スピンオフ 美香の幼少期
第1章 はじまりの匂い
CW:家庭内の不安の気配(直接的な暴力描写なし)
台所の流しに、ぬるい水が一杯だけ残っている。表面をなぞると、指の腹がすべって小さな波がひとつ立つ。
朝の匂いは味噌と炊きたての米で、夜の匂いは洗剤と鉄の匂いがまざる。幼いみかの世界は、それでだいたい足りていた。
窓の外、カーテン越しの光はミルク色で、風が通ると薄く揺れる。布のこすれる音がすると、胸の奥で小さな鈴がころんと鳴る。安心の音だ。
「いただきます」
声に出すと、言葉の形が舌に残る。食卓の脚は一本だけぐらついて、茶碗を置くとわずかに震える。その震えを手のひらで押さえるのが、みかの日課だった。
テーブルの端に、マグカップが一つ。白い陶器のふちに、米粒サイズの欠け。そこに触れるとザラリとして、どうしてもそこだけ時間が止まるみたいだった。
玄関が開く音は、金属が短く触れ合って終わる。「ただいま」という言葉が続く日は、夜の空気がやわらかくなる。
続かない日は、時計の音だけがやけに大きくなる。
みかは、スリッパが床を擦るテンポでその日の空気を読むことを、まだ小さな体で覚えていった。
その夜は不思議と静かだった。台所の水が息をしているみたいに、家全体がわずかに揺れて、また落ち着いた。
みかは布団の中で、天井に映る街灯の四角い光を数える。ひとつ、ふたつ、みっつ。数が進むほど、まぶたが重くなって、眠りは小さな舟のように寄ってくる。
「おやすみ」と言った声は、布団の中で温かく溶けていった。
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第2章 家の空気が変わった日
CW:高圧的な声・威圧の描写(直接的な暴力描写なし)
春先、薄い上着で十分だったはずの道に、急に北風が戻ってきた日のことだ。
玄関の錠の音が、いつもより深く響いた。続いて、鍵束がテーブルに落ちる鈍い音。
「散らかってる」
低い声が床のほうへ落ちて、部屋の空気が小さくすぼまる。言葉そのものよりも、間が怖い。次の音が来るまでの沈黙が、耳の奥で膨らむ。
その日から、家は“ルール”を頻繁に変えるようになった。
朝は早く起きろと言われ、翌朝は静かにしていろと言われる。食器はこう置けと言われ、翌日は違う、と言われる。
正解は、時計の針の位置や、靴の向き、コップの水位といった“偶然”に住みついていて、みかは毎朝その偶然を探し当てなくてはならなかった。
冷蔵庫のモーター音が長く続く夜は、眠りが浅い。
隣の部屋の床板が一枚だけよく鳴く場所があって、そこを踏む音が近づくと、みかの肩は勝手に上がった。
「ちゃんとしろ」
声の高さは低いまま、語尾だけが鋭い。刺さる言葉ではなく、押し付ける言葉。
テーブルの端のマグカップは、欠けが少し大きくなっていた。陶器の粉が指先に白くつく。壊れたのは、ものだけ――みかはそう自分に言い聞かせる。
外では、桜の花びらが排水溝に集まって渦を作っていた。
学校の帰り道、みかはゆっくり歩く。歩幅を一定に保つ。足音が規則正しいと、胸の中の音も整うから。
保健室の先生が言った。「最近、眠れてる?」
その問いは、ドアを二度ノックするみたいに優しかった。みかは、うなずく代わりに視線を床へ落とす。
「のど、乾いたら言ってね」
紙コップに入れてくれた水は、春の光を少しだけ含んでいた。
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第3章 割れたマグカップ
CW:家庭内での恐怖記憶の回想・支援者の介入(直接的な暴力描写なし)
その夜、玄関の錠の音は三度鳴った。金属の高い音が、冷たい空気の中でよく通る。
食卓の脚のぐらつきが、みかの膝にも伝わる。
「片づけ、どうなってる」
言葉は低く、部屋の温度だけを下げていく。コップの水面が震えた。
