豆まき・美香の両親の死
「鬼は笑い、福は歌う」― 帰国報告と節分大騒動
帰国翌日。光子と優子は、大学のホールで活動報告の会見に臨んだ。
ウクライナで見た復興の風景、ソフィーアの祖父母と歌った合唱のこと、そして“笑い”が場をあたためる力——二人は丁寧に言葉を選び、写真とショート動画を交えながら語った。
「被災地や紛争で傷んだ場所に、一気に“元通り”なんてない。でも、手の届く半径から、笑いと歌で灯りを足していける。」
締めくくりの言葉に、会場から長い拍手。SNSの活動報告スレッドには〈おかえり〉〈笑いと祈りの合奏、胸に刺さった〉のコメントが雪のように積もっていく。
⸻
そして二月、節分。
立春とは名ばかりの強烈寒波が東京を直撃し、学生寮の中庭は見事なアイスリンク状態。ツルン、ツルン。
「みっちゃん、装備よし?」
「よし! なまはげ、出動準備完了!」
高校時代、秋田の全国大会帰りに買って大事にしてきた“ナマハゲ面”。
二人はそれを被り、金棒(発泡スチロール製)と豆袋(小袋に小分けした煎り大豆)を抱え、寮の談話室へ雪上行軍。
談話室のドアが開くやいなや——
光子ナマハゲ「わりぃ子はいねがぁ〜!」
優子ナマハゲ「テスト前に現実逃避しとらんねかぁ〜!」
「ぎゃーっ!」悲鳴混じりに笑いが爆発する。
小雪が腹を抱え、「ちょ、九州訛り混じったナマハゲ新鮮すぎ」と転げ、ソフィーアは「カワイイ鬼……!」とスマホを構える。
寮長が豆を配り、「では厄払い、開始!」
「鬼は外! 福は内!」
ぱらぱら、ぱらぱら。
投げられた豆を光子がキャッチしてそのままポリッ。
「うまっ。これ“福”の味すっね(東北風)!」
優子は金棒で“雪の段差”を指差し、
「ここ、今年の大厄ポイントやけん、足元気ぃつけて〜!」
中庭に移動して第二部。
雪面に簡易コースを作り、“厄落としスケーティング選手権”が始まる。
先陣はナマハゲ二人。
光子、勢いよく滑り出す——ツルッ! 体勢を崩した瞬間に上体だけで高速アイソレーション、からの華麗な着地。
「見たか、“受験すべり止め”ムーブ!」
「滑っても転ばなければ合格よ!」
優子は金棒をストック代わりに、豆袋で“雪上ドラム”。
タタタッ! タン、タン。
氷の上に小気味よいリズムが跳ねる。
「これぞ“節分スネア”。鬼も踊るっちゃん!」
寮生の笑い声が白い息になって空へ立ちのぼる。
第三部、“節分ガチ朗読”。
ナマハゲ面を外し、二人は真顔に切り替える。
光子:「今年も、身のまわりの小さな厄から、まず落としていこう。ため息をひとつ笑いに替える、それがうちらの豆まき。」
優子:「そして、誰かの心の窓が凍っとう時は、歌でぬくめる。寒波は長くても、春は必ず来るけん。」
静かな拍手ののち、誰からともなく「鬼は外、福は内」がもう一度起きた。二回目の掛け声には、笑いに混じって少しの涙がある。
寮の玄関を出ると、歩道は相変わらずのツルンツルン。
光子が背負いリュックから“非常用カンジキ”(滑り止めバンド)を取り出し、みんなの靴に装着して回る。
「安全第一、笑い第二。順番まちがえたらいかんけんね。」
「いや、どっちも大事やろ!」と総ツッコミ。
その夜、二人は活動報告の続編をアップした。
—節分任務、完了。鬼は笑って退散、福は笑いながら居座りました。
タイムラインには、各地の節分写真が並ぶ。
雪だるまに“なまはげ面”を貼った猛者、落花生で“福”の文字を描いた器用人、そして「今年もあなたたちの笑いで家があったかい」という短いメッセージ。
窓の外、街路樹の枝に積もった雪が、街灯で淡く光っている。
二人は小声で合わせた。
「鬼は外。」
「福は内。」
言霊は静かに広がり、爆笑発電所はまた、次の夜明けに向けて温度を上げる。
「ここが“帰る家”やけん」
