ソフィーアの家族・ウクライナへ
リビング。湯飲みから湯気がのぼる。
優馬が座布団をぽんと叩いて、「さ、座りんしゃい」と目で合図。美鈴は急須を傾けながら、柔らかく切り出した。
美鈴「ソフィーアちゃんのご家族、どうやった? おじいちゃんおばあちゃん、気になるよね」
光子「うん。手術は無事に終わっとるよ。支援でおじいちゃんは左手の義手、おばあちゃんは右足の義足が整って、きのうから回復訓練に入ったって」
優子「ただね、メンタルの回復とリハビリがもう少しかかるけん、今は焦らんことがいちばん。ソフィーアも『ひとりでの帰国は不安』て言いよるけん、うちらも一緒に付いて行きたかって思っとる」
優馬「……そっか。命が助かっただけでも大きい。まずは安心したばい」
美鈴「行くなら、安全最優先よ。条件、決めとこ。単独行動は無し、現地コーディネーターと大使館ルートの連絡、旅行保険と緊急時の避難計画、それと毎日定時連絡。よか?」
光子「よかよ。みらいのたねのネットワークにも当たって、現地NGOとつなぐ段取りもしとく」
優子「大学側にも事前申請出して、公欠扱いにしてもらえるように相談する。資金面は自分らの口座から手配するけん、領収もちゃんと残す」
優馬「父さんのほうでも寄付の窓口んとこ動かしとく。通訳と車両の確保も、知り合いに当たってみるばい」
美鈴「それと、ソフィーアちゃんが泣ける場所と笑える時間、両方つくってあげんとね。ビデオ通話で**“眉ピッ→ぎゅー”の遠隔版、やろっか」
光子「やろやろ。あと、お土産で日本のやわらかいタオルと甘くないお菓子**持っていく。リハの合間にちょっと元気出るやつ」
優子「小さなライブもしよっか。病院の許可が出たら、子守歌×ウクライナ民謡のミニセットで」
優馬「よし、渡航チェックリスト作るばい。パスポート・保険・連絡網・GPS共有・非常用カード……父のダジャレは—」
美鈴「現地では封印」
全員「(即答)封印」
光子「行く前に、毎晩オンラインでおじいちゃんおばあちゃんと“おはなし練習”もしとく。顔見て話せたら、回復の力になるけんね」
優子「うちらの仕事は音と言葉で寄り添うことやけん。無理はせん、でも逃げもしない。そげんスタンスでいく」
美鈴は湯飲みをそっと差し出し、目を細めた。
美鈴「よか娘たちやね。——じゃ、家族会議は“眉ピッ→ぎゅー”で締め」
光子・優子「眉ピッ」
三人でぎゅー。優馬も照れながら腕を回す。
優馬「帰ってくるまで、父さん母さんはここを本部にしとく。毎日同じ時間に“ただいま”を聞かせんしゃい」
光子「了解。ただいま通信、必ず送る」
優子「ほんなら今夜から練習で**『ただいま/おかえり』**歌っとくけん」
湯気の向こう、四人の顔に同じ表情が灯る。
不安はある。でも、行く理由はもっとはっきりしとる。
笑いと音で寄り添うこと。
——小倉家のやり方で、できることを、できるだけ。
リビング。夜更け。
優馬と美鈴は、テーブルの上にノートと付箋をずらりと並べた。表紙にはマジックで太く——「バックアップ本部」。
美鈴「——あの子たち、ほんとに行く顔しとったね」
優馬「うん。苦しんどる人に横に立つ。あれがうちの双子のやり方たい」
美鈴「なら、親は後ろから全力で押す番やね」
二人は手を動かし始める。
•安全網:大使館・現地NGO・医療機関の連絡表を一枚に集約。
•通信:毎日同時刻の定時連絡、既読・未読のルール。非常用の合言葉も設定。
•資金と保険:渡航費・滞在費の枠を即時確保。緊急時立替口座を開けておく。
•書類:保険証書、連絡先、ワクチン情報——ファイルに色分けで一括。
•人のつながり:みらいのたね枠で通訳・車両・宿の候補を三本用意。
優馬「父の役目は段取りと連絡線。現地と日本を結ぶ“見えん橋”になる」
美鈴「母の役目は心の保温。毎日『大丈夫』をつなぐ。泣ける時間と笑える時間、どっちも用意する」
優馬「それと——父のダジャレは現地封印」
美鈴「家族合意済みやね(にやり)」
ホワイトボードの隅に、二人は小さく書いた。
「合図:眉ピッ → 応答:ぎゅー(画面越し)」
