M&Y|組曲:翼—メルボルンからストックホルムへ
全国が沸いた夜──翼の快挙、祝福の波
夜8時。ニュース速報のテロップが流れた瞬間、音大学生寮の食堂は一気に歓声に包まれた。
「うわあああ!翼お兄ちゃん、ストックホルム行きやん!!」
「すげぇ!もう世界トップ10入りやって!」
寮生たちはスマホを掲げながら叫び、廊下には誰かが持ち込んだスピーカーから、ファイブピーチ★の「希望のスタートライン」が流れ出す。
光子と優子は顔を見合わせ、思わず涙を浮かべた。
「……約束、ほんとに守ってくれたね」
「うん。うちらも、頑張らんとね」
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ミライマート音大前店、異例の大混雑
その頃、ミライマート音大前店では店長の篠崎圭一が、嬉しい悲鳴を上げていた。
「ちょ、落ち着けみんな!お祝いのプリンはひとり3個までやぞー!」
すでに棚は空っぽ。翼がいつも買っていたプロテインバーとスポーツドリンクが飛ぶように売れていく。
店の前では、音大生たちが即席の横断幕を掲げていた。
「Wings to Stockholm!」「Team MITSUKO & YUKO Support!」
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地元・福岡の夜空に響く“おめでとう”
博多の小倉家でも、家族全員がテレビの前でスタンディングオベーション。
優馬は思わず涙声になっていた。
「よくやったなぁ、翼……ようここまで来た」
美鈴は手を合わせるようにして、静かに笑う。
「光子ちゃんも優子ちゃんも、きっと嬉しかねぇ。あの子たちも、がんばりよるけん」
ご近所からも歓声が上がり、まるでホークスが優勝した時のような熱気。
商店街では早くも「祝・青柳翼 ストックホルム出場決定!」の張り紙が貼られ、即席のくす玉まで登場。
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――そして、日常が戻ってきた。
朝のキャンパスには、いつものチャイムと練習室の譜面めくりの音。エントランスの掲示板にはコンクールのポスターが増え、寮のキッチンでは、誰かが焦がしたトーストの匂いを漂わせている。ミライマート音大前店の入口には昨日の「完売御礼」ポップがまだ貼られたままだが、店長の篠崎はすでに新しい段ボールを開け、スポドリの棚を黙々と埋め直していた。
その「いつも」の只中で、非常階段の踊り場にある連絡掲示端末が小さく点滅した。
日本テニス協会からの広報メール――「青柳 翼 選手、ストックホルム・オリンピック出場権確定。国内ランキング1位・世界ランキング10位。」
食堂にいた誰かが「マジで!?」と叫び、拍手が波のように広がる。けれど光子は、歓声の渦から一歩下がって、深く息を吸った。胸の奥で、長い時間をかけて温めてきた言葉が、静かに形になる。
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午後、練習室。張り替えたばかりの弦が静かに光る。優子が足元でメトロノームを止め、顔を上げる。
「みっちゃん、行っといで。今やろ?」
光子はうなずいて、スマホを握り直した。通話の呼び出し音が二度、三度。
「……翼?」
「おう、光子。ちょうど協会からも正式に来た。やっと言えるよ――取った。」
「ほんと、よかったね。翼、これまでの頑張りが認められたね。……約束、果たしてくれて、ありがとう。」
受話口の向こうで、少しだけ息が笑いにほどける。
「約束は、途中経過だよ。ここからが本番。俺、怖いくらい冷静だ。」
「うちらもやけん。怖いくらい、冷静に燃えとるっちゃん。」
二人の間に短い沈黙が落ちる。沈黙は不安ではなく、同じ景色を遠くから見ている者同士の、静かな確認だった。
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通話を切ると、優子がすぐ隣に並んで肩で小突く。
「みっちゃん、泣いとらんと? ほっぺ、きらーんってしとる。」
「しとらんし!……ちょっとだけ、目に汗が入っただけやけん。」
優子はにやりとして、譜面を裏返した。そこには手書きで「Wings to Stockholm(仮)」と書かれている。
