裁判とオリンピック代表決定
――福岡地方裁判所。午前10時。
法廷の空気は張りつめ、壁際の時計の秒針だけが、音もなく進んでいた。
被告席には、性加害の容疑で起訴された男が座っている。
正面に裁判官。左右に書記官。検察官と弁護人がそれぞれの席に控える。
傍聴席の一部は被害者保護のため制限され、報道各社には、氏名や顔の特定につながる情報の取り扱いについて、あらためて注意が促されていた。
被害者・祥子は、遮へいスクリーンの奥に座っている。
体調と心理的負担を考慮し、必要に応じてビデオリンクで供述できるよう、すでに準備は整えられていた。両親は別室で、その様子を見守っている。
開廷・人定質問
裁判官が、淡々と告げる。
「それでは、開廷します。――被告人、氏名と生年月日を述べなさい」
男は、かすれた声で答えた。
視線は、最後まで上がらなかった。
起訴状朗読(検察)
検察官が起立し、感情を交えない口調で読み上げる。
•SNSを通じ、未成年と認識しながら接触を図ったこと
•性的行為を迫り、拒絶された後に暴行および脅迫を加えたこと
•年齢・職業等を偽った虚偽のプロフィールにより、信頼を得ようとしたこと
•交通費名目の金銭供与など、計画性を裏付ける行為が認められること
「以上につき、関係法令に照らし、厳正な処罰を求めます」
被告人の罪状認否
裁判官が問いかける。
「被告人、起訴事実について、認否を述べなさい」
弁護人が軽く会釈し、立ち上がった。
「被告人は、おおむね事実関係を認めます。ただし、脅迫の程度等、一部の法的評価については争います。被告人は反省の意を示しており、被害者側への謝罪の意思もあります」
被告は、小さくうなだれたまま、
「……すみませんでした」
とだけ、絞り出した。
傍聴席は静まり返り、裁判官の表情は微動だにしない。
冒頭陳述
検察側
•医療機関による診断書(外傷・心理的影響)
•SNSおよび通話ログ、位置情報、送金記録
•目撃証言および現場周辺の防犯カメラ映像
「これらの客観証拠は一貫しており、偶然や誤解では説明できません」
弁護側
•争点を脅迫の程度および量刑事情に限定
•供述の変遷を整理し、事実全体を直視する姿勢
•再犯防止プログラム受講、生活環境の調整、賠償意思
「不合理な否認には立ちません。量刑において、反省と治療への継続的な取り組みをご考慮ください」
証拠調べ
•医師が出廷し、外傷所見および心理症状(不眠、過覚醒)を説明
•デジタル証拠として、操作履歴と位置情報のタイムラインがスクリーンに映し出される
•近隣住民・同僚による聞き取り証言(執拗な接触行動の傾向)
•過去の付きまとい相談記録が、情状資料として提出される
弁護側は成立自体を争わず、脅迫の具体的文言や暴行の程度に論点を絞って質問を重ねた。
被害者参加・意見陳述
裁判官が告げる。
「被害者参加制度に基づき、意見陳述を許可します」
別室からのビデオリンクを通じ、祥子の代理人が文書を代読する。
本人の心理的負担を軽減するための措置だった。
「私は、“普通の高校生活”を取り戻すために、
いまも眠り方を練習しています。
笑える日もあれば、身体が固まって動けない日もあります。
どうか、この痛みが“軽いこと”ではないと分かってください。
そして、二度と同じことが起きない社会にしてください」
法廷の空気が、わずかに揺れた。
書記官のペン先も、一瞬止まる。
被告人質問
弁護人が問う。
「なぜ、止められなかったのか。いま振り返って言えることは」
「……自分の欲求を正当化しました。断られても、押せば通ると……」
検察官が重ねる。
「被害者が未成年であると認識していましたか」
「……はい」
その一語で、争点の核は定まった。
論告・弁論(骨子)
検察
•未成年性の明確な認識
•偽装プロフィール等の計画性
•拒絶後の暴行・脅迫の加重性
•心理的被害の継続性
「実刑相当」
弁護
•大枠を認め、不合理な争いはしない
•再犯防止教育・治療・監督体制
•早期謝罪と賠償継続の意思
「量刑上の情状を最大限斟酌いただきたい」
今後の進行
裁判官は次回期日を指定し、
証人追加尋問、補充陳述、量刑資料の整理を命じた。
あわせて、被害者側への配慮として、傍聴管理と匿名性確保の継続を告げる。
――外に出ると、曇り空だった。
小倉家のグループチャットに、「公判開始」の短い報せが届く。
光子
「今日は言葉少なめでいい。呼吸、深く」
優子
「夜は5分だけ笑う作戦、置いとくけん」
美鈴
「帰り道は送迎する。独りにしない」
法廷の時間は、厳密で、冷たい。
それでも、守る手は温かい。
裁かれるべきは行為であり、
取り戻すべきは、日常の尊厳だ。
次の期日に向け、記録は積み重なり、
約束は、静かに守られていく。
(第2回口頭弁論)
――7月初旬、福岡地方裁判所。
第2回口頭弁論の朝。