テーブルに何かが当たる鈍い音。白いマグカップの欠けが、また広がる。欠けた破片は見つからない。見えないどこかへ落ちた音だけが、耳にひっかかって残る。
心臓が、指先の中でも打った。息が短い。音だけが大きい。
そのとき、ドアがノックされた。二回、間をおいて、もう一度。
「こんばんは、みらいのたねです」
玄関から届いた声は、毛布のようにやわらかかった。
「学校からご連絡をいただいて。少しお話、できるかな」
声には、説明の順番があった。理由を先に、同意を必ず待つ。早口ではない。みかは、そのゆっくりさで、はじめて息を大きく吸えた。
台所の電気が少し落とされる。明るさがやさしいほうへ傾く。
「寒くない?」ブランケットの匂いは洗い立てで、どこか日なたの匂いがした。
紙に擦れる音。ボールペンが走る音。誰かの頷き。
「今日は、一緒に安全な場所へ行こう。必要な説明は、ここで全部するからね」
みかは、ブランケットのふちを指でつまむ。ザラつきのない、きちんと縫われたふち。マグカップの欠けとは逆の手触り。
外に出ると、夜の空気は冷たいけれど、肺の奥まで入っていく。
見上げると、雲が切れて星が少しだけ見えた。
車のドアが静かに閉まる。シートベルトが胸の前でやさしく止まる。
「もう大丈夫」
その言葉は、空っぽの部屋に響く大きな声ではなく、耳もとで灯る小さな灯りだった。
みかは、ひさしぶりにまぶたを閉じた。車が角を曲がるたび、ブランケットの端がふわりと揺れて、その揺れに呼吸を合わせた。
――
施設に着くと、時計の針の音が聞こえた。さっきまでの家では怖かった音が、ここでは規則正しく、眠りを呼ぶ音になる。
「ここは、あなたの安全地帯だよ」
そう言われて渡されたコップの水は、口の中で静かに広がった。
廊下の隅で、洗濯物がロープにかかって乾いている。石鹸の匂い。床はワックスのつやがあるけれど、すべりにくい。
みかはベッドに腰を下ろし、ブランケットを胸の上まで引き上げた。布の重みで、心臓の音が落ち着く。
枕元の小さな灯りが、壁に丸い光を作る。
みかは、その丸を数えた。ひとつ、ふたつ、みっつ。
三つ目で、眠りは静かに来た。
夢の中で、欠けたマグカップのふちは、丸く磨かれていた。指で触れると、もうザラつかない。
朝になったら――あのやさしい声の人たちがまた来て、次の手続きを説明してくれるらしい。
その“次へ”という言葉が、みかの体のどこか、深いところに、じわりと温かさを広げた。
第4章 ハンドルが切れなくなった夜
飲酒運転の検挙・失職の経緯
雨の粒が、街灯に細い線を引いていた。
和正は、仕事終わりのビニール傘をたたみ、いつもの居酒屋の暖簾をくぐった。疲れの言い訳は、口にせずともコップの縁に残る。焼酎の匂いが、喉の奥で重たく広がる。
「一杯だけ」
そう言った舌が、帰り道には二杯、三杯の重さになっていた。
ハンドルを握る指は、いつもより甘い。ワイパーが間に合わない。信号の赤がぼやけて、ブレーキは半拍遅れる。
サイレンが、雨の幕を裂いた。
金属の冷たい音、短い笛、いくつかの質問。
翌朝には、勤め先の自動車販売店の空気が固く凍っていた。上司の口から出る言葉は、簡潔で、壁のようだった。
「明日から来なくていい」
紙切れ一枚では足りない種類の現実が、玄関の靴箱の上に置かれた。
和正は、その紙を握りつぶす代わりに、コップを握った。
雨は上がったが、家の中に、別の降り続ける音が住みついた。
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第5章 砂を噛む家計
家計困窮・育児放棄の兆候
香織は、冷蔵庫のドアポケットの牛乳パックをそっと持ち上げる。重さで残量を測る癖は、ここ数ヶ月で身についた。
ひと口分、ふた口分。
レジ横の硬貨をにらむように数えて、パート先を二つ、三つと増やす。
「すぐ戻ります」
