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三姉妹爆笑交響曲 — 大学生篇から陽翔&結音誕生まで  作者: リンダ


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スピンオフ 美香の幼少期第二章 音楽との出会い

橋のの上のただいま


虐待・貧困・自傷念慮/資源の案内を文末に付けています


 川面は黒い硝子みたいに冷えて、街灯の光をまばらに弾いていた。欄干にもたれた美香は、胸の奥で波を数えるみたいに、行き交う車の音を数えていた。

 背中のほうから柔らかい声がした。


「ねえ、大丈夫? 寒くない?」


 振り向くと、ウールのコートを着た女性が、距離を詰めずに立っていた。声は低く、急かさない。


「……大丈夫……じゃ、ないかも」


 その一言が出た瞬間、血の気が引いた指先がじんわり痛んだ。女性は小さくうなずく。


「名乗るね。私は藤田。みらいのたねで子どもとお母さんたちを支える仕事をしているの。……美香ちゃん、だよね?」


 名前を呼ばれて、美香の体がこわばる。

 藤田はポケットから手を出して、見せるだけの仕草で言った。


「今日はここ、風が強い。ね、歩きながらお茶でも飲もう。すぐそこに、私の家があるの。今夜はあったかい部屋で寝よう。明日、どうするか一緒に考えよう」


「……でも、あの人たちに連絡しないで。お願い」


 美香は、欄干を握る指に力をこめた。藤田の目は、凪いだ湖みたいに静かだった。


「わかった。今、この場で連絡はしない。美香ちゃんの『いや』は、ちゃんと尊重する。でもね、あなたの安全を守るための法律と約束がこの国にはあるの。明日、あなたの同意を確認しながらできること、できないことを説明する。いきなり決めない。今夜はまず、温かいスープと、シャワーと、毛布。いい?」


 言葉の順番が、やさしい。

 美香は、うなずく代わりに、欄干から手を離した。



 藤田の部屋は、小さな観葉植物と本の匂いがした。

 テーブルに置かれたマグから、湯気が立っている。


「熱いから気をつけてね。……それ、はちみつ生姜」


 カップを持つと、指先の震えが少し収まっていく。

 藤田は壁の時計をちらりと見て、ゆっくり言った。


「まずは、今日の約束をもう一度。今夜、誰にも連絡はしない。安全の確保ができたら、明日、美香ちゃんと一緒にみらいのたねに行く。そこで、せんせい(スクールカウンセラーや児相)に何を伝えるかを一緒に考える。いい?」


「……うん」


「それから、これは大事なこと。今、心と体がとても疲れてるから、危険なことを自分にしないって、私と約束してほしい。約束は難しかったら、『やってしまいそうなときは藤田に言う』でもいい」