――金で揺らがぬ家族の線引き――
博多の冬晴れは、空気がきゅっと澄みきっている。赤嶺家のマンションの前の公園では、春介と春海が手袋をぱんぱん叩きながら「たまゴジラごっこ」をしていた。遊具の陰から飛び出すたび、姉の光子と優子が「ぎゃあ〜出たぁ!」と大げさに驚いて見せる。笑い声が、冷たい空気をふくらませる。
そのときだった。
植え込みの向こうから、二つの影がゆっくりと近づいてきた。薄いコート、擦り切れた靴。俯いたままの男と女――黒木和正、香織。美香の“生みの親”。
ここ数年、二人は逮捕・服役を経て、日雇いの仕事で食いつなぐ暮らしだという。やつれた頬に、刺すような寒さが容赦なく刻まれていた。だが、その目は寒さだけではない別の尖りを宿している。
――妬み。
テレビやネットに映る、美香とアキラ、そして幼い双子の幸せな姿。それは、長く暗い冬の中をさまよう二人にとって、眩しすぎる春光だったのだろう。
「……美香ちゃん、やろ?」
砂場でしゃがんでいた美香が、ゆっくりと立ち上がる。胸が、過去の冷えに一瞬だけ戻る――が、背中に小さな手が触れた。春海だ。
「おかあさん?」
その一言が、現在へ引き戻す錘になる。
美香は、深く息を吸ってから会釈した。「……こんにちは。ここでは、子どもたちが遊んでます。用件は、場所を変えてください」
声は震えていない。震えそうになった分だけ、指先がきゅっと力を持った。
二人は、どこか“拍子抜けした獲物”を見るような目をした。和正が薄笑いを浮かべる。
「冷たいのう。ワシら、親やぞ。少し話くらい――」
その言葉を、風より早く切ったのは光子だった。
「“親”って言葉はタダやないっちゃ。払うもん払ってから使う言葉やけん」
優子が、ほんの少し前に一歩出る。「ここ、子どもの学区内です。通報の前に、場所だけは移動してもらえます? うちら、話すこと自体は止めんけん」
言い切り方は柔らかいが、語尾に“逃げ道”はない。二人は、渋々マンション一階の来客スペースへ移動した。居合わせた管理人にみらいのたねへ連絡を入れてもらい、短時間だけ、と線を引く。
◇
テーブルを挟んで向かい合う。
和正は、言葉の前に長い溜息をついた。「お前、テレビで見た。えらく立派になって……ワシらもな、苦労しとる。世の中冷てぇ。ちょっとでいい、助け――」
香織が言葉を継ぐ。「親子やろ? ね、美香。昔のことは水に流して――」
「流れんよ」
美香の声は、静かな氷のように澄んだ。
「私はあなたたちを憎んで生きてきたわけじゃない。でも、あなたたちが“親”としてすべきことをしなかった過去は、水にはならない。私は“育ててくれた人たち”を親と呼びます」
和正の眉がピクリと跳ねる。「恩知らずな。ワシらが産んで――」
「産むのはスタート。親になるのは、その先の毎日です」
優子が、用意していた封筒を置いた。みらいのたねのカード、弁護士事務所の連絡先、そして簡潔な書面。
「確認してね。美香さんは成人後、法的に小倉家の養女。あなた方とは戸籍上も別家。接触は“必ず”事前に第三者機関を通してください。直接訪問や尾行、SNSでの接触要求はハラスメントとして対応します」
光子も続ける。
「それと、“金銭”の話が出た瞬間に、会話は終了。録音は回してます。必要があれば、いまこの場で110番するけん」
二人の顔色が、さっと変わる。
和正は笑い飛ばそうとして、喉の奥で噛んだ。「脅しか」
「違う。大人の“ルール説明”やけん」
光子は目を逸らさない。博多の柔らかさを残しつつ、鋼の芯を見せる眼差し。
香織の視線が、ガラス越しの公園へ吸い寄せられる。春介と春海が、アキラと“いないいないばあ”で笑っている。その音は、ここには届かないのに、確かに耳をくすぐる。
(――あんなふうに、笑わせたこと、あったやろうか)
