電話の向こうに
俺がその電話を取ったのは、午後三時を少し過ぎた頃だった。
週明けの月曜日、すでに何本目かの電話対応を終えたあとで、少し気の緩んだタイミングだった。画面の表示は「非通知」。嫌な予感はしたが、業務用の回線でそれを無視することはできない。
「お電話ありがとうございます。○○株式会社カスタマーサポートセンター、田所が承ります」
ワンテンポ遅れて、低く押し殺したような声が返ってきた。
「……お前のとこ、いったいどんなつもりで商売してんだ?」
一瞬で空気が変わる。
どこか遠くから、雷雲が近づいてくるような重さが、電話口の向こうから押し寄せてきた。
クレームだ。
それも、ただの文句ではない。これは、怒りの火種に油が注がれて、燃え広がる一歩手前の声だ。
「恐れ入ります。どういったご用件でしょうか」
なるべく柔らかく、けれど流されないよう、落ち着いた声で返す。
この“最初の一言”で、相手の火力が決まる。すでに怒りの矛先が定まっているなら、こちらの対応次第で延焼するか、鎮火するかが変わる。
「お前んとこから買った加湿器、届いたその日から動かねえんだよ。金返せって言ってんの。わかる? 壊れたモン送りつけて、それで終わりか?」
言葉にトゲはあるが、まだ罵倒はない。
怒りはあるが、対話の余地はある。――そう判断した俺は、ノートを開きながら静かに返す。
「このたびはご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。詳細を確認させていただきたく存じます。商品番号やご注文番号をお持ちでしょうか?」
「知らねえよ、そんなもん!」
その返答は想定内だった。
クレームの初動で、冷静に情報を出せる人間はほとんどいない。
彼らはまず「怒りのガス抜き」をしたい。論理ではなく、感情が先に立つのだ。だから、まずは吐き出させる。
俺の役目は、そのガスを受け止め、少しずつ“言葉”に変えていくことだ。
「承知いたしました。では、お名前とご住所をお教えいただけますでしょうか。そちらからお調べいたします」
ため息混じりに、男は名を名乗った。
その声には、ほんの少しだけ熱が引いていた。
⸻
十五分後、すべての情報が揃った。
確かに、発送された加湿器は初期不良の可能性が高く、工場側にもロット不良の報告が上がっていた。
こちらの非である可能性は、限りなく高い。
だが、ここからが難しい。
「確認いたしました。お客様のおっしゃる通り、該当の商品に一部不具合の報告がございました。このたびはご迷惑をおかけし、重ねてお詫び申し上げます。商品はすぐに代替品をお送りし――」
「待て。俺が欲しいのは“謝罪”じゃない。“誠意”だよ。こっちは時間も手間もかけて、迷惑被ってんだ。代替品送る? ふざけんなよ」
出た。
クレーム対応の終盤、必ず現れる“誠意”の要求。
この言葉が意味するものは、実に曖昧だ。そして、危うい。
「おっしゃる通りでございます。ご迷惑に対し、誠心誠意対応させていただきます。もし可能であれば、代替品のほかに、弊社としてお詫びの品をご用意することも可能です」
「お詫びの品? そんなんで済むと思ってんのかよ」
一拍、置いて俺は尋ねる。
「ご希望などございましたら、お聞かせいただけますか?」
男は一瞬、黙った。
「金銭的補償をしろ」とは、あからさまには言わない。
だからといって、こちらも口にできない。
だが、声の熱量は、少しずつ下がっている。
冷静になってきた。ここが転機だ。
「……まあ、今言ってもしょうがねえな。とにかく、ちゃんとしたの送ってこいよ。それと、詫びの気持ちがあるっての、形にしてくれや。こっちも仕事してんだよ。平日昼間に時間割いてんだからな」
「かしこまりました。では、本日中に代替品の手配を行い、明日にはお届け予定とさせていただきます。また、お詫びのお品として、弊社取り扱いの高性能フィルターを同梱させていただきます」
「……最初からそうやって言えよ。じゃ、頼むな」
電話は、唐突に切れた。
俺は静かに受話器を置き、深く息を吐いた。
対応時間、三十五分。長いようで短い、いつもの“戦場”だった。
⸻
「田所さーん、さっきの非通知、また来てますよー」
午後五時。
休憩もそこそこに戻った席に、同僚の声が飛ぶ。
俺は少しだけ眉をひそめたが、すぐに電話を取る。
「お電話ありがとうございます。○○株式会社カスタマーサポートセンター、田所が承ります」
「……ああ。さっきは悪かったな」
声の主は、あの男だった。
しかし、今度はその声に怒気はなかった。
むしろ、どこか――申し訳なさそうな、そんな響きがあった。
「こちらこそ、貴重なお時間をいただきありがとうございました。商品は本日中に発送される予定でございます」
「いや……ちゃんと謝ってくれたからさ。あんた、名前なんて言ったっけ?」
「田所と申します」
「そうか。……あんたみたいなのがいて、助かったよ」
ふいに、胸の内に何か温かいものが流れた。
カスタマーサポートの仕事に、感謝の言葉など滅多にない。
だからこそ、この一言が、何より心に響いた。
「恐れ入ります。今後とも、何かございましたら、遠慮なくお申し付けください」
「うん。じゃあ、頼んだよ、田所さん」
再び電話が切れる。
でも、今度は静かで、穏やかな終わりだった。
俺は受話器を置き、ディスプレイに映る次の対応リストを見つめながら、小さく息をついた。
またすぐ、別の“戦場”が始まるだろう。
だが、それでも――。
今日のこの一件は、きっと忘れない。