第21話 海を駆ける悪魔
揚陸戦艦『グングニル』の艦橋は、静寂に包まれていた。
旗艦であるこの巨大な艦の周囲には、シュテルツァー揚陸艦の予備となる重装巡洋艦が一隻、駆逐艦が四隻、輸送船が六隻、そして病院船が一隻。
それが、帝国の喉元へ刃を突き立てるために編成された「第41大東亜エウロ臨時混成艦隊」の全容であった。
分厚い防弾ガラスの窓の外には、バルラート洋特有の、マンガニス粉塵が混じった灰色の霧が重く垂れ込めている。
――――視界は一キロ先すら怪しい。
パラパラと鉛色の海面を叩き始めた雨は、次第に勢いを増し、鼓膜を塞ぐような豪雨へと変わろうとしていた。
この高濃度のノイズの海では、かつて人類が誇ったレーダーも、通信の電波もことごとく減衰し、使い物にならない。
それはつまり、互いの息遣いが聞こえるほどの距離での「殴り合い」を強要される戦場であることを意味していた。
「……狂気の沙汰だな」
低く、彫刻のように冷たい声を発したのは、艦隊副司令官のジャン・リュック・ベルナール少将だった。
彼は端正な顔立ちを一層険しくし、海図モニターに映るノイズだらけの予測図を睨みつけている。
「空を失ったこの時代に、沿岸要塞へ海から挑む。我々EGLのドクトリンに従えば、これは『作戦』ではなく『処刑』だ、シリチャイ中将」
傍らに立つラッタナ・シリチャイ中将は、その言葉を否定しなかった。
彼女は元王族たる気品を微塵も崩さず、静かに霧の先を見据えている。
「その通りです、ベルナール少将。帝国がケルゲレンに築き上げた防御陣地は、現代軍事学における一つの到達点。……航空支援のない我々にとって、あそこは『浮いている陸地』ではなく、海面に突き出た『絶望』そのものだ」
ベルナール少将の頭をよぎるのは、極めて真っ当な軍人としての絶望だった。
帝国軍のシュテルツァーは精強である。
EGLの戦術教義において、帝国機一機を落とすには、味方機が三機必要とされる。
それは大東亜であっても同じことだ。
仮に奇跡的に上陸を果たせたとしても、瞬時に包囲され、全滅させられるのがオチではないか。
しかし、祖国も、同盟国も、これ以上の余剰戦力など持ち合わせていないことを、彼は誰よりも痛いほど理解していた。
シリチャイは、参謀が作成した要塞の概念図に視線を落とす。
「敵の主力は、沿岸散布砲『ヴァジュラの火槌』。長距離砲撃などという高尚な真似は彼らもしません。目標が見えようが見えまいが――我々が三キロ以内に近づいた瞬間、数千発の鋼鉄弾を海面へ無差別にぶちまける。誘導兵器が死んでいるこの世界で、彼らは『精度』を捨て、『質量』と『密度』に特化したのです」
「ああ。我が経済圏の重装甲を誇る揚陸戦艦とて、あの至近距離からの砲弾の雨を浴びれば、一分と持たずに蜂の巣だろう」
ベルナールは、自嘲気味に肩をすくめた。
「誘導を失った弾丸は、ただの重力に従う鉄の塊だ。だが、その鉄の塊を、回避不能な密度で叩きつけられるのが要塞というものだ。島に固定された砲座は、揺れる艦船に比べて圧倒的に安定している。この『見えない霧』の中では、止まっている者こそが最強なのだから」
「さらに、島の周囲には高濃度マンガニス粉塵の滞留ポイントが点在しています。我々が要塞の全貌を拝めるのは、敵の砲口に鼻先が触れる距離まで近づいた時だけでしょう」
シリチャイの声は、どこまでも淡々としていた。
それがかえって、この作戦の異常性を際立たせている。