 言葉が喉につかえて、少し時間がかかった。

 美香は、胸の中で何度か結んではほどけてしまう糸を、もう一度、小さく結び直す。


「……やらない。今夜は。……やりそうになったら、言う」


「ありがとう。十分だよ」


 藤田は、手帳を閉じた。ペン先は音を立てない。

 テーブルの片隅に、シャンプーと新品の歯ブラシ、ふわふわのタオルが並べられる。


「お風呂、どうぞ。パジャマもある。サイズ、たぶん合うと思う」


 湯気の中に入ると、体の輪郭が戻ってきた気がした。石けんの匂いは、教室の掃除当番のときに感じた、あの“きれい”の匂いに似ている。

 鏡の中の自分は、見慣れているのに、少し知らない顔をしていた。



 布団の上で横になると、天井の白さが目にやさしい。

 藤田の声が、部屋の隅から届いた。


「おやすみの前に、ひとつだけ。“しんどくなったらどうするか”の合図を決めよう。言葉でも、ノック二回でもいい」


「……合図、じゃあ、『助けて』って言う」


「うん。素直で、いい」


 電気が落ちる。

 暗闇は前ほど怖くない。隣の部屋から、ページをめくる音と湯のわく音が、夜の毛布みたいに重なった。

 目を閉じる手前で美香は思う。


 “我慢する”の反対は、“頼る”なのかもしれない。



 翌朝。

 みらいのたねの面談室は、柔らかい色のカーテンだった。

 藤田と、所長の高瀬、それからスクールソーシャルワーカーの芹沢が、最初にしたことは、選択肢の整理だった。


「今日の選択肢は大きく三つ。

 ①一時保護所で安全を確保しながら、学校や生活のリズムを整える。

 ②民間シェルター(女子用グループホーム)で、専門職の見守りのもと暮らす。

 ③親族里親さん(※候補がいる場合)に短期で身を寄せる。

 どの場合も、学校は続けられるし、あなたの意向を聞く会議(ケース会議)で決めていく。美香さんの『いや』は『いや』として記録する。今日は決めきれなくてもいい」


 紙には、それぞれのメリット・デメリット、連絡の範囲、面会の可否、連絡手段が箇条書きになっている。

 “自分の人生のことを、誰かが勝手に決めない”。

 その当たり前を、ひとつひとつ説明で回収していく。


「……②がいい。昨日みたいに、誰か大人が近くにいる場所で、でも鍵はちゃんとあって、夜は眠れるところ」


「わかった。じゃあ、今日から一時入所→シェルターの流れをつくろう。学校には、必要な範囲だけ伝える。名前の呼び方、配慮してほしいこと(席・体育・持ち物)も、私たちから伝える。いい?」


 美香は深呼吸して、うなずく。

 藤田は、最後に確認する。


「それから、もう一つ。あなたが『連絡しないで』と言った人たちに関して。私たちは、あなたの同意なく個別の連絡はしない。でも、安全確認と法的手続きで、児童相談所が必要最低限の確認をする可能性はある。その時も、何を、誰に、どこまでを、事前にあなたに説明する。いい?」


「……うん」


 合図を決めた夜の延長線上で、「うん」は、昨日よりはっきりしていた。



 その後の数日は、驚くほど“普通”だった。

 朝起きて、朝ごはんを食べて、学校へ行く。教室に入ると、担任が目だけで「おはよう」を言ってくれる。

 帰りにシェルターで宿題をして、夕食を一緒に作る。

 台所の明かりの下で、玉ねぎを刻むときに泣いても、それは玉ねぎのせいにできた。

 夜は、合図を言う前に眠れてしまう日が増えていった。


 数週間後、ケース会議の議題に、**「小倉家 面会(交流)案」**が上がった。

 名前の横に付いた小さなメモを、藤田が美香に読み上げる。


「“あなたを家族として迎える覚悟があります。ただ、焦らず、あなたのペースで会ってくれたら嬉しいです”――だって」


 紙の上の言葉は、湯気みたいにあたたかかった。

 美香は、胸の中でそっと合図を送る。

 助けて、じゃない。

 行ってみたい、だ。


「……会ってみたい。今の私で」


 藤田は、あの夜と同じ声のまま、うなずいた。


「うん。じゃあ、あなたの“行きたい”を中心に、段取りしよう」



もし、いま苦しいあなたへ


物語とは別に、もしあなた自身や身近な人が「生きるのがつらい」「消えたい」と感じていたら、今すぐ誰かに相談して大丈夫です。日本国内の相談先(一例)です。

•よりそいホットライン(24時間)

電話:0120-279-338(ガイダンス後「3」)

•TELL Lifeline(英語・日本語)

電話:03-5774-0992 / オンラインも対応

•いのちの電話

各地域の番号があります。「いのちの電話 相談」で検索を。


緊急の危険がある場合は、110番やお住まいの地域の救急に連絡してください。

あなたの「助けて」は、言っていい合図です。




つながる声、つながるゴール裏


 温也は中一の冬まで大阪で暮らし、父の転勤で山口へ越してきた。ボールを蹴った経験はない。でも、週末ごとにテレビから流れる「ニッポンを元気に」というスタジアムのうねりが好きだった。山口へ来て最初に連れて行ってもらったのが維新みらいふスタジアム――レノファ山口のホーム。オレンジのタオルマフラーが風に踊るのを見て、「ここでも“声”は人を一つにするんや」と胸が熱くなった。


 一方、博多の小倉家は筋金入りのアビスパ福岡サポ。これまた誰一人、サッカー経験はないのに、試合前の勝利祈願うどんから、試合後の“反省会”ギャグまで、家族行事として染み込んでいた。


