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第34話 暖炉

 シュミット少佐は、鋼鉄の意志を胸に軍靴を鳴らしていた。


 その手には、自室で幾度も計算し直し、精密な製図用万年筆で書き込まれた「改善案」が握られている。

 彼の脳内では、ヴァジュラのシュテルツァーをいかに迎撃するかという戦略的思考では無く、「最適化された暖房効率と家族の動線」という住環境的思考が占めていた。


「……あり得ん。断じてあり得んのだ、カイ大佐」


 シュミットは通路の鏡に映る自分の顔を見た。 

 鉄の規律を体現したような、エウロ・ゲルマ・リキの軍人の顔だ。

 だが、その瞳にはこれまでにない使命感が燃えている。


 認めよう。

 カイ・イサギは人類の至宝だ。

 アスラを駆るその技量は神域にあり、戦闘においてシュミットが彼の上を行くことは万に一つもないだろう。

 だが! こと「暖炉」と「家族の団欒」という戦場において、あの大佐はあまりにも無防備、いや、無知に過ぎる!

 なんだあの、カタログから切り抜いた写真は!

 耐火レンガを積んだだけの素材だと……? 蓄熱性を無視するにも程がある。

 それでは薪の消費ばかりが増え、部屋が温まる頃には夜が明けてしまうではないか。

 それに、あのリビングのコーナーという配置……


 シュミットは歯噛みした。

 暖炉は家の心臓だ。家族が集まる円の中心であるべきだ。

 料理をしながらミナ少尉と談笑し、その温もりが家全体に行き渡る設計……。大佐はエースだが、生活の素人だ。

 私が教えねばならん。ゲルマーの血を引くこの私が!


 あいつは大佐になった。

 どこに家を建てようと、英雄としてそれなりの広さを確保できるはずだ。

 広大な土地があるのなら、なぜその空間を最大限に活かした「センター・暖炉」にしないのか。 

 なぜ、部屋の隅でひっそりと火を焚こうとするのか。


 それは敗北主義だ。家造りにおける、敵前逃亡に等しい!


 シュミットは中隊隊長室の前に立った。

 一度、深く深呼吸をする。

 心臓が愛機のジェネレーターのように激しく脈打っている。

 ヴァジュラ帝国の鋼鉄の嵐に飛び込む時でさえ、これほど緊張したことはなかった。


 だが、これは友のためだ。

 いつか戦火が止み、彼らがその手にするはずの幸福を、機能不全な間取りによって台無しにさせるわけにはいかない。


(がんばれ、俺。がんばれ、シュミット少佐。これは……もう一つの聖戦だ)


 自分を鼓舞し、彼は力強く、かつ礼儀正しく、隊長室のドアをノックした。


「失礼します! シュミット少佐、緊急の……いえ、極めて重要な提案があり参りました!」


 その手にある修正案には、床暖房の配管経路まで書き込まれていた。


 シュミット少佐の決死のノックによって開かれた扉の先で、人類最強のパイロット、カイ・イサギ大佐は「人生最大の敗北」を認ざるを得なかった。


「――なんだと。結露、だと……?」


 隊長室に、カイ・イサギ大佐の、戦場でも聞いたことのないような戦慄した声が響いた。

 彼の前には、机一杯に広げられたシュミット少佐特製の「修正図面」がある。

 そこには熱力学的計算に基づいた暖気の対流経路が、赤い矢印で無慈悲なまでに書き込まれていた。


「そうだ、大佐。配置を誤れば、家の壁面は冷気と暖気の衝突地点となり、水分が停滞する。それは愛する妻――失礼、ミナ少尉を悲しみの底へ突き落とす、住環境における『側背からの強襲』だ」


 シュミットの言葉が、カイの胸を鋭く射抜いた。  

 カイは自身の掌を見つめた。

 この手で数多の敵機を墜としてきた。

 だが、自分は薪の備蓄場所さえ考えていなかった。

 もし、薪を外に置けば、雪の日にミナが凍えながら取りに行かねばならない。

 もし、角に暖炉を置けば、子供まだいない(いない)が寛ぐスペースなど、アスラのコクピットよりも狭くなるだろう。


「……なんということだ。俺は、戦う前から敗北していたのか」


 カイはよろりと椅子に深く腰掛けた。  

 家族が暖炉の前で団欒できない家。

 それは、戦略的に見れば「拠点の全滅」に等しい。

 自分は英雄と呼ばれながら、守るべき最小単位である「家庭」の防衛線において、致命的な戦術上のミス(暖炉の配置)を放置していたのだ。


「少佐……。君の指摘がなければ、俺は最愛の家族を死地(暖炉が角にある)に叩き落とすところだった」


 カイは弾かれたように立ち上がると、シュミットの目を真っ直ぐに見つめた。

 その瞳には、かつて要塞を陥落させた時以上の、凄まじいまでの「戦意」が宿っていた。


「少佐! 君の力がなければ、俺はこの戦い(暖炉の配置)に勝つことはできない。勝利のために、力を貸してくれ!」


 その言葉を、シュミットは直立不動の姿勢で受け止めた。彼の眼鏡が、部屋の灯りを反射して鋭く光る。


「もちろんだ!大佐! 我らゲルマーの叡智は、常に勝利のためにある! まずは、配置、配管、耐火素材、そして薪の種類――ナラ、クヌギ、それとも火付きの良い針葉樹か。その知識のすべてを完全に掌握してもらおう!」


