第13話 エビが伝える想い
凄惨な死闘から三日後、昼時。
大東亜経済広域圏が誇る超弩級揚陸戦艦『大和』――その腹部に位置する第一艦隊の巨大食堂は、勝利の熱狂と生存の安堵が渦巻く、途方もない規模の坩堝と化していた。
数千人を収容できる空間には、大東亜経済広域圏の首長国の日和極東連邦出身の調理兵が腕を振るうスパイスカレーの匂いと、ナシレマ、さらには東アジア特有の醤油と出汁が効いた甘辛い煮物の匂いが渾然一体となって漂っている。
経済広域圏軍の多国籍な文化を象徴するような献立の入り混じった熱気の中、あちこちでマンガニス・プラスチックのトレイが触れ合う音と、生き残ったことを祝う屈強な兵士たちの地鳴りのような笑い声が反響していた。
その喧騒の入り口で、カイは立ち尽くしていた。
支給されたばかりの、工業用洗剤の匂いがする無地の白いシャツ。
その不慣れな襟元を落ち着かない手つきで何度も引き直しながら、ずっしりと重いカレーの盛られたトレイを持っている。
三日前、医務室であれほど恥知らずな言葉を口走って逃げ出しておきながら、時間になれば腹は減る。
そんな自身の図太さにひどく嫌気が差していたが、両手に伝わる温かいカレーの重みだけが、今の自分を辛うじて「平和な現実」に繋ぎ止めていた。
「おーい、うちの神様! こっち空いてるぜ、特等席だ!」
ふいに、鼓膜を破らんばかりのタケシの野太い声が、広大な食堂の喧騒を一直線に突き抜けた。
ビクッと肩を揺らして声の主を探せば、食堂のほぼ中央、嫌でも視線が集まる一際大きな円卓に、タケシとジョセフの姿があった。
そして――彼らに挟まれるようにして、医療用車椅子に座り、少し照れたように手を振るミナの姿があった。
(……逃げられない。完全に全方位……包囲されている)
食堂中の視線が一斉に自分に向いたのを感じ、カイは観念した。
腹を括って歩み寄ると、待ってましたとばかりにタケシがニヤニヤと下卑た笑いを浮かべ、カイの肩を外れんばかりの力でバンバンと叩き、空いている席へと強引に押し込んだ。
「なんだよカイ少佐、経済広域圏随一の英雄殿のくせにコソコソ隠れて食うつもりだったのか? ほら、お前の『指定席』はここだ。主役が逃げてどうするよ」
カイがドサリと座らされたのは、他でもない、ミナの真横だった。
ヤマトの誇る最新医療と徹底した栄養管理のおかげで、ミナの頬にはかつての美しい血色が戻りつつあった。
亜麻色の髪が、食堂の蛍光灯を反射して柔らかく光っている。
だが、カイと目が合った瞬間、その白い頬は瞬く間に熟したリンゴのように真っ赤に染まった。
「……あ、あの、ミナ。……体調は?」
「……う、うん。……少し、お腹空いちゃって。……カイのカレー、美味しそう」
二百機以上の帝国機を塵に変え、帝国最強の騎士を屠った「破壊神」の会話とは到底思えない、あまりにも間抜けでふわふわとしたやり取り。
ミナは手を震わせてナシレマのエビを太ももに落とす。
慌ててカイが拭こうとすると、タケシとジョセフがニヤリと笑い、カイの手が際どいところでピタリと止まる。
周囲を取り囲むタチの悪い「野次馬」たちが、その絶好の隙を逃すはずがなかった。
「おいおいおい、見たかジョセフ! 最強のエースパイロット『カイ少佐』が女の子の前で固まってるぞ……その手はどこに行くんだ?」
タケシがわざとらしく大袈裟にテーブルを叩き、周囲の兵士たち全員に聞こえるような大声を張り上げた。
「あの『スカーレット・エクスキューショナー(緋色の処刑人)』をパイルバンカーで木っ端微塵にした悪魔みたいな男が、女の子を前にしてカレーの感想戦かよ! それより見ろよ、ミナちゃんのその左手! 収容所にいた時は、そんな綺麗なモン持ってなかったよなぁ!?」
タケシがニヤつく顔で指差した先。
ミナの左手薬指には、あの日カイが「添えて逃げた」はずの細い銀の指輪が、しっかりと根元まではめ込まれ、燦然と輝いていた。
ハッとしたミナは慌てて左手をテーブルの下に隠そうとするが、隣に座るジョセフが笑いながらその手首を優しく制した。
ミナの太ももに乗っていたエビは床にペシャリと落ちた。
「隠したって無駄だよ、ミナ。この前医務室で、カイが『俺の人生、全部君に預ける!』って顔を真っ赤にして叫んで、逃げてったって話、もう全軍の共通言語になってるんだからな。駆逐艦勤務の通信兵から、なんなら艦隊司令のシムラ中将まで知ってるぜ」
「ジョセフ、広めたのお前だけどな」
「ジョセフッ!! 余計なこと言わないでってば!」
ミナの悲鳴のような抗議も、ドッと沸き起こった周囲の兵士たちの野次と口笛に完全にかき消された。
「おい少佐! シュテルツァーの操縦以外はチキン野郎なのかよ!」
「プロポーズの続き、俺たちにもここで聞かせろよ、英雄殿!」
「そうだそうだ! それに広域圏一の美人の返事、まだ聞いてねえぞ!」
多民族の兵士たちが、共通語の日和連邦語だけではなく、それぞれの言語や独特の訛りを混ぜながら楽しげに囃し立てる。
カイの頭の中は、一瞬にして沸点に達した。
恥ずかしさと、見世物にされている情けなさ。
そして何より――三日前、己のちっぽけな恐怖に負けて逃げ出した「中途半端で臆病な自分」への怒りが、熱い溶岩の塊となって喉元までせり上がってくる。
ガタンッ!!