美鈴「——あの子達らしいよね。誰かの痛みを抱えたら、逃げられんタイプ」
優馬「やけん強いし、やけん放っとけん。親は覚悟決めた。万全で支える」
ライトを落とす前、二人はノートに最後の一行を足した。
『帰ってくるまで、ここが本部。毎日“ただいま”を受信する』
美鈴「さ、眉ピッ」
優馬「ぎゅー。——明日から、本部稼働や」
静かな家に、小さく心強い合図が灯った。
ただいま回線、福岡発――画面越しの「眉ピッ」
夜。小倉家リビング。
ちゃぶ台の上にスマホを立てかけ、後ろから優馬が米びつで固定、美鈴が麦茶を配る。
光子「——福岡の実家からやけど、みんなに伝えたかことがあるっちゃん」
優子「ソフィーアのご家族、手術は無事終わっとる。今はリハの段階。落ち着いたタイミングで一緒にウクライナ行く覚悟ば、うちら決めた」
(画面に並ぶ顔:翼、拓実、小春、梢、ひより、ソフィーア)
翼「こっちは任せとけ。日本側の連絡と段取り、俺が受けるけん」
拓実「大学関係は俺が調整する。書類もろもろ前倒しで動かすばい。——無事に帰ってこい」
小春「共有ボード作っとくね。毎晩21時『生存ピン』押すやつ」
梢「募金と物資リスト、私がまとめる。安全ルートも調べとく」
ひより「合唱部でチャリティやるけん。歌で背中押すよ」
ソフィーア(標準語、少し涙交じりで)
「みんな……ありがとう。私、怖くないと言えば嘘だけど、一人じゃないって今ははっきり思えます。行けるときになったら、いつでも一緒にって……心強いです」
優子「眉ピッ出したら、みんなぎゅーで返してね。距離あっても届くけん」
翼「眉ピッ!」 拓実「ぎゅー!」
小春・梢・ひより「ぎゅー!」
ソフィーア(微笑んで)「ぎゅー」
(ここで優馬が小さく手を上げる)
優馬「父は本部で待機。連絡線と資金線、全部つないどく。ダジャレは——」
美鈴「現地封印やけん」
全員「(笑)」
光子「命最優先、単独行動なし、定時連絡。この三つ、忘れんで行くけん」
優子「帰ってきたら、また全員で笑い倒すばい」
画面越しに、みんなで小さく手を額へ。
眉ピッ → ぎゅー。
実家の畳の匂いと、遠くの仲間の息遣いが同じリズムになった。
——こっちは任せとけ、無事に帰ってこい。
福岡発の合図が、今夜もしっかり届いた。
出発許可、8月下旬。
学生寮。鍵を回す音がやけに大きく響いた。
光子と優子はスーツケースを置くと、そのまま机に直行。ノートPCを開き、まずはウクライナ大使館へ電話とメールで連絡を入れた。
優子「要件は人道的な家族の看護目的、同行者は小倉姉妹+ソフィーア、滞在都市は病院近郊。——ね、これでよか?」
光子「緊急連絡先は日本側が父ちゃん母ちゃん本部、現地は病院+コーディネーター。単独行動はしませんって明記しとく」
送信——ピッ。
すぐに自動返信。詳細は追って、の文面を確認して深呼吸。
続けて、旅行代理店に電話。
「8月下旬で座席の空きをお願いします。振替可能・キャンセル規定が緩い便、情勢変化でルート変更がしやすい航空券で——」
担当者は早口で候補便を挙げていく。複数の経由地案を取り寄せ、ホールドをかけた。
光子「保険は最上位プラン。救援者費用と医療移送、絶対外さん」
優子「eSIMと衛星メッセンジャーも押さえとく。毎日21時、**定時“生存ピン”**送信やけん」
そこへソフィーアからビデオ通話。
ソフィーア(落ち着いた声で)「祖父母は容体が安定しているの。担当医が、8月下旬なら面会と外泊リハも調整できるかもって。だから……行けると思う」
光子「よかった。宿は病院から徒歩圏が理想やね。生活音が静かな宿を頼める?」
ソフィーア「任せて。病院提携のゲストハウスに当たる。予約が取れたら予約番号と住所を共有するね」
三人は出発=8月下旬で合意。
寮のラウンジに移動し、共有ボードを立ち上げる。
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渡航前チェック(共有ボード・抜粋)
•大使館:渡航意図・旅程・同行者・緊急連絡先→提出済/返信待ち