「ああ! 掌握しようとも! 家族の団欒という名の勝利を掴むまで、俺は退かない!」


 深夜、特務中隊の佐官二人は固い握手を交わした。  

 机の上には、もはや戦術地図など一枚もなかった。

 ただ、理想的な「センター・暖炉」を中心に、犬の寝床と子供の遊技スペース、そしてミナが最も美しく見えるキッチンの動線が、鋼の意志で描き込まれていく。


 これが、後に大いに必要になる、熱き伝説の幕開けであった。


 数時間後

「失礼します、カイ。……って、何やってるの?」


 ミナが差し入れのコーヒーを手に部屋に入ってきた。

 だが、彼女はすぐに立ち尽くした。

 デスクの上には、昨夜まであった「カタログの切り抜き」は一枚もない。

 代わりにあったのは、ミリ単位で精密に描き直され、まるで最新兵器の構造図か、あるいは古代の聖典のような重厚さを放つ「住宅改訂案 最終作戦計画書」だった。


「これ……どうしたの? 昨日の設計図と全然違う……」


「ミナ。俺は今まで、無知だった」


 カイはクマの浮いた目を見開き、しかし極めて真剣な声で告げた。

「これまでの案は『死地』だった。結露という名の側背からの強襲に対し、何の備えもなかったんだ。だが、シュミット少佐の指導により、俺は暖房効率を完全に掌握した」


 ミナは、カイが指し示す図面を覗き込んだ。

 そこには、家の中央に鎮座する巨大な暖炉(センター・暖炉)を中心に、赤い線で熱の対流が計算され尽くしていた。

 だが、ミナが言葉を失ったのは、その「機能性」に対してではない。


「……ねえ、カイ。この、暖炉の横の小さな四角いスペースは?」


「そこは『犬の待機位置』だ。薪の搬入路を妨げず、かつ家族の団欒の輪に加われる最適解だ。それからこっちの……」


 カイの指が、さらに小さな、しかし日当たりの良い一角を指す。

「ここは、子供が遊ぶためのスペースだ。キッチンにいる君からも視認しやすく、かつ暖炉の直撃熱を避けた後方の非戦闘区域として設定した」


 ミナの銀の義手が、わずかに震えた。

 カイは徹夜で、まだ飼ってもいない犬や、まだ授かってもいない子供、そして何より「そこにいる自分」が、いかに快適で、いかに安全に過ごせるかを、戦術を練る時と同じ――いや、それ以上の熱量でシミュレートしていたのだ。