「艦隊決戦など起き得ない。起きるのは、霧の中での一方的な虐殺だ。……少将。それでも、我々は行かねばなりません。あの島にある無限に湧き出るマンガニス鉱床と、帝国の喉元という戦略的地位を、これ以上奪い取らせておくわけにはいかない」
「分かっている。だからこそ、その『絶望』に穴を開けるために、あの化け物(リヴァイアサン隊)を用意したのだろう?」
ベルナールの視線が、艦下方の格納庫へと向けられた。
そこには、漆黒の装甲を纏った破壊神率いる魔狼の群れが鎮座している。
レーダーも目視も通用しない霧の地獄を、ただ一人の「眼」と「直感」だけで駆け抜けようとする、狂気の精鋭部隊。
「大東亜と、我が経済圏の技術。……そして、たった一個中隊の『希望』か。彼らが霧の迷路を抜け、要塞の喉元を食い破るのが先か。我々の艦隊が鉄屑に変わるのが先か。……不快な博打だ」
海を渡るというのは、通常、シュテルツァーにとっては自殺行為に等しい。
彼らの動力源である「マンガニス相転移反応エンジン」は、マンガニス結晶化フィラメントに重油を反応させて莫大な出力を得る。
そのため『水分に反応して爆発する』という致命的な弱点を抱えており、海中に没すれば例外なく悲惨な爆散を遂げることになるからだ。
「博打ではありません。……『信頼』ですよ、少将。あのアスラを駆る少年中佐へのね。それに、我々にはこれ以上ベットできるコイン(戦力)など、もはや残されていない」
シリチャイ中将は、わずかに微笑を浮かべた。
その表情には、これから地獄へ送り込む若者たちへの祈りと、この絶望的な作戦にすがるしかない両広域圏の未来を危ぶむ憂いが入り混じっていた。
ギィィィィ……と、グングニルの巨体が荒波を切り裂く。
視界、一キロ。
レーダー有効範囲、変わらず……わずか千二百メートル。
死の雨が降るケルゲレン島要塞まで、あとわずかであった。
揚陸戦艦『グングニル』のシュテルツァー射出甲板。
漆黒の『Y-S01w アスラ』が、巨大なカタパルトの固定アームにその身を預け、横殴りの豪雨に打たれていた。
他の機体はまだ安全な格納庫の中で待機している。
水が致命傷となるこの荒れ狂う海を渡り、強固なケルゲレン要塞を内側から食い破れるのは、世界でただ一機、このアスラという怪物だけだった。
「カイ中佐。……外は、すごい嵐よ」
艦橋の通信管制席。
ミナ・フェリシア曹長は革のヘッドセットを耳に強く押し当て、アスラとの回線状況を確認した。
『ああ。……いい日和だ。要塞の連中も、まさか海の上を化け物が走ってくるとは思わないだろう』
分厚い装甲の奥、赤い予備灯に照らされたコクピットの中で、カイ・イサギ中佐が操縦桿を深く握り込む。
背面に搭載されたマンガニス反応炉が低い咆哮を上げ、コクピット内にオイルの匂いと熱が満ちていく。
「……リヴァイアサン隊、隊長機。単機発進を許可します。中佐……どうか、ご武運を」
『グングニル、カタパルト準備よし』
『進行方向クリア、射出準備完了』
『よし、いつでも行ける。飛ばしてくれ』
ドォォォォォォォンッ!!
蒸気カタパルトの猛烈な圧力が、二十トンもの鉄塊を虚空へと弾き飛ばした。
放物線を描き、アスラが鉛色の海面へと真っ逆さまに落下していく。
着水のコンマ一秒前。
アスラの脚部底面に仕込まれた三連駆動ローラーが、毎分三万回転。
外周速度は超音速域まで一気に加速した。
同時に、各部のベクターノズルから数千度の高圧プラズマガスが海面へ向けて叩きつけられる。
ボォォォォォンッ!!