ふ、と微かな後悔が通り過ぎる。けれど、それは“自分が楽になるための後悔”に近かった。
「……あんた、幸せそうやね」
香織の声は、どこか拗ねた幼さを帯びた。
「はい。幸せです」
美香は、はっきりと言った。「私が、“選んだ家族”の中で」
沈黙が落ちる。長くは続かない。
和正は椅子を引いた。「ほな、ええわ。覚えとけ。世の中、ええことばっか続かんのや」
優子が即座に返す。「だからこそ、“悪いこと”は法で止めるっちゃ。甘く見られんごと、今日ここで線を引いとる」
香織だけが、最後に小さく会釈をした。目は泳いだまま。
二人は、来たときよりも小さくなって自動ドアの向こうへ消えた。冷たい空気が一瞬だけ吹き込み、すぐに閉じたドアが、外界とこの家族の“結界”を示す扉に見えた。
◇
みらいのたねのスタッフが駆けつけ、事実関係と記録を整える。弁護士にも共有。管理組合の出入り記録も控えられた。やるべきことは、淡々と、穴なく。
手続きが終わると、光子が両手をぱんっと打った。「よし、終わり! ここから“日常”に戻るばい!」
「戻るったい!」優子が笑う。「春介〜春海〜、ただいまの抱っこ選手権やるけん、整列〜!」
「おかえりー!」「おかえりぃ〜!」
ふたりの小さな体が、ロケットみたいに駆けてくる。美香の肩が、ふっと楽になる音がした。アキラが目だけで「大丈夫?」と訊く。美香は頷いた。
「……ありがとう、ふたりとも」
美香は光子と優子を抱き寄せる。
「うちら家族やけん」光子が胸をどん、と叩く。
「お姉ちゃんの帰る場所、うちらが守るけん」優子がウィンクする。
アキラが、冗談めかして言った。「じゃ、守ってもらったお礼に――“本日限定! ベビーシッター料・チョコ最上級パック”を進呈します!」
「やったぁ!」「支払いは“ほっぺにちゅー”でも可!」
「それは却下!」美香が全力ツッコミ。公園に笑いが弾けた。
◇
その夜。リビングに、湯気の立つお茶が並ぶ。
優馬と美鈴も合流し、今日の出来事の報告が一通り済んだ。優馬は静かに頷き、短く言う。「線を引いた。上等や」
美鈴が美香の手を包む。「怖かったら、怖いって言ってよかと。抱え込まんで。うちは“なんでも持ち寄る家”やけん」
美香は、深くうなずいた。「うん。……怖くなかったと言えば嘘になる。でも、あの子たち(春介と春海)見たら、私、『ここが私の帰る家』って身体が覚えてた」
光子が、おどけて胸を張る。「帰る家に“爆笑”標準装備しとるの、うちらくらいやけん!」
優子が続ける。「+“法務部”と“危機管理室”も完備!」
アキラが笑いながら、そっと美香の肩に手を置いた。「そして“音楽部”は24時間営業」
笑いが落ち着くと、窓の外で冬の星が瞬いた。
過去は消えない。けれど、現在と未来は、選べる。
誰かの妬みや打算で濁るものではない――“心でつながる家”には、笑いと約束が満ちている。
美香は、眠る双子の寝顔を見に行く前に、呟くように言った。
「明日も、笑おうね」
その声に、家中の灯りが、少しだけあたたかくなった。
「線を越えた後で――告げられた余命」
夕方。みらいのたねからの通報を受け、所轄の生活安全課が動いた。
マンション周辺の防犯カメラ映像と管理組合の入退館記録、当日の音声データ――証拠はそろっている。警察官が声をかけると、和正と香織は抵抗なく身柄を確保され、署へ連行された。
取調べ室
薄い机をはさんで、ベテラン刑事が淡々と確認を重ねる。
「小倉(旧姓:黒木)美香さんへの不当接触、管理敷地内への不法侵入未遂。さらに、直接の金銭要求を“ほのめかした”点は脅迫的言動に該当する可能性があります。間違いないですね?」
和正は黙りこくり、香織は「話すだけのつもりやった」と繰り返した。
刑事は手元の紙を一枚、音を立てて裏返す。
