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淡水の毒  作者: たんすい
3/9

第3話:水槽の雪と赤い傷跡

佐藤先生の「寿命だった」という言葉は、かえって教室の空気を重く沈ませた。生徒たちの間に、得体の知れない疑念が霧のように広がっていく。


「……誰かが殺したんじゃないの?」

「エサをやりすぎたんじゃない?」

「水換え、昨日誰かサボった?」


犯人探しに近いざわめきが起こる中、人だかりの後ろから、氷のように冷たい声が響いた。


狐兎森:「寿命なんて、便利な言葉。……でも先生、水槽のふちを見て。あそこに『何か』が残っているわ」


クラス全員の視線が、水槽の縁に注がれる。そこには、飛沫が乾いた跡にしては不自然な、白い粉のような結晶が雪のように付着していた。


真壁は一眼レフを構え、レンズを限界までズームする。


真壁:「……なんだこれ。指で触るとさらさら落ちる。毒……? まさかな」


パシャ、パシャ。 腹を出し無残に浮かぶ淡水ミドリフグの死体、水槽全体の状況、そしてその「白い粉」を接写で記録していく。


生徒:「……写真を撮るなんて、悪趣味だよ」


真壁:「これは証拠になるんだ。ちゃんと撮って残しておきたい」


撮影を続ける真壁の隣で、狐兎森が彼にだけ聞こえるような小さな声でささやいた。


狐兎森:「やはり死んじゃったね。先生には、ちゃんとアドバイスしてたんだけどな」


真壁:「面白いことを言うね、狐兎森さん。そう言えば前にもそんなこと言ってなかったっけ?」


狐兎森:「言ったよ。でも、違った」


真壁:「違った? 何が?」


狐兎森:「あのときは、浸透圧だって言ったわ」


真壁:「ああ、確かにそう言ったよね。」


狐兎森:「だから違ったの」


狐兎森は、真壁の横をすり抜けるように歩き、ふと何かを確かめるように足を止めた。


そのまま、彼の肩に影が落ちるほど近くまで顔を寄せる。

真壁は思わず息を呑んだ。

こんな距離まで中学生の女子が踏み込んでくることなど、普段の学校生活ではまずありえない。


狐兎森は、鼻先で空気をそっと探るようにしてから、真壁の耳元で囁いた。


狐兎森:「……ねえ真壁くん。なにか匂わない?」


真壁:「え? 何の話?」


狐兎森は静かに微笑む。


狐兎森:「ううん。今はいいの。最後にわかると思うから」


水槽の中では、ぷく丸が変わり果てた姿で浮かんでいる。 体表を覆う粘液はべっとりと増え、口は苦しげに開き、普段は見えないエラが鮮血のように赤く腫れ上がっていた。


真壁:「……違ったってどういう意味? 浸透圧で死ぬって、君が一番最初に予言したじゃないか。的中したんだろ?」


狐兎森:「浸透圧による死は、もっと静かで、時間をかけて細胞がふやけていく緩やかな死よ。でも、この子のエラを見て。真っ赤に腫れ上がっている。これは急激な環境の変化……強烈な『化学的ショック』を受けた痕跡だわ」


彼女は細い指で、水槽の淵の白い粉をそっとなぞった。そして、持っていた空のペットボトルに水槽の水を汲み入れ始める。


狐兎森:「証拠品、後で必要になると思うの」


真壁:「本格的だね……。」


狐兎森:「私が予言したのは『真水という毒』による死。でも、これは違う。誰かがこの子に、別の『毒』を流し込んだ。あるいは――救おうとして、トドメを刺したか。……あれ? これって、私が殺したことになるのかな?」


