表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三姉妹爆笑交響曲 — 大学生篇から陽翔&結音誕生まで  作者: リンダ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

96/108

M&Y|組曲:翼—メルボルンからストックホルムへ

全国が沸いた夜──翼の快挙、祝福の波


夜8時。ニュース速報のテロップが流れた瞬間、音大学生寮の食堂は一気に歓声に包まれた。

「うわあああ!翼お兄ちゃん、ストックホルム行きやん!!」

「すげぇ!もう世界トップ10入りやって!」


寮生たちはスマホを掲げながら叫び、廊下には誰かが持ち込んだスピーカーから、ファイブピーチ★の「希望のスタートライン」が流れ出す。

光子と優子は顔を見合わせ、思わず涙を浮かべた。


「……約束、ほんとに守ってくれたね」

「うん。うちらも、頑張らんとね」



ミライマート音大前店、異例の大混雑


その頃、ミライマート音大前店では店長の篠崎圭一が、嬉しい悲鳴を上げていた。

「ちょ、落ち着けみんな!お祝いのプリンはひとり3個までやぞー!」

すでに棚は空っぽ。翼がいつも買っていたプロテインバーとスポーツドリンクが飛ぶように売れていく。

店の前では、音大生たちが即席の横断幕を掲げていた。

「Wings to Stockholm!」「Team MITSUKO & YUKO Support!」



地元・福岡の夜空に響く“おめでとう”


博多の小倉家でも、家族全員がテレビの前でスタンディングオベーション。

優馬は思わず涙声になっていた。

「よくやったなぁ、翼……ようここまで来た」

美鈴は手を合わせるようにして、静かに笑う。

「光子ちゃんも優子ちゃんも、きっと嬉しかねぇ。あの子たちも、がんばりよるけん」


ご近所からも歓声が上がり、まるでホークスが優勝した時のような熱気。

商店街では早くも「祝・青柳翼 ストックホルム出場決定!」の張り紙が貼られ、即席のくす玉まで登場。





――そして、日常が戻ってきた。


朝のキャンパスには、いつものチャイムと練習室の譜面めくりの音。エントランスの掲示板にはコンクールのポスターが増え、寮のキッチンでは、誰かが焦がしたトーストの匂いを漂わせている。ミライマート音大前店の入口には昨日の「完売御礼」ポップがまだ貼られたままだが、店長の篠崎はすでに新しい段ボールを開け、スポドリの棚を黙々と埋め直していた。


その「いつも」の只中で、非常階段の踊り場にある連絡掲示端末が小さく点滅した。

日本テニス協会からの広報メール――「青柳 翼 選手、ストックホルム・オリンピック出場権確定。国内ランキング1位・世界ランキング10位。」


食堂にいた誰かが「マジで!?」と叫び、拍手が波のように広がる。けれど光子は、歓声の渦から一歩下がって、深く息を吸った。胸の奥で、長い時間をかけて温めてきた言葉が、静かに形になる。