「“親やぞ”“助けてくれ”――録音が残っています。血縁は免罪符ではありません。 接近禁止のルール説明も受けたうえで続行している。事実関係は明白です」
淡々と、しかし揺るぎない口調だった。
その最中、署内医務室から内線が鳴る。
連行時の健康チェックで、和正の体調異常が顕著だったため、緊急の採血・画像検査が行われていたのだ。
戻ってきた担当が小声で刑事に耳打ちする。
「……膵臓に進行性の腫瘍。遠隔転移の所見あり。緊急で専門病院に搬送した方がいい。ご家族(香織)も基礎疾患の悪化が重い。予後は……長くない可能性」
刑事は短く目を伏せ、書類の端を揃えた。
そして、再び二人へ向き直る。
「事情は理解しました。ですが――病状と犯罪は別の話です。まず法の手続きを踏みます。そのうえで、医療機関への搬送、在宅か緩和ケアか、関係機関と調整します」
和正が初めて、力の抜けた声を漏らした。
「……余命、てことか」
香織は口元を押さえ、かすかに首をふる。「まだ……謝れてない」
連絡と判断
同時刻。みらいのたねと小倉家、弁護士に警察から連絡が入る。
電話口の説明を聞き終えた美香は、しばらく言葉を失った。
過去の傷跡の奥で、冷たい疼きと温い痛みが混ざる。
優子が静かに確認する。「“会う/会わない”は、お姉ちゃんが決めてよか。会うにしても、完全管理された場で、第三者立ち会い、時間限定、接触禁止。それが最低ライン」
光子も頷く。「それと、金銭・物品の授受は一切ナシ。謝罪以外の話題は即終了。録音・記録は全て残す。うちらも外で待機しとるけん」
美鈴が肩に手を置く。「会わん選択も、立派な決断よ。あなたの心と体が最優先」
美香は深呼吸をひとつ。
「……まずは“手紙”で。直接の対面は、その内容をみてから判断する。会うとしても、病院の面談室で、支援員さんと先生立会い、短時間だけ」
弁護士とみらいのたねが即座に条件書を作成。警察・医療・支援機関の三者で運用を固め、二人の搬送と保護観察下での対応が決まった。
手紙
二日後。支援員経由で二通の封筒が届く。
和正の文は不器用で、言い訳の影がにじむ。それでも最後に震える字で「すまん」の二文字があった。
香織の文は、後悔とともに「あなたを守れんやった」と短く続き、「幸せになって」と結ばれていた。
読み終えた美香は、長く目を閉じた。
やがて、静かに首を縦に振る。
「……会う。五分だけ。ガラス越しで、謝罪のみ。それ以外の話題になったら、そこで終わり」
面談室
緩和ケア病棟の小さな面談室。
厚いガラスの向こうで、和正と香織が椅子に座っている。支援員と看護師、病院ソーシャルワーカーが左右につく。こちら側には美香と、立会いの支援員、少し後ろに弁護士。
チャイムが鳴り、タイマーが五分を刻み始めた。
和正が、マイクに口を近づける。
「……美香。すまんかった」
言葉はそれだけだった。続けようとして、喉が詰まる。香織も、涙で視界をにじませながら、同じ言葉を繰り返した。
「守れん親で、ごめんね」
美香は頷いた。マイクに静かに口を寄せる。
「私は、赦しを与える神さまではありません。でも、“謝罪の言葉”は受け取りました。
それと――私はもう大丈夫。家族と仲間に守られて、“自分で選ぶ人生”を歩いてます」
タイマーが短い電子音を鳴らす。
美香は最後に一礼した。
「今日の面会は、これで終わりです。どうか、受けられる治療とケアを受けてください。二度と境界線は越えないこと――それが、お互いのための最後の約束です」
ガラス越しに、二人が小さく頷いた。
看護師がそっと立ち上がり、面談は終了した。
帰り道
病院の外は、冬の光が斜めに差していた。
美香は肩の力を落とし、空を見上げる。
「……終わった、というより、締め直せた感じかな」
優子が小さく笑う。「線を引き直したっちゃね。ぶっといやつ」
