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第8話 兄弟の形見(後編)

兄弟の和解のあと、村に静かな変化が生まれた。形見の杖は、今は弟リーヴェの手にある。けれど、それは奪い合いの果ての勝利ではなかった。遺された者が「何を抱えて、どう生きるか」を選ぶための贈り物として、その意味を変えていた。


ナダルはあの日から、弟と少しずつ話をするようになった。すぐに昔のようには戻らない。だが、二人の間に漂っていた重苦しい空気は、確かに和らいでいた。広場でのやりとりを見ていた村の子どもが、ナダルに「リーヴェおじちゃんと仲直りしたの?」と無邪気に尋ねたとき、ナダルは少し照れくさそうに笑い、「ああ、まあな」と短く返した。


けれど、ユリエルは気づいていた。兄弟それぞれの心の奥に、まだ解けきっていない糸が残っていることを。ひとつは、ナダルの中にある「父に選ばれなかったという影」。もうひとつは、リーヴェが抱えている「自分は兄に比べて劣っているのではないか」という劣等感だ。


人は簡単に赦し、受け入れることはできない。特に、身内に対してはなおさらだ。近すぎるがゆえに、わかり合えたはずの距離が深い溝になる。ユリエルは、兄弟の和解が終着点ではなく、まだ旅の途中であることを悟っていた。


ある晩、ナダルはユリエルに声をかけてきた。「なあ、少し付き合ってくれないか」そう言って彼が連れて行ったのは、村外れの小さな納屋だった。中には、父アディルの作った木細工がいくつも並べられていた。鳥、花、動物、小さな剣や盾。どれも細やかで、温かみがあり、削られた指の跡まで感じられるようだった。


「父さん、ああいうことは黙ってやる人だった。何も言わずに夜中まで彫っててさ。たぶん、あれは……誰にも言えなかった気持ちだったんだと思う。何かを渡すことでしか、伝えられなかったんだろうな」


ナダルは、棚の奥から一つの木箱を取り出した。中には、二枚の同じ形の木札が入っていた。片方には「N」、もう片方には「L」の焼き印。明らかに兄弟のために作られたものだった。


「これ、ずっと見つからなくてさ。さっき倉庫を片付けてたら、棚の裏に落ちてたんだ。たぶん、父さんがこっそり作って、渡すタイミングを逃してたんだと思う」


ユリエルは黙って見守っていた。ナダルは木札をじっと見つめ、やがてゆっくりと口を開いた。


「……正直、最初は、リーヴェに形見を渡すのが悔しかった。村を任されたのは俺だし、杖を持つべきなのも俺だと思ってた。でも違った。父さんは、俺に“村を守れ”って言ったけど……リーヴェには“自分を見失うな”って言ってたんだ。俺にはできないことを、あいつに期待してた」


それを聞いたユリエルは、静かに言った。「それに気づいたナダルさんも、十分父上の思いに応えていると思います」


ナダルは微かに笑った。「ありがとな。……でも、あいつは気づいてるのかな、父さんが“ちゃんと二人ともを見ていた”って」


そのとき、ユリエルの視界に、淡い糸が現れた。ナダルの胸から伸びる細い糸。そこには、未だに引っかかっている“赦されなかった子ども”としての哀しみが絡んでいた。ぼくは、その糸の震えにそっと指を伸ばした。


翌日、リーヴェにそれとなく木札の話を伝えると、彼は驚きの表情を浮かべた。「え……兄さんが? それ、俺にくれるって……?」


「ええ。兄弟で分けてほしいって」


リーヴェは、静かに木札を受け取った。そして、しばらく何も言わなかった。握ったままの手が、ほんの少し震えていた。


その夜、兄弟はふたたび丘の墓前に立った。持っていたのは、父が作ったその二枚の木札。風が吹く中、ナダルがぽつりとつぶやく。


「……俺たち、結局、父さんのこと何もわかってなかったな」


「うん。でも、ようやくわかった気がするよ。父さんは、言葉じゃなくて、こういうもので俺たちに伝えようとしてたんだ」


「不器用な親父だったよな」


「……不器用なところ、俺も受け継いじゃったなあ」


二人の笑い声が、風に乗って丘に広がった。その音はとても柔らかく、温かかった。


その晩、ユリエルは丘の上から、兄弟の糸がほどけて再び結び直されるのを見た。かつては互いに引きちぎり合っていた糸が、今はゆっくりと交差し、やがて強く繋がっていく。そんな光景を見ながら、ユリエルは静かに思った。


(これが、ぼくの“紡ぐ”ということなんだろう)


形見とは、亡くなった人のためだけにあるものではない。残された人が、どう生きていくかを決めるための、“静かな手がかり”だ。


それを受け取った兄弟は、ようやく前に進める。


広場では、兄弟が並んで子どもたちに木彫り細工を教えていた。かつての父のように。杖はもう使われていない。ただ、棚にそっと置かれ、子どもたちが近くで自由に触れるようになっていた。


ナダルは言う。「形見ってのはな、触っちゃいけないもんじゃない。未来の誰かが触って、なにかを感じてくれたら、それでいいんだ」


リーヴェが笑う。「……兄さん、それ、ちょっとカッコいいな」


ユリエルは、旅立つ前にもう一度だけ、丘の墓に立った。風が、木々の葉を揺らす。その音は、まるで父アディルの笑い声のようにも聞こえた。


彼は、きっとどこかで見ていたのだろう。兄弟が、ようやく心を重ねたその瞬間を。


ユリエルは、背負いなおした荷物の重さを少し軽く感じながら、次の村へと歩き出した。



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