午後、練習室。張り替えたばかりの弦が静かに光る。優子が足元でメトロノームを止め、顔を上げる。

「みっちゃん、行っといで。今やろ?」


光子はうなずいて、スマホを握り直した。通話の呼び出し音が二度、三度。

「……翼?」


「おう、光子。ちょうど協会からも正式に来た。やっと言えるよ――取った。」


「ほんと、よかったね。翼、これまでの頑張りが認められたね。……約束、果たしてくれて、ありがとう。」


受話口の向こうで、少しだけ息が笑いにほどける。

「約束は、途中経過だよ。ここからが本番。俺、怖いくらい冷静だ。」


「うちらもやけん。怖いくらい、冷静に燃えとるっちゃん。」


二人の間に短い沈黙が落ちる。沈黙は不安ではなく、同じ景色を遠くから見ている者同士の、静かな確認だった。



通話を切ると、優子がすぐ隣に並んで肩で小突く。

「みっちゃん、泣いとらんと? ほっぺ、きらーんってしとる。」


「しとらんし!……ちょっとだけ、目に汗が入っただけやけん。」


優子はにやりとして、譜面を裏返した。そこには手書きで「Wings to Stockholm(仮)」と書かれている。

「昨日のうちに拵えといた。ファイブピーチ★でも回せるし、二重唱でもいける。イントロ、翼んサーブみたいに“間”で取るっちゃん。」


光子は笑いながら、ピアノ前に座る。鍵盤に指を置くと、音は驚くほど柔らかく、しかし芯が強かった。

彼女は弾き始める。ひとつ、ふたつ、跳ねるような和音。ラケットの振り抜きのように、最後の一音が空気を切る。

「……これで、うちらも“約束を返す”番やね。」



夕方、ミライマート。

店長の篠崎が、エコバッグにスポドリを詰める光子と優子を見て、指で大きな丸を作った。

「お祝いの“店長割”、今日だけ特別。お二人さんの分、10%オフ!」


「店長、やさしか~!なに、急にお父さん化しとるやん!」

「篠崎パパ、ありがとう!」

「パパ言うなぁ!」


笑いが起きる。店の外には、近所の子どもが描いた“翼の似顔絵”が風に揺れている。太い線で描かれたラケットと、少し大きすぎる笑顔。そこに「がんばれ」の文字。



夜、寮の屋上。

光子と優子は紙コップの温かいココアを手に、校舎越しの街の灯を眺める。星は薄い雲の向こうで、にじむように光っている。


「優子。」

「ん?」

「次、曲のブリッジ、もう一つだけ上げよっか。観客が息を呑む“高み”、あそこ、まだ上がる。」


「よかね。……うちらも、シードで舞台に立てるようになろ。」


「うん。テニスコートも、ステージも、生き物やけん。その日いちばんの“呼吸”で勝てばよか。」


ココアの湯気がふっとほどけ、二人は同時に笑った。



その翌朝。

講義の合間に届いたニュースアプリの速報は、昨日のメールを裏打ちするように踊っていた――

「日本テニス協会、青柳翼の五輪出場権確定を正式発表。国内ランキング1位、世界10位へ。」

廊下ですれ違った後輩が、恥ずかしそうに頭を下げる。

「先輩……おめでとうございます。あの、青柳さんと――」

「ありがとう。けどね、今日も発声とスケール、地味~に積む日やけん。」

光子はウインクし、練習室の扉を押した。扉の向こうで、また“いつも”が始まる。


鍵盤の上に落ちる最初の音は、翼が遠くで打った最初のサーブと同じ軌道で、まっすぐに夜明けを切り裂いた。


――約束は果たされた。

そして、次の約束へ。





そして──再び日常が動き出す。


朝の寮の廊下には、コーヒーの香りとトロンボーンの音階練習が重なって流れていた。

光子は洗面台の鏡越しに自分の顔を見て、深呼吸をひとつ。

「よし、今日もいこっか。」


ニュースの熱狂が去り、ミライマートの行列も落ち着き、音大の構内にまた“いつもの風”が戻っていた。

だが心の奥では、確かに何かが変わっていた。

翼が世界の舞台に立つ──その現実が、彼女たちの胸の奥で静かに燃え続けている。


講義後、練習室で譜面をめくりながら、光子はふと空を見上げる。

午後の光の中、柔らかく響くピアノの旋律。

「……翼、次はうちらの番やね。」


優子が椅子に腰かけ、にっこり笑う。

「そうやね。オリンピック行く人に負けとれんし。ステージの上で、うちらも“世界10位”目指そっか。」


光子は笑いながら、鍵盤を叩く。

軽やかなリズムが部屋いっぱいに広がる。

翼が汗で掴んだ夢を、音に変えて届けるように。


――ストックホルムの空の下で、彼が打つ一球のように。

そして、光子と優子もまた、自分たちのフィールドで、新たな一歩を踏み出していた





組曲「翼—メルボルンからストックホルムへ」(M&Y名義)


全体コンセプト


“日常で積み上げた一歩一歩が、世界の扉を開く”をテーマにした3楽章+間奏。

ギャグクラシック路線から一転、硬派で叙情的。歌は光子&優子のデュエット(M&Y)、器楽版とファイブピーチ★版の2系統を同時展開。



構成(器楽+歌詞付き)


I. Melbourne Dawn(メルボルンの夜明け) ♪=60 / Es-dur

•音型:心拍を模す2音モチーフ(Es–B)。足跡のように低弦→木管→全体へ。

•和声:素朴なトニックから始まり、Lydianの光で“初めの希望”を描写。

•歌詞(抜粋)

