第8話:重すぎる一キロの救済
放課後の廊下。西日に照らされた二人の影が長く伸びている。
狐兎森:「真壁くんは、まだ『淡水ミドリフグ』が実在すると思っている?」
真壁:「バーベー湖にはいない。それは君が教えてくれた。でも、どこかにいるんじゃないかな? 種類が違うとかさ」
狐兎森:「いいえ。海外では『淡水ミドリフグ』なんて名前で売られている魚はいないの。日本だけよ。」
真壁:「日本にだけに入荷されているとか?」
狐兎森:「メフグってフグはね。中国の海水にいるフグなんだけど、数千キロも川を遡上して、淡水の湖で産卵するの。中には一年中、湖で暮らす個体もいるそうよ」
真壁:「そんなフグもいるんだね」
狐兎森:「淡水への順応性が強いんだと思う。ミドリフグもそれと同じ。一時的に淡水域に現れることはあっても、一生をそこで過ごすことはできない。」
真壁:「じゃあ、淡水ミドリフグは淡水でいるところを採られて、そして淡水フグとして日本に送られてきたってこと」
狐兎森:「そう。それを日本の業者は『完全淡水ミドリフグ』『純淡水ミドリフグ』なんて名前をつけて売っている。フグだけじゃない、いろんな魚で同じことが行われているわ。……命を売るための、身勝手な名前。許せないよね」
真壁:「……それが本当なら、ひどい話だ」
狐兎森:「でも、それはまだ証明できない。……だから、もう少しだけ待ってくれる?」
真壁:「いいよ。それで真実がわかるなら」
二人が到着したのは、まだ数人の教師が残る職員室だった。 狐兎森は佐藤先生が不在であることを確認し、淀みのない足取りで中へ入っていく。
狐兎森:「失礼します」
彼女が近づいたのは、音楽教師のデスクだった。
狐兎森:「先生。昨日、佐藤先生宛に何か荷物が届きませんでしたか?」
音楽教師:「ええ、そういえば何か届いていたわね。ずいぶん重そうだったけど……何だったのかしら」
狐兎森:「職員室のゴミ箱、少しだけ見せてもらってもいいですか?」
音楽教師:「それは駄目よ。生徒が勝手に覗くものではないわ」
狐兎森:「……ですよね。残念。では、佐藤先生が買われた『人工海水の素』をお借りします。水槽の水換えに必要なんです」
音楽教師:「ああ、それなら机の下にあったわよ。佐藤先生には私から伝えておくわ」
狐兎森は佐藤先生のデスクの下から、ずっしりと重い袋を引き出した。五キロ入りの人工海水の素だ。
真壁:「……よく先生がこれを買ったってわかったね」
職員室を出たあと、真壁が小声で尋ねる。
狐兎森:「私が教えたの。『塩を使わないと死にますよ』って。なかなか信じてくれなかったけれど」
狐兎森:「だって、先生自信たっぷりに淡水で飼えるってみんなの前で言っちゃうんだもん。だからこっそり教えてあげたの。先生ベトナムのバーベー湖にはフグはいません。ってそしてメールも見せてあげた。」
真壁:「だろうね。それに今更僕達に間違ってましたなんていいにくだろうし」
狐兎森:「でも、それじゃあミドリフグが可哀想。いつか死んじゃう。そんなの私は嫌」
真壁:「……教室はそっちじゃないよ?」
狐兎森:「わかってる。もう死んじゃったんだもの。水換えは必要ないわ」
向かったのは保健室だった。狐兎森は、借りてきた海水の素を体重計に乗せる。 目盛りは……「四キロ」を指していた。
真壁:「……一キロ、足りない」
二人はそのまま、理科室の高槻先生の元へ向かった。
狐兎森:「先生。淡水で飼っていたミドリフグの三十リットル水槽に、一気に一キロの塩を入れるとどうなりますか?」
高槻先生:「……それは無茶だね。ほぼ海水の濃度だ。急激な塩分上昇で、淡水環境にいた硝化バクテリアが全滅する。そうなればアンモニアが蓄積し、フグはアンモニア中毒か、急激な環境変化によるショックで即死するだろう」
狐兎森:「先生。この水の塩分とアンモニア値を測れますか?」
彼女が差し出したのは、朝、水槽から採取したペットボトルの水だった。 数分後、検査キットの結果を見た高槻先生の顔が険しくなる。
高槻先生:「……塩分濃度は海水と同じ。アンモニア値は、測定不能なほど振り切れている。これでは、どんな魚も生きられない」
夕暮れの帰り道。校門を出る二人の足取りは重かった。
真壁:「……犯人は、佐藤先生だったんだね」
狐兎森:「そう。海水魚の塩分と同じ量を入れてしまったの。……でも、それは私が追い詰めてしまったからかもしれない。私がもっと別の伝え方をしていれば……」
真壁は、横を歩く少女の横顔を見た。 「救おうとして、トドメを刺したか」 彼女が朝、水槽の前で呟いた言葉が、重く胸に突き刺さった。
【新聞部・真壁の取材メモ】
■ 判明した「死」のメカニズム
直接の死因: 急激なアンモニア濃度上昇によるアンモニア中毒。
物理的証拠: 佐藤先生が購入した5kgの人工海水の素。うち1kgが消失。
残留物: 水槽の縁の「白い粉」は、焦った先生が投入時にこぼした海水の素だった。
■ 犯人の動機:善意とプライドの衝突
佐藤先生は、狐兎森の指摘で自分の間違い(バーベー湖にフグはいないこと)に気づいた。
生徒の前で「淡水でOK」と断言した手前、公式に訂正できず、放課後に一人で海水の素を投入。
「海水魚なら、海と同じ濃度の塩を入れればいい」という短絡的な知識が、水槽内のバクテリアを破壊した。
■ 狐兎森さんの後悔
彼女は先生に真実を突きつけ、「救う機会」を与えたつもりだった。
しかし、その「救済」は無知な大人によって「処刑」へと変わってしまった。
■ 残された問題
ショップ店員・田中の嘘(淡水ミドリフグという名称)。
佐藤先生の過失を、クラスはどう受け止めるのか。
「寿命だったんだよ」 ――そう言った時の先生の顔が、今ならわかる。あれは悲しみではなく、耐え難い自己嫌悪だったのだ。
「真実が明らかになっても、誰も救われない。……これが、今回の記事の結末なのか?」