 そんな二つの“ゴール裏”が交わったのは、みらいのたねのスタッフ・藤田が作ったオンライン合同応援会だった。コロナ禍で現地に行けない週末、レノファとアビスパ、それぞれのキックオフ前にZoomをつないで、街の空の色や今日のスタメン感想を語り合う。「今日は風、北寄りやね」「相手のサイド早いけん、戻りの声かけ大事ばい」「ほな、うちはラインの間で受けさせんように“圧”かけるで」。

 気づけば画面越しに、温也はオレンジのタオマフ、美鈴は紺のレプユニ。チームは違えど、**“背中を押す声”**でつながる仲になっていった。


 その縁が、美香を音へ連れていく導線になった。交流会の打合せで藤田が「レノファのコール、合奏前の息合わせに似てる」と言えば、優馬が「アビスパのチャントも、腹式呼吸の練習になるっちゃんね」と笑う。温也は郷子に言う。「サッカーはやらんけど、声でチームを強くするって、吹部にも同じもんがあるんやな」。郷子はうなずいた。「うん。“ここにいるよ”って合図を、音で渡す。美香ちゃんにも、まずその合図を渡そう」


 交流会当日。ウォームアップの最初に、温也が提案した。「レノファ式の“ワン・ツー・スリー!”でブレス合わせてみよか」。

 「ワン!」で肩の力を抜き、「ツー!」で空気をため、「スリー!」で一斉に吐く。スタンドで幾度も繰り返した呼気の一体感が、そのまま合奏の呼吸になった。

 小倉家も負けない。「じゃあ、アビスパ式の“俺たちがついとるけん”コールも入れよっかね」と優馬。美鈴が笑って続ける。「“ひとりにせんよ”の合図、音でも言えるっちゃ」


 サッカー経験はなくても、応援の“体感”は本物。その体感が、楽器の前に立つ美香の背中をそっと押した。

 休憩時間、温也は大阪の話をふともらす。「転校したては、方言も分からんで浮いてもうてな。けど、スタジアム来たら“よう来たの!”って、知らん人が笑ってくれる。あれで救われたわ」

 美香が小さく言う。「……わたしも、ここで“よう来たね”って言ってもらえた気がします」


 レノファのオレンジとアビスパの紺。色の違うタオマフが、同じ方向へひるがえる。ゴール裏で育った“声”は、やがて音楽室で音になり、舞台で響きになっていく。

 その最初の笛を、温也と郷子、小倉家のみんなで、一緒に鳴らした――それが、美香の物語に刻まれた、もう一つのキックオフだった。




声が笑いになり、笑いが音になる日


 午前の部。みらいのたねの小さなホールに、折りたたみ椅子が並ぶ。空気は少し硬い。初めての場所、初めての顔――美香は壁際に立ったまま、靴先で床の線をなぞっていた。


 幕間の合図もないまま、ふいにカーテンの隙間から小倉家が飛び出す。


「みなさん、ようんしゃった!腹筋保証はしとらんけん、自己責任でお願いしまーす!」


 優馬の第一声に、客席の肩がふっと緩む。

 美鈴が段ボール製の“マイク”を握って博多弁のニュース読み。


「えー本日のトップニュース。モレモレマン、公園の水道で華麗に救済されるの巻~!」


 3歳の光子と優子が“ちょこちょこ”と走り出て、同時に頬をぷくー。

「モレモレマンは~、走っちゃダメ~!」「転ばんごと気いつけて~!」

 会場のあちこちから笑いが漏れ、前列の子が椅子の上でぴょんと跳ねた。


 コントは矢継ぎ早。たまゴジラの帽子を被った優馬が「ガオー!」とやれば、美鈴が「家計に噛みつくのはやめんしゃい!」と一閃。オチで光子と優子が揃って「あじゃたらぱ~!」――爆笑。ホールの温度が二度上がる。


 その笑いの余韻を切らさず、優馬がマイク(段ボール)を置く。


「笑ってくれて、ありがとね。次は――“声で背中を押す”仲間たちの出番やけん。準備よか?」


 照明が少し落ち、譜面台が並ぶ。山口第一中学校吹奏楽部が入場。部長の郷子が深く礼をして、温也が客席に手を振る。


「最初に、ブレス合わせ。レノファ式いくでー。ワン・ツー・スリー!」


 “ワン”で肩の力が抜け、“ツー”で空気が満ち、“スリー”で静けさが整う。

 クラリネットが春の埃を払うように一筆、フルートが窓を開けるように一筋、ホルンが部屋の柱を立てるように低く鳴る。短いコラール――たった八小節。けれど美香の胸の奥に、見えない灯りが点いた。