タイムカードの隅に押されたスタンプの赤が、帰宅時間の遅さを物語るようになった。
眠りは、浅い水たまりみたいだった。踏み入るたび濁る。
洗濯機の終了音、電子レンジの短い音、LINEの通知音。
家の音のほとんどが「すぐやらなければいけないこと」の鐘になった。
台所の電球が切れかけるオレンジ色。買い替えの余裕が、月末まで延ばされる。
「なんで私ばっかり」
言葉は誰に向けられているのか、香織自身にも分からないまま、空気に立ちのぼり、見えない埃になって漂う。
保険、家賃、光熱費。封筒は待ってくれない。
玄関のポストは正直すぎて、毎朝、胃の奥を冷たくした。
その一方で、和正は帰宅時間を告げなくなった。
昼間は募る恥と苛立ち、夜は酒と賭け事で穴を埋める。穴は埋まらず、むしろ広がる。
新聞の競馬欄にボールペンの丸印が増えるほど、通帳の数字が減っていく単純さに、誰も勝てなかった。
家計は、乾いた口に押し込まれるクラッカーのように、噛むたび喉がからからになった。
みかの「おかわり」は、時々、空気の中に消えた。
香織は自分の皿の分を、そっと白いご飯だけで埋めた。
「大丈夫、大丈夫」
独り言は、誰も励ませない種類の合言葉だった。
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第6章 制御の幻想
言葉による威圧・コントロールの描写
家の「正解」は、日替わりメニューになった。
靴はまっすぐ、いや斜めがいい、やっぱり玄関の外に出しておけ。
テレビは消せ、つけておけ、音を小さくしろ、笑うな。
みかの世界は、サイコロを振る音で決まるようになった。出目はいつも、誰かの機嫌が握っている。
和正の口癖が増えた。
「言われたとおりにしろ」
「空気を読め」
「お前のせいで」
言葉は、壁を傷つけない。だから目に見えない分、部屋の温度だけを着実に下げた。
テーブルの脚のぐらつきは直されないまま、家の“しるし”になった。
その不安定さの上で、みかはコップの位置を整え、呼吸の回数を数え、音の小さい歩き方を覚える。
香織の視線は、焦げついた鍋の底を見るときみたいに遠くなる。
「もう、何も感じたくない」
疲労は、最初は体から始まり、やがて心のスイッチを一つ、また一つと切っていく。
支援のパンフレットは、役所の窓口でもらったきり、引き出しの奥で眠った。
助けを呼ぶ気力は、疲労と羞恥と、「うちは大丈夫」という幻想のあいだで、薄く引き延ばされ、破れていった。
和正は、失った「稼ぐ自分」の代わりに、「支配する自分」を拾い上げた。
命令は、唯一の自尊になった。
みかのちょっとした言い間違い、コップの水位、宿題の字の傾き――“ちょっとしたこと”が、怒りの取っ手にされる。
取っ手がつけば、怒りはいつでも持ち運べる。
それは家の中でだけ通用する、安っぽい“王様”の衣装だった。
みかは、学校で「今日は雨?」と聞かれると、空ではなく自分の家の天気を思い浮かべた。
保健室の先生の「眠れてる?」に、うなずく代わりに、指先を袖口に隠した。
見えない傷は、見える傷よりも、説明が難しい。
だからこそ、放っておくと深く沈む。
沈む前に、誰かの手が必要だ。
その“手”が来た日のことは、みかの体が覚えている。
玄関のノックは二度、間をおいて、もう一度。
「こんばんは、みらいのたねです」
その声は、説明の順番を決して崩さなかった。
理由→同意→手順→約束。
家の中の“気まぐれな正解”とは正反対の、予測できる優しさがそこにあった。
みかは、ブランケットの端を指でつまむ。
あの夜、車の中で感じた布の滑らかさを、今も時々、確かめる。
あれは、制御のための布ではなく、守るための布だった。
誰かの声が、静かに繰り返す。
「ここからは、あなたが決めていい」
制御される人生から、選べる人生へ。
その言葉の重みが、胸の奥の砂を少しずつ、水に変えていく。