•航空券:フレキシブル運賃で複数便ホールド(情勢次第で最短ルートに変更)
•保険:救援者費用・医療搬送・キャンセルカバー→申込完了
•通信:eSIM+衛星メッセージ端末→手配中/21時生存ピンルール
•現地:ゲストハウス予約(ソフィーア担当)/病院の許可証取得
•連絡線:日本=本部(優馬・美鈴)、現地=コーディネーター+病院
•荷物:最小限+リハ用の柔らかタオル/ノンシュガー菓子/小型加湿器
•合図:眉ピッ→ぎゅー(OKサイン)/×マーク(中断合図)
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夜、みんなと合同のビデオ通話。
翼「航空の予備便も俺のほうで追っとく。大学の公欠申請、先にフォーマット作っとくね」
拓実「安全情報の更新は毎朝俺が集約、ボードに貼る。無事に帰ってこい——そこが最優先」
小春「医療用ロシア語・ウクライナ語カードを作る。症状・アレルギー・連絡先を書いたラミネート渡すね」
梢「募金箱の報告書式、一式つくった。現地で必要な日用品リストも集めとく」
ひより「合唱のチャリティ配信、日時決めたら送る。歌で背中押すけん」
画面の中央で、ソフィーアが小さく頭を下げる。
「ありがとう。怖さはまだあるけど、私には皆さんがいる。8月下旬、行こう」
光子「命最優先、逃げも無茶もせん。それでもそばに立つ」
優子「合図いくよ。——眉ピッ」
全員「ぎゅー!」
その瞬間、8月の空気がすこし近づいた気がした。
準備は走り出した。心はもう、寄り添う場所へ向いとる。
8月23日、出発。雲の上で交わした約束
大学からの渡航許可と公休が正式に降りた朝。
8月23日、寮の玄関でスーツケースのファスナーを閉める音が同時に鳴った。
「よし、出発やね」光子が親指を立てる。
「命最優先、単独行動なし、毎晩21時“生存ピン”。三つの約束、再確認」優子が手の甲にマジックで小さく丸を書いた。
ビデオ通話の画面には、実家本部の優馬・美鈴、そして仲間たち。
翼「こっちは任せとけ。日本側の連絡線は俺が握っとく」
拓実「大学や保険の更新は毎朝チェック。無事に帰ってこい」
小春「“生存ピン”ボード、起動済み」
梢「募金と物資、集計走ってる」
ひより「歌で見送り送るけん。——行ってらっしゃい」
全員で眉ピッ→ぎゅー。出発式は3分で、温かく締まった。
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成田 →(経由)→ キーウを目指す
成田空港。チェックインを済ませ、搭乗口のベンチに腰かける。
フライトはワルシャワ経由で国境近くまで空路、そこから現地コーディネーターの車でキーウ入りの計画だ。
「ただいま通信、毎晩絶対送るけん」光子が家族チャットを固定表示にする。
「非常カード、パスポートの裏ポケット、OK」優子が三度目の確認。
搭乗アナウンス。
三人は胸の前でこっそり眉ピッして、機内へ。
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機内:雲の上の“作戦会議”
離陸してしばらく。窓の外に雲の海。
ソフィーアがゆっくり口を開く(標準語)。
「祖父と祖母、きのうも理学療法が進みました。祖父は左手の義手に少しずつ慣れて、祖母は右足の義足で立位訓練を始めたって。……でも、農道に近づくのが怖いって言っていました」
光子「怖か気持ちは怖かまんまで大丈夫やけん。無理に“平気”にせんでよかよ。うちら、ずっと横におるけんね」
優子「三つの約束いこ。無理せん・一人にせん・笑い忘れん。これ、現地でもずっと続ける」
ソフィーアは小さく頷き、指でハンカチの角をたたむ。
「ありがとう。私、皆さんと一緒なら、怖さに名前をつけて並べておける気がします」
ふっと、機体が軽く揺れた。
優子「おっと……空の上のゼロイチ運動やね」
光子「それ、体育の授業やん」
隣の席の乗客が思わず笑う。空気が少し緩んだ。
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ミニ・リストアップ(やること)