凄まじい水蒸気爆発が巻き起こった。
アスラはその圧倒的な反発力を利用し、沈むどころか、荒れ狂う波の斜面を力強く「蹴り飛ばした」のだ。
『……機体制御安定。これより海面走行に移行する』
それは、神をも恐れぬ綱渡りだった。
水蒸気爆発による爆発的な反発力と、ローラーの超高速回転が生み出す動的揚力と、高圧プラズマ噴射によって形成される凄まじい蒸気。
激しい波のうねりに少しでも姿勢制御を誤れば、機体は瞬時に海中へ没し、マンガニスエンジンの暴走によってパイロットごと爆散する。
しかしカイは、迫り来る波の形状を瞬時に先読みし、複数あるベクターノズルの出力をミリ単位で調整しながら、巨大な鉄塊を海面上で見事に滑らせていた。
海上走行速度、時速一八〇キロ。
背後に数十メートルもの巨大な水柱の尾を引きながら、アスラが霧の中から躍り出た。
だが、その直後――。
『くそっ! アスラからリヴァイアサン・コントロール! 目標の手前に敵艦隊がいる! 島に近すぎて、地形ノイズでレーダーに映らなかったようだ。……これより排除する』
「リヴァイアサン・コントロール了解。帝国軍第四艦隊旗艦を確認…………艦隊後方からの強襲を要請します」
『アスラ了解。まだ要塞には気づかれていない。本隊は揚陸準備を進めてくれ』
その通信を聞いたベルナール少将は、血相を変えて叫んだ。
「馬鹿な! 敵艦隊が待ち構えているのだぞ! 作戦は中止だ! この艦隊を失えば、もはや次の反攻作戦など数年……いや、十年はできないのだぞ!!」
だが、ミナは振り返ることなく、毅然とした声で言い放った。
「信じてください。カイ……いえ、中佐は『特別』だと聞いているはずです。せめて、彼と艦隊との戦闘をご覧になってから、退却をご判断ください」
ベルナールは、狂信的とも言えるミナの言葉に絶望した。
彼らEGLの軍人からすれば、シュテルツァー単機で艦隊に挑むなど、自殺以外の何物でもない。
しかもベルナールには、リヴァイアサン隊に対する直接の命令権がなかった。
この瞬間、彼は作戦の完全な失敗を確信し、奥歯を強く噛み締めた。
――――鉛色に唸る嵐の海。
要塞を背にして浮かんでいたのは、重厚な装甲を持つ旧式戦艦三隻と、その周囲を円陣で固める駆逐艦六隻。
まさに肉薄する距離だったが、轟音を立てる嵐と暴風雨のせいで、敵艦隊はまだアスラの接近に気づいていない。
「中佐、敵艦隊の視認距離に入ります。気をつけて!」
『了解だ、曹長』
ミナの警告と同時に、駆逐艦の探照灯が次々と点灯し、海面を滑る「不審な黒い影」を捉えようと光の帯を振り回し始めた。
『抜けるぞ。……ローラー、逆位相制御!』
カイは直線的に突っ込むような愚行はしなかった。
左右のローラーの回転差を極限まで利用した、「海上高速ドリフト」を敢行したのだ。
猛烈な水飛沫を上げながら、アスラは海面を滑るように九十度真横を向き、探照灯の光を紙一重で回避。
駆逐艦の包囲網を嘲笑うかのように、斜めに横断していく。
そして死角に回り込んだ刹那、アスラは肩部の『Hades』から四発の有線ミサイルを射出した。
即座にミサイル基部パッドがパージされる。
だが、狙ったのは船体そのものではない。
『……そこだ』
カイは指先でワイヤーを繊細に操り、駆逐艦の「舵」と「推進スクリュー」――――ミサイルを艦尾水線下に潜り込ませ、ピンポイントで爆砕した。
――――轟音。
機動力を奪われ、舵を固定された駆逐艦たちは制御を失い、波に煽られて互いの船体を激しく衝突させた。
鋼鉄が拉げ、火花が飛び散り、鉄壁の円陣が内側から崩壊していく。
その隙間を縫って、アスラは本命の旧式戦艦へと肉薄した。
『装甲が厚いなら、内側から叩くだけだ!』
アスラは、見上げるほど巨大な戦艦の側面装甲に対し、海面から陸上用ローラー駆動へと切り替え、ベクターノズル推力を船体側へ押し付けることで接地荷重を強制的に増大させ、強引に垂直の壁を駆け上がった。
重力に逆らい、巨体が甲板へと躍り出る。
悪魔の所業であった……。
陸戦兵器が戦艦の甲板に登ってくる……軍事史にない暴挙。
ガシュゥゥゥンッ!!