光子が拳を出す。「境界線、二重線でマーク完了。もう、越えさせん」
アキラから着信。「春介と春海、ママ帰ってくるの待ちわび中。おかえり会、準備万端」
美香は電話越しに笑った。「ただいま、言いに帰るね」
過去は書き換わらない。
けれど、**境界線**は、いま、家族の手でくっきりと引かれた。
その内側――笑いと音楽と、小さな手が安心して眠れる場所。
美香はそこに、まっすぐ帰っていった。
「線の内側を守る――告別しないという告別」
病院の代表番号からの着信は、夕方の台所に差し込む冬の陽を震わせた。
受話器越しの看護師は、手順をなぞるように慎重に言葉を選び、最後に小さく区切った。
「……本日、和正さんと香織さんはお二人とも息を引き取りました。
葬儀やご遺骨の取り扱いについて、ご意向を確認させてください」
美香は一度、目を閉じた。
鼻腔の奥を抜ける空気が冷たい。胸のどこかが、きゅっと縮む――でも、それは涙に直結する種類の痛みではなかった。
そばでアキラが無言で立ち、手を差し出す。春介と春海は昼寝から醒めかけ、ベッドで身じろぎをしている。
「……葬儀・告別式には参列しません。ご遺骨も引き取りません。
必要な手続きは、弁護士と支援団体を通してください」
淡々と、しかし一言ずつ確かめるように告げる。
看護師は「承知しました」と言い、行政の手続きと連携窓口を案内して電話は切れた。
受話器を置く音が、部屋の静けさに吸い込まれる。
しばらくして、アキラがそっと言う。
「……決めたんだな」
「うん。いまの家族を守るって。
私はあの人たちに傷つけられた子どもの私を、二度と連れて行かせない。
“許せない”って気持ちは消えないし、消す必要もないと思う」
言葉にすると、不思議と体の芯がまっすぐ通った。
美香はスマホを取り、弁護士・みらいのたね・警察の生活安全課へ同文の連絡を送る。
葬儀社との連絡窓口は第三者に一本化。供花・香典・金銭的要求は一切応じない。連絡は書面のみ。
境界線を、文書で、法で、生活の動線で、何重にも引き直してゆく。
「ママ……?」
目をこすりながら、春海が起きてきた。続いて春介も布団から顔を出す。
美香は膝をつき、二人を抱きしめる。袖口に伝わる、あたたかな重み。ここにある“いま”の確かさ。
「大丈夫。ママはここにおるよ。ずっと、ここに」
家族会議
夜。小倉家とのビデオ通話。
画面には優馬、美鈴、光子、優子、それからみらいのたねの支援員も並ぶ。
「葬儀は行かん。遺骨も受け取らん」
美香が告げると、全員が短く頷いた。
「それが“正しい”」と優馬。
「自分の心身を守る選択は、いつだって最優先やけん」と美鈴。
光子が指で空中に線を引く真似をする。「境界線、改めて極太で」
優子が続ける。「しかも二重線。破ろうとするもんなら、法で止める」
支援員が実務を確認する。「火葬後は引受人なしの行政手続きに切り替えます。新聞の死亡欄やSNSでの“呼びかけ”にも対応します。心のケアは、これまで通りこちらで伴走します」
「ありがとう」
美香は深く頭を下げた。画面越しでも、家族が肩を支えてくれる感触があった。
小さな儀式
葬儀には行かない。
けれど、胸の内でくすぶるいくつかの感情を、どこかに置いていく場所は要る。
翌日、みらいのたねの相談室の一角で、**“私たちだけの小さな儀式”**をした。
白い紙に、過去の痛みの言葉を書き出す――「恐怖」「孤独」「怒り」「悔しさ」。
書き終えたら、紙を折り、封筒に入れ、封をする。封筒の表に大きく記した。
「これは私のものではない。返します」
支援員の見守りのもと、封筒は機械的に裁断され、粉のようになっていく。
美香は静かに見つめ、最後に息を吐いた。
「……終わらせない。管理する。
過去は消えないけど、いまの私が“持たない”と決める」