「まだ誰も見ない朝 靴ひもを結ぶ音が/最初の勝利の合図になる」


Intermezzo: Baseline Ritualルーティン ♪=92 / 7/8

•テニスの“トス→呼吸→スイング”を7/8で刻む。ボールのバウンドは打楽器(ボンゴ+ピッコロウッドブロック)。

•ピアノ右手の反復は“集中の輪”。


II. Rod Laver Arena, Night Session(全豪の闘い) ♪=132 / g-moll

•呼応:弦のスタッカート=相手のリターン、金管のアクセント=サーブの炸裂。

•中間部は無伴奏デュエット(M&Y)で、会場の静寂と眼差しを描く。

•歌詞(抜粋)

「迷いの影よりも長く/立ち続ける背中になれ」

「心が折れそうな夜ほど/遠くの旗を見上げて」


III. Northbound to Stockholm(北行の決意) ♪=104 → 168 / D-dur

•モチーフ反転:第1楽章の心拍動機を上向形に転じ“上昇”を象徴。

•終盤、合唱(無言“ah”)が重なり、“個の努力→チームの力”へ拡張。

歌詞サビ

「いつかじゃない 今を連れて行こう/北の光へ 風よ、道を拓け」

「約束の先で会おう 同じ空見上げて」



編成

•オーケストラ版:2Fl, 2Ob, 2Cl(B♭), 2Fg, 4Hn, 3Tp, 3Tb, Tuba, Timp, Perc(4), Pf, Harp, Strings

•M&Yボーカル版:Pf, Strings Quintet, Perc(2), Cl(B♭) *ホール向け

•吹奏楽版(音大&地元コラボ):木管厚め、低音群を強化。ピアノは必須(ルーティンの反復に使用)



ファイブピーチ★用アレンジ(ライブ向け)

•テンポ:全体+8〜10bpm、III終盤は168→178へプッシュ。

•リフ設計:ギターは第1楽章モチーフ(Es–B)をオクターブ→5度で分厚く。

•ドラム:Intermezzoの7/8は“7/8→4/4(3+4)”にリハモして客乗せ。

•間奏でテニスSE(ボール/スニーカーのフロアノイズ)を環境音的にレイヤー。

•エンディング:観客シンガロング用にサビ上2音を持続させた「Wind Tag」追加。



リリース計画

•名義:M&Y「組曲:翼—メルボルンからストックホルムへ」

•形態:

1.デジタルEP(器楽版+Vocal版+ファイブピーチ★版=計3トラック)

2.初回生産限定CD(ミライマート音大前店&一部店舗先行)

•透明スリーブ+北欧光彩ホログラム加工

•匿名メッセージ封入(初回特典)

•映像:音大ホールでライブレコーディング→Shorts/TikTokはIntermezzoの7/8手拍子講座を切り出し拡散。



ステージ演出メモ

•冒頭、照明は“早朝の青”。第2楽章は“ナイトゲームの濃紺”。

•Intermezzoでサイドスクリーンに白線ベースラインを抽象グラフィック表示。

•ラストは舞台奥から前向きのブラインドで“北の光”を一閃、暗転キメ。



初回特典封入:匿名メッセージ(作者名伏せ・原文)


だれかの努力は、だれにも見えない場所で積もっていく。

見えないままで終わる日もある。それでも、踏み出した一歩は確かに地面に跡を残す。

あなたが残した跡を、私は音に写しました。

もしこの音が、次の一歩の背中をほんの少しでも押せたなら、

それだけで、ここまでの毎朝が報われます。

ここから先も、どうかあなたの呼吸で。私は私の呼吸で。

同じ空気を吸って、また会いましょう。北の光の下で。



クレジット案

•作・編曲:光子(M)/補筆・対旋律:優子(Y)

•ボーカル:M&Y

•吹奏楽編曲監修:戸畑昌恵

•レコーディング:音大学内ホール/ミックス:Studio Wing

•アートワーク:ミライマート音大前店・店長篠崎による“手描きWingsロゴ”採用(清書はデザイナー)



次アクション(物語反映のための“描写フック”)

1.音大ホール初演のリハ描写(7/8手拍子で客席が一体化する瞬間)

2.ミライマート先行フラゲ日の行列&店長の嬉し泣き(レジに“匿名メッセージ”の縮刷展示)

3.翼がヘッドフォンで第1楽章を聴きながらクールダウンする無言のカット

4.地元福岡での吹奏楽版お披露目(小倉家が客席で手を握るカット)