•病院着:まず担当医と面談、家族としての面会手順を再確認
•宿:病院徒歩圏。夜は静かで段差の少ない部屋
•祖父母:短時間の会話練習→疲労サインが出たら即おしまい
•音:許可が出れば子守歌×ウクライナ民謡のやさしい音量ライブ
•連絡:毎晩21:00 “生存ピン”/緊急時は×マーク合図
「お土産、喜んでもらえるかな」光子が小袋を撫でる。
中にはやわらかタオルと甘くない小さなお菓子、それと手書きの“ただいまカード”。
優子「“おかえりカード”も作っとる。帰る約束は先に置いとく派」
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機内食と、ちいさな笑い
CA「お食事はチキンとサーモンからお選びいただけます」
優子「チキンで」
光子「サーモンで」
ソフィーア「私は……サーモンを」
配られたトレーを見て、優子が光子の皿をチラ見。
光子「交換する?」
優子「……ちょっとだけ一口」
ソフィーア(くすっと笑って)「半分こにしましょう」
三人のトレーは自然と三色お子様ランチみたいに彩りがそろう。
さっきまで固かった空気が、湯気みたいにやわらぐ。
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雲間の朝焼け
新しい空が機体の向こうで色を変えていく。
光子は窓の外を見ながら、ぽつり。
「なんか、サンライズ小章書いたときの朝の匂いがするね」
優子「うちら、夜明けの音、ずっと好きやけんね」
ソフィーア「その曲、ウクライナでも聴かせてください。——祖父母に」
「もちろん」二人の声が重なる。
雲の綿毛を朝日が縫い、長い旅は続く。
“無理せん・一人にせん・笑い忘れん”。
機内の小さな約束は、雲の上で強く結び直された。
国境へ:はじめまして、現地コーディネーター
ポーランドに着陸した機体のドアが開くと、冷たい空気が頬を撫でた。
到着ロビー。手書きのプラカードに——「Sofiia & Ogura Twins」。
掲げていたのは、黒縁メガネの女性だった。
女性は胸ポケットから社員証と身分証を取り出し、順に示す。
「Hello. わたしはIryna Melnyk。ポーランド側で医療搬送と人道支援のコーディネートを担当しています。今日は越境手続き・移動・宿まで、終日ご一緒します」
(ここからの細かなやり取りは、ソフィーアが日本語へ通訳。)
ソフィーア(標準語)「紹介します。私の友人で、今回の同行者です」
光子(博多弁で、はっきり)「小倉光子です。ソフィーアの親友たい。ウクライナ語もロシア語も話せんけん、通訳はお願いします」
優子(同じく博多弁)「小倉優子です。安全第一でいきます。単独行動はせん、**毎晩21時に“生存ピン”**出します。よろしくお願いします」
イリーナはうなずき、A4の今日の行程表を配った。
「では、簡単に安全ブリーフィングを。大事なポイントは四つです」
1.移動ルート:ポーランド側を白いワンボックスで国境へ。越境後は提携ドライバーに引き継ぎます。
2.チェックポイント:パスポートは常に手元。撮影禁止エリアではスマホをしまい、指示に即従う。
3.警報時:サイレンが鳴ったら最寄りのシェルターへ。私が最短ルートを指示します。
4.連絡:位置情報はLive共有。日本側“本部”への定時連絡は21:00固定で。
ソフィーア(通訳しながら、少し笑って)「——以上。父上のダジャレは現地封印、だそうです」
光子「それは家族共通認識やけん安心して」
優子「命優先で、笑いは小出力にしとく」
イリーナは口元だけで小さく笑い、腕時計を見た。
「車へどうぞ。国境は午後のほうが流れやすい見込みです」
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車中:雲の切れ間みたいな会話
白いワンボックスは、滑るようにハイウェイへ。
ソフィーアが前席で英語とウクライナ語を行き来し、運転手と速度や検問の位置を確認する。
