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第23話 悲しき勝利

 揚陸戦艦グングニルの帰還後のドックは、勝利の喧騒が嘘のように、重苦しい静寂と重油の匂いに包まれていた。


 第507特務中隊の面々は、文字通り「泥のように」眠りについていた。サカモト少佐はタラップの途中でいびきをかきながら力尽き、マイ少尉は座席に深く沈み込んでいる。

 誰もが戦場の高揚感から切り離され、ただの「疲れ切った子供たち」に戻っていた。

 そんな中、ミナだけは動いていた。義手の駆動音を小さく響かせながら、彼女は自分を救ってくれた機体――カイの『アスラ』へと向かった。


 整備兵に労いの言葉をかけてからハッチを開けると、むせ返るような熱気と、カイの汗、そして焼けた電子機器の匂いが鼻を突いた。

「お疲れ様、アスラ。……カイを、守ってくれてありがとう」

 ミナは湿った布を手に、血と汗に汚れ、計器の隙間にマンガニスの粉塵が入り込んだコクピットを丁寧に拭き始めた。

 カイがどれだけ激しい操作をしたのか、歪んだ機器の数々がその壮絶さを物語っていた。


 ところが、照準モニターの脇、本来なら予備のヒューズボックスがあるはずの影に、不自然に貼り付けられた「何か」を見つける。


「え……?」


 ミナの指が止まった。

 そこには、ビニールで丁寧に防水加工された写真が貼ってあった。

 よく見ると、正面モニターの横にも一枚、さらにパイルバンカーリロードギアの隣にも一枚、まるで掲げるように貼ってある。

「わた、わた、わたしの写真!? しかもこれ、いつの……?」


 ミナは絶句した。

 一枚目は、彼女が入院していた頃のものだった。

 病室の窓辺でぼんやりと外を眺めている、自分でも記憶にないほど「くたびれたパジャマ姿」の横顔であった。


「どうして……こんな、やつれた顔の私を……」


 困惑しながら見た二枚目。

 ミナの顔が火が出るように赤くなった。

 それは彼女が寝返りを打った瞬間だったのか、パジャマのボタンが外れ、はだけた胸元が露わになっている写真であった。

 それはミナが許せる範囲、ギリギリの露出であった。

「な、ななな、何を見ているのよカイ!! しかもこれ、完全に無防備じゃないの!!」

 病床で生死を彷徨い、身なりに構えなかった時期の、生々しいまでの「何も飾っていない素のままの自分」。

 カイは、戦場という「死」の隣で、この「最も無防備で、最も生きたいと願っていた頃のミナ」を眺め続けていたのだ。

 三枚目は、病室で寝ているミナの顔だけを大きく写した写真であった。


「信じられない……。こんな恥ずかしい写真を貼っているなんて……」

ミナは膝をつき、顔を覆った。

 辱められた怒りよりも先に、胸を締め付けたのは、切なすぎるほどのカイの愛情であった。

 カイは、この写真を見るたびにミナを想い、その姿をパイルバンカーの衝撃と共に心へ刻み込んでいたのだ。


「……バカ。……大バカ。こんなの、落ち着いて戦えるわけないじゃない」


 ミナは二枚目の写真を剥がそうとしたが、その写真を手に取ると、カイが指で何度もなぞったのか、ミナの顔の部分がボロボロに擦れていた。

 カイが幾度となくこの写真に触れていたことは、本人に聞かずとも明白であった。

 ミナは、写真を貼り直した。

 彼女は震える手で、再びコクピットを拭くために布を握り直した。

「……なによ。写真くらい、隠れて撮らないで、ちゃんと本人にお願いしなさいよ」


 ミナは、自らの顔を真っ赤に染めながら、その写真の汚れを優しく拭き上げた。

 制圧を完了した歩兵小隊が通路を走り抜け、整備兵たちの怒号と中隊の装甲を叩く金属音がドックに反響していた。

 ミナは、胸の鼓動を鎮めるように自分の義手を握りしめ、整備の邪魔にならぬよう、薄暗い裏階段へと足を向けた。


(おかしい、向かう方向が何か違うような……)