法廷前の掲示板には、刑事事件の期日表に並んで、民事事件2件の併合審理通知が貼り出されていた。
•事件①
被告(男)に対する不法行為に基づく損害賠償請求
原告:肥後祥子
•事件②
同一被告による、付きまとい・尾行等の被害
原告:元同僚数名
両事件は、事実関係の一部が共通しているため、併合審理とされた。
刑事・第2回口頭弁論
裁判官が、前回期日からの進行状況を確認する。
•検察側
SNS運営会社によるアカウント凍結記録、送金サービスの利用照会結果、
現場近隣に新たに確認された防犯カメラ映像を追加証拠として提出。
•弁護側
再犯防止プログラム受講の経過報告書、
医療機関での加害者治療に関する受診票、
就労先における監督体制案を提出。
•被害者側
心理的損害の継続を示す医師意見書を追補提出。
内容は、不眠、過覚醒、回避症状が現在も続いているというものだった。
裁判官は、争点をあらためて整理する。
1.未成年性の認識と計画性(偽プロフィール、誘引の手順)
2.拒絶後における暴行・脅迫の程度
3.心理的被害の継続性と量刑への反映
被告人質問は、簡潔に行われた。
裁判官
「前回述べた反省について、変化はありますか」
被告
「……変わりません。治療とプログラムを続けています」
匿名性の確保、傍聴管理はいずれも継続。
次々回期日において、論告求刑および最終弁論へ進むため、
次回で証拠調べを終結する段取りが示された。
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民事・併合審理(同日午後/別法廷)
午後、場所を移して民事の併合審理が行われた。
事件の骨子
祥子の訴え
•請求内容
慰謝料
治療費・通院交通費
将来の治療継続費
弁護士費用相当損害
•併せて
接近・連絡禁止の仮処分に対応する、
恒久的な非接触義務を課す条項を求める。
(訴訟上の和解案も視野)
同僚らの訴え
•請求内容
職場外での付きまとい・尾行等による人格権侵害の慰謝料
安全配慮を欠く行動の差止条項
•提出資料
私的メッセージの執拗な送付記録
自宅付近での目撃陳述
口頭弁論のやり取り
原告(祥子)側代理人
•刑事記録中の診断書、供述、位置情報ログを、
閲覧制限付きで民事に転用。
•学校生活への影響、登下校動線の変更、
日常生活における不自由を具体的に主張。
•名誉感情の侵害については本件と切り分けつつ、
セカンドレイプ的噂の存在を、
精神状態悪化の要因として位置付けた。
原告(同僚)側代理人
•過去の相談履歴、社内報告書、防犯カメラ静止画、
チャットの時刻・頻度表を提出。
•初期段階での否認や責任転嫁が、
恐怖と生活動線の変更を長期化させたと主張。
被告側代理人
•違法性自体は概ね争わず、
損害額の多寡、期間評価を中心に反論。
•真摯な謝罪と賠償の用意、
**恒久的非接触(接近・連絡禁止)**を受け入れる
和解の枠組みを提示。
•被告本人は発言を最小限にとどめ、
再発防止の誓約書を提出。
裁判所の整理
裁判長は、次の3点について、訴訟上の和解可能性を打診した。
•損害項目(治療費、慰謝料、将来費用、弁護士費用相当分)の算定枠
•非接触義務および違反時の違約金条項
•SNS等による言及禁止条項(侮辱・名誉毀損回避)
双方は、別日に和解期日を設け、
金額の幅と条項文案を持ち帰って検討することとなった。
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家族と仲間の支え
期日後。
小倉家と肥後家のグループチャットが、静かに動く。
美鈴
「今日の動き、全部共有済み。帰宅ルートは送迎で」
光子
「夜は“5分だけ笑う作戦”、置いとく」
優子
「新曲《もしもノクターン:夜干しver.》のデモも送る」
祥子
「ありがとう……呼吸、整えるね」
外は、真夏の気配を帯び始めていた。
刑事は、行為の責任を。
民事は、傷の補償と、これからの安全を。
それぞれの法廷で進む歯車が、
ようやく同じ方向に噛み合い始めている。
次の期日へ。
守られるべき尊厳を中心に、
記録と約束が、また一枚、重なっていく。
第二回口頭弁論が終わってすぐ、JOCと日本テニス協会と日本卓球連盟から、青柳翼と柳川拓実のオリンピック代表が決まったと連絡があった。
ストックホルムへの旅立ち
―― 家族と恋人、そして仲間たち ――
7月20日 午前10時45分 東京駅
夏の熱気が地上を揺らすなか、
東京駅の地下ホームへ続く長いエスカレーターを、ひとつの家族の列が下っていった。
のぞみ号で博多からやってきた
小倉家、青柳家、柳川家。
そして春介、春海、穂乃果、水湊たち、いわゆる“キッズ部隊”。
背中のリュックには、家族全員で作った小さな日の丸リボンが揺れている。
