これを見ろ……合成タンパク質じゃない。本物の、牛の肉だぞ……」
ジョセフが、ナイフを握る手を震わせながら呟く。
「ソースが、舌の上で溶ける……。シュミット少佐、これ食わないなら俺が……」
「馬鹿を言え、サトウ少尉。これは我が故郷に近い味だ。一口たりとも譲らん」
普段は冷静なシュミットも、この夜ばかりは夢中でフォークを動かしていた。
彼らは軍用食という名の「燃料」に飽き果てていた。
この一口の肉、この一切れのパンに宿る、文明の豊かさに、自分たちが何のために戦っているのかを改めて突きつけられていた。
祝宴の狂騒が明けた翌日。
中隊員には、明日の午前9時まで「完全自由」が与えられた。
基地内では二日酔いのエウロ兵たちがパーティーの後片付けに追われている中、カイたちは制服で街へと繰り出した。
セーメライの街並みは、石造りの古い建物が並び、潮風が路地裏を吹き抜ける。
まだ食料事情は厳しいはずだが、市場の人々は「リヴァイアサン」のワッペンを付けた彼らを見つけると、顔を輝かせた。
「あんたたちが、海峡を抜いてくれたんだな!」 一人の老人が、貴重な赤い林檎を三つ、カイの手の中に押し込んだ。
「これは、俺の孫の分だ。あんたたちのおかげで、この子は飢え死にせずに済む。受け取ってくれ」
カイは林檎の重みを感じ、無言で頷いた。
噴水のある広場では、ニルットやアランが子供たちに囲まれていた。
「お兄ちゃん、シュテルツァーの操縦って難しいの?」
「ああ、難しいぞ。特にこのあたり、足のペダルとレバーを同時に動かして、重心を……」
アランが身振り手振りで教える様子を、少し離れたカフェのテラスで、カイとミナは眺めていた。
「……平和ですね。ずっとこうならいいのに」 ミナが、街角のベーカリーから漂う、わずかなパンの匂いに目を細める。
「そうだな。……だが、俺たちが止まれば、この匂いはまた消えてしまう」
カイの言葉に、二人はしばし沈黙した。セーメライの平和は、まだ断頭台の上の、薄氷のようなものだった。
休息は終わりを告げた。
翌朝九時。
セーメライ基地の、冷え切った石壁の会議室。
そこにはシリチャイ中将、ベルナール少将と共に、エウロ軍第3師団長、ジャン=ピエール・ド・ラ・クロワ中将が立っていた。
彼の前には、参謀本部から託された、軍の最高機密を示す封緘命令の司令書が置かれている。
「――諸君、祝祭は終わりだ。現実を見よう」
クロワ中将が封を切り、巨大な紙の地図をテーブルに広げた。
「作戦名、『Opération La Marseillaise』。
「八月、我々は1981年12月以来、帝国に占領されているエウロ最西部の国ヌグメーダへ侵攻する」 中将の指が、メニスカス海の中央に浮かぶターナー島を叩く。
「本来ならターナー島を落としたい。しかし、現在、ターナー島は帝国の不沈要塞と化している。ここを落とさぬ限り、我々の制海権はない。だが、あそこに手を触れれば、帝国は帝都デリ・ガードから全戦力を投入して反撃してくる。……まさに、我々は断頭台へ向かって行進するようなものだ。まだ、手を出せる時では無い」
「ターナー島は、我々にとっても、奴らにとっても喉元のナイフなのだ」
「よってまずは、エウロの完全解放を目指す為に、ヌグメーダを落とす。しかし……」
クロワ中将は、苦々しくパイロットたちの顔を見渡した。
「最大の問題は、機体の数ではなく『パイロット』だ。新型シュテルツァーは増産されているが、その操縦は難しい。並のパイロットでは、敵と交戦する前に転倒して機体を大破させる。今の我々には、あのアスラのような超絶的な機動をこなせるパイロットが、貴公ら以外にいないのだ」
中将は、地図の上に二本の太い線を引いた。 「作戦は二方面だ。ブルーリュからエウロ・大東亜混成五個師団が侵攻する。……そして、ハアリン沿岸要塞都市からの強襲。……ここには、第507特務中隊『リヴァイアサン』。貴公ら、単独で行ってもらう」
「単独!? 中将、本気ですか?」
ナティカ准尉が声を荒らげる。
「ハアリン側には少なくとも帝国軍シュテルツァー一個師団がエース付きで待ち構えているはずです。せめて一個連隊でも支援に……」
「無理だ。混成五個師団は、技量が低すぎる。彼らと足並みを揃えれば、貴公らの神速の機動は死ぬ。……彼らにはブルーリュで『囮』になってもらうしかないのだ。それにな、正直この五個師団で敵二個師団に当てても危うい位なのだよ」
「エウロ、大東亜の精鋭を集めたと言っても、現状、この程度の戦力しか集まらないのだ。シュテルツァーパイロットも熟練兵が少なすぎる。この戦争初戦の被害が大きすぎた」
