第2話:ベトナムの幻影
クラスが沸き立っていたその時だった。
生き物に詳しい一人の生徒、直樹が鋭く手を挙げた。
直樹:「先生、淡水ミドリフグなんていません。ミドリフグは本来、汽水や海域に住む魚です。このまま淡水で飼育を続ければ、いつか死んでしまいます」
教室内が静まり返る。しかし、佐藤先生は動じなかった。それどころか、教え子の知識を誇るように、にこやかに頷いてみせた。
佐藤先生:「直樹、よく勉強しているな。素晴らしいよ。確かに従来の常識では、ミドリフグを淡水で飼うのは不可能だと言われてきた」
先生は教壇に手をつき、自信に満ちた表情でクラスを見渡した。
佐藤先生:「しかし、最近のアクアリウム業界では、ベトナムで見つかった『完全淡水ミドリフグ』や『純淡水ミドリフグ』と呼ばれる変種が流通しているんだよ。これらは、海から陸封されてゆっくりと淡水環境に適応した系統で、塩分を必要とせず、健康的に飼育可能なんだ。ベトナムのバーベー湖にもいるそうだぞ!」
直樹:「……バーベー湖?」
佐藤先生:「そう、そこは海から完全に隔離された環境でね。ヤフオクや専門ショップの販売例を見ても、淡水飼育を推奨するケースが山ほどある。店員の田中さんも、それを知っていて勧めてくれたはずだ」
真壁はノートに素早くペンを走らせる。
真壁:「へえ、先生、相当勉強したんだな。感心したよ。これは記事になるぞ。ベトナムの秘境、バーベー湖か……どんなところなんだろうな」
狐兎森:「真壁くん。……あなたは信じるの? 佐藤先生のあの言葉を」
真壁の後ろから、狐兎森の冷ややかな声が刺さる。
真壁:「信じるよ。だって、具体的な地名まで出して、住んでいる場所までわかってるんだ。デタラメを言う理由がないだろ」
狐兎森:「行ったこともない場所の話なのに?」
真壁:「僕は先生を信じる。それが一番合理的だ」
狐兎森:「……もし誤情報だったら? それで生き物が死ぬのを、私は見たくない」
佐藤先生は議論を締めくくるように、力強く宣言した。
佐藤先生「念のため、pHを7.0以上に保つよう管理を徹底しよう。そうすれば、フグは元気に成長する。先生が責任を持って監修するから、安心してくれ。……どうだ、直樹? これで納得できたかな?」
直樹:「……先生。……僕は、もう知りませんからね」
直樹は吐き捨てるように言い、席に座った。
美月:「ほら言ったじゃない。私は反対だったの。……だから、最初からエンジェルフィッシュにしておけばよかったのに」
美月が冷たく呟いたが、佐藤先生はそれを優しく、しかし有無を言わせぬトーンで受け流した。
佐藤先生:「まあ、そんなこと言うな。せっかく出会った命なんだ。みんなで大切にしようじゃないか!」
それからの二週間、「ぷく丸」は驚くほど元気だった。 指を近づければ元気に寄ってきて、クリル(乾燥エビ)を美味しそうに頬張る姿は、クラスの緊張をすっかり溶かしていた。
しかし――その朝、悲劇は唐突に訪れた。
誰よりも早く教室に来た佐藤先生が、水槽の中で腹を上にして浮いている「ぷく丸」を発見した。 先生が顔を青ざめる。
こんな残酷な光景を生徒には見せたくない。そして手を伸ばした時、早登校の生徒が教室に入ってきた。
生徒:「先生、おはようございま……。あれ? 先生、どうしたの?」
佐藤先生:「大変だ、フグが……!」
生徒:「ええっ!?」
その叫び声に誘われるように、登校してきた生徒たちが次々と水槽に駆けつける。
「嘘だろ、昨日まであんなに元気だったのに!」
「誰かが世話をサボったんじゃないの?」
「やっぱり……淡水が原因だったんじゃ……」
美月:「だから言ったじゃん。フグなんて無理だったんだって」
美月は腕を組み、冷え切った瞳で水槽を見つめていた。その表情には悲しみよりも、「自分の正しさが証明された」という残酷な優越感が滲んでいるように見えた。
佐藤先生はうつむいたまま、絞り出すような声で言った。
佐藤先生:「誰のせいでもない。これは自然の摂理だ。……きっと、寿命だったんだよ」
沈痛な面持ちで生徒たちをなだめる先生の姿。 その喧騒の中で、真壁は一歩だけ前に出た。震える指先でスマホを構え、ファインダー越しに、動かなくなった淡水ミドリフグを凝視する。
真壁:「本当に死ぬなんて。こんな展開、誰が予想できた?」
声は落ち着いている。
だが、その指先はわずかに震えてスマホを握り直した。
真壁:「まさか……物語のほうから勝手に転がり込んでくるなんて誰が想像しただろう」
スマホを握る指がわずかに強くなる。
真壁:「これは……記事になる。いや、スクープだよ」
【新聞部・真壁の取材メモ】
■ 淡水ミドリフグ死亡 ― 原因不明
・今朝、佐藤先生が発見。腹を上にして浮いていた。昨日まで元気だった。“突然死”……? そんなことがあるのか?
■ 自然死? 事故死? それとも――
・淡水飼育が原因? → 直樹の警告は正しかった? 狐兎森さんの「死ぬ」発言が現実に。
・水質悪化? 餌の量? 管理ミス?
■ “淡水ミドリフグ”は本当に存在したのか
・佐藤先生の説明:「完全淡水ミドリフグ」「バーベー湖」「淡水適応系統」
・これらは全部本当なのか? 先生はどこでその情報を得た? 店員の田中さんの証言も怪しい。もし誤情報だったら……。
■ クラスメイトたちの不穏な動向
・美月さん: 「だから言ったじゃん」――冷たい。悲しみよりも“正しさの証明”を優先しているように見えた。
・翔太くん: 「昨日まで元気だったのに!」――本気でショックを受けている。犯人ではなさそうだが、無自覚な加害者の可能性。
・直樹くん: 「僕は知りません」――昨日の時点で見捨てていた。怒りか、悲しみか。
・狐兎森さん: 「死んでしまわないか、心配」――予言のようだった。彼女は“知っていた”のか?
■ 佐藤先生の違和感
・「寿命だったんだよ」という言葉。苦しい言い訳に聞こえる。先生は“責任者”だ。もし先生が間違っていたなら……。
結論(暫定) これはただの“魚の死”じゃない。「淡水」が原因か、「誤情報」が原因か、それとも「人間」が原因か。 真実はまだ、水槽の濁りの中に隠れている。