 間髪入れず、郷子が客席へ向く。


「せっかくやけん、会場も一緒に。アビスパ式の合図、借ります。“俺たちがついとるけん”の気持ちで、手拍子を四つ!」


 優馬が率先し、美鈴が笑って合わせる。光子と優子は座席にちょこんと立って、ぺちぺちと手を打つ。

 手拍子の波に、打楽器が絡み、金管が立ち上がる。短いマーチがホールの隅々へ走った。


 曲が終わると、温也が一歩前へ。


「サッカーはやらんでも、声でチームを強くすることは、みんなできる。音楽も同じや。ここにいるよって、音で合図するんや」


 美香の喉が、からん、と鳴った。誰にも気づかれないほど小さい音。でも、本人にははっきりと聞こえた。


 郷子が笑顔で手招きする。「よかったら、次の曲、タンバリン一緒に叩いてみる?」

 美香はほんの一瞬、視線を落とし――顔を上げた。「……うん」


 合図のワン・ツー・スリー。

 右手に渡されたタンバリンが、息の波に乗る。チャン、チャン――隣のスネアと噛み合った瞬間、胸のなかの錆びついた歯車が、コトリと回りだす。


 最後の和音。静寂。拍手。

 優馬の声が、柔らかく落ちる。


「美香、よう叩いた。ここに“おる”って、ちゃんと届いとる」


 美香は、タンバリンを抱えたまま小さく頷いた。

 笑いでほぐれた空気に、音がするりと入っていく――小倉家のギャグと吹奏楽の呼吸がつながった瞬間だった。






「名前が変わった日、音が変わった」


 博多南中学に入学した春、美香は迷わず吹奏楽部の扉を叩いた。入部届に震える字で名前を書き、最初に手にしたのは借り物のトロンボーン。マウスピースを唇に当てた瞬間、山口第一中の交流会で胸に点った小さな灯りが、ふっと明るくなった。


「アンブシュアは力まんでよか。息の向き、鏡で見ようか」


 先輩の柔らかな声。顧問は基礎から徹底してくれた。朝はロングトーン、放課後はスケール、家ではピアノのハノン。日曜には開放された音楽室で一人、メトロノームと向き合い続けた。気づけば唇の端の小さな傷が勲章みたいに痛む。だが、その痛みが嬉しかった。


 ひと月もしないうちに、合奏で音が混ざりはじめた。トロンボーンのベンドが木管を支え、ピアノで音程を確認すれば、耳のピントも合ってくる。夏前の校内ミニコンサートでは、後輩ながらソロを任され、震えながらも吹き切った。終演後、スマホに届いたメッセージ。「みか、よう頑張ったね」(優馬)「拍手で手が真っ赤になった」(美鈴)――読みながら、楽器ケースの中でこっそり泣いた。


 夏。県大会、九州大会と駆け上がり、体育館の床鳴りと汗の匂いを乗り越えて、辿り着いた全国。巨大ホールの袖で、みんなで円陣を組む。顧問が小さく言った。


「合図は“息”や。誰かの背中が揺れたら、そこを支えてやれ」


 ステージに出る。客席のざわめきが引いていく。指揮のスティックが空を切る。――吹いた。鳴った。ホールの天井に金色の帯が広がり、止まっていたはずの時間が走り出す。最後の和音が溶ける瞬間、なぜか小倉家の食卓が脳裏に浮かんだ。光子と優子が左右から「がんばれ〜」と頬をむぎゅっとしてくる、あの体温ごと、音になって出ていく感じ。


 結果は金賞。表彰状を抱えた腕に、先輩が自分の汗まみれのタオルを巻きつけてくれた。「お前のロングトーン、今日いちばん真っ直ぐやった」――その一言で、また泣いた。


 秋。家庭裁判所の小さな部屋。判事の口から「養子縁組を認めます」と告げられたその瞬間、美香は胸の奥で静かに深呼吸した。黒木美香から小倉美香へ。書類の上の文字が変わるだけじゃない。呼ばれ方が、居場所が、未来が、静かに据わり直す音がした。