「昨日のうちに拵えといた。ファイブピーチ★でも回せるし、二重唱でもいける。イントロ、翼んサーブみたいに“間”で取るっちゃん。」
光子は笑いながら、ピアノ前に座る。鍵盤に指を置くと、音は驚くほど柔らかく、しかし芯が強かった。
彼女は弾き始める。ひとつ、ふたつ、跳ねるような和音。ラケットの振り抜きのように、最後の一音が空気を切る。
「……これで、うちらも“約束を返す”番やね。」
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夕方、ミライマート。
店長の篠崎が、エコバッグにスポドリを詰める光子と優子を見て、指で大きな丸を作った。
「お祝いの“店長割”、今日だけ特別。お二人さんの分、10%オフ!」
「店長、やさしか~!なに、急にお父さん化しとるやん!」
「篠崎パパ、ありがとう!」
「パパ言うなぁ!」
笑いが起きる。店の外には、近所の子どもが描いた“翼の似顔絵”が風に揺れている。太い線で描かれたラケットと、少し大きすぎる笑顔。そこに「がんばれ」の文字。
—
夜、寮の屋上。
光子と優子は紙コップの温かいココアを手に、校舎越しの街の灯を眺める。星は薄い雲の向こうで、にじむように光っている。
「優子。」
「ん?」
「次、曲のブリッジ、もう一つだけ上げよっか。観客が息を呑む“高み”、あそこ、まだ上がる。」
「よかね。……うちらも、シードで舞台に立てるようになろ。」
「うん。テニスコートも、ステージも、生き物やけん。その日いちばんの“呼吸”で勝てばよか。」
ココアの湯気がふっとほどけ、二人は同時に笑った。
—
その翌朝。
講義の合間に届いたニュースアプリの速報は、昨日のメールを裏打ちするように踊っていた――
「日本テニス協会、青柳翼の五輪出場権確定を正式発表。国内ランキング1位、世界10位へ。」
廊下ですれ違った後輩が、恥ずかしそうに頭を下げる。
「先輩……おめでとうございます。あの、青柳さんと――」
「ありがとう。けどね、今日も発声とスケール、地味~に積む日やけん。」
光子はウインクし、練習室の扉を押した。扉の向こうで、また“いつも”が始まる。
鍵盤の上に落ちる最初の音は、翼が遠くで打った最初のサーブと同じ軌道で、まっすぐに夜明けを切り裂いた。
――約束は果たされた。
そして、次の約束へ。
そして──再び日常が動き出す。
朝の寮の廊下には、コーヒーの香りとトロンボーンの音階練習が重なって流れていた。
光子は洗面台の鏡越しに自分の顔を見て、深呼吸をひとつ。
「よし、今日もいこっか。」
ニュースの熱狂が去り、ミライマートの行列も落ち着き、音大の構内にまた“いつもの風”が戻っていた。
だが心の奥では、確かに何かが変わっていた。
翼が世界の舞台に立つ──その現実が、彼女たちの胸の奥で静かに燃え続けている。
講義後、練習室で譜面をめくりながら、光子はふと空を見上げる。
午後の光の中、柔らかく響くピアノの旋律。
「……翼、次はうちらの番やね。」
優子が椅子に腰かけ、にっこり笑う。
「そうやね。オリンピック行く人に負けとれんし。ステージの上で、うちらも“世界10位”目指そっか。」
光子は笑いながら、鍵盤を叩く。
軽やかなリズムが部屋いっぱいに広がる。
翼が汗で掴んだ夢を、音に変えて届けるように。
――ストックホルムの空の下で、彼が打つ一球のように。
そして、光子と優子もまた、自分たちのフィールドで、新たな一歩を踏み出していた
組曲「翼—メルボルンからストックホルムへ」(M&Y名義)
全体コンセプト
“日常で積み上げた一歩一歩が、世界の扉を開く”をテーマにした3楽章+間奏。
ギャグクラシック路線から一転、硬派で叙情的。歌は光子&優子のデュエット(M&Y)、器楽版とファイブピーチ★版の2系統を同時展開。
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構成(器楽+歌詞付き)
I. Melbourne Dawn(メルボルンの夜明け) ♪=60 / Es-dur
•音型:心拍を模す2音モチーフ(Es–B)。足跡のように低弦→木管→全体へ。
•和声:素朴なトニックから始まり、Lydianの光で“初めの希望”を描写。
•歌詞(抜粋)
「まだ誰も見ない朝 靴ひもを結ぶ音が/最初の勝利の合図になる」
Intermezzo: Baseline Ritual ♪=92 / 7/8
•テニスの“トス→呼吸→スイング”を7/8で刻む。ボールのバウンドは打楽器(ボンゴ+ピッコロウッドブロック)。