夜更けの音大は、窓ガラスの向こう側だけが海のように暗く、校舎の内側は島のように明るかった。

練習室の灯りの下で、光子は譜面台を少しだけ斜めにし、鉛筆の芯を削り直す。

机の端にはメモがいくつも並び、そこには短く丸で囲った言葉だけが並んでいる。


〈結ぶ音〉

〈呼吸〉

〈バウンドの間〉

〈北の光〉


指先が紙の上を撫でるたび、メルボルンの朝の冷たい空気が、ほんの少しだけ胸の中に戻ってきた気がした。

ナイターの照明。観客のざわめき。汗の匂い。

翼がトスを上げたあの瞬間に広がった静寂を、彼女は“音符で”もう一度呼び出そうとしている。


ドアがそっと開いて、優子が顔を出した。

「まだ起きとる? 店長から差し入れ。ミライマートの“がんばれプリン”。」

「またプリン……。ありがとう。『約束返し』進んどるよ。」

「“メルボルンからストックホルムへ”、ほんとに作るんやね。」


光子はうなずき、鍵盤に触れる。

右手でやわらかく二つの音を拾う。EsからB。

心臓の音、靴ひもを結ぶ音、朝の最初の一歩。

低い弦のイメージを口で歌い、紙に落とす。線が増え、休符が置かれるたび、部屋の空気が“形”を持ちはじめる。


「ここはさ、“まだ誰も見ない朝”の言葉がほしい。」

「歌詞、もう浮かんどる?」

「断片だけ。『見えないまま終わる日もある。それでも一歩は跡を残す』……みたいな。」

「ええやん。」優子が椅子に腰をかけ、机に両肘をついた。「で、あたしはコーラスで“呼吸”を入れる。ことばじゃなくて、はぁって。舞台の空気が動く感じ。」


ふたりは顔を見合わせて笑い、同時に小さく肩を震わせた。

冗談を言い合う余白も、今夜はどこか慎ましい。

鉛筆の先が譜面の上をすべる音は、雨だれのように細く、確かな速さで進んでいく。



二日後の夕方、録音ホール。

譜面台の列が前方に向かって緩やかな丘を作り、マイクスタンドが黒い細い木のように立っている。

「Intermezzo、入りまーす。テンポ92、7拍子。」

スタッフの声に、打楽器の二人が視線を交わす。ボンゴとウッドブロックが、まだ音にならない位置で小さく揺れた。


光子はヘッドホンを外し、舞台袖の鏡に少しだけ視線を落とす。

「翼の“間”、ここで再現するけん。」

優子が親指を立てる。「バウンド、三つ目で切るやつね。」


合図。

七つの拍が、足もとの床から立ち上がる。

たった“一歩前の深呼吸”に、会場全体が引き寄せられていく。

ボールが床をたたく音の代わりに、ウッドブロックが空気を叩いた。

ピアノの右手が細い糸のような反復を編んで、すぐに左手がその糸を束ねる。

優子は言葉を歌わず、息だけで「はぁ」と“呼吸”を置く。

客席のないホールなのに、空席のどこかで誰かが息を呑んだ気配が、たしかにした。


第二楽章。

弦のスタッカートが“相手のリターン”になり、金管のアクセントが“サーブ”に変わる。

光子と優子の声が交差し、言葉が床に影を落とす。


―迷いの影よりも長く/立ち続ける背中になれ


歌い終えると、ふたりは同時に無言で親指を立てた。

録音ブースの向こう側で、エンジニアが小さく笑い、手元のフェーダーを滑らせる。


そして第三楽章。

“北の光”はホールの天井をやわらかく照らし、第一楽章の二音モチーフが、今度は上向きにほどけていく。

合唱の“ah”が重なった瞬間、音は個人のたたかいの輪郭を越え、広い場所へひらけた。

光子は、歌いながら思う。

(これは、あの朝の靴ひもが、世界に伸びた線やけん。)