会議室に、凍りついたような静寂が流れる。
だが、その静寂を破ったのは、カイの乾いた笑いだった。
「……いいですよ。味方がいない方が、気が楽だ。守る必要が無い分、全力で踏み込める」
「あら、大佐。わたくしも同意見ですわ。不慣れな部隊を横に置くのは、踊りのステップを乱されるようなものですもの」
マイ中尉が、昨日までのドレス姿とは打って変わった、冷酷な戦士の眼差しで言い放つ。サカモト中佐も、黙って深く頷いた。
だが、ミナだけは、地図の上に両手を叩きつけた。
「……皆さん、馬鹿なこと言わないでください! 中将閣下! お願いします! ハアリンは補給の難所です! 上陸後三日も持たず、当中隊の弾薬と燃料は空になります! 物資を、補給の確約だけはお願いします。 どんなにエースでも、物資が無ければ私たちは死ぬんです!」
ミナの悲痛な叫び。
それは、愛する者たちを死地へ送らねばならない者の、せめてもの抵抗だった。
クロワ中将は、その眼差しに打たれたように、深く頷いた。
「もちろんだとも。約束しよう、フェリシア少尉。貴公らがヌグメーダを解放するための、物資は、我らエウロ軍第三師団が命に代えても用意する」
作戦実行は1983年8月。
セーメライの青い空の下、しばしの休息の日々が訪れた。
オマケ
セーメライの旧総督府大広間は、戦火の絶えぬエウロにおいて、そこだけが切り離された別世界のような輝きを放っていた。
豪奢なシャンデリアから降り注ぐ光は、磨き抜かれた大理石の床に反射し、オーケストラが奏でるワルツが重厚な石壁に反響する。
だが、その華やかな空気のなかで、第507特務中隊の隊員たちは、ある意味で戦場よりも苛烈な「有事」に直面していた。
「……あらぁ、大佐。そんな隅っこで、壁の花になるつもりかしら?」
カイ・イサギ大佐の背後から、芳醇な赤ワインの香りと共に、しっとりと甘い声が届いた。
振り返ると、そこにはニュエン・フォン・マイ中尉が立っていた。
真紅のベルベットドレスは、彼女の白い肌を残酷なまでに際立たせ、大胆に開いた胸元には金のネックレスが揺れている。
カイが何か答える間もなく、マイは彼の腕を強引に掴むと、近くの高級な革張りのソファへと引きずっていった。
「ちょ、マイ中尉? 酔ってるのか?」
「……ふふ、気分が良いだけですわ。さあ、お座りなさいな、大佐」
逆らえない力で椅子に押し込まれたカイは、目の前の光景に息を呑んだ。
マイは、優雅な手つきでグラスを傾けながら、わざとらしくカイの目の前で足を組み替えた。
スリットから覗く滑らかな脚が、シャンデリアの光を浴びて艶めかしく光る。
「……大佐、わたくしの今日の装い、まだ感想をいただいておりませんわ。どうかしら? このヌグメーダ産のシルクは。貴方の好み……かしら?」
マイは上目遣いにカイを見つめ、さらにもう一度、ゆっくりと足を組み直した。
衣擦れの音が、カイの耳元で爆発音のように大きく響く。
30mmをぶっ放す時の彼女とは正反対の、毒を含んだ蘭のような色気。
カイは視線のやり場に困り、手元のワインを煽った。
「あ、ああ……綺麗、だと思う。……いや、その、似合っている」
「……『思う』だけ? もっと近くで、細部まで見てくださってもよろしいのよ?」
マイがカイの肩に体重を預け、その耳元に熱い吐息が触れた、その時だった。
「――カ・イ・大・佐!!!」
広間の反対側から、凄まじい「殺気」が飛んできた。
そこには、先ほどまでエウロ軍の若手将校たちに囲まれ、まるで物語の姫君のようにチヤホヤされていたミナ・フェリシア少尉の姿があった。 彼女は周囲の「エウロの騎士様」たちを無言で撥ね退けると、正装の裾を翻し、まさに全速力で突進してくる蒸気機関車のような勢いで二人の間に割って入った。
「何してるんですか、大佐! 仕事中ですよ!」 「……ミナ、いや、今はパーティーだし、仕事は……」
「黙りなさい! マイ中尉! あなたもです、そんな破廉恥な格好で大佐をたぶらかして、何が楽しいんですか!」
ミナの剣幕に、周囲の給仕たちが凍りつく。
しかし、酔いの回ったマイは、どこ吹く風とばかりに再び足を組み替えた。
今度はさらに深く、カイの視界を塞ぐように。
「あらぁ、ミナちゃん。貴女こそ、あちらの騎士様たちと楽しく踊っていればよろしいのに。大佐は今、わたくしのドレスの『鑑定』をしてくださっているのですわよ」
「鑑定!? どこをどう見たらそうなるんですか! この泥酔マシンガン娘!」
「……ふふ、嫉妬は見苦しいですわ。大佐、このパーティーが終わったら、わたくしの部屋で飲み直さないこと? このドレス、脱ぐのが大変なんですの。……着替え、手伝ってくださる?」