•ピアノ右手の反復は“集中の輪”。
II. Rod Laver Arena, Night Session(全豪の闘い) ♪=132 / g-moll
•呼応:弦のスタッカート=相手のリターン、金管のアクセント=サーブの炸裂。
•中間部は無伴奏デュエット(M&Y)で、会場の静寂と眼差しを描く。
•歌詞(抜粋)
「迷いの影よりも長く/立ち続ける背中になれ」
「心が折れそうな夜ほど/遠くの旗を見上げて」
III. Northbound to Stockholm(北行の決意) ♪=104 → 168 / D-dur
•モチーフ反転:第1楽章の心拍動機を上向形に転じ“上昇”を象徴。
•終盤、合唱(無言“ah”)が重なり、“個の努力→チームの力”へ拡張。
•歌詞
「いつかじゃない 今を連れて行こう/北の光へ 風よ、道を拓け」
「約束の先で会おう 同じ空見上げて」
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編成
•オーケストラ版:2Fl, 2Ob, 2Cl(B♭), 2Fg, 4Hn, 3Tp, 3Tb, Tuba, Timp, Perc(4), Pf, Harp, Strings
•M&Yボーカル版:Pf, Strings Quintet, Perc(2), Cl(B♭) *ホール向け
•吹奏楽版(音大&地元コラボ):木管厚め、低音群を強化。ピアノは必須(ルーティンの反復に使用)
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ファイブピーチ★用アレンジ(ライブ向け)
•テンポ:全体+8〜10bpm、III終盤は168→178へプッシュ。
•リフ設計:ギターは第1楽章モチーフ(Es–B)をオクターブ→5度で分厚く。
•ドラム:Intermezzoの7/8は“7/8→4/4(3+4)”にリハモして客乗せ。
•間奏でテニスSE(ボール/スニーカーのフロアノイズ)を環境音的にレイヤー。
•エンディング:観客シンガロング用にサビ上2音を持続させた「Wind Tag」追加。
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リリース計画
•名義:M&Y「組曲:翼—メルボルンからストックホルムへ」
•形態:
1.デジタルEP(器楽版+Vocal版+ファイブピーチ★版=計3トラック)
2.初回生産限定CD(ミライマート音大前店&一部店舗先行)
•透明スリーブ+北欧光彩ホログラム加工
•匿名メッセージ封入(初回特典)
•映像:音大ホールでライブレコーディング→Shorts/TikTokはIntermezzoの7/8手拍子講座を切り出し拡散。
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ステージ演出メモ
•冒頭、照明は“早朝の青”。第2楽章は“ナイトゲームの濃紺”。
•Intermezzoでサイドスクリーンに白線を抽象グラフィック表示。
•ラストは舞台奥から前向きのブラインドで“北の光”を一閃、暗転キメ。
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初回特典封入:匿名メッセージ(作者名伏せ・原文)
だれかの努力は、だれにも見えない場所で積もっていく。
見えないままで終わる日もある。それでも、踏み出した一歩は確かに地面に跡を残す。
あなたが残した跡を、私は音に写しました。
もしこの音が、次の一歩の背中をほんの少しでも押せたなら、
それだけで、ここまでの毎朝が報われます。
ここから先も、どうかあなたの呼吸で。私は私の呼吸で。
同じ空気を吸って、また会いましょう。北の光の下で。
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クレジット案
•作・編曲:光子(M)/補筆・対旋律:優子(Y)
•ボーカル:M&Y
•吹奏楽編曲監修:戸畑昌恵
•レコーディング:音大学内ホール/ミックス:Studio Wing
•アートワーク:ミライマート音大前店・店長篠崎による“手描きWingsロゴ”採用(清書はデザイナー)
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次アクション(物語反映のための“描写フック”)
