第31話 果たされない復讐
海中、水深十七メートル。
そこは光の届かぬ、静謐と水圧が支配する濃紺の世界だった。
二機の魔獣――『クラーケオス』と『クラーケン』は、微かな駆動音さえ殺し、第41大東亜エウロ臨時混成艦隊の巨大な腹を見上げていた。
前方を進行する揚陸戦艦のスクリューが、重低音を撒き散らしていく。
時速にすれば四十キロ程度の、あまりにも無防備で鈍重な「亀」の行進。
対する彼女たちの機体は、短時間であれば最大時速二百キロの雷光となって海を裂く「狩人」だ。
牙を剥けば、あの巨大な鉄の塊を沈めることなど容易い。
マリスからの無線が、ノイズ混じりに割り込む。
「敵旗艦、揚陸戦艦『グングニル』捕捉。船底沈下位置、第8目盛りを突破。シュテルツァー積載艦と断定」
「揚陸重装巡洋艦1、第3目盛り。シュテルツァー1から2。予備機搬送と予測。……続き、駆逐艦4、輸送船6、病院船1」
「お姉さま、やりましょう……!」
全滅したマリス中隊の周波数――1356.98に、マリスの震える声が響く。
「奴ら、あんなにノロマに泳いでいる。……今なら、あの艦底に私のすべてを叩き込めますわ!」
(燃料は補充すらされていない。内部予備増槽の交換がされているだけ。戦闘機動なんて望めない。各部が軋んでいる。マンガニスの補充も、整備も……全休止予定の機体は、常に後回しなんだもの。そう、マリスだって同じはず)
アンジャリは、粉塵に霞む計器を睨みつけた。
「待ちなさい、マリス。……落ち着くのよ」
「なぜですの!? 私だって、刺し違えてもいい。死んでも構いませんわ! 部下を、家族を殺されて、このまま逃げるなんて耐えられない!」
絶叫に近い拒絶。その時、マリスのコクピットに澄んだ音が響いた。
――カツーン。
アンジャリからの低被探知ソナー。
味方にだけ向けるその繊細な響きは、「お願い、私の話を聞いて」という、痛いほど優しいアンジャリの祈りにも聞こえた。
「あなたの機、燃料は足りてる?」
「それは………………21ですわ」
対艦シュテルツァーの常用燃料計は100、外洋仕様で最大1000。
21という数値は、即刻の帰還を命ずる死神の宣告に等しい。
「その状態で、どう戦うつもり?」
「『スキュラバイト』か、『アビスホールド』を使いますわ!」
逡巡せずに即答するマリス。
「使えば駆動系はロックされ、燃料切れでそのまま沈降する。犬死にね。燃料が足りなければ作動すら怪しいわ。それにアビスホールドで敵基地まで潜入するつもり? 三日間、天地が反転する地獄で意識を保てると? 相手は単艦ではないの。『艦隊』なのよ」
『スキュラバイト』
――マンガニスクリンチャー(高圧抓力発動機)を臨界駆動させ、鋼鉄の八脚で船底を握り潰す狂気の機動。
船体そのものが圧壊する断末魔は、万に一つ生還したとしても、生存者の精神を永遠に病ませるという。
爆発的にマンガニスを消費し、駆動系への負担が大きいため、使用後は短時間脚部ロックがかかる。
通常は僚機による曳航索の接続が必須とされる。
『アビス・ホールド』
――高出力電磁吸盤と物理アンカーによる強制接舷システム。
一度この「抱擁」を許せば、いかなる回避機動も無意味となる。
だが、逆さ吊りで張り付くパイロットは天地反転の姿勢を強いられ、重力と平衡感覚の地獄に身を投じることになる。
「いいわ! 奴らと一緒に深海へ沈むなら本望です! 副長も、あの子たちも……もう、誰も居ないんですもの!」
「わたしは嫌よ」
アンジャリの、絞り出すような声だった。
「バカね……私は大切なものを、全部失ったばかりなの。でも、そこにあなたという妹が現れた。それが絶望の底にいた私にとって、どれほどの希望になったか分かる?」
「お姉さま……うっ、うっ……」
「あなたの復讐の邪魔をしてごめんなさい。でも、今は耐えましょう。絶対に、奴らは許さない。地獄の果てまで追い詰めて、その喉元を食いちぎってやる。……でも、それは『今』じゃないの」
アンジャリは震える手で防護カバーを跳ね除け、射出レバーを引いた。
――ガキンッ。
鋼鉄のワイヤーが暗い海を走り、マリスの機体へと食らいつく。
「死なせないわ。これ以上、私に大切な人の死を……大好きな妹の死を見せないでちょうだい」
「お姉さま、お姉さま……! ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
マリスの咆哮が無線から溢れ出した。
それは亡き家族への決別であり、生きることを選ばされた苦悩の絶叫だった。
曳航索に繋がれた二機の航跡は、敵艦隊の進路を切り捨て、ゲヘナ大陸最南端――カペルタニア基地を目指して加速を始める。
「行きましょう。カペルタニアまで、絶対に離さない」
「……はい……お姉さま……あり………がと……」
(……ごめんなさい、シグルド。あなたの仇を討ちたいけれど、私には守るべき妹ができてしまったの。私はどうすればいいの……?)