 湿った冷気が足元から這い上がってくる。

 迷い込んだのは、エウロ時代の地図には記されていない地下区画であった。

 その時、乾いた金属音が背後で響き、冷たい銃口がミナのうなじに押し当てられた。


「動くな。声を上げれば、その頭を吹き飛ばす」


 低く、しかし凛とした、氷のような女性の声であった。

 振り返ることは許されない。

 だがその声からは、敗北した軍人が放つ絶望ではなく、獲物を屠る直前の捕食者のような鋭い殺気が漂っていた。

 帝国海軍大尉、アンジャリ・サマセット。

 彼女は数時間前、仮眠室で意識を失っていた。目覚めた時、誇り高き帝国軍は潰え、戦友たちの亡骸がドックを埋め尽くしていた。

 その惨状を理解した時、彼女の中では復讐の炎がとどまることなく燃え上がっていたのである。


「……帝国兵? あなたたち、もう勝負はついたのよ。大人しく投降すれば命までは……」

「黙れ、東洋の猿が!」


 アンジャリは激昂し、ミナの背を力任せに突き飛ばした。

「あ……っ!」

 バランスを崩したミナは、手すりのない通路から落下する。

 視界が反転し、真下に広がる暗い海水が見えた。

 そこは、地下から直接外洋へと繋がる、帝国軍の海上専用極秘ドックであった。


「誰か! 助けて!」

 ミナの悲鳴がドックにこだまする。

 駆け寄る歩兵部隊の足音が聞こえたが、それよりも早く、ミナの体は硬い金属の塊に叩きつけられた。


 落ちたそこは海面ではなく、暗い海に溶け込むような「オーシャン・ブルー」に塗装された巨躯の上であった。

 帝国海軍試作対艦八脚型シュテルツァー『クラーケオス』。

 カイのアスラは陸上用を無理やり海上運用しているが、この機体は設計の根底から異なる。

 荒波を吸収し、水面を地上の如く滑走するための独立懸架式八脚フロートを装備。

 武装は左腕に30mm四連装機関砲、右腕には対艦刺突槍「ガジャ・クンバラーナ」を携えている。

 「万人が操縦不可能」なまでにピーキーなこの機体には、数日に及ぶ海洋隠密作戦を想定し、贅沢な物資貯蔵用スペースが確保されていた。   

 ミナが落下したのは、その搬入用ハッチの直上であった。

 アンジャリは素早くミナの襟首を掴むと、物資用のコンテナスペースへ、荷物同然に放り込んだ。


「ここがお前の墓標になるか、私の盾になるか……選ばせてやる」


 アンジャリは機敏な動作でコクピットへ飛び乗り、ハッチを閉鎖。

 すぐさま八脚が海面を叩き、凄まじい衝撃と共にクラーケオスが発進した。


「ミナ曹長!!」


 駆けつけた歩兵部隊が見たものは、閉じるハッチの隙間から、不自由な体で必死に手を伸ばすミナの絶望的な表情であった。

 歩兵が放つライフルの銃弾など、シュテルツァーの足止めにはなり得なかった。

「助けて! カイ……っ!!」


 叫びは重厚なハッチに遮断され、冷たい海風にかき消されていった。

 クラーケオスは八本の脚で白い飛沫を上げ、あっという間に霧の向こうへと消え去った。


 残されたのは、波間に消える白い航跡と、ミナを連れ去られたという耐え難い戦慄だけであった。


「緊急! 第4歩兵小隊より司令部! 至急、シリチャイ中将に繋げ!!」

 通信回線から溢れ出したのは、平時の報告ではあり得ない、悲鳴に近い絶叫であった。


「どうした、落ち着け。制圧は完了したはずだ」

 ベルナールが眉を顰めてマイクを握るが、続く言葉にその顔から血の気が引いた。


「敵エース機、地下隠しドックに潜伏! 港湾第3区画地下より発進! ……ミナ曹長が拉致されました! 繰り返す、ミナ曹長が連れ去られた! 敵は八脚型、コード『クラーケオス』、帝国のエース『海魔』アンジャリ大尉。外洋へ逃走中です!」


「海魔……! なんだと!?」

 シリチャイ中将の手からコーヒーカップが落ち、床で乾いた音を立てて砕け散った。


「馬鹿な、ドックは封鎖したはずだ! 捜索部隊は!? 哨戒艇は何をしていた!」

「即座に発進させましたが、敵機の航跡が消失! 完全に……見失いました……!」


 司令室は一転して、怒号と悲鳴が入り混じる戦場へと戻った。


「各員に告ぐ! 港湾出口の防波堤を物理封鎖しろ! 憲兵船、掃海艇、魚雷艇、動けるものはすべて出せ! 逃がすな、一ミリの隙間も作らせるな!!」

 ベルナールの指示が飛ぶが、返ってくるのは「機影なし」という冷酷な報告ばかりであった。


「……ベルナール少将、これは……」

 シリチャイが震える声で呟いた。

「アンジャリ大尉か、おおかた取り残されたのだろう。ミナ曹長は『逃げ切るための人質』というわけだな。しかし、あの少年が、カイ・イサギがこれを知ったらどうなることか」


 カイは、一際高い要塞の櫓から周囲を一望した。

 あらゆる小型船を駆り出した、軍の総力を挙げた網。

 しかし、その無数の光の中を、アンジャリのクラーケオスは存在しない影のようにすり抜けていた。


 カイは、アスラで捜索しても無駄であることを悟っていた。

 数十隻の艦艇が、そして島の外縁全体に展開された歩兵部隊が、未だ『海魔 シーサーペントアンジャリ大尉』を捉えられずに探し回っている。

 カイは己の無力を噛み締め、声を出さずに心で泣いた。

 泣き叫び、膝から崩れ落ちるには、「中佐の制服」はあまりにも重い足枷であった。

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