ひときわ大きな音を立てて、カイは椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。
あまりの勢いに、騒ぎ立てていた千人近くの兵士たちが、まるで魔法をかけられたように水を打ったように静まり返る。
食堂の空気が張り詰めた緊張感に包まれた。
「……ミナ」
静寂の中、カイの声はもう一切震えていなかった。
彼はミナの車椅子の前、冷たいリノリウムの床に片膝をついた。
それは中世の騎士が主君に忠誠を誓うような、一分の隙もない、そして一点の曇りもない所作だった。
落ちていたエビがカイの膝に潰される。
「カイ……?」
ミナの琥珀色の瞳が、驚きで大きく見開かれる。
「……この前は、途中で逃げてごめん。怖かったんだ。戦場にいるよりずっと……。もしも拒絶されたらと思う方が……怖かった」
カイはミナの左手をしっかりと、けれど優しく両手で包み込んだ。
「俺は……少佐なんてガラじゃないんだ」
カイの深く、静かな声が、巨大な食堂の隅々にまで反響していく。
誰もが息を呑み、二人の姿を見守っていた。
「でも、ミナがいたから俺は生きていられるんだ。何より大事なんだ」
カイはミナの瞳を真っ直ぐに見つめ上げた。
今度は、一瞬たりとも視線を逸らさない。
「俺と生きてほしい。……足とか関係ない……一緒にいて欲しいんだ。俺がいつもおぶるからさ……」
――――完全な静寂。
誰の咳払いひとつ聞こえない、真空のような時間が流れた。
ミナの大きな琥珀色の瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
彼女は震える唇を必死に噛み締めて嗚咽を堪え、それから美しく弾けたような笑顔を作った。
「……バカ。……カイの、大バカ」
ミナは自分から手を伸ばし、止まらない涙を拭いもせずに、カイの白いシャツの胸元を力一杯掴んで引き寄せた。
「当たり前じゃない……! 誰が、あなた以外の背中に乗るもんか……っ! 私を、一生……ずっと、絶対に離さないでよ……!」
次の瞬間。
巨大な大和の船殻そのものが物理的に揺れたかと思うほどの、爆発的な大歓声と割れんばかりの拍手が沸き起こった。
「よく言った、少佐ッ!!」
「最高だ! 二百機の撃墜スコアより、今のセリフの方が何万倍も価値があるぞ!!」
「野郎ども、今日は宴会だ! デザートの特別配給だ! 今日は全部俺の奢りだッ!!」
歓喜の渦の中で、群衆がサァッと波のように割れた。
その輪の外で、腕を組んで一部始終を見守っていたシムラ中将が、静かな足取りでカイたちに近づいてきたのだ。
艦隊最高司令官の登場に、兵士たちは慌てて居住まいを正し、一瞬にして食堂は敬礼の波に包まれる。
しかし、シムラ中将の厳格な顔には、深い皺を刻んだ温かな笑みが浮かんでいた。中将は傍らに控える士官に向かって、よく通る声で命じた。
「生活支援群給養班長。私が特別に許可する。当直以外の者全員に、酒とデザートを出してやれ。……我々の英雄の門出には、最高の祝杯が必要だ」
その言葉を合図に、再び艦が割れんばかりの凄まじい歓声が爆発した。
タケシがカイの背中を骨が鳴るほどバンバンと叩いて大笑いし、ジョセフはミナの隣で自分のことのように顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている。
仲間たちの祝福の嵐の中、カイは自分を掴むミナの小さな手を、今度こそ力強く握り返した。
立ち上がったカイの膝からエビがポトリと落ちる。
胸の奥底でずっと燻り続けていたねっとりとした何かが、温かな光に包まれて消えていく。
カイは、ようやく本当の意味で、自分の心の中の「戦争」が終わったことを知った。
ふと視線を向けた窓の外。
どこまでも続く透明な青い海が、陽光を反射してキラキラと、二人の未来を祝福するように眩しく輝いていた。