 家に戻ると、玄関に輪っかの飾りと手描きのポスター。「みかおかえり」「なまえ、おそろい」。光子と優子が両側から飛びつき、「今日から“姉ちゃん”って呼んでよか?」と笑う。キッチンには、美鈴の煮込みの匂い。優馬が「ただいまのハグは家の入会儀式やけん」と言って、全員でぎゅうっと抱き合った。笑い声の重なりが、新しい姓の最初のBGMになった。


 そこからの日々は、音で満ちた。部活では後輩の基礎をみっちり見るようになり、ピアノ伴奏の依頼も増えた。音がわからなくて泣く子には、肩幅で息の通り道を教えた。「ここがあなたの道路ね、渋滞させんごと」。トロンボーンではスライドのミクロな距離を耳で掴む練習を続け、ピアノでは和声の色を身体で覚えた。ギャグ鉢巻を巻いた双子が譜面台の陰からひょこっと顔を出し、「今日の音、キラキラ3割増し〜」と茶々を入れる。疲れが笑いで中和され、また指が動く。


 やがて高校、音大、プロの現場。ピアノでは深い歌心で、トロンボーンではホールを抱きしめるような響きで、名前を呼ばれる場が増えていく。初めて大ホールのソリストとして舞台に立った夜、アンコールで弾いた静かなプレリュードは、美香の“原点”だった――みらいのたねの小さなホールで、タンバリンを握って初めて「合図」を知ったあの日の延長線上にある音。


 取材で「どうしてそんなに真っ直ぐな音なんですか」と問われるたび、美香は少し考えてから答える。


「真っ直ぐにしてくれた人たちが、家におるけん。笑いで背中を押して、涙で肩を預けさせてくれる人たちが」


 黒木から小倉へ――名前が変わったあの日、音は確かに変わった。

 でも、本当の変化は“ひとりで鳴らさない”と決めた心だった。

 今日も舞台袖で、あの合図を思い出す。ワン・ツー・スリー。

 息が合う。音が出る。未来が、鳴りはじめる。



 

美香の幼少期編 ― 終章


こうして、美香の幼少期の長く暗いトンネルは、ようやく終わりを迎えた。

悲しみと暴力に支配された日々、命の危機さえ感じた夜、そして「自分なんかいなくなれば」と思い詰めた瞬間。

そのすべてが、いまの彼女の音の深みと優しさの根をつくっている。



「小倉美香」という新しい音


博多南中学で吹奏楽と出会い、

博多南高校で音楽への情熱を燃やし、

音大で世界を見渡すようになって、

彼女は「自分の過去を音に変える」術を覚えた。


「黒木美香」という名前のもとに残された傷は、

「小倉美香」としての人生の中で、

癒しの旋律へと変わっていった。


光子と優子との出会いが、

彼女の心に再び“笑い”と“家族”の意味を取り戻させた。

――泣いてもいい。けれど、そのあと笑えればいい。

小倉家のそんな日常が、美香の世界をまるごと包んでいった。



「過去を抱きしめる音」


今、美香のステージで流れるトロンボーンの音は、

決して華美ではない。

けれど、聴く人の心を震わせる。


そこには、幼いころに聞けなかった

「おやすみ」「大丈夫」「生きててえらい」のすべてが

音になって溶け込んでいる。


そしてピアノの旋律は、

かつて“声を奪われた少女”の、

“もう一度生きていく”という祈りそのものだ。



「終わり」ではなく「はじまり」


幼少期の出来事は、

美香の人生における“第一章の終わり”に過ぎない。

これから描かれるのは――

「救われた少女」が、「誰かを救う音楽家」へと成長していく物語。


彼女の奏でる音は、

あの暗闇の中で見つけた一筋の光の続き。

そして、その光を受け取った人々の中で、

再び新しい希望の音が生まれていく。



「もう、あの頃の私には戻らん。

でも、あの頃の私が今の私をつくってくれた。

だから――あの子にも、ありがとうって言えるっちゃん。」


――小倉美香、完全復活。

闇を抜けた音が、世界中に響き始めた。

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