背後の敵艦隊から届くスクリュー音が、次第に遠ざかっていく。
一筋の曳航索に繋がれた二機の魔獣は、互いの心音を感じ合うように、静かに、そして力強く、復讐のその先へと航跡を刻み続けた。
聖都デリ・ガート。
帝国参謀本部地下、戦略会議室。
分厚い石壁に囲まれた部屋には葉巻の煙が滞留し、壁の戦況図は、ケマネアリ基地の喪失を「赤」という絶望的な色で塗り潰していた。
「……ケマネアリは落ちた。兵站の心臓部を、あの『阿修羅』一機に握り潰されたというわけだ」 「中隊規模との報告も入っております。第507中隊……ケマネアリとケルゲレンを短期間で陥落させる、化け物どもの集団ですな」
一瞬の沈黙。葉巻が「じじっ」と燃える音だけが響く。
「問題は、辛うじて生還した二機の対艦シュテルツァーだ。サマセット大尉とアイスグリム中尉……残存戦力はわずか二機。もはやまともな作戦行動は不可能。使い道などあるまい」
「左様。だが、彼女たちは単なる生き残りではない。アンジャリ・サマセット大尉。エウロのケルゲレン島要塞侵攻作戦の英雄。艦船撃沈数71、要塞2。そしてマリス・アイスグリム中尉。ルディガセーラ海峡遭遇戦の英雄。艦船撃沈数68。二人ともシュテルツァー撃墜スコアが0なのは、艦船ごと沈めているからカウントされていないだけだ。帝国が誇る二大エースを無意味に使い潰すわけにはいかぬ」
白髪の参謀総長が、銀縁の眼鏡を押し上げた。 「……中央に戻し、ヴォルガ・ゼ・ザルニカ准将の下で特別中隊を組織させる。戦意高揚を目的とした、プロパガンダの象徴たる『エース・オブ・エース中隊』だ」
提示されたリストを、将官たちが覗き込む。 「壮観ですな。だが総長、これほどのアクの強い連中を御せる人間など、この軍に存在するのですか?」
答えは誰もが知っていた。あるいは、その名を口にするのを恐れていた。
「……いないな。そんな怪物、この軍には存在しない」
総長が、戦況図の端に貼られた『漆黒のアスラ』を見つめる。
「……あの、カイ・イサギを取り込めれば話は別だがな」
比較対象は常に「阿修羅」という圧倒的な現実。
次に技術将軍から提言があった。
「V-SP01 ガジャの後継機『V-SP02 ガジャ・Mk-II重四脚型』についてです。当機は、エリート部隊専用の機体ですが、マライカにおいて、旧式機一機に一個大隊が壊滅させられました。参謀総長より、『深刻な欠陥の可能性大』との提言があり、生産停止にして、当機の実地検証をしていたのですが、『問題無し』との結論に至りました事を報告させていただきます」
「敵パイロットが、あのカイ中佐とは聞いている。つまるところエース仕様プロトタイプを除けば、ガジャ・Mk-IIは我が国最強機種であろう?」
「は、参謀総長の仰るとおりにございます」と、技術将軍は、参謀総長に理解を得た事に内心『当然だ』とばかりに葉巻を燻らせた。
「言いたい事は分かる。ガジャ・Mk-IIの生産再開を許可する。しかし、エリート専用機は、機体よりもパイロットの確保が難しい。カイ中佐か、何とも忌々しい」
参謀総長は、ふと何かに気がつき先ほどの議題に出たエース中隊の話を再開する。
「――あの中将を復役させるのはどうか?」
「例の亡命将校ですか。しかし奴はアザリア人……忠誠心は砂よりも脆いのでは?」
「それで良い」
総長は冷徹に地図の西側を指した。
「アングロ・アメリ・ユニス……あの巨大な大陸を陥落させるまでに編成を完了させよ。AAUを落とせば、全方位から敵を真綿で締め上げる『聖裁』が完成する。奴らの同盟を根底から断ち切るのだ。慎重に、かつ完璧なタイミングで『ゲルマーの亡霊』が率いる最強中隊を戦場へ放流せよ――」
総長の指示を受け、情報将軍が押し殺した声で告げた。
「了解いたしました。……ただ一点、上申を。大東亜およびエウロの諜報網は、第二次大戦時よりその謀略において世界最高峰の練度を誇ります。我らのプロパガンダなど、奴らは即座に見破るでしょう。……我々が、薄氷の上で踊っているに過ぎないことを」
情報将軍の声は、総長の不興を恐れ、低く、湿り気を帯びていた。
だが、その場にいる誰もが彼をなじることはなかった。
それは、誇り高い帝国将校たちが最も直視したくない「冷酷な事実」だったからだ。
その静寂を打ち破るように、陸軍元帥が仰々しく立ち上がり、手元の書類を卓上に広げた。
「……さて、暗い話はそこまでにしましょう。続いてAAU方面の戦況報告に移らせていただきます」
元帥の口から語られる対アメリ――AAU戦域の報告――それだけが、この部屋に集まった将官たちの肥大化した万能感を、唯一満足させる処方薬であった。
大東亜やエウロを相手にした際の遅滞が嘘のように、AAUの広大な版図は、帝国の進軍によって着実に塗り潰されている。
彼らにとって、AAU戦線はただの「蹂躙」と「収穫」の場に過ぎないのだ。
その傲慢な勝利の報告を背景に、ケマネアリから帰還した二人のエースの処遇は淡々と決定されていく。
命からがら基地へ辿り着いた姉妹。
そして聖都の暗がりで、彼女たちを『供物』として祭り上げる参謀本部。
アンジャリとマリスの復讐は、本人の意志を離れ、不気味な儀式のように練り上げられていった。




