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淡水の毒  作者: たんすい
5/9

第5話:連鎖する標的

淡水ミドリフグの死を巡る疑念が教室を支配する中、廊下の向こうから新たな火種が飛び込んできた。


「大変だ! 四組のエビも沢山死んでる!」


そのニュースは、犯人探しに飢えた生徒たちに新しい標的を与える、残酷な合図だった。


狐兎森:「え……? ちょっと待って。そんなの、想定外……」


狐兎森の顔から余裕が消える。常に真理を見透かしたような目をしていた彼女が、明らかに動揺し、小さく震えていた。


真壁:「意外だね。まさか、狐兎森さんのそんな姿が見れるなんて思ってもみなかった」


教室の矛先は美月や直樹から、一気に「四組の誰か」へと向けられる。


「絶対に犯人を見つけ出してやる」

「……ねえ、あの子じゃない? 小学校の時に、生き物をおもちゃみたいに殺してた子がいたでしょ」

「あ……四組のアキラくん」

「そうそう! あいつならやりかねない。生き物が苦しむのを見て喜ぶタイプだよ」


真壁はその異様な熱気を見つめていた。

一クラスの事件が、学校全体の「魔女狩り」へと膨れ上がっていく。


真壁:「大変なことになったね。美月さんに直樹くん、そして新容疑者のアキラくん……。一体、誰が本当の犯人なんだろう」


狐兎森:「二組のフグ、そして四組のエビ……?」

突然、狐兎森は何かに弾かれたように駆け出した。

向かったのは四組ではなく、その隣の三組だった。


真壁:「待ってよ。狐兎森さん。いきなりどうしたの?」


三組の教室に入り、窓際に置かれたプラケースを覗き込んだ狐兎森が、鋭い息を吐く。


狐兎森:「三組のゲンゴウロウは無事」


真壁:「え? ……本当だ、なぜこっちは殺されなかったんだろう? 犯人は虫嫌いとか?」


狐兎森:「……わからない。私の時計が、どこかで狂ってる」

彼女は自分の側頭部を押さえ、呻くように言った。


狐兎森:「真壁くん。この騒ぎはね……フグが死んだ瞬間じゃなくて、“買った日”から始まっていたのよ」


真壁:「買った日? ……じゃあ、エビの死因はフグとは関係ないってこと?」


狐兎森:「でもね、このゲンゴロウの生存だけは……私のロジックにはないの」


真壁:「それってそんなに重要なことなの?」


狐兎森:「重要。調べてみるしかないわね。……あっち、戻ろう」


二人が四組へ向かうと、そこには地獄絵図が広がっていた。

水槽の中では、生き残ったエビたちが狂ったように泳ぎ回り、上下へと跳ねるように動き続けている。

すでに死んだ個体は白く濁り、ひっくり返ったまま底に沈んでいた。


そして教室の前では、数人がかりでアキラを囲む包囲網ができていた。


「なあアキラ、正直に言えよ」

アキラ:「は? 何の話だよ」

「お前が四組の教室から逃げたって噂、聞いたぞ。何していたんだよ」


アキラの表情が一瞬だけ強張った。そのわずかな変化を、周囲は見逃さない。


「やっぱり図星じゃん。エビを殺して楽しんでたんだろ」


アキラは唇を噛み締め、しばらく黙っていたが、やがて絞り出すように言った。


アキラ:「蜂の巣があったんだ。あの教室の窓の上に。それを……落とそうとしただけだ」


「は? そんなの言い訳だろ」

「お前がエビもフグも殺したんだろ! 白状しろよ!」


アキラの拳が、怒りと悔しさで震える。


アキラ:「嘘じゃねえよ! 棒でつついたら、巣が落ちて……蜂が飛び回って、それで逃げただけだ!」


近くにいた女子生徒が、恐る恐る口を開く。

女子生徒:「そうそう、蜂が飛んで教室に入ってきて大変だったんだから」


「エビだけじゃなく蜂まで殺したのか! やっぱりお前は、命を奪うのが好きなんだな!」


