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淡水の毒  作者: たんすい
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最終話:山椒の香り

翌朝。ホームルームのチャイムが鳴り、教室に静寂が訪れた。 扉を開けて入ってきた佐藤先生に、いつもの快活な笑顔はない。その表情はひどくやつれ、影を落としていた。


佐藤先生は教壇に立つと、クラス全員の顔をゆっくりと見渡し、深く、深く頭を下げた。


佐藤先生:「……みんな。謝らなければならないことがある。ミドリフグの件……『ぷく丸』が死んだのは、僕のせいだ」


教室内が、息を呑む音さえ聞こえるほど静まり返る。


佐藤先生:「僕がみんなの前で『淡水で大丈夫だ』と自信たっぷりに言ってしまったせいで、直樹くんの正しい警告を無視させてしまった。……昨日の放課後、僕がこっそり塩を入れたんだ。救おうとしたつもりが、入れる量が多すぎて、逆に苦しませてしまった。教師として、失格だ。……本当に、申し訳ない」


美月は赤くなった目を伏せ、直樹は俯いたまま、小さく一度だけ頷いた。 佐藤先生の告白は、誰かを責めることで保たれていた教室の均衡を、静かに瓦解させていった。


休み時間。真壁、美月、直樹の三人は、隣のクラスのアキラの元へ向かった。


真壁:「アキラくん。……疑ったりして、本当に悪かった。ごめん」


三人が一斉に頭を下げる。アキラは驚いたように目を見開き、少しだけ瞳を潤ませた。けれど、すぐに照れ隠しのような、強がった笑みを浮かべる。


アキラ:「……別に、いいよ。わかってくれたなら、それで」


その言葉が、彼にかけられた「呪い」を解いたようだった。



放課後。真壁と狐兎森は、再びアクアショップ『アクア・ルミナス』を訪れた。

店の奥、彼らが最初に訪れた時——あれから10日。

以前は元気に泳いでいた淡水ミドリフグたちの水槽。

そこには、あの時と同じ「塩分1.000」の数値を示す比重計が浮いている。

しかし、フグ数は——激減していた。


駆け寄って絶句する田中さんを背に、二人は淡々と会話を交わす。


狐兎森:「……やっぱり、死んでしまったのね」


真壁:「ああ。狐兎森さんの言ったとおりだ。耐性の限界。生物学的な計算通りだ」


変わり果てた水槽を前に絶句する田中店長。


田中:「……見ての通りだよ。昨日まであんなに元気だったのに、今朝から急に……。薬を使っても、水換えをしても、駄目だった」


その背中に、狐兎森の冷徹な声が突き刺さる。


狐兎森:「浸透圧調整のエネルギー消費を、この子たちの小さな体ではいつまでも賄えるわけがない。」


田中は力なく俯き、やがて棚から一袋の人工海水の素を取り出した。

田中:「……今からでも、間に合うかな」


狐兎森:「 『死んでいない』のは、単なる『まだ死んでいない』という状態に過ぎなかった。それを『飼える』と定義したのは、傲慢」


田中:「……すまなかった」


真壁は無言で一眼レフを構え、力なく浮くフグの死体を切り取った。


真壁:「いい写真が撮れた。これで記事が書けるよ。『偽りの淡水フグ、その最期』……ってね」


夕焼けの光が、帰り道の二人の横顔をオレンジ色に染めていた。 狐兎森は不意に歩みを止め、燃えるような空を見上げた。


狐兎森:「……ねえ、真壁くん。ひとつだけ、言っておかなければならないことがあるの」


真壁:「どうしたの?」


狐兎森:「佐藤先生に塩のことを教えたの、私なの。……でもね、本当は二つの方法があった」


真壁は黙って、彼女の次の言葉を待った。


狐兎森:「ひとつは、みんなの前で“先生は間違っている”って言う方法。

 でも、それをやったら先生はきっと傷つく。

 自分の威厳を守るために、もっと意固地になって……

 フグのことなんて、誰も信じなくなる」


彼女は小さく息を吐いた。


狐兎森:「だから私は、先生のプライドを守る方を選んだ。

 こっそり教えて、こっそり修正してもらうつもりだった」


真壁:「……でも、それが裏目に出た」


狐兎森:「ええ。先生は焦って、一気に塩を入れてしまった。私の伝え方が、悪かったの。……私が、あの子を殺したようなものよ」


真壁:「狐兎森さん……」


狐兎森:「ねえ真壁くん。正しいことって、時々、人を傷つけるのね。私はそれを、今回でよく学んだわ」


狐兎森は自嘲気味に微笑んだ。その笑みは、薄氷のように脆く、痛々しい。 彼女は不意に真壁に近づくと、鼻先を動かした。


狐兎森:「ところで真壁くん……手、少し匂うよね」


真壁:「え? ……何の話」


狐兎森:「ミドリフグが死ぬ一日前かな。山椒の匂い。……ほんのわずかだけど、水槽の前で嗅いだとき、気づいたの」


真壁:「……それが何?」

真壁の指先が、わずかに震える。


狐兎森:「真壁くん。本当はミドリフグを、どうしたかったの?」


真壁:「……は? 何言ってるの狐兎森さん」


狐兎森:「でも、あなたはやらなかった。『やろうと思えばできたのに、やらなかった』。その境界線が、あなたを救っている」


真壁:「……証拠は?」


狐兎森:「証拠じゃないの。あなたの手が、そう言ってるの」


その匂いは、やがて夕風に溶けて消えた。

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