窓の外、ひまわり畑が帯のように続いた。
優子(小声)「朝の色が、サンライズ小章の一楽章に似とるね」
光子「うん。夜明けの匂い、覚えとる」
ソフィーア(標準語)「その曲、祖父母に聴かせたい。……許可が出たら、やさしい音量で」
三人はうなずき合い、家族チャットに短いメッセージを送る。
8/23 14:10(現地) ポーランド側移動中。眉ピッ→ぎゅー。景色は晴れ。
既読がぱらぱらと灯り、スタンプの**「ぎゅー」**が並んだ。
⸻
国境手前:もう一度、約束
サービスエリア。イリーナは地図をひろげ、最後の確認をする。
「この先で越境レーンに入ります。手続きは私が先行して交渉します。皆さんは指示があるまで車内待機。呼ばれたらゆっくり、書類は順番に」
光子「了解。深呼吸→眉ピッで行く」
優子「こげん時ほど丁寧にね」
ソフィーア(深く息を吸って)「ありがとう。——一人じゃないって、今はちゃんと分かる」
イリーナは親指を立てた。
「行きましょう。ここからがわたしの仕事です」
白い車がウインカーを出し、国境のレーンへ滑り込む。
窓の外に、コウノトリが電柱の巣に戻るのが見えた。
——長い道のりは、まだ続く。
でも、役割は決まっている。
案内する人、寄り添う人、そして支える人たち。
それぞれの位置で、同じ方向を見ていた。
キーウの風、胸の底まで
国境を越えて、白いワンボックスは静かにキーウ市内へ入った。
夕方の光が長く伸び、修復の足場と、まだ穴のままの窓を交互に照らす。壁には機銃掃射の痕が散り、角を曲がるたびに更地が突然ひらける。そこだけ、時間がごっそり抜け落ちたみたいに。
運転席のイリーナがルームミラー越しにやさしく言う。
「もうすぐ病院です。今日は空襲警報も出ていません」
後部座席で、ソフィーアが窓に掌を当てた。
「……私の故郷が——」
そこから、ことばが続かなかった。
光子は何も言わず、手の甲でそっとソフィーアの手に触れる。
優子も、反対側から指を絡める。
しばらく、三人の呼吸だけが同じテンポで揺れた。
光子(小さく、博多弁)「……福岡が、もしこげんやったらって思うとね。ソフィーアの痛か気持ち、ちょっとは分かる気がする」
優子「泣いてよかよ。泣くこと、前に進む合図やけん」
ソフィーアは目尻を拭い、うなずいた。涙は出たが、顔は崩れなかった。帰ってきた人の顔をしていた。
車は川沿いを抜け、メモリアルに置かれた花束の前を通る。誰かが今日も花を替え、リボンを結び直している。
角のパン屋には焼きたての香りが漂い、復旧した路面のアスファルトの黒が夕陽に濡れていた。
壊れたものと、戻ろうとするものが、同じ街に並んでいる。
イリーナ「ここを曲がれば、病院と提携のゲストハウスです。チェックインを済ませて、担当医へ挨拶に行きましょう。面会は短時間、疲れのサインが出たら即おしまい——その約束、忘れずに」
光子「了解。無理せん、ひとりにせん、笑い忘れん」
優子「それがうちらの作法やけん」
ゲストハウスの前で車が止まる。荷物を降ろす音が、夕暮れの空気に薄く溶けた。
フロントで鍵を受け取り、部屋に入る。窓の外、クレーンのシルエットが遠くでゆっくり動く。
三人は立ったまま、短く抱き合った。
光子「眉ピッ」
優子「ぎゅー」
ソフィーア(少し笑って)「ぎゅー」
スマホを開き、家族と仲間のチャットに一文。
8/23(現地)19:12 キーウ着。無事。眉ピッ→ぎゅー。
既読が次々に灯り、スタンプが並ぶ。
“ぎゅー”、“おかえり”、“深呼吸”。
窓の外、遠くの建物の影が濃くなる。
失われた景色と、今ある息づかい。
そのどちらからも目を逸らさず、三人は明日の段取りを小声で確認した。
ソフィーア「明日は、祖父母と五分だけでも話したい。『ただいま』って」
優子「言おう。日本語でも、ウクライナ語でも」
光子「音も持っていこ。やさしか子守歌で」
部屋の明かりを落とす直前、もう一度だけ眉ピッ。
返ってくるぎゅーの手は、さっきより温かかった。
——この街で、寄り添う。
**それが今日の“ただいま”**だった。