「……バカね。子供だなんて、まだ先の話なのに」


 ミナは顔を背けた。

 だが、赤く染まった耳たぶまでは隠しきれない。

 困惑はあった。

 あまりにも極端で、あまりにも生真面目すぎる「エースパイロットの家造り」。

 けれど、その図面の一本一本の線から、カイの不器用で、しかし底なしに自分への愛情を感じる。


「……でも、この配置なら。私、毎日お料理するのが楽しくなりそう」


 ミナはそっと、図面の上に自分の手を重ねた。

 冷たい図面が、なぜか温かく感じられた。

 それはシュミットの計算した暖炉へのこだわりと、カイが計算した効率的な家庭環境の合同作戦による熱量であった。


「……約束よ、私のエースパイロットさん。この図面の通りに建ててくれなきゃ、許さないんだから」


「ああ。任せてくれ。この図面の内容はすでに掌握した。必ず、君をこの場所へ連れて行く」


 二人の間に流れたのは、戦場の硝煙でも重油の匂いでもない、未来の暖炉で焼けるパンのような、甘く香ばしい予感だった。


 シュミットは、自室へ戻る道すがら、角を曲がったところで足を止めた。  

 先ほど、カイの部屋から出てきたミナ少尉とすれ違った。

 彼女は手にした「シュミットがダメ出しして、カイが一から作り直した修正図面」を胸に大切そうに抱え、朝露に濡れた花のような、形容しがたい幸福な笑みを浮かべていた。


「…………よし」


 シュミットは、誰にも見られないことを確認してから、自身の胸元で小さく、しかし鋼のように硬い「ガッツポーズ」を繰り出した。

 ゲルマーの男たちが、会心の作戦を完遂した時にのみ見せる、無骨な勝利の儀式である。


 彼は自室に戻ると、仕立て直されたばかりの少佐の軍服を丁寧に脱ぎ、椅子にかけた。  

 デスクの上には、書き損じた数枚の熱線対流図が散らばっている。

 昨夜、彼はカイに教えながら、自分自身も熱い思いを楽しんでいた。


「結露という名の奇襲。配置ミスによる全滅。……大佐は、見事にそれらを回避する(すべ)を掌握された」


 シュミットは、棚の奥から一本の古びたボトルを取り出した。  

 エウロ・ゲルマ・リキの故郷から持ってきた、琥珀色のシュナップスだ。

 戦時下において、彼は決して任務前に酒を口にすることはない。

 だが、今日だけは別だった。


 小さなグラスにそれを注ぎ、朝日が差し込む窓辺に立つ。  

 視線の先には、バルラート海。

「後背からの奇襲による敵殲滅圏にいる戦友」を救い出せたこと。

 それは、撃墜スコアを稼ぐことよりも、はるかにシュミットの胸を熱くさせていた。


「英雄が、戦い終わった後に帰るべき場所……。そこには、蓄熱性の高い暖炉と、笑い合う家族がいなければならん」


 シュミットは独りごちると、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。  

 鼻に抜ける強いアルコールの香りと共に、一つの光景が浮かぶ。  

 数年後、雪の降る異国の地で、カイとミナ、そして子供と犬が、自分の設計した「センター・暖炉」を囲んでいる姿。

 自分はその家のテラスで、彼らに「薪の乾燥が甘い」と小言を言いながら、最高のコーヒーを振る舞われている。


「……計算通りだ。……完璧だ」


 シュミットは満足げに目を細めると、空になったグラスを磨き上げた。  

 その顔には、破壊神アスラの尖兵としての冷徹さは微塵もなく、ただ一人の友の幸せを「物理的・技術的」に保証しきった男の、誇らしげな充足感が溢れていた。


 翌日


「大佐。薪の種類は掌握したな」  

 シュミット少佐は、手にした斧の刃を親指でそっとなぞりながら、厳しい教官の視線で問いかけた。


「ああ、バッチリだ。ナラ、クヌギは蓄熱性に優れ、針葉樹は火付けに適する。戦略的備蓄(薪棚)の重要性も理解している」  

 カイ・イサギ大佐は、アスラの操縦桿を握る時と同じ鋭い眼光で応えた。


「よろしい。……では、このミズナラを割ってもらおうか」


 シュミットが指し示したのは、年輪が密に詰まり、重戦車の装甲板を思わせるほど頑強なミズナラの丸太だった。

 カイは無言で斧を構えると、アスラの超高速機動を彷彿とさせる一撃を叩き込んだ。


 ――ガツンッ!


 鈍い音が響き、斧の刃は丸太の表面で跳ね返された。

 ビクともしない。ヒビ一つ入らない。


「なにぃ……! この、俺が……!」  

 カイの顔に戦慄が走った。

「連邦トップエースだと、俺は傲慢だった……! 敵艦隊を沈めたこの俺が、ミズナラを割ることすらできないなんて!」


「甘いな、大佐」  

 シュミットが冷徹に告げた。

「ミズナラを腕の力だけで割ろうなど、戦力の逐次投入にも似た愚行なのだ。正面突破では、この天然の要塞は落とせん。そして腕では無い!腰だ!全身全てを使わねば逆包囲(斧が跳ね返)されかねん」


 シュミットはカイの隣に立ち、丸太の天面を指差した。

「見ろ、ここにある微かなクラック(ひび割れ)を。ここが敵陣の『脆弱点』だ。斧の重量という重力加速度を一点に集中させ、防衛抵抗を物理法則で殲滅するのだ」


「重力加速度の、集中……!」


「そうだ。薪割りは破壊ではない、素材との『対話』だ。大佐、あなたの反射神経なら、この丸太の繊維が悲鳴を上げる『臨界点』が見えるはずだ」


 カイは再び斧を握り直した。今度は力んでいない。  

 呼吸を整え、丸太の「急所」を見据える。

 シュミットの教えが、カイの脳内の照準器に、完全に敵機(ミズナラ)を捕捉させる。


「……敵機捕捉。行くぞ、少佐!」


 シュバッ、という鋭い風切り音。  

 次の瞬間、鉄壁のミズナラは、まるで後背からの奇襲を受けたかの如く真っ二つに分かたれた。


「……見事だ、大佐。今のは、完璧な撃墜だった」


「ああ。……ミズナラ攻略、完了だ」

 友である大佐と少佐。

 彼らを照らす太陽は、この時だけは粉塵が晴れ

彼らの勝利を讃えるかのように穏やかな陽光で照らしていた。


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