真壁:「……変なことを言うね」


狐兎森:「真壁くん。誰がこのミドリフグを殺したのか。犯人は誰なのか。……一緒に探してみる?」


真壁はカメラを構え直し、隣に立つ少女を見つめた。


真壁:「面白いね。やってみよう、狐兎森さん」



朝の騒ぎが収まった後、佐藤先生の指示でクラス全員が校庭の花壇へ移動した。

段ボール箱内の「ぷく丸」は冷たく硬直したままだった。


生徒たちは小さな穴の前に円を描いて立ち、沈黙に包まれる。


佐藤先生:「短い間だったが、大切に育てた命を静かに見送ろう」


何人かがうつむき、美月は腕を抱き、翔太は唇を噛み、直樹は穴をじっと見つめた。

土がかけられぷく丸の姿が消えると、真壁は胸にざわつきを覚えた。


狐兎森は、花壇の前でそっと手を合わせると、

風に揺れる髪の隙間から、真壁の方を一度だけ見た。

その瞳は、まるで「ここからが本番」とでも言っているようだった。


水槽の淵に残された不自然な「白い粉」と、無残に腫れ上がったフグのエラ。 狐兎森の「化学的ショック」という言葉が、真壁の頭の中で反芻される。


1限目が終わり、休み時間。

その静かな分析を切り裂くように、クラスメイトたちの怒号が響いた。


「おい、昨日の当番は誰だったんだ!」

「……確か、美月さんだったはずだよ」


誰かの呟きをきっかけに、疑いの視線が一斉に美月へと注がれる。人だかりの輪から少し離れたところにいた美月は、射抜くような視線に顔を上げた。


美月:「昨日、私が当番をしたときは元気だったわよ。ちゃんと泳いでた」


「……本当かよ? お前、最初からミドリフグに反対してただろ」


一人の男子生徒が歩み寄り、美月を問い詰める。


「嫌だったから、昨日、何かしたんじゃないのか? こいつがいなくなれば、エンジェルフィッシュに買い替えられるもんな」


美月:「するわけないでしょ。馬鹿言わないで」


「じゃあ、殺していないって証拠はあるのかよ?」


美月:「……証拠? 私が面倒を見た昨日の放課後は、あの子は確かに元気だった。それで十分じゃない!」


「犯人が『昨日は元気でした』なんて言っても、何の説得力もないんだよ!」


美月:「……だったら、最初に見つけた佐藤先生だって怪しいじゃない!」


教室が一瞬、凍りついた。


「え……先生?」

「なんで先生が……?」


美月:「だって、先生が一番に教室に来てたんでしょ?

水槽の前にいたのも先生。

“寿命だ”って最初に決めつけたのも先生じゃない!」


声が震えている。

怒りではなく、恐怖と焦りが混ざった震えだった。


「確かに……」

「先生、最初に触ってたよな……?」

「水槽の水、濁ってたって言ってたし……」


生徒たちの視線が、ゆっくりと佐藤先生へ向かい始める。


佐藤先生:「ま、待ちなさい。先生が来た時にはミドリフグはもう白くなって硬直していた。死んだのは昨日の夕方近くだろう」


一斉にクラスの視線が美月に戻る。


美月:「私ばっかり責めないでよ!

最初から反対してたのは私なのに……!

なんで私だけ犯人扱いされるのよ!」


その叫びは、悲鳴に近かった。

美月の声が教室の壁に反響し、誰もすぐには言葉を返せなかった。


真壁は、その光景を無言でカメラに収めた。 ファインダーの中の美月は、震える肩を抱き、今にも泣き出しそうに見える。


……いや、その瞳に宿っているのは、涙ではなく「激しい拒絶」だった。



【新聞部・真壁の取材メモ】

■ 淡水ミドリフグ死亡 ― “事故”か“事件”か


・今朝発見。昨日まで元気だったが、急死。

・自然死とは思えないスピード。エラが真っ赤に腫れ、粘液増加。

・化学的ショックの可能性(狐兎森談)。


■ 水槽の縁に残された“白い粉”


・飛沫では説明できない量。結晶状。塩か、あるいは別の化学物質か。

・これが“毒”の正体なのか? 証拠として接写済み。


■ 淡水飼育の問題


・直樹の警告は無視された。佐藤先生の「バーベー湖」説のソースは不明。

・だが、狐兎森は「浸透圧死ではない」と断言。

・淡水化そのものではなく、何らかの「意図的な投入物」がトドメを刺した?


■ 浮上した「容疑者」と矛盾


・美月: 昨日の当番。動機はあるが、あまりに直球すぎる。彼女の「拒絶」は犯人のそれか?


・佐藤先生: 第一発見者。「寿命」という断定。責任回避か、あるいは隠蔽か。


・狐兎森: 圧倒的な観察眼。だが「私が殺したことになるのかな?」という言葉が引っかかる。


■ 真壁の結論 自然死ではない。淡水だけでもない。“何か”が加えられた。 教室という密室で、誰かが「救世主」になろうとしたのか、それとも「処刑人」になったのか。 白い粉の正体が、すべての答えを握っている。

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