1.音大ホール初演のリハ描写(7/8手拍子で客席が一体化する瞬間)
2.ミライマート先行フラゲ日の行列&店長の嬉し泣き(レジに“匿名メッセージ”の縮刷展示)
3.翼がヘッドフォンで第1楽章を聴きながらクールダウンする無言のカット
4.地元福岡での吹奏楽版お披露目(小倉家が客席で手を握るカット)
夜更けの音大は、窓ガラスの向こう側だけが海のように暗く、校舎の内側は島のように明るかった。
練習室の灯りの下で、光子は譜面台を少しだけ斜めにし、鉛筆の芯を削り直す。
机の端にはメモがいくつも並び、そこには短く丸で囲った言葉だけが並んでいる。
〈結ぶ音〉
〈呼吸〉
〈バウンドの間〉
〈北の光〉
指先が紙の上を撫でるたび、メルボルンの朝の冷たい空気が、ほんの少しだけ胸の中に戻ってきた気がした。
ナイターの照明。観客のざわめき。汗の匂い。
翼がトスを上げたあの瞬間に広がった静寂を、彼女は“音符で”もう一度呼び出そうとしている。
ドアがそっと開いて、優子が顔を出した。
「まだ起きとる? 店長から差し入れ。ミライマートの“がんばれプリン”。」
「またプリン……。ありがとう。『約束返し』進んどるよ。」
「“メルボルンからストックホルムへ”、ほんとに作るんやね。」
光子はうなずき、鍵盤に触れる。
右手でやわらかく二つの音を拾う。EsからB。
心臓の音、靴ひもを結ぶ音、朝の最初の一歩。
低い弦のイメージを口で歌い、紙に落とす。線が増え、休符が置かれるたび、部屋の空気が“形”を持ちはじめる。
「ここはさ、“まだ誰も見ない朝”の言葉がほしい。」
「歌詞、もう浮かんどる?」
「断片だけ。『見えないまま終わる日もある。それでも一歩は跡を残す』……みたいな。」
「ええやん。」優子が椅子に腰をかけ、机に両肘をついた。「で、あたしはコーラスで“呼吸”を入れる。ことばじゃなくて、はぁって。舞台の空気が動く感じ。」
ふたりは顔を見合わせて笑い、同時に小さく肩を震わせた。
冗談を言い合う余白も、今夜はどこか慎ましい。
鉛筆の先が譜面の上をすべる音は、雨だれのように細く、確かな速さで進んでいく。
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二日後の夕方、録音ホール。
譜面台の列が前方に向かって緩やかな丘を作り、マイクスタンドが黒い細い木のように立っている。
「Intermezzo、入りまーす。テンポ92、7拍子。」
スタッフの声に、打楽器の二人が視線を交わす。ボンゴとウッドブロックが、まだ音にならない位置で小さく揺れた。
光子はヘッドホンを外し、舞台袖の鏡に少しだけ視線を落とす。
「翼の“間”、ここで再現するけん。」
優子が親指を立てる。「バウンド、三つ目で切るやつね。」
合図。
七つの拍が、足もとの床から立ち上がる。
たった“一歩前の深呼吸”に、会場全体が引き寄せられていく。
ボールが床をたたく音の代わりに、ウッドブロックが空気を叩いた。
ピアノの右手が細い糸のような反復を編んで、すぐに左手がその糸を束ねる。
優子は言葉を歌わず、息だけで「はぁ」と“呼吸”を置く。
客席のないホールなのに、空席のどこかで誰かが息を呑んだ気配が、たしかにした。
第二楽章。
弦のスタッカートが“相手のリターン”になり、金管のアクセントが“サーブ”に変わる。
光子と優子の声が交差し、言葉が床に影を落とす。
―迷いの影よりも長く/立ち続ける背中になれ
歌い終えると、ふたりは同時に無言で親指を立てた。
録音ブースの向こう側で、エンジニアが小さく笑い、手元のフェーダーを滑らせる。
そして第三楽章。
“北の光”はホールの天井をやわらかく照らし、第一楽章の二音モチーフが、今度は上向きにほどけていく。
合唱の“ah”が重なった瞬間、音は個人のたたかいの輪郭を越え、広い場所へひらけた。
光子は、歌いながら思う。
(これは、あの朝の靴ひもが、世界に伸びた線やけん。)
最後の和音が消えるまで、誰もヘッドホンを外さなかった。
消えたあとも、しばらくは誰も喋らなかった。
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ミライマート音大前店の朝。
自動ドアが開くたび、冷たい外気と甘いパンの匂いが入れ替わる。
レジの横、透明スリーブのCDが光を弾く。