ガタン、と机が鳴る。アキラは叫んだ。


アキラ:「蜂がいたら危ないと思ってやったんだ! 俺は犯人じゃない!」


しかし、一度「悪魔」と決めつけられた少年の言葉は、誰の耳にも届かない。


「カエルも殺したくせに。……ふざけんなよ!」

アキラ:「……俺は、やっていない!」


アキラは唇を震わせた。自分に向けられた、何十もの「正しい側」を自負する瞳。 アキラ:「……俺、もう何を言っても信じてもらえないんだな」


アキラはそのまま、教室を飛び出していった。

誰も、彼を追おうとはしなかった。

それを見送るクラスメイトたちの顔には、正義を遂行したという満足感すら漂っていた。


狐兎森は、先ほどの女子生徒に静かに近づいた。


狐兎森:「ねえ、教室に入ってきた蜂。その後、どうなったの?」

女子生徒:「え? 用務員のおじさんが来て……全部駆除してくれたけど……」


狐兎森は何かを弾くように納得し、真壁を振り返った。

その瞳には、先ほどまでの動揺とは別の、冷徹な光が戻りつつあった。


狐兎森:「犯人は……アキラくんじゃない。たぶん、用務員さん」


真壁:「え!? 用務員さんが……?」




【新聞部・真壁の取材メモ】

■ 四組のエビ全滅事件:連鎖する悲劇


・発生状況: 四組の水槽で多数のエビが死亡。生き残った個体も激しく泳ぎ回り、狂ったように円を描いて急移動を繰り返すという異常行動を見せた 。


・死状の相違: 死んだエビは体色が白濁し、底に沈んでいた。これは二組のフグ(エラが赤く腫れる)とは明らかに異なる症状だ 。


■ 「三組のゲンゴロウ」という巨大な矛盾


・不可解な生存: 四組の隣、三組のゲンゴロウは無傷で元気に泳いでいた 。


・狐兎森さんの動揺: 「想定外」と口にし、明らかに焦りを見せた。論理を重んじる彼女が、なぜ三組の状況を真っ先に確認し、そして絶句したのか?


・仮説の衝突: 殺虫剤が広範囲に影響したなら、同じ昆虫であるゲンゴロウが無事なのはおかしい。彼女の「計算」を狂わせた要因がそこにある。


■ アキラくんの「冤罪」と群衆心理


・標的の変化: 過去の素行から「生き物を殺して喜ぶタイプ」と断定され、一方的に追い詰められた 。


・真実: 彼は「蜂の巣を落としてみんなを守ろうとした」だけだったが、その善意は「悪意の証拠」へとすり替えられた 。


・モブ・メンタリティ: 正義を遂行したという満足感に浸るクラスメイトたちの顔。本当の恐怖は、犯人の不在ではなく、この「無自覚な暴力」にあるのかもしれない 。


■ 淡水ミドリフグの死との決定的な相違点


・物理的証拠: 二組の水槽にあった「白い粉」は、四組の水槽には存在しなかった 。


・範囲の限定: 用務員の過失は四組に限定されている。二組のフグの死は、この「事故」とは別の力——より個人的で、より鋭利な殺意——によるものではないか 。


■ 狐兎森さんの謎めいた言葉


・「買った日から始まっていた」: 彼女は、この悲劇が最初から約束されていたとでも言うのか 。


・残された問い: 狐兎森さんは犯人を「用務員さん」だと断定した 。しかし、それは四組のエビのことなのか、それとも二組のミドリフグまでも彼が殺したということなのか? 彼女の冷徹な光が戻った瞳は何を捉えたのか


真壁の独り言 「狐兎森さんがこれほど取り乱したのは、ゲンゴロウが生きていることが彼女の『死の計算式』に当てはまらなかったからだろう。結論が出る前にアキラくんを犯人と決めつけたクラスの熱気は、用務員さんという新たな標的に向かっている。だが、二組の水槽に残されたあの『白い粉』の正体だけは、まだ誰にも説明できていないんだ。」

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