夜の食卓
その晩、アキラが温かいスープを煮込み、パンを焼いた。
春介が「ぼくがまぜる!」と木べらを握り、春海が「味見係!」と胸を張る。
湯気の向こう、笑い声がふくらむ。
「私ね、幸せになってるよ」
食卓につきながら、美香は心の中でだけ、誰にともなく呟いた。
誰にも届かなくて構わない。届かせる必要もない。
このテーブルの上にある湯気と笑顔――それが、線の内側にあるすべてだ。
アキラがグラスを持ち上げる。「線の内側に、乾杯」
「かんぱーい!」二人の声がはじける。
窓の外は、冬の星が冴えていた。
境界線の外で、誰かの物語が終わった。
境界線の内で、別の物語が、静かに、力強く続いていく。
「揺れない心 ― 愛すべきものを選ぶ」
警察からの連絡、病院からの報告、そして冷たい冬の風。
美香はただ静かに、報せを受けた。
「……そうですか。わかりました」
実の両親、黒木和正と香織。
あれほど恐ろしく、心の底に焼きついた存在が、
いまや一つの報せとしてしか届かない。
涙は出なかった。胸の奥にも何の波も立たない。
「人って、死んだからって、
過去の痛みまで一緒に消えるわけじゃないんですね」
美香はぽつりと呟いた。
優馬も美鈴も、何も言わなかった。ただ見守るようにうなずいた。
⸻
◆ 遺骨と葬儀の連絡
病院側から、葬儀や遺骨の引き取りに関する連絡が入る。
担当者は淡々と説明したが、美香の答えもそれ以上に静かだった。
「私は、葬儀・告別式には出ません。
遺骨も、引き取る気持ちはありません。
どうか、行政の方で進めてください。」
「……かしこまりました」
電話の向こうの職員も、少しの沈黙のあとで答えた。
⸻
◆ “愛”という言葉の意味
電話を切った後、アキラが静かに尋ねた。
「……後悔してない?」
美香は小さく首を振る。
「ううん。何も感じないの。
あの人たちは、私に“愛されること”を教えてくれなかった。
痛みと恐怖しか残してくれなかった。
でも――そのおかげで、私は気づけたの。
愛されるって、守られること。
そして、愛するって、守りたいと思うこと。
いま、私にはそれがある。
アキラがいて、春介と春海がいて、光子と優子、お父さんとお母さんがいて。
それで、もう十分。」
アキラは頷き、彼女の手を握る。
その手には、音楽家として、母として、
ひとりの人間として生き抜いてきた温もりがあった。
⸻
◆ 決意と静かな夜
夜。窓の外では、冬の星が瞬いていた。
美香はデスクの上に、手紙の束を置く。
一枚目には、こう書かれている。
「私は、もうあの人たちに支配されない。
過去を憎むのではなく、
これからを愛して生きていく。」
小倉家に来てからの年月。
苦しみを癒やしてくれた笑い、音楽、家族の温もり。
そのすべてが、彼女を「愛せる人」に変えた。
春介が寝言で「ママだいすき」と呟く。
春海が布団の中で、笑うように息をつく。
その声に、美香はそっと微笑んだ。
⸻
「大切なのは、血じゃない。
愛してくれる人がいること。
そして、その人たちを、心から愛し抜くこと。」
そう言って、明かりを落とした。
部屋には、静かな安堵と、
これからも続いていく小さな幸せの気配が満ちていた。
「静かな区切り、やわらかな出発」
翌朝。
東の窓から差す光が、まだ眠る春介と春海の髪を薄金色に縁取っていた。
美香はそっと起き上がり、キッチンで湯を沸かす。
湯気の向こうに、昨夜書き終えた一通の手紙が置かれている。
ーー私は、あの家に戻らない。
けれど、あの恐怖に戻らないために、
今日を愛して積み重ねる。
どうか、私のいまを邪魔しないで。
「自分への宣言だね」
背後からアキラの声。
彼はマグカップを受け取りながら、微笑だけを置いた。
言葉はそれ以上、要らなかった。