『M&Y|組曲:翼—メルボルンからストックホルムへ』
“先行入荷”の短冊ポップには、店長の字で「がんばれの音、揃いました」とある。
「お一人さま二枚まででお願いします!」
篠崎は笑顔で声を張るが、目のふちが少し赤い。
「ちょ、店長、泣いとる?」
「泣いてない!花粉や!秋花粉や!」
行列の一番前に、夜明けから並んだらしい男子学生がいて、手にしたCDを抱えるように胸に当てた。
「これ……匿名メッセージって、ほんとに入っとるんですか?」
「入っとる。店長が封入見たわけじゃないけど、デザイナーさんが“入れた”って言いよった。」
「見たんやないんかい!」
レジまわりに小さな笑いが走る。
光子と優子は、列の最後尾から店内を覗いた。
「……ほんとに、並んどる。」
「ありがたいねぇ。」
自分たちの名前はジャケットのどこにも大きくはない。
だけど、この透明スリーブの中に、夜の鉛筆の音と、朝の靴ひもと、遠い照明のまぶしさが、確かに仕舞われている。
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CDを開いた人にだけ現れる、薄い紙片。
名前のない便箋には、丸い字でこう書かれていた。
――
だれかの努力は、だれにも見えない場所で積もっていく。
見えないままで終わる日もある。
それでも、踏み出した一歩は地面に跡を残す。
あなたが残した跡を、私は音に写しました。
もしこの音が、次の一歩の背中をほんの少しでも押せたなら、
それだけで、ここまでの毎朝が報われます。
ここから先も、どうかあなたの呼吸で。私は私の呼吸で。
同じ空気を吸って、また会いましょう。北の光の下で。
――
SNSには“誰のメッセージ?”という問いが並び、ファンはさまざまな推理を楽しんだ。
でも、正解が明かされることはない。
音は、音のままで届けばいい。
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その夜、音大ホールの小さな公演。
客席は満員ではない。だけど、空席さえ呼吸をしているみたいに、舞台と同じ速度で静かだった。
「Intermezzo、手拍子の練習を一緒にやってもらっていいですか?」
優子が笑う。
「七拍子って難しかろ? でも、“3+2+2”って分けたらいけるけん。せーの、タンタンタン・タンタン・タンタン。」
客席の手のひらが揃い、カーペットの下で床が小さくうなった。
舞台袖でスタッフが「え、こんな揃う?」と小声で呟く。
光子は、鍵盤の前でその手拍子を聴き、目を細める。
(翼、届いとるよ。)
(あなたの“間”で、こんなに人が呼吸できとる。)
終曲。
北の光を模した白いブラインド照明が奥から一閃し、最後の和音がゆっくり消える。
拍手の前、ほんの一拍の静けさが落ちた。
その一拍は、あのトスの“間”と同じ手触りで、客席を丸ごと包みこんだ。
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公演を終え、光子はホールの階段を降りて外に出る。
夜風が首筋を撫で、遠くで救急車のサイレンが小さくほどけた。
スマホが震え、画面に表示された名前を見て、彼女は思わず笑う。
『青柳 翼』
「――もしもし。」
「聴いたよ。第三楽章の最後、ズルい。」
「ズルくないし。」
「ズルい。あんなの、走りたくなるやん。」
電話の向こうで、水の飲む音。呼吸が整う気配。
「ありがとう。」翼の声は驚くほど静かだった。「あの便箋、誰が書いたかは聞かない。けど、あれで、もう一回朝が始められる人、きっとおる。」
光子は空を見上げる。雲の切れ間に、細い星が一本、縫い目みたいに光っていた。
「こっちも、もう一回始められたよ。うちらの朝も。」
「ストックホルムで待っとる。」
「ステージから見とるけん。」
電話を切ると、優子が自販機の前でココアを二つ掲げた。
「おつかれ。店長割のココア。」
「また勝手に割っとる……。」
二人で笑い、紙コップをカチンと合わせる。
階段の足元に、誰かが落とした“先行入荷”の短冊が風にめくれ、転がった。
拾い上げてポケットに入れ、光子は寮への道を歩く。
明日も、鉛筆を削る。
あの二音を、また新しく始める。
眼の前にある“いつも”の階段を、一段ずつ上がっていく。
――約束は果たされた。
そして、約束は続いていく。
メルボルンで始まった朝が、ストックホルムの光へ向かって、静かに北を差している。