成田エクスプレスのホームで、すでに待っていたのは光子と優子だった。
白のM&Yジャケットに、胸元には小さな「TEAM JAPAN SUPPORTER」のピン。
手には、自作の横断幕。
『笑って前進★ファミリー、世界へ出陣!』
エスカレーターを降りてきた家族を見つけ、光子が声を上げる。
光子
「お母さん! お父さん! こっちー!」
優子
「はよはよ、電車出るよ!」
全員が笑顔で手を振り合う。
優馬は手荷物を抱え、小走りになりながら言った。
「まるで運動会の再会シーンやなぁ」
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成田エクスプレス車内
列車が静かに動き出し、東京の街並みがゆっくりと後ろへ流れていく。
光子
「やっと全員そろったね」
優子
「うん。今度こそ完全出陣モードたい」
穂乃果
「お姉ちゃんたち、ストックホルムで演奏するんやろ?」
光子
「文化交流イベントでね」
春海
「またギャグクラシック?」
優子
「もちろん。“洗濯機のための交響詩”」
車内は一気に笑いに包まれた。
旅の緊張と高揚が、自然と混ざり合っていく。
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成田空港・国際線ロビー
空港は祝祭のような熱気に満ちていた。
JOC職員、報道陣、応援団。
赤と白の「TEAM JAPAN」の旗が、あちこちで揺れている。
ガラスの自動扉が開き、
そこに翼と拓実が姿を現した。
白地に赤の公式スーツ。
肩にはそれぞれの競技バッグ。
光子は迷いなく駆け寄り、翼の胸に飛び込む。
優子も拓実を強く抱きしめた。
光子
「ほんとに、ここまで来たんだね……」
翼
「約束、守ったよ。今度は世界で笑う番」
優子
「拓実、泣いたら試合前から目腫れるけんね」
拓実
「いや、もう手遅れや」
報道カメラがその瞬間を切り取る。
日本代表と、恋人と、家族の抱擁。
それは「チームジャパン」の新しい姿を象徴する光景だった。
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出発前・簡易セレモニー
出発ゲート前で、音大チーム代表として同行する美香が
小さな電子ピアノを設置する。
光子と優子は顔を見合わせ、即興で歌い出した。
「笑って前進
涙のあとに虹が咲く
君が立つ場所に
音が宿る」
自然と拍手が広がり、
翼と拓実も、それに応えるように拳を掲げた。
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機内
午後1時20分。
飛行機は滑走路を進み、ゆっくりと空へ舞い上がる。
光子と優子は並んで座り、そっと手を握り合った。
少し後方には、翼と拓実の姿。
窓の外、雲の上に差す太陽の光が、
まるでステージライトのように広がっていた。
光子
「この光、きっと未来に続いとるね」
優子
「次に笑うのは、表彰台の上やね」
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7月20日 現地時間21時15分
ストックホルム・アーランダ国際空港
機体のドアが開くと、冷たい風が頬を撫でた。
気温は17度。
けれど、空はまだ明るい。
北欧の夏の空は、青い絹を広げたように淡く、
太陽は沈みきらないまま、雲の縁だけを金色に染めている。
光子
「夜なのに、まだ昼みたい」
優子
「夜が寝とらんみたいやね」
翼
「白夜。北欧の夏の名物」
拓実
「こっちは寝不足確定やな」
思わず笑いがこぼれる。
ロビーには「Welcome, Team Japan!」の横断幕。
スウェーデンのボランティアスタッフが拍手で迎えてくれた。
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ホテル
22時を回っても、外はほんのりと明るい。
湖面は空を映し、街並みは静かで、どこか絵本の世界のようだった。
ラウンジで軽く集まった夜。
時差のせいか、誰もが妙に目が冴えている。
光子
「空が寝るの、忘れとるよね」
優子
「うちらのテンションと一緒」
翼
「試合前日やぞ」
拓実
「でももう、コント始める気やろ」
光子
「白夜スペシャル」
優子
「題して、『夜が寝落ちできん件』」
笑いが起き、
ロビー係が小さく首をかしげる。
「Japanese… Olympic family?」
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その夜、空は深夜になっても明るかった。
けれどそれ以上に、
この場所に集まった全員の心が、確かに光っていた。
ストックホルムの空は、
日本から運ばれてきた笑いと夢を、
静かに、やさしく包み込んでいた。