「き、着替え!? 手伝い!?」
ミナの顔が、ドレスと同じくらい真っ赤に沸騰した。
「バカじゃないの!? カイ! 大佐! この……この、エロオヤジ!浮気者! ほら、変なこと考えてないで、これを飲みなさい!」
ミナはテーブルからひったくったワインボトルを、カイの口元に押し付けた。
カイは溺れそうになりながらも、彼女の「よくわからない怒り」に押され、言われるがままに赤ワインを流し込む。
一時間後。
三人の周りには、もはや誰も近づけなくなっていた。
かつてルディガゼーラ海峡で敵軍を震え上がらせた第507特務中隊 リヴァイアサン精鋭将校たちも、この三人の放つ異様なオーラに顔を引き攣らせ、遠巻きに眺めるのが精一杯だった。
「マイ――! あなた、大佐の何なんなんですの!? あまり干渉しないでくださる?」
ミナは三本目のボトルを空け、呂律が怪しくなりながらもマイの口調でマイの肩を揺さぶる。 「あらぁ……干渉? 必要なケアですわ。大佐はわたくしの、ドレスが……気になっているのですもの……ねぇ、大佐ぁ?」
マイはカイの膝に完全に頭を乗せ、トロンとした目でカイを見上げている。
「えーと、うーん……ワイン、美味しいね……」 カイの視線はもはやどこにも定まっていない。
ミナに飲まされ、マイに誘惑され、極限のストレスとアルコールの奔流に流された結果、脳内は「アスラ」の操縦席よりも混沌とした状況に陥っていた。
「婚約者よ!」
突然、ミナが叫んだ。
「え? ミナちゃん、今なんて……?」
「大佐は! 私の! 婚約者なんです! だから、変な着替えの手伝いとか、禁止! 禁止です!」
「あらぁ……そんなお安い作りのプロパガンダには騙されませんわ。大佐、本当のことをおっしゃいな?」
二人の女性の視線が、火花を散らしながらカイに突き刺さる。
「カイ! 何とか言いなさいよ!」
「う、うーん……あ、赤ワイン……あと一本……」
カイは逃避するように、テーブルに転がっていたボトルを掴んだ。
その三人の足元には、いつの間にか十数本の空ボトルが転がり、まるで撃破されたシュテルツァーの残骸のように無惨な姿を晒していた。
翌朝。
午前8時。
セーメライの柔らかな陽光が、中隊宿舎の窓から差し込んでいた。
宿舎の廊下で鉢合わせたカイ、マイ、ミナの三人は、驚くほど「普通」だった。
三人とも、昨夜の狂騒を嘘のように洗い流した、清潔な軍服姿。
ただ、三人とも少しだけ顔色が青白く、お互いに目を合わせようとしない。
「……おはよう、大佐。昨夜は、お疲れ様でした」
ミナが、少し掠れた声で挨拶する。
「……ああ。おはよう、ミナ。……何か、あったか?」
「いえ……私もあまり、記憶がはっきりしなくて。ただ、すごく喉が痛いんです。叫びすぎたような……」
「あら、奇遇ですわね。わたくしも、なぜか足の筋肉が妙に凝っていますの。何度も組み替えたような、変な感覚……」
マイも、いつもの冷静な表情で首を傾げた。
三人は、お互いに「昨夜、自分たちが何を口走ったか」を全く覚えていなかった。
ただ、得体の知れない疲労感だけが残っている。
その背後で、廊下の角から彼らを眺めていたのは、ラインハルト・サカモト中佐だった。
彼の隈の浮いた目は、昨夜の壮絶な後片付けを物語っている。
「……副長。昨夜は、お疲れ様でした」
通りすがりのジョセフ・カサイ少尉が、サカモトの肩を叩いた。
「……気にするな。だが、次からはあのアホ三人が飲み始める前に、麻酔銃でも用意しておけ」
昨夜、泥酔して「婚約者だ!」「着替えを手伝え!」「ワイン持ってこい!」と暴れる三人。
エウロ軍の高官たちが逃げ出した後、サカモトは溜息をつきながら号令を下したのだ。
『全員、作業開始! 暴れる大佐をジョセフとシュミットで押さえろ! マイ中尉はナティカとアランで担げ! ミナ少尉のボトルの奪還はタケシ、お前に任せる! 部屋まで放り込め!』
中隊員全員で、泣き、笑い、怒る「英雄たち」をそれぞれ抱え、宿舎まで運び入れた。
その道中、カイが「アスラ、発進……」と寝言を言いながらシュミットの顔を殴り、ミナがサカモト副長の首を「浮気者ー!」と叫びながら締めたことは、第507中隊の最高機密として封印された。
「……記憶がないというのは、時に幸福なことだな」
サカモトは、仲良く連れ立って食堂へ向かう三人の後ろ姿を見送りながら、深く、長い溜息を吐いた。
彼らが次に赤ワインを飲むのは、ヌグメーダの地を解放した、その時になるだろう。
もちろん、その時は「三人の酒量を制限する」という副長命令が下されることは、言うまでもなかった。