⸻
昼前、みらいのたねのスタッフ・佐江子から電話が入る。
行政手続き、葬儀社との段取り、遺骨の扱い——
現実的な確認事項が、淡々と読み上げられる。
美香は一つずつ応える。
「……はい。記録に残してください。
私は参列しません。遺骨の引き取りも辞退します。
ただ、事務的に必要な同意書はすぐお送りします」
「了解。美香ちゃん、呼吸ね」
受話器の向こうで、佐江子が深く吸って、深く吐く。
美香も同じだけ吸って、同じだけ吐いた。
肺の奥の冷たい石が、少し形を失った気がした。
⸻
夕刻、小倉家。
テーブルの真ん中に、小さな白詰草の花束がある。
光子と優子が、帰り道に見つけたという。
「お姉ちゃん、今日は“しめ”ばしよ」
優子が、白詰草を一輪、短く切って小皿に置く。
光子が小さく頷いて、蝋燭の火をともした。
美香は昨夜の手紙を二つに畳み、火に近づける。
紙は朱に透け、灰になる。
煙はまっすぐ立ちのぼって、天井近くでふっとほどけた。
「……さよなら」
それは相手へではなく、自分の中の“古い恐怖”へ向けた言葉だった。
拍手も、涙もない。
ただ、静かな区切りがそこに置かれた。
⸻
夜、子ども部屋。
春介と春海が眠りに落ちる前、
美香は新しく書きかけの譜面を、ベッド脇の譜面台に立てた。
《しろつめ草の誓い》
ピアノの左手は、揺れない心拍のように同じ律動を刻む。
右手は、そよ風みたいに、ほどけては戻る短い旋律を繋げる。
やがてハミング。
「ラ、ラ、ラー……」
春海のまぶたが重くなり、春介の指が母の袖を探して止まる。
(大丈夫。私はここにいる)
言葉にしない言葉が、子守歌の合間に挟まって、
部屋いっぱいに広がっていく。
⸻
数日後。
メディアからの問い合わせが、事務所あてに届く。
“実親の訃報についてコメントを”
“今の心境を”
“和解の可能性は”
美香は短く、しかし揺れない声明文を出した。
私は過去に戻るためでなく、
いま目の前の家族を守るために生きています。
取材や推測ではなく、子どもたちの笑顔に
時間を使わせてください。
それが私の答えです。
SNSは静かに湧き、やがて穏やかに鎮まった。
「強さ」と「優しさ」は、時に同じ形をしている——
誰かがそう書き残し、多くの人がいいねを重ねた。
⸻
週末、みらいのたねの小さなホールで、
ささやかな“音の集い”が開かれた。
子どもたちが描いたクレヨンの虹、紙で折った四つ葉、
壁はちいさな祈りで満ちている。
美香は客席に座る子どもたちに、低いところから目線を合わせる。
「こわい夜が来たら、声を出してね。
助けてって言っていい。
泣いていい。
そして——笑ってもいいの」
最前列で光子が親指を立て、優子が目尻を下げる。
アキラがトランペットのバルブに指を置く。
ふたりの合図で、**《しろつめ草の誓い》**が始まった。
一音目から、客席の空気がほどけていく。
ピアノの和音が柔らかく沈み、
トランペットが細い光を引く。
間奏で、客席の子どもがひとり、眉を上げた。
(いま、安心してもいいんだ)
音楽が、言葉より先にそう伝えていた。
ラストの和音が消えるまで、誰も拍手をしなかった。
静寂を聴き終えて、ようやく手が鳴る。
小さな手、大きな手、震える手。
拍手の波が胸に届き、美香はそっと目を閉じた。
⸻
その夜。
浴室から上がった春海が、パジャマの袖を引く。
「ママ、きょうのうた、またうたって」
春介もタオルを頭にのせたまま、こくんと頷く。
「もちろん」
美香はふたりを両腕に抱え、灯りを落とす。
あの曲を、もういちど。
音符が部屋の隅々にまで行き渡り、
窓の外の星と、静かに呼吸を合わせる。
過去は消えない。
けれど、未来は手で編める。
その確かさだけを抱いて、美香は眠りに落ちた。
明日、また笑うために。