最後の和音が消えるまで、誰もヘッドホンを外さなかった。

消えたあとも、しばらくは誰も喋らなかった。



ミライマート音大前店の朝。

自動ドアが開くたび、冷たい外気と甘いパンの匂いが入れ替わる。

レジの横、透明スリーブのCDが光を弾く。

『M&Y|組曲:翼—メルボルンからストックホルムへ』

“先行入荷”の短冊ポップには、店長の字で「がんばれの音、揃いました」とある。


「お一人さま二枚まででお願いします!」

篠崎は笑顔で声を張るが、目のふちが少し赤い。

「ちょ、店長、泣いとる?」

「泣いてない!花粉や!秋花粉や!」


行列の一番前に、夜明けから並んだらしい男子学生がいて、手にしたCDを抱えるように胸に当てた。

「これ……匿名メッセージって、ほんとに入っとるんですか?」

「入っとる。店長が封入見たわけじゃないけど、デザイナーさんが“入れた”って言いよった。」

「見たんやないんかい!」

レジまわりに小さな笑いが走る。


光子と優子は、列の最後尾から店内を覗いた。

「……ほんとに、並んどる。」

「ありがたいねぇ。」

自分たちの名前はジャケットのどこにも大きくはない。

だけど、この透明スリーブの中に、夜の鉛筆の音と、朝の靴ひもと、遠い照明のまぶしさが、確かに仕舞われている。



CDを開いた人にだけ現れる、薄い紙片。

名前のない便箋には、丸い字でこう書かれていた。


――

だれかの努力は、だれにも見えない場所で積もっていく。

見えないままで終わる日もある。

それでも、踏み出した一歩は地面に跡を残す。

あなたが残した跡を、私は音に写しました。

もしこの音が、次の一歩の背中をほんの少しでも押せたなら、

それだけで、ここまでの毎朝が報われます。

ここから先も、どうかあなたの呼吸で。私は私の呼吸で。

同じ空気を吸って、また会いましょう。北の光の下で。

――


SNSには“誰のメッセージ?”という問いが並び、ファンはさまざまな推理を楽しんだ。

でも、正解が明かされることはない。

音は、音のままで届けばいい。



その夜、音大ホールの小さな公演。

客席は満員ではない。だけど、空席さえ呼吸をしているみたいに、舞台と同じ速度で静かだった。

「Intermezzo、手拍子の練習を一緒にやってもらっていいですか?」

優子が笑う。

「七拍子って難しかろ? でも、“3+2+2”って分けたらいけるけん。せーの、タンタンタン・タンタン・タンタン。」


客席の手のひらが揃い、カーペットの下で床が小さくうなった。

舞台袖でスタッフが「え、こんな揃う?」と小声で呟く。

光子は、鍵盤の前でその手拍子を聴き、目を細める。

(翼、届いとるよ。)

(あなたの“間”で、こんなに人が呼吸できとる。)


終曲。

北の光を模した白いブラインド照明が奥から一閃し、最後の和音がゆっくり消える。

拍手の前、ほんの一拍の静けさが落ちた。

その一拍は、あのトスの“間”と同じ手触りで、客席を丸ごと包みこんだ。



公演を終え、光子はホールの階段を降りて外に出る。

夜風が首筋を撫で、遠くで救急車のサイレンが小さくほどけた。

スマホが震え、画面に表示された名前を見て、彼女は思わず笑う。


『青柳 翼』


「――もしもし。」

「聴いたよ。第三楽章の最後、ズルい。」

「ズルくないし。」

「ズルい。あんなの、走りたくなるやん。」

電話の向こうで、水の飲む音。呼吸が整う気配。

「ありがとう。」翼の声は驚くほど静かだった。「あの便箋、誰が書いたかは聞かない。けど、あれで、もう一回朝が始められる人、きっとおる。」


光子は空を見上げる。雲の切れ間に、細い星が一本、縫い目みたいに光っていた。

「こっちも、もう一回始められたよ。うちらの朝も。」

「ストックホルムで待っとる。」

「ステージから見とるけん。」


電話を切ると、優子が自販機の前でココアを二つ掲げた。

「おつかれ。店長割のココア。」

「また勝手に割っとる……。」

二人で笑い、紙コップをカチンと合わせる。


階段の足元に、誰かが落とした“先行入荷”の短冊が風にめくれ、転がった。

拾い上げてポケットに入れ、光子は寮への道を歩く。

明日も、鉛筆を削る。

あの二音を、また新しく始める。

眼の前にある“いつも”の階段を、一段ずつ上がっていく。


――約束は果たされた。

そして、約束は続いていく。

メルボルンで始まった朝が、ストックホルムの光へ向かって、静かに北を差している。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