着地と同時に、カイは戦艦の主砲塔基部の隙間へと滑り込んだ。
そこは、数千トンの巨砲を旋回させるためのベアリングと、船体深部の弾薬庫から巨大な砲弾と装薬をリフトで吸い上げる「弾薬補充口」が密集する、戦艦の絶対的な急所だった。
アスラの右腕が唸りを上げる。
大質量パイルバンカー『Cocytus』の極太の杭――――二型対要塞杭が、鋼鉄の装甲板を紙のように容易く貫いた。
ドゴォォォォォォォォォォォオン!!
ひしゃげる主砲基部に打ち込まれたパイルバンカー杭が、内部弾薬リフトを爆砕して艦底の主弾薬庫へと引火。
戦艦の分厚い甲板が内側から風船のように膨れ上がり、次々と大爆発を連鎖させながら轟沈していく。
だが、その業火が噴き上がる瞬間には、アスラは脚部ブースターを全開にし、二百メートルという異常な高高度跳躍を敢行していた。
雨雲を引き裂いて空を舞うアスラ。
滞空状態のまま滑空し、眼下を通り過ぎざまに、左腕の144mm試作汎用自動ライフル『Valkyrie』の引き金を絞る。
ドン! ドン! ドン! ドン!
二秒間に一発というシュテルツァー用火器としては驚異的な連射速度。
極太の対要塞超硬質ライフル弾が、無傷だった別の戦艦の艦橋と、混乱する駆逐艦の艦橋防弾ガラスを次々とぶち抜き、内部の指揮系統を物理的に粉砕して回った。
『……要塞も気がついたか?……急ぐか』
カイの視界の端に、要塞からの探照灯が激しく動き始めるのが見え始めた。
空からの着水と同時。
逃げ場を失い、急速潜航を始めようとしていた潜水艦のセイル(艦橋)を、アスラの二十トンの質量が、耐圧殻まで真上から踏み潰した。
メキメキと鋼鉄が圧壊する音。
衝撃でハッチと制御系を歪まされ、浮力調整もままならなくなった潜水艦が、大量の泡を吹いて海の底へと沈んでいく。
それを背に、アスラは最後の戦艦の主砲身へと跳び乗った。
混乱を極める艦橋の指示により、旧式の巨砲がアスラを振り落とそうと激しく旋回する。
だがカイは重心を制御し、砲塔の真上からパイルバンカーを突き立てた。
ドゴオォォォォォォォォン!!!
砲身の中で炸裂した特殊弾頭の衝撃波が、砲塔内部に装填されていた装薬すべてを連鎖爆発させる。
最後の戦艦は巨大な鉄の篝火となり、ケルゲレンの荒海を赤々と染め上げた。
発艦から、わずか十数分。
全滅し、沈みゆく第四艦隊を足場にするかのように、アスラは圧倒的な大跳躍をもって、要塞の巨大な防波堤を易々と飛び越え、内側へと侵入した。
帝国が誇る難攻不落の要塞は、嵐によるノイズでレーダーが機能せず、探照灯が海面を照らし出した時には、味方の艦隊が次々と爆発炎上していく地獄絵図しか映っていなかった。
要塞の守備隊が探すのは、肉眼で追うことすら不可能な、早すぎる悪魔の影。
要塞内部に侵入した漆黒の影は、すぐさま一際巨大な要塞砲の基部へと取り付いた。
パイルバンカーの一突きが弾薬供給口を誘爆させ、要塞砲塔そのものを内側からひしゃげさせる。
ドォォォォォォォォンッ!!
「揚陸予定地点、敵要塞砲、沈黙! ……本隊、間もなく接舷します。リヴァイアサン中隊員は総員、発艦態勢に入ってください!!」
艦橋に、シリチャイ中将の指示を受けたミナの号令が響き渡った。
「……化け物め。たった一人で、戦争を終わらせる気か」
雨が叩きつける艦橋から、信じがたい光景を一部始終見届けていたベルナール少将。
彼の口から漏れた呆然とした呟きは、もはや恐怖を超え、神に対する信仰に近い「畏怖」へと